異世界北海道で美味しいごはん〜夫に捨てられたけれど農業男子の愛が止まりません〜

第75話 公爵令息と豚丼

昼時を迎えたヴェダー亭は、今日も湯気と笑い声に包まれていた。

 窓際では町の職人たちがラーメンを啜り、奥の席では家族連れがミネストローネを囲んでいる。

 厨房では寸胴鍋から豚骨スープの香りが立ちのぼり、チャーシューを煮込む甘辛い匂いが店いっぱいに広がっていた。

 カラン。

 扉の鐘が澄んだ音を立てる。

「いらっしゃいませ」

 顔を上げると、白いシャツに濃紺の上着を羽織ったレオンが立っていた。

 相変わらず姿勢が美しく、人混みの中でもどこか気品が漂っている。

「こんにちは」

「こんにちは、レオンさん」

 私は笑顔で迎え入れた。

「どうぞ、お好きなお席へ」

 レオンは窓際の席へ腰を下ろし、木製のメニュー表を手に取る。

 ページを一枚ずつ丁寧にめくり、しばらく眺めていた。

 やがて静かに閉じる。

「この、『豚丼』というものをください」

「はい、ありがとうございます」

 私は厨房へ戻り、すぐに支度を始めた。

 窯で炊きたての白いご飯を木の丼へふんわりと盛る。

 昨夜仕込んでおいた豚肩ロースを薄切りにし、熱したフライパンへ並べた。

 ジュワッ。

 脂が弾け、香ばしい音が響く。

 そこへ醤油。

 砂糖。

 そして春にテオと育て、先日収穫したばかりの生姜をすりおろす。

 ふわりと立ち上る爽やかな香りに、ヴェダーたちが一斉に葉っぱを揺らした。

「ヴェダー!」

「焦げないようにね」

 木べらで手早く返す。

 照りの出た豚肉を熱々のご飯へ重ね、最後に刻み葱を散らした。

 湯気の向こうで、レオンが興味深そうにこちらを見ている。

 料理を作る手元をじっと見つめ、その視線は一瞬も逸れない。

「お待たせしました」

 豚丼をテーブルへ置く。

「どうぞ召し上がってください」

「ありがとうございます」

 レオンはフォークを手に取った。

 豚肉を一枚、ご飯と一緒に口へ運ぶ。

 ゆっくり噛む。

 目を閉じる。

「……これは」

 もう一口。

 さらにもう一口。

 生姜の香りと甘辛い醤油だれが豚肉の旨味を引き立て、ご飯がどんどん進む。

「美味しいです」

 穏やかな笑みが浮かんだ。

「豚肉がこんなに柔らかくなるとは思いませんでした。生姜でしょうか。この爽やかな香りが実に見事です」

「ありがとうございます」

 私は嬉しくなって微笑んだ。

 レオンはフォークを置き、しばらく私を見つめていた。

「爽子さん」

「はい?」

「あなたは……どこから来られたのですか?」

 その問いに、私の手が止まる。

「え……」

 店内の喧騒が、一瞬だけ遠く感じた。

 どこから。

 その答えは簡単なようで、一番難しい。

 ア・バーシリーから来た。

 そう言えば間違いではない。

 けれど、本当は違う。

 私は北海道から来た。

 この世界ではない、もう一つの世界。

 熊ちゃんと一緒にラーメン屋を営んでいた世界。

 私は包丁を握る手に力を込めた。

(……話す時が来たのかな)

 レオンは公爵令息だ。

 もし話したとしても笑われるだろうか。

 それとも信じてくれるだろうか。

 テオにもまだ話せていない。

 誰にも。

 誰一人として。

「私は……」

 唇が小さく震える。

 その時だった。

「いや」

 レオンは穏やかに首を横へ振った。

「無理に聞こうとは思いません」

「レオンさん……」

「誰にでも話したくない過去はあります」

 その声音はとても優しかった。

「いつか話したくなった時で構いません」

 私は小さく頭を下げた。

「ありがとうございます」

 胸の奥が少しだけ軽くなる。

 レオンは再び豚丼へフォークを伸ばした。

 最後の一粒まで丁寧に食べ終えると、満足そうに息をつく。

「ごちそうさまでした」

「ありがとうございました」

 空になった丼を見つめながら、レオンはぽつりと呟いた。

「この豚丼を……父上にも食べさせたいですね」

「公爵様にですか!?」

 思わず声が大きくなる。

 レオンは微笑みながら頷いた。

「ええ」

 窓の外では、水車小屋の車輪がゆっくりと回っている。

「水車小屋の建設も順調ですね。その報告も兼ねて、近いうちに父上のもとへ戻る予定です」

「そうなんですね」

「その時、この町で見たこと、食べたことも全部伝えたいと思っています」

 レオンは窓の外へ目を向けた。

「水車。」

「歌うトマト。」

「ヴェダー亭。」

「そして、この豚丼。」

 その瞳には、この町の未来への期待が静かに宿っていた。

 一方私は、レオンの言葉を聞きながら胸の奥で小さく息をつく。

 もし公爵家へ豚丼が運ばれるなら――。

 その先にいる人も、この味を口にする日が来るのかもしれない。

 そんな予感が、秋風とともに静かに胸をよぎっていた。
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