もう、あなたの妻には戻りません ~異世界北海道で食堂を始めた私に、農業男子の溺愛が止まりません~

第11話 旅立ちの日

「そら! しっかり持てよ!」

 御者の大きな声が響く。

 私はギルから譲り受けた寸胴鍋を両手で抱え、幌馬車の荷台へ慎重に積み込んだ。

 続いてフライパン。

 ボウル。

 木べら。

 包丁。

 お玉。

 紙で丁寧に包んだ皿。

 木箱へ一つひとつ収めていく。

 山と積まれた木箱には、食器だけじゃない。

 夢も、希望も、これから始まる私の人生も詰まっていた。

 積み終える頃には荷台がずっしりと沈み込み、木の板がミシミシと音を立てる。

「おぉ、結構な荷物だな」

 御者が苦笑した。

「全部、お店を始めるための道具なんです」

「そりゃ大事に運ばねぇとな」

 そう言って荷縄を締め直してくれる。

 私は深く頭を下げた。

「ギルさん、ありがとう」

 ギルは照れくさそうに笑いながら、ゴツゴツと節くれだった手を差し出した。

 何十年も鍋を振り続けてきた料理人の手。

 私はその手をぎゅっと握る。

 温かい。

 優しくて、大きな手だった。

「体に気をつけるんだぞ」

「うん」

「無理するな」

「うん」

「困ったら帰ってこい」

 その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなる。

 思わず目頭がじんわりと滲んだ。

「また遊びに来いよ!」

 ギルはいつもの笑顔に戻り、大きく手を振る。

「トーカチーに着いたら連絡しろよ!」

「はい!」

 ドワーフたちも酒樽を抱えたまま外へ飛び出してきた。

「爽子ー!」

「うまい飯、忘れるなよ!」

「今度は俺たちがトーカチーへ行くからな!」

 妖精たちは花びらを撒きながら歌い始め、獣人たちは尻尾をぶんぶん振っている。

 チョボは「コケコッコー!」と胸を張り、まるで出発の合図をしているみたいだった。

 私は幌馬車へ乗り込む。

 木箱の隣へ腰を下ろし、青いエプロンを膝の上へ置いた。

 もう、後戻りはできない。

「出発するぞー!」

 御者が手綱を鳴らす。

 馬が力強く歩き出した。

 ゴトン。

 ゴトゴト。

 荷台がゆっくり揺れ始める。

 私は身を乗り出し、何度も何度も手を振った。

 ギルたちの姿が少しずつ小さくなる。

 宿屋も。

 市場も。

 噴水広場も。

 やがて町全体が小さく霞んでいった。

 その向こうには辺境伯の城が見える。

 高い塔の上で、月桂樹の旗が風になびいていた。

「さよなら……熊ちゃん」

 小さく呟く。

 もう二度と会うことはないかもしれない。

 元夫。

 その言葉にも、ようやく慣れ始めていた。

 胸は少し痛んだ。

 でも涙は出なかった。

 幌馬車は白樺の林へ入る。

 木漏れ日が荷台へ揺れ、風が葉をさらさらと鳴らした。

 林を抜けると、一気に視界が開ける。

「わぁ……」

 思わず声が漏れた。

 どこまでも続く原野。

 見渡す限りの緑。

 ビルも住宅街もない。

 果てしない大地が、地平線の彼方まで続いている。

 遠くでは牛によく似た四本角の動物が群れを作り、空には巨大な鳥がゆったりと輪を描いていた。

 木の車輪は砂埃を巻き上げながら、ギシギシと音を立てる。

 その音さえ、新しい人生への足音に聞こえた。

「お嬢ちゃん、少し休もう」

 御者より先に、馬が口を開いた。

「喉が渇いた」

「そうだな。俺も腹が減った」

 御者が笑う。

 街道脇の雑木林で馬車を止め、小休止を取ることになった。

 私は荷台から飛び降りる。

「いたた……」

 クッションのない荷台は思っていた以上に硬い。

 腰を伸ばすと骨がぽきぽき鳴った。

「長旅は慣れだよ」

 御者が笑う。

「早く慣れなきゃ」

 沢のせせらぎが心地よい。

 浅瀬では難しい顔をしたサワガニがハサミを振り回し、「近寄るな」と言わんばかりに威嚇していた。

 少し離れた場所ではドワーフたちが木槌を振り下ろし、鉄鉱石を砕いている。

 カーン。

 カーン。

 澄んだ金属音が森へ響いていた。

「お嬢ちゃん」

 馬が水を飲みながら尋ねる。

「トーカチーで店を開くって聞いたが、どんな店にするんだい?」

 私は少しだけ空を見上げた。

 頭に浮かぶのは、あちらの世界のラーメンヴェダ亭だった。

 暖簾をくぐる常連さん。

「いつもの」

 その一言で笑い合えた毎日。

 初めて来た若いカップルが、湯気の立つラーメンをスマホで何枚も撮っていた。

 熊ちゃんは「麺が伸びちまうだろ」と苦笑いしながらも、どこか誇らしそうだった。

 料理は、お腹を満たすだけじゃない。

 笑顔も作れる。

 幸せな思い出も作れる。

 私はそんな店を、もう一度作りたい。

「お客さんが幸せな気持ちになれるお店にしたいと思っています」

 自然と笑みがこぼれる。

「新しい料理を考えて、美味しいって笑ってもらえるような……そんな食堂酒場です」

 馬は嬉しそうに鼻を鳴らした。

「いい夢だ」

 御者も頷く。

「じゃあ俺も、いつか食べに行くよ」

「ぜひ!」

 その時だった。

 背後のシダが、ガサガサッと大きく揺れた。

 風じゃない。

 何かがいる。

「上田――」

 誰かが私の名前を呼んだ気がした。

「えっ?」

 振り返る。

 でも、そこには揺れるシダしかなかった。

 森は静まり返っている。

 鳥の声だけが聞こえていた。

「……気のせい?」

 この世界で私の名前を知っている人なんて、いるはずがない。

 それでも胸の奥に、小さなざわめきだけが残っていた。
< 11 / 30 >

この作品をシェア

pagetop