もう、あなたの妻には戻りません ~異世界北海道で食堂を始めた私に、農業男子の溺愛が止まりません~
第13話 一人と一羽の初めての夜
チョボを鳥籠からそっと出して、餌と水を用意する。
床へ降ろすと、チョボは「コッコッ」と機嫌良さそうに首を前後へ振りながら、夢中で餌を啄み始めた。
時折こちらを見上げては、小さく鳴く。
「いっぱい食べるんだよ」
そう声を掛けると、返事をするように「コケッ」と短く鳴いた。
なんだか少しだけ心が和らぐ。
見知らぬ町で、一人きりだと思っていたけれど。
今はチョボがいる。
それだけで、この家は少しだけ賑やかだった。
「美味しそう……」
餌をついばむ姿を眺めていたら、私のお腹まで正直に鳴いた。
ぐぅ。
思わず苦笑いする。
「私もご飯にしようかな」
夕暮れの光はすっかり薄れ、店の中はぼんやりと暗くなっていた。
私はキッチンへ向かい、ランプへ火を灯す。
パチッ。
小さな炎が揺れ、やがて優しい橙色の光が部屋いっぱいへ広がっていく。
一人と一羽だけの静かな空間。
けれど、その灯りは不思議と温かかった。
木箱を開け、果物ナイフを取り出す。
ギルが餞別に持たせてくれたラグビーボールくらいの大きさの木の実。
青かった実は黄色く熟れ、見た目はマンゴーによく似ている。
「いただきます」
皮へナイフを入れると、柔らかな果肉から甘い果汁がじんわり滲み出した。
指先を伝って雫が落ちそうになる。
私は思わず指を舐める。
「……ちょっと……甘すぎ」
思わず独り言が漏れる。
静かな店内では、その声さえ壁へ吸い込まれていくようだった。
やっぱり、この異世界北海道の料理は味が濃い。
砂糖も果物も、何もかも極端だ。
美味しくないわけじゃない。
でも繊細さがない。
盛り付けも大皿へ豪快に山盛り。
色合いなんて誰も気にしていない。
だからこそ。
私の店では違う料理を出そう。
見た瞬間に「美味しそう」と思える一皿。
湯気も。
彩りも。
器との組み合わせも。
目でも楽しめて、舌でも幸せになれる料理。
そんな食堂酒場にしたい。
私は木箱の山から雑巾とバケツを取り出した。
「まずは掃除ね」
店の入口脇には古い井戸がある。
ロープで括り付けられた木のバケツを井戸へ投げ入れる。
ポチャン。
水音が響いた。
その直後だった。
「ひやぁぁぁぁ……」
井戸の底から誰かの悲鳴みたいな声が聞こえてきた。
「……な、なに?」
思わず一歩後ずさる。
暗い井戸の中を覗き込む勇気はない。
試しに小石を一つ落としてみる。
コトン。
ポチャン。
「ひやあ……」
また聞こえた。
「やっぱり何かいる!」
私は井戸から少し距離を取る。
でも、この異世界北海道では馬もしゃべるし、野菜も悲鳴を上げる。
井戸がしゃべっても、もう驚かない方がおかしいのかもしれない。
「そういえば、さっきのフルーツは無口だったな」
果物を思い出して少し笑う。
もしかすると、「いただきます」と聞く前に、食べられる覚悟を決めていたのだろうか。
そんなことを考えている自分が少し可笑しかった。
「よいしょ……!」
気を取り直し、ロープを引っ張る。
思っていた以上に重い。
濡れた麻縄が手のひらへ食い込み、ざらざらした繊維が皮膚を擦る。
両足を踏ん張り、腰を落として力いっぱい引き上げる。
「うぅ……重い……」
腕が震える。
ようやく井戸の縁まで持ち上がった。
「……まさか、変なもの入ってこないよ……ね」
恐る恐る中を覗く。
澄んだ水。
浮かんでいるのは小さな木の葉が一枚だけ。
それ以外は何もなかった。
「よかったぁ……」
胸を撫で下ろす。
手を浸してみる。
「つめたっ!」
思わず声が出た。
山の湧き水みたいに冷たい。
この水なら料理もきっと美味しく作れる。
私は雑巾を濡らし、ぎゅっと絞った。
その時だった。
「上田――」
どこからともなく、また声が聞こえた。
ビクリと肩が跳ねる。
店の前に立つ大きな椎の木が夜風を受け、ざわざわと枝葉を揺らしている。
黒い影が地面へ伸び、不気味に揺れた。
まただ。
旅の途中でも聞こえた声。
誰かが確かに私の名前を呼んでいる。
「……誰?」
返事をしてみる。
でも返ってくるのは風の音だけ。
まさか。
熊ちゃんの城から兵士が追い掛けてきた?
いや、そんなはずはない。
辺りを見回しても人影はどこにもない。
なのに胸だけがざわざわする。
私は慌てて店の中へ駆け込み、勢いよく木戸を閉めた。
バタン!
鍵も掛ける。
「なんなのよ、あの声……」
思わず口に出す。
「怖いんですけど……」
静かな店内では、自分の声だけがやけに大きく聞こえた。
「気のせい、気のせい」
そう言い聞かせながら深呼吸する。
そして掃除を始めた。
テーブル。
椅子。
窓枠。
ベッドの木枠。
黒く積もった煤を一拭きするたび、本来の木目が少しずつ姿を現していく。
まるで心の中に積もった悲しみまで、一緒に拭き取っているみたいだった。
熊ちゃんとの別れ。
グリズリー城での日々。
涙を流した夜。
全部、少しずつ過去になっていく。
掃除を終える頃には、部屋の空気まで軽くなっていた。
私は椅子へ腰を下ろす。
包み紙を開き、大切に運んできたワイングラスを取り出した。
オホーツク領の市場で買った木苺のワインを静かに注ぐ。
深い紅色の液体がランプの灯りを受けて宝石のように輝いた。
「新しいお店に」
グラスをそっと掲げる。
「乾杯」
一口飲む。
木苺の甘酸っぱさが口いっぱいに広がり、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
明日は木箱を開けよう。
皿を並べて。
鍋を磨いて。
包丁を研いで。
この店を、私だけの食堂酒場にしていこう。
ランプの火は静かに揺れ、長い一日の終わりを優しく照らしていた。
床へ降ろすと、チョボは「コッコッ」と機嫌良さそうに首を前後へ振りながら、夢中で餌を啄み始めた。
時折こちらを見上げては、小さく鳴く。
「いっぱい食べるんだよ」
そう声を掛けると、返事をするように「コケッ」と短く鳴いた。
なんだか少しだけ心が和らぐ。
見知らぬ町で、一人きりだと思っていたけれど。
今はチョボがいる。
それだけで、この家は少しだけ賑やかだった。
「美味しそう……」
餌をついばむ姿を眺めていたら、私のお腹まで正直に鳴いた。
ぐぅ。
思わず苦笑いする。
「私もご飯にしようかな」
夕暮れの光はすっかり薄れ、店の中はぼんやりと暗くなっていた。
私はキッチンへ向かい、ランプへ火を灯す。
パチッ。
小さな炎が揺れ、やがて優しい橙色の光が部屋いっぱいへ広がっていく。
一人と一羽だけの静かな空間。
けれど、その灯りは不思議と温かかった。
木箱を開け、果物ナイフを取り出す。
ギルが餞別に持たせてくれたラグビーボールくらいの大きさの木の実。
青かった実は黄色く熟れ、見た目はマンゴーによく似ている。
「いただきます」
皮へナイフを入れると、柔らかな果肉から甘い果汁がじんわり滲み出した。
指先を伝って雫が落ちそうになる。
私は思わず指を舐める。
「……ちょっと……甘すぎ」
思わず独り言が漏れる。
静かな店内では、その声さえ壁へ吸い込まれていくようだった。
やっぱり、この異世界北海道の料理は味が濃い。
砂糖も果物も、何もかも極端だ。
美味しくないわけじゃない。
でも繊細さがない。
盛り付けも大皿へ豪快に山盛り。
色合いなんて誰も気にしていない。
だからこそ。
私の店では違う料理を出そう。
見た瞬間に「美味しそう」と思える一皿。
湯気も。
彩りも。
器との組み合わせも。
目でも楽しめて、舌でも幸せになれる料理。
そんな食堂酒場にしたい。
私は木箱の山から雑巾とバケツを取り出した。
「まずは掃除ね」
店の入口脇には古い井戸がある。
ロープで括り付けられた木のバケツを井戸へ投げ入れる。
ポチャン。
水音が響いた。
その直後だった。
「ひやぁぁぁぁ……」
井戸の底から誰かの悲鳴みたいな声が聞こえてきた。
「……な、なに?」
思わず一歩後ずさる。
暗い井戸の中を覗き込む勇気はない。
試しに小石を一つ落としてみる。
コトン。
ポチャン。
「ひやあ……」
また聞こえた。
「やっぱり何かいる!」
私は井戸から少し距離を取る。
でも、この異世界北海道では馬もしゃべるし、野菜も悲鳴を上げる。
井戸がしゃべっても、もう驚かない方がおかしいのかもしれない。
「そういえば、さっきのフルーツは無口だったな」
果物を思い出して少し笑う。
もしかすると、「いただきます」と聞く前に、食べられる覚悟を決めていたのだろうか。
そんなことを考えている自分が少し可笑しかった。
「よいしょ……!」
気を取り直し、ロープを引っ張る。
思っていた以上に重い。
濡れた麻縄が手のひらへ食い込み、ざらざらした繊維が皮膚を擦る。
両足を踏ん張り、腰を落として力いっぱい引き上げる。
「うぅ……重い……」
腕が震える。
ようやく井戸の縁まで持ち上がった。
「……まさか、変なもの入ってこないよ……ね」
恐る恐る中を覗く。
澄んだ水。
浮かんでいるのは小さな木の葉が一枚だけ。
それ以外は何もなかった。
「よかったぁ……」
胸を撫で下ろす。
手を浸してみる。
「つめたっ!」
思わず声が出た。
山の湧き水みたいに冷たい。
この水なら料理もきっと美味しく作れる。
私は雑巾を濡らし、ぎゅっと絞った。
その時だった。
「上田――」
どこからともなく、また声が聞こえた。
ビクリと肩が跳ねる。
店の前に立つ大きな椎の木が夜風を受け、ざわざわと枝葉を揺らしている。
黒い影が地面へ伸び、不気味に揺れた。
まただ。
旅の途中でも聞こえた声。
誰かが確かに私の名前を呼んでいる。
「……誰?」
返事をしてみる。
でも返ってくるのは風の音だけ。
まさか。
熊ちゃんの城から兵士が追い掛けてきた?
いや、そんなはずはない。
辺りを見回しても人影はどこにもない。
なのに胸だけがざわざわする。
私は慌てて店の中へ駆け込み、勢いよく木戸を閉めた。
バタン!
鍵も掛ける。
「なんなのよ、あの声……」
思わず口に出す。
「怖いんですけど……」
静かな店内では、自分の声だけがやけに大きく聞こえた。
「気のせい、気のせい」
そう言い聞かせながら深呼吸する。
そして掃除を始めた。
テーブル。
椅子。
窓枠。
ベッドの木枠。
黒く積もった煤を一拭きするたび、本来の木目が少しずつ姿を現していく。
まるで心の中に積もった悲しみまで、一緒に拭き取っているみたいだった。
熊ちゃんとの別れ。
グリズリー城での日々。
涙を流した夜。
全部、少しずつ過去になっていく。
掃除を終える頃には、部屋の空気まで軽くなっていた。
私は椅子へ腰を下ろす。
包み紙を開き、大切に運んできたワイングラスを取り出した。
オホーツク領の市場で買った木苺のワインを静かに注ぐ。
深い紅色の液体がランプの灯りを受けて宝石のように輝いた。
「新しいお店に」
グラスをそっと掲げる。
「乾杯」
一口飲む。
木苺の甘酸っぱさが口いっぱいに広がり、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
明日は木箱を開けよう。
皿を並べて。
鍋を磨いて。
包丁を研いで。
この店を、私だけの食堂酒場にしていこう。
ランプの火は静かに揺れ、長い一日の終わりを優しく照らしていた。