異世界北海道で美味しいごはん〜夫に捨てられたけれど農業男子の愛が止まりません〜

第20話 青いペンキ

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 私は息を切らしながら白樺の林を駆け抜けた。

 店から離れたい。

 今はそれだけしか頭になかった。

 足は自然と市場へ向かっている。

 あの声から逃げるように。

「上田――」

「ひっ!」

 また聞こえた気がして、思わず肩を震わせる。

 振り返る。

 誰もいない。

 白樺の幹が何本も並び、木漏れ日が地面へ揺れているだけだった。

「気のせい……?」

 でも心臓はまだ速く鳴っている。

 私は石畳の階段を一段飛ばしで駆け上がった。

 足がもつれそうになる。

 胸が苦しい。

 額から汗が流れ、頬を伝って首筋へ落ちていく。

「はぁ……」

 立ち止まって深呼吸する。

 その時。

 ガサッ。

 茂みの中から角うさぎが飛び出した。

「きゃっ!」

 驚いて一歩後ずさる。

 角うさぎは私を一度だけ見上げると、ぴょんぴょんと林の奥へ逃げていった。

 その物音に驚いたのか、白樺の枝へ止まっていたセキレイが一斉に羽ばたく。

 チュンッ。

 青空へ吸い込まれるように飛んでいった。

 私は胸へ手を当てる。

「びっくりした……」

 思わず苦笑する。

 少し神経質になり過ぎているのかもしれない。

「一体、なんなの……あれ」

 恐る恐る後ろを振り返る。

 林の向こう。

 遠くに、私の店が見えた。

 大きな椎木に守られるように建つ、青い屋根の小さな食堂。

 ところどころペンキが剥げ、木肌が見えている。

 昼間に見ると、不気味だった朝の印象とは少し違って見えた。

「……屋根にペンキでも塗るか」

 ぽつりと呟く。

 綺麗になれば雰囲気も変わる。

 店の中まで明るい気持ちになれるかもしれない。

 掃除もした。

 家具も揃えた。

 次は外観だ。

 私は気持ちを切り替え、再び市場へ向かった。


 ◇◇◇


 十勝の市場は今日も大勢の人で賑わっていた。

 肉を焼く香ばしい匂い。

 焼き立てパンの甘い香り。

 香辛料の刺激的な匂いまで風に混じっている。

 噴水広場では大道芸人が細い綱の上を歩き、周囲を囲んだドワーフたちが大きな拍手を送っていた。

「おぉー!」

「すげぇ!」

 獣人の子どもたちは歓声を上げながら走り回る。

 妖精たちは赤い風船へつかまり、空中をふわふわ漂っていた。

 昨日まで怖いと感じていた市場が、今日は少しだけ落ち着いて見える。

「大丈夫」

 私は自分へ言い聞かせる。

「昼間だもの」

 きっと変なことなんて起きない。ふと、金髪、碧眼の彼を思い出す。

 私は日用雑貨の露店へ足を止めた。

 棚には縄や桶、木槌、釘、刷毛が所狭しと並んでいる。

 店番をしていたのは立派な髭を蓄えたドワーフだった。

「いらっしゃい!」

 声まで豪快だ。

「何か探し物かい?」

「ペンキはありますか?」

「ペンキ?」

 店主は顎髭を撫でながら少し考えた。

「ああ、あったな」

 店の奥へ入っていく。

 ゴソゴソ。

 ガタガタ。

 木箱をひっくり返す音が聞こえた。

「これだ!」

 持ってきたのは少し錆びた缶だった。

 蓋にも埃が積もっている。

 店主は手でパンパンと払う。

 すると缶へ描かれていた鮮やかな青色が姿を現した。

 夏の空みたいに澄んだ青だった。

「……綺麗な色ですね」

 思わず見惚れる。

 今の屋根より少し明るい。

 塗り替えたらきっと素敵になる。

「古い在庫だからな」

 店主は笑う。

「安くまけとくよ」

「本当ですか?」

「ああ」

 私は銀貨を数枚渡した。

 店主は刷毛も一本添えてくれる。

「はいよ」

「ありがとうございます」

 大事そうに缶を抱える。

 これで店が少し明るくなる。

 そんな気がした。

 店主は私をじっと見つめた。

「お前さん」

「はい?」

「椎木の店へ越してきた嬢ちゃんだろ?」

 もう覚えられていたらしい。

 私は少し嬉しくなって笑顔になる。

「はい!」

 ぺこりと頭を下げる。

「上田爽子といいます。よろしくお願いいたします」

「はっはっは!」

 店主は豪快に笑った。

「元気がいいな!」

「ありがとうございます」

「食堂酒場を始めるって聞いたぞ」

 もう噂になっているらしい。

 町は思っていたよりずっと狭い。

「はい」

「ヴェダー亭という名前です」

「ヴェダー亭か」

 店主は何度か口の中で繰り返した。

「覚えやすくていい名前だ」

「そう言っていただけると嬉しいです」

 自然と笑みがこぼれる。

 店主は腕を組み、青いペンキ缶を見つめた。

「でもなぁ」

「はい?」

「一人で屋根を塗るのは骨が折れるぞ」

 確かに二階建てだ。

 脚立も必要になる。

「そうですよね」

 少し困った顔をすると、店主は目尻へ深い皺を寄せた。

「よければ手伝いに行こうか?」

「えっ?」

 思わず聞き返す。

「わしだけじゃない」

 親指で後ろを指差した。

 店の奥では若いドワーフたちが荷物を運んでいる。

「暇な奴が二、三人いるからな」

 にやりと笑う。

「昼飯でもご馳走してくれりゃ十分だ」

 私は目を丸くした。

「そんな……」

 昨日引っ越してきたばかりの私に、ここまで親切にしてくれるなんて思ってもみなかった。

 胸がじんわり温かくなる。

「ありがとうございます」

 深く頭を下げる。

「でも、お昼くらいじゃ足りません」

 私は笑った。

「完成したら、ヴェダー亭で一番美味しい料理をご馳走します」

 店主は嬉しそうに大笑いした。

「よし!」

 拳を握る。

「それなら張り切って塗らんとな!」

 その豪快な笑い声につられて、私も思わず笑っていた。

 さっきまで胸を締め付けていた不安が、ほんの少しだけ遠ざかった気がした。
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