もう、あなたの妻には戻りません ~異世界北海道で食堂を始めた私に、農業男子の溺愛が止まりません~

第2話 新生活の始まり

厳つい甲冑を着た耳の尖った衛兵たち。

 私の行く手を槍で遮ることもなく、その後ろ姿を茫然と見送っている。

「熊ちゃんの妻」だった私は、今は何者でもない一人の女として城を出ていく。

 誰も止めない。

 止められないのか、それとも止める理由がないのか。

 どちらにしても、もう振り返るつもりはなかった。

 大理石の床に素足がひんやりと冷たい。

 一歩踏み出すたび、冷たさが足裏から伝わってくる。

 そういえば、ここへ来た時の私は部屋着のままだった。

 靴なんて履いていない。

 こんな格好で異世界を歩くなんて、少し前まで想像もしなかった。

 私はこれからどこへ向かうのだろう。

 宿はあるのだろうか。

 言葉は通じるのだろうか。

 お金は使えるのだろうか。

 考えれば考えるほど、不安ばかりが胸の中で膨らんでいく。

 でも。

 今さら熊ちゃんのところへ戻るつもりはなかった。

 重厚なマホガニーの大きな扉が、ギギギと鈍い音を立てて開く。

 一筋の眩しい光に目を細めた。

 外の空気が頬を撫でる。

 少し冷たい。

 でもどこか懐かしい匂いだった。

 森の香り。

 土の匂い。

 遠くから流れてくる澄んだ川の気配。

 まるで北海道の朝みたい。

 そう思った、その時だった。

「爽子様! 上田爽子様!」

 背後から慌てふためいた声が響いた。

 革靴が石畳を叩く音が、こちらへ一直線に近付いてくる。

 振り向くと、漆黒のローブを身にまとった高齢の男性が肩で息をしていた。

 白い髭を整え、手には重そうな麻袋を抱えている。

 走ってきた拍子に袋の中で金属がぶつかり合い、チャリン、と澄んだ音が鳴った。

「爽子様、お待ちくださいませ」

「あの……あなたは?」

 男性は姿勢を正すと、胸に手を当てて深々と一礼した。

「辺境伯グリズリー様にお仕えしております。秘書官のガルドと申します」

「辺境伯? グリズリー?」

 一瞬誰のことか分からず首を傾げる。

 すると老人は少しだけ困ったように笑った。

「こちらの世界での、ご主人様のお名前でございます」

「ああ……熊ちゃん」

 胸が少しだけ痛んだ。

 熊ちゃん。

 いや、この世界ではグリズリー辺境伯。

 もう私の知っているラーメン屋の熊ちゃんではない。

 老人はそんな私の表情を見て、小さく目を伏せた。

「旦那様は『これ以上、爽子様を縛る資格はない』と仰せでした」

「……そう」

「それでも、せめて旅立ちの支度だけは整えたいと」

 そう言って差し出された麻袋は、ずっしりと重かった。

「これをお渡しするようにとのことです」

 恐る恐る受け取る。

「重っ……」

 思わず声が漏れる。

 袋の口を少し開くと、中には見たこともない金貨がぎっしりと詰まっていた。

 太陽の光を受けて、黄金色がきらきらと輝く。

 一枚つまみ上げる。

 表には月桂樹の葉。

 裏には熊の横顔が精巧に刻まれていた。

「……なにこれ」

「我が国で流通しております金貨でございます。爽子様の当座の資金として、お納めください」

 当座の資金。

 向こうの世界で言えば慰謝料みたいなものだろうか。

 本当は受け取りたくなんてない。

 意地だけなら、突き返してしまいたかった。

 でも。

 知らない世界で無一文になるほど、私は子どもじゃない。

「……ありがとう。助かるわ」

 素直に頭を下げると、老人は安心したように微笑んだ。

「それと、もう一つ」

 そう言って、おもむろに私の足元へしゃがみ込む。

「えっ?」

 老人は私の素足へ静かに手をかざした。

 次の瞬間。

 淡い翡翠色の光がふわりと広がった。

「えっ、なにこれ」

 光は糸のように足首へ絡みつき、羽根で撫でられるような優しい感触がつま先から膝、腰、肩へと駆け抜けていく。

 暖かい。

 春の日差しに包まれているみたい。

「えっ、えっ、えっ」

 思わず目を閉じる。

 数秒後。

 光が静かに消えた。

 恐る恐る足元を見る。

「……わぁ」

 赤茶色の革で仕立てられたモカシンが、私の両足を優しく包んでいた。

 足に吸い付くようにぴったりで、まるで最初から履いていたみたいに馴染んでいる。

 歩いてみる。

 軽い。

 石畳の冷たさももう感じない。

「魔法……?」

「旅人を守る加護がかけられております」

「加護?」

「長旅でも足を痛めにくく、多少の寒さ暑さも和らげてくれるでしょう」

「すごい……」

 思わず何度も足踏みしてしまう。

 異世界って、本当に魔法があるんだ。

 そんな当たり前のことに、今さら感動している自分がおかしかった。

 老人は満足そうに頷く。

「爽子様……どうぞ、お健やかに」

「ありがとうございます」

 自然と深く頭を下げた。

 この世界へ来てから、初めて向けられた優しさだった。

 老人はローブを深く被ると、もう一度だけ丁寧に一礼する。

 そして何も言わず、大きな扉の向こうへ静かに消えていった。

 私はその後ろ姿をしばらく見送る。

 手には金貨の入った袋。

 足元には魔法の靴。

 夫はいなくなった。

 帰る場所もない。

 それでも、不思議と絶望はしていなかった。

 私は異世界の金貨と魔法の靴を手に入れた。

 あとは鍋と包丁、それから少しの勇気があればいい。

 この世界で、一番うまい食堂酒場を開くために。

 さぁ、歩き出そう。

 自分の力で。
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