夏の匂いがした。
夏休みが始まって、三日目。

 今年も俺は、祖父母の家に来ていた。

 毎年のことだから、特別楽しみなわけでもなかった。
 朝から蝉がうるさく鳴いていて、縁側に座っているだけで汗がにじむ。

「暇だな……」

 そう呟いて、俺は家を出た。

 目的なんてなかった。
 ただ、少し歩きたかった。

 祖父母の家から少し離れた道を歩いていると、今まで見たことのない細い小道が目に入った。

「……こんな道、あったんだ」

 草の間から続く道。
 その先には、木々が重なっている。

 なんとなく気になって、俺はその道を進んだ。

 森の中は、外より少し涼しかった。

 蝉の声が遠くなって、代わりに葉っぱの擦れる音が聞こえる。

 しばらく歩いていると――

 ふと、足が止まった。

「……なんだ、あれ」

 曇っているはずなのに。

 森の奥にある一本の木だけが、やさしく光っていた。

 まるで、そこだけ夏の光が落ちてきているみたいだった。

 俺はゆっくり近づいていく。

 そして、その木の下に――

 女の子がいた。

 長い黒髪。

 白いワンピース。

 木にもたれて、目を閉じている。

 風が吹くたびに、彼女の髪とワンピースの裾が、ふわりと揺れた。

 なんだか、そのまま光の中に消えてしまいそうだった。

 俺は少し迷ってから、声をかけた。

「……ねえ」

 女の子のまつ毛が、かすかに動いた。

 ゆっくりと目を開ける。

 そして――

 俺を見て、にこっと笑った。

「……夏の匂いがしたから」

「え?」

 意味が分からなかった。

 俺が首を傾げると、彼女は木の幹に背中を預けたまま、少しだけ笑った。

「ここに座ってるとね、夏の匂いがする気がするのー、」

 俺はその言葉を聞きながら、彼女の隣に静かに座った。

 しばらく、何も話さなかった。

 木の葉の隙間から落ちてくる光を、ただ眺めていた。

 やがて彼女が、ぽつりと言った。

「ねえ、名前は?」

 俺は彼女を見る。

「……翠。ひすい」

「翠……」

 彼女は俺の名前を口の中で転がすように呟いた。

「素敵だねー、」

 そう言って笑う。

「そっちは?」

 聞いてみた。

 彼女は答えなかった。

 ただ、少しだけ目を細めて――笑った。

 俺も、それ以上は聞かなかった。

 知らない女の子。

 名前も知らない。

 なのに、不思議と嫌じゃなかった。

 しばらくして、俺は立ち上がった。

「……また来る」

 自分でも、なんでそんなことを言ったのか分からなかった。

 彼女は何も答えず、ただ目を瞑った。

 森を出る直前。

 背中から、柔らかな声が聞こえた。

「明日も晴れるといいねー、」

 振り返る。

 そこには、木漏れ日の中で目を閉じた彼女がいた。

 俺は小さく笑って、森を後にした。

 このときの俺は、まだ知らなかった。

 この夏が、俺にとって一生忘れられない夏になることを。

次の日も、朝から蝉が鳴いていた。

 目が覚めた瞬間、昨日のことを思い出した。

 森。

 木漏れ日。

 白いワンピース。

 そして、あの女の子。

 名前は――知らない。

 昨日、聞いたのに教えてくれなかった。

 なのに、なぜか気になった。

「……なんなんだよ、あの子」

 独り言を呟いて、布団の上で仰向けになる。

 別に、会う約束をしたわけじゃない。

 「また来る」と言っただけだ。

 それなのに。

 朝ご飯を食べている間も、縁側で麦茶を飲んでいる間も、ずっと昨日の女の子のことを考えていた。

「翠、今日は出かけるのかい?」

 祖父に聞かれて、俺は少し考えた。

「……うん。ちょっと散歩」

「暑いから、あんまり遠くまで行くんじゃないよ」

「分かってる」

 玄関を出る。

 昨日と同じ道を歩く。

 昨日と同じ蝉の声。

 昨日と同じ暑さ。

 でも、昨日とは少し違う気がした。

 森へ続く小道を見つけたとき、俺の足は自然とそちらへ向いた。

 草を踏みながら進んでいく。

 森の中へ入ると、少しだけ空気が涼しくなった。

 木々の間から差し込む光を眺めながら、昨日の場所へ向かう。

 そして――

 いた。

 昨日と同じ木。

 昨日と同じ場所。

 そこに、あの子がいた。

 木にもたれて、目を閉じている。

 長い黒髪が風に揺れていた。

 俺は、なぜか少し安心した。

「……いた」

 思わず声に出ていた。

 女の子が目を開ける。

 俺を見ると、昨日と同じように笑った。

「また会えたね、」

「うん」

 俺はそのまま隣に座った。

「……また会いに来た」

 そう言うと、彼女は何も言わなかった。

 ただ、目を閉じた。

 昨日と同じように。

 俺も黙って隣に座った。

 しばらくして、彼女が口を開いた。

「今日は、昨日より暑いねー」

「そう?」

「うん」

「俺、あんまり分かんない」

「ふふ」

 彼女が小さく笑った。

「翠くんって、変だねー」

「……初対面の人に言われたくない」

「昨日会ったよ?」

「そういう問題じゃないだろ」

 彼女はまた笑った。

 その笑い声が、森の中に溶けていく。

 不思議な子だった。

 話していることは普通なのに、どこか現実感がない。

 風が吹く。

 木の葉が揺れる。

 光が揺れる。

 そのたびに、彼女の姿まで揺れて見えた。

「ねえ」

「ん?」

「翠くんは、夏好き?」

 突然聞かれた。

「……普通」

「そっかぁ」

「雫は?」

 言ってから、しまったと思った。

「……あ」

 彼女が笑う。

「雫って、誰?」

「いや……」

 自分でも驚いた。

 いつの間にか、頭の中で彼女を「雫」と呼んでいた。

 もちろん、まだ名前は知らない。

「……なんとなく」

「ふふ。面白いねー」

「笑うなよ」

「ごめんごめん」

 彼女は笑ったまま、空を見上げた。

「でも、夏は好きだよ」

「なんで?」

「夏の匂いがするから」

 また、それだった。

「……夏の匂いって、そんなにいい?」

「うん」

「俺には普通の匂いにしか思えないけど」

「いつか分かるよ」

「いつ?」

 彼女は答えなかった。

 ただ、木漏れ日の向こうを見ていた。

 その横顔が、妙に綺麗だった。

「……ねえ」

「なに?」

「名前、教えてよ」

 今度こそ聞いてみた。

 彼女は俺を見る。

 少しだけ目を細めて――

 また笑った。

「秘密」

「なんでだよ」

「秘密は、秘密だから」

「意味分かんない」

「ふふ」

 また笑う。

 俺は呆れてため息をついた。

 でも、不思議と嫌じゃなかった。

 名前なんて知らなくてもいい。

 そう思ってしまうくらいには、この時間が心地よかった。

 その日も、夕方になるまで俺たちは一緒にいた。

 くだらない話をした。

 好きな食べ物。

 好きな季節。

 夏祭りの話。

 好きな空の色。

 でも、彼女は自分のことだけはほとんど話さなかった。

 どこに住んでいるのか。

 学校はどこなのか。

 家族はいるのか。

 聞いても、笑って誤魔化す。

 それでも俺は、聞くのをやめた。

 いつか話してくれる気がしたから。

 森を出る前、彼女が言った。

「明日も来る?」

「……来る」

「そっかぁ」

 彼女は嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 俺は森を出た。

 振り返る。

 木漏れ日の中にいる彼女が、小さく手を振っていた。

 俺も手を振り返した。

それから、俺は毎日のように森へ行った。

 朝、祖父母の家を出る。

 蝉の声を聞きながら、昨日と同じ道を歩く。

 森の入口に着く頃には、もう少しだけ足取りが軽くなっていた。

 木々の間を抜ける。

 葉っぱの隙間から、ちらちらと光が落ちている。

 そして、あの木。

 今日も雫はそこにいた。

「おはよー、翠くん」

「……おはよう」

 いつからだっただろう。

 雫がそこにいることを、当たり前だと思うようになったのは。

「今日は遅かったねー」

「別に。いつもと同じくらいだろ」

「そうかなぁ」

 雫は笑った。

 俺はいつものように、その隣に座る。

「今日、何してたの?」

「何もしてないよー」

「ずっとここにいたの?」

「うん」

「暇じゃない?」

「全然」

 雫は木の葉を見上げる。

「ここにいると、いろんな音がするから」

「音?」

「うん。蝉の声とか、風の音とか」

 雫が目を閉じる。

「葉っぱが揺れる音も好き」

 俺も耳を澄ませてみる。

 ミンミンと鳴く蝉。

 遠くで鳴いている鳥。

 風が木々の間を通り抜ける音。

「……確かに」

「でしょ?」

 雫が嬉しそうに笑った。

「翠くん、昨日より夏の匂い分かる?」

「分かんない」

「まだまだだねー」

「なんだよ、それ」

 雫は楽しそうに笑う。

 俺もつられて笑った。

 こんなふうに笑ったのは、久しぶりだった。

 祖父母の家に来ると、いつも暇だった。

 毎年同じ景色。

 同じ道。

 同じ蝉の声。

 でも今年は違う。

 森に来れば、雫がいる。

「ねえ、翠くん」

「ん?」

「夏休み、好き?」

「まあ……嫌いじゃない」

「じゃあ、終わってほしくない?」

 その質問に、少しだけ考える。

「……まだ始まったばっかりだし」

「そっかぁ」

 雫はそれ以上何も言わなかった。

 俺は横目で雫を見る。

 白いワンピース。

 長い黒髪。

 木漏れ日に照らされた横顔。

 いつ見ても、少しだけ現実から離れているように見えた。

「雫」

「なに?」

「……やっぱり名前、教えてよ」

 雫がこっちを見る。

 そして、いつものように笑った。

「秘密ー」

「またそれ?」

「うん」

「じゃあ、俺が勝手に名前つけるから」

「いいよー」

「……じゃあ」

 少し考える。

 雫は黙って俺を見ている。

「……雫」

「雫?」

「うん。なんとなく」

 雫は少しだけ目を丸くした。

 それから――

 ふわっと笑った。

「素敵な名前だねー」

「本名じゃないけどな」

「うん」

「……嫌じゃない?」

「全然」

 雫はそう言って、また木にもたれた。

 俺も隣に座り直す。

 蝉の声が響いている。

 夏の日差しが、葉っぱの隙間からこぼれている。

 何も特別なことは起きない。

 ただ、隣に雫がいる。

 それだけだった。

 それだけなのに。

 その時間が、俺には少しだけ大切に思えた。

その日の夕方。

 いつものように木の下で話していると、遠くから小さな音が聞こえてきた。

 ドン。

 少し遅れて、もう一度。

 ドン、ドン。

「……花火?」

 俺が空を見上げる。

 森の木々に隠れていて、姿は見えない。

「今日、お祭りなんだって」

 雫が言った。

「知ってたの?」

「うん」

「じゃあ行く?」

 そう言うと、雫は少し驚いた顔をした。

「……私も?」

「他に誰がいるんだよ」

 雫は少し黙って、それから笑った。

「行きたい」

 俺たちは森を出た。

 夕暮れの道を並んで歩く。

 蝉の声はまだ聞こえていたけど、森の中より少しだけ遠く感じた。

 町に近づくにつれて、人の声が増えていく。

 屋台の明かり。

 浴衣を着た人たち。

 風に揺れる提灯。

 夏祭りなんて毎年見ているはずなのに、今日は少し違って見えた。

「すごいねー」

 雫が目を輝かせる。

「祭り、初めて?」

「ううん」

「じゃあ、なんでそんなに嬉しそうなの?」

「……今年は一緒に見る人がいるから」

 雫はそう言って笑った。

 俺は少しだけ黙った。

「……そっか」

 それだけしか言えなかった。

 屋台を見て回る。

 りんご飴。

 焼きそば。

 かき氷。

「雫、何食べたい?」

「んー……」

 雫はしばらく悩んで、かき氷を指差した。

「これ」

「意外」

「なんで?」

「もっと大人っぽいの選ぶかと思った」

「私、そんなに大人っぽい?」

「……まあ」

「ふふ」

 かき氷を買って、二人で食べる。

 雫は一口食べて、少し顔をしかめた。

「冷たい……」

「当たり前だろ」

「頭痛いー」

「食べるの早いからだよ」

 雫が笑う。

 その笑顔を見ていると、なぜか安心した。

 しばらくして、空に大きな花火が上がった。

 ドン、と響く音。

 夜空いっぱいに広がる光。

「綺麗……」

 雫が呟いた。

 俺も空を見上げる。

「うん」

「翠くん」

「ん?」

「来年も、一緒に見られるかな」

 俺は少し考えてから答えた。

「見られるだろ」

「……そっか」

 雫は笑った。

 花火が次々と夜空に咲いていく。

 その横顔を見ながら、俺は思った。

 来年も。

 その次も。

 こうやって一緒に夏を過ごせたらいい。

 そんなことを、当たり前みたいに思っていた。

 帰り道。

 森へ続く小道の前で、雫が立ち止まった。

「今日は楽しかったねー」

「うん」

「また明日ね」

「ああ。また明日」

 雫は手を振って、森の中へ歩いていった。

 白いワンピースが暗い木々の間に消えていく。

 俺はその姿を見送ってから、祖父母の家へ帰った。

 夜の空気には、まだ少しだけ花火の煙の匂いが残っていた。

夏祭りの翌日。

 俺はいつもより少し早く森へ向かった。

 昨日の夜のことが、なんとなく頭に残っていた。

 来年も一緒に花火を見られるかな。

 雫が言った言葉。

 俺は何も考えずに「見られるだろ」と答えた。

 でも、朝になってからふと思った。

 雫は、来年もここにいるんだろうか。

 そんなことを考えながら歩いていると、いつもの木が見えてきた。

 雫は、今日もそこにいた。

 木にもたれて、空を見上げている。

「おはよ」

「おはよー、翠くん」

 俺は隣に座った。

「昨日、楽しかった?」

「うん」

「花火、綺麗だったねー」

「雫、ずっと見てたもんな」

「だって好きなんだもん」

「花火が?」

「うん」

 雫は笑った。

「夏も好き」

「それは知ってる」

「ふふ」

 しばらく沈黙が続いた。

 俺は昨日から気になっていたことを聞いてみた。

「雫ってさ」

「んー?」

「どこに住んでるの?」

 雫の表情が、一瞬だけ止まった。

 でもすぐに、いつもの笑顔に戻った。

「……近くだよー」

「どこ?」

「秘密」

「また?」

「うん」

「家族は?」

「秘密」

「学校は?」

「秘密」

「秘密多すぎない?」

 雫は声を出して笑った。

「だって、秘密って楽しいでしょ?」

「俺は全然楽しくない」

「そう?」

「うん」

 雫は少しだけ考えるように空を見た。

「じゃあ、ひとつだけ教えてあげる」

「何?」

「私はね――」

 そこで、雫が黙った。

「……?」

 俺が待っていると、雫はふっと笑った。

「やっぱり秘密」

「おい」

 思わず笑ってしまった。

 雫も笑った。

 森の中に、二人の笑い声が響く。

 そのあと、俺たちはくだらない話をした。

 好きな食べ物。

 苦手なもの。

 子どもの頃のこと。

 俺が話すたび、雫は楽しそうに聞いてくれた。

 でも、俺が雫について聞くと、必ず笑って誤魔化す。

 それが少し不思議だった。

 それでも、無理に聞こうとは思わなかった。

 いつか話してくれる。

 そんな気がしていた。

 帰る時間になって、俺が立ち上がる。

「また明日」

「うん」

 雫が笑う。

「翠くん」

「ん?」

「明日も晴れるといいねー」

「……昨日も言ってたな、それ」

「そうだっけ?」

「言ってた」

「じゃあ、今日も言う」

 雫は楽しそうに笑った。

「明日も晴れるといいねー」

「……うん」

 俺も笑った。

 森を出る。

 帰り道、ふと振り返る。

 木の下にいる雫は、まだこちらを見ていた。

 俺が手を振ると、雫も小さく手を振り返した。

それから何日か経った。

 俺は毎日、森へ行った。

 朝起きて、朝ご飯を食べて、祖父母に「ちょっと出てくる」と言う。

 そして、あの小道を歩く。

 もう迷うことはなかった。

 森の中に入ると、少しだけ空気が変わる。

 蝉の声。

 葉っぱの音。

 土の匂い。

 そして――夏の匂い。

 最近になって、少しだけ分かるようになった気がする。

 あの木の下には、今日も雫がいた。

「遅かったねー」

「別に。いつもと同じだろ」

「今日は五分遅いよ」

「……なんで分かるんだよ」

「分かるよー」

 雫は笑った。

 俺は隣に座る。

「今日は何してたの?」

「何も」

「また?」

「うん」

「毎日ここにいて飽きない?」

「飽きないよ」

「なんで?」

 雫は少し考えてから、木の葉を見上げた。

「翠くんが来るから」

 心臓が、一瞬だけ変な音を立てた気がした。

「……俺が?」

「うん」

「俺が来なかったら?」

「待つ」

「ずっと?」

「うん」

 雫は当たり前みたいに言った。

「変なの」

「翠くんもねー」

「俺は普通」

「普通じゃないよ」

「どこが?」

「秘密」

「またそれかよ」

 雫が笑う。

 俺も笑った。

 少しして、雫が木の根元に落ちていた小さな葉っぱを拾った。

「見て」

「何?」

「ハートみたい」

「……ほんとだ」

 雫はその葉っぱを俺に渡した。

「あげる」

「いいの?」

「うん」

 俺は葉っぱを受け取った。

 ただの葉っぱ。

 それなのに、捨てる気にはなれなかった。

「ありがとう」

「どういたしましてー」

 風が吹いた。

 雫の髪が揺れる。

 白いワンピースの裾も揺れる。

 俺はぼんやりと、その姿を見ていた。

「……何?」

「え?」

「ずっと見てる」

「……別に」

「ふふ」

 雫が笑う。

 俺は慌てて視線を逸らした。

 なんだろう。

 最近、雫のことを見てしまうことが増えた。

 笑っている顔。

 眠そうな顔。

 空を見ている横顔。

 どれも、気づけば目で追っている。

「翠くん」

「ん?」

「私ね」

「うん」

「ここが好き」

「森?」

「うん」

 雫は木の幹に手を添えた。

「ここにいると、夏の匂いがするから」

「……それ、まだ分かんない」

「いつか分かるよー」

 また同じ言葉。

 でも今度は、少しだけ違って聞こえた。

「……じゃあ、分かるまでここに来る」

 雫が俺を見る。

「毎日?」

「毎日」

 雫は少し驚いた顔をして、それから――

 いつものように、ふわっと笑った。

「そっかぁ」

 その笑顔を見ていると、胸の奥が温かくなった。

 蝉の声が、森いっぱいに響いていた。

 俺は隣にいる雫を見ながら、もう一度だけ思った。

 明日も、ここに来よう。

その日は、朝から少しだけ涼しかった。

 蝉の声も、いつもより遠くに聞こえる。

 俺は朝ご飯を食べ終えると、いつものように森へ向かった。

 木の下には、まだ雫はいなかった。

「……あれ?」

 いつもなら、俺より先にいる。

 少しだけ不安になって、木の周りを見渡した。

 すると――

「翠くーん」

「うわっ」

 背後から声がした。

 振り返る。

 雫が立っていた。

「……びっくりした」

「ふふ、ごめん」

「どこにいたんだよ」

「ちょっと散歩してたの」

「この森を?」

「うん」

 雫は何でもないように笑った。

 俺は木の下に座る。

 雫も隣に座った。

「ねえ、翠くん」

「ん?」

「宿題、終わった?」

「……」

「終わってないんだ」

「まだ夏休み始まってそんなに経ってないだろ」

「でも、宿題はあるよ?」

「分かってる」

「ふふ」

「笑うなよ」

 俺は鞄から宿題を取り出した。

「じゃあ、今日はこれやる」

「ここで?」

「うん」

 雫が少し嬉しそうな顔をした。

「じゃあ、私も隣にいる」

「雫は宿題ないの?」

「ないよ」

「ずるいな」

「そう?」

 俺はノートを開いた。

 蝉の声を聞きながら、問題を解いていく。

 雫は隣で何もせずに、ただ木にもたれていた。

 しばらくして――

「翠くん」

「なに?」

「これ、分かる?」

 雫が俺のノートを覗き込む。

「……分かるよ」

「教えて」

「いいけど」

 俺は問題を指差した。

「ここは――」

「うん」

「だから、ここをこうして……」

 雫は真剣に聞いている。

「分かった?」

「うん」

「じゃあ解いてみて」

 雫が紙に何かを書いた。

「できたー」

「……正解」

「やった」

 雫が小さくガッツポーズをした。

「子どもみたい」

「翠くんより年上かもしれないよ?」

「え?」

「秘密」

「またそれかよ」

 雫は笑った。

 昼を過ぎる頃には、俺の宿題もかなり進んでいた。

 ノートを閉じる。

「終わった」

「お疲れさまー」

「疲れた……」

「じゃあ寝れば?」

「ここで?」

「うん」

「……雫は?」

「いるよ」

 俺は少し迷ってから、木にもたれた。

 目を閉じる。

 葉っぱが揺れる音がする。

 蝉の声。

 風の音。

 隣にいる雫の気配。

 なんだか、不思議なくらい落ち着いた。

「翠くん」

「ん……?」

「寝ちゃった?」

「……寝てない」

「ふふ」

 その声を聞きながら、俺は目を閉じた。

 どれくらい経ったのか分からない。

 目を開ける。

 雫が空を見上げていた。

「起きた?」

「……うん」

「よく寝てたねー」

「寝てないって」

「寝てたよ」

 雫は笑った。

 俺は空を見上げる。

 朝より雲が少なくなっていた。

「晴れてきたな」

「うん」

「昨日、明日も晴れるといいって言ってたけど」

「晴れたねー」

「……そうだな」

 雫は嬉しそうに笑った。

「よかった」

 その一言が、なぜか心に残った。

 帰る時間になった。

 俺は立ち上がる。

「また明日」

「うん」

 少し歩いてから、振り返る。

 雫はいつもの木の下に座っていた。

 木漏れ日の中で、静かに笑っている。

 俺も手を振った。

 その日は家に帰ってからも、なぜか眠る前まで雫のことを考えていた。

翌日。

 森へ向かう途中、俺は昨日のことを考えていた。

 雫は、俺のことを少しずつ知っていく。

 好きな食べ物。

 好きな音楽。

 小さい頃の話。

 くだらないことまで、たくさん話した。

 でも――

 俺は雫のことを、ほとんど知らない。

 名前すら知らない。

 どこに住んでいるのかも。

 学校も。

 家族も。

 何も知らない。

 なのに、毎日会っている。

「……変なの」

 小さく呟いて、森へ入った。

 いつもの木。

 今日は雫が先に来ていた。

「おはよー」

「おはよう」

 俺は隣に座った。

「今日、なんか考え事してる?」

 雫が俺の顔を覗き込む。

「……雫のこと」

「私?」

「うん」

「どうして?」

「だって俺、雫のこと何も知らないから」

 雫は少し黙った。

「知りたい?」

「……うん」

 素直に答えると、雫は笑った。

「じゃあ、ひとつだけ」

「何?」

「私、夏が好き」

「それはもう知ってる」

「じゃあ……」

 雫は少し考える。

「甘いものが好き」

「それも知ってる」

「えー」

「前にかき氷食べてたじゃん」

「あれは夏だから食べたの」

「じゃあ普段は?」

「秘密」

「……」

 俺は呆れて雫を見る。

 雫は楽しそうに笑っている。

「もういい」

「怒った?」

「怒ってない」

「よかったー」

 雫は木の葉を一枚拾った。

「翠くん」

「ん?」

「人ってね、知らないことがあるほうが、楽しいこともあるんだよ」

「そうかな」

「うん」

 雫は葉っぱを指先でくるくる回した。

「全部知っちゃったら、もう知りたいって思わなくなるでしょ?」

「……それは、そうかも」

「だから、少しずつでいいの」

 俺は雫を見る。

 その横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。

「じゃあ、少しずつ教えてよ」

「うん」

「約束な」

「約束」

 雫は小指を差し出した。

「……子どもかよ」

「いいから」

 俺は小指を絡めた。

「約束」

 雫が笑う。

 その瞬間、風が吹いた。

 木の葉が一斉に揺れて、光が二人の間にこぼれた。

「ねえ、翠くん」

「ん?」

「もし、夏が終わったら――」

 雫が言葉を止めた。

「……何?」

「ううん。なんでもない」

 また、笑って誤魔化した。

「気になるだろ」

「ふふ」

 雫は答えない。

 俺も、それ以上は聞かなかった。

 ただ、絡めた小指だけが、いつまでも離れなかった。

 その日の帰り道。

 俺はふと、ポケットの中を探った。

 昨日もらった、ハートみたいな葉っぱ。

 まだ捨てずに持っていた。

 それを見ながら、なんとなく思った。

 もっと雫のことを知りたい。

 もっと、ここにいたい。

 そんな気持ちが、少しずつ大きくなっていた。

翌日。

 森へ向かう途中、俺は昨日のことを考えていた。

 雫は、俺のことを少しずつ知っていく。

 好きな食べ物。

 好きな音楽。

 小さい頃の話。

 くだらないことまで、たくさん話した。

 でも――

 俺は雫のことを、ほとんど知らない。

 名前すら知らない。

 どこに住んでいるのかも。

 学校も。

 家族も。

 何も知らない。

 なのに、毎日会っている。

「……変なの」

 小さく呟いて、森へ入った。

 いつもの木。

 今日は雫が先に来ていた。

「おはよー」

「おはよう」

 俺は隣に座った。

「今日、なんか考え事してる?」

 雫が俺の顔を覗き込む。

「……雫のこと」

「私?」

「うん」

「どうして?」

「だって俺、雫のこと何も知らないから」

 雫は少し黙った。

「知りたい?」

「……うん」

 素直に答えると、雫は笑った。

「じゃあ、ひとつだけ」

「何?」

「私、夏が好き」

「それはもう知ってる」

「じゃあ……」

 雫は少し考える。

「甘いものが好き」

「それも知ってる」

「えー」

「前にかき氷食べてたじゃん」

「あれは夏だから食べたの」

「じゃあ普段は?」

「秘密」

「……」

 俺は呆れて雫を見る。

 雫は楽しそうに笑っている。

「もういい」

「怒った?」

「怒ってない」

「よかったー」

 雫は木の葉を一枚拾った。

「翠くん」

「ん?」

「人ってね、知らないことがあるほうが、楽しいこともあるんだよ」

「そうかな」

「うん」

 雫は葉っぱを指先でくるくる回した。

「全部知っちゃったら、もう知りたいって思わなくなるでしょ?」

「……それは、そうかも」

「だから、少しずつでいいの」

 俺は雫を見る。

 その横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。

「じゃあ、少しずつ教えてよ」

「うん」

「約束な」

「約束」

 雫は小指を差し出した。

「……子どもかよ」

「いいから」

 俺は小指を絡めた。

「約束」

 雫が笑う。

 その瞬間、風が吹いた。

 木の葉が一斉に揺れて、光が二人の間にこぼれた。

「ねえ、翠くん」

「ん?」

「もし、夏が終わったら――」

 雫が言葉を止めた。

「……何?」

「ううん。なんでもない」

 また、笑って誤魔化した。

「気になるだろ」

「ふふ」

 雫は答えない。

 俺も、それ以上は聞かなかった。

 ただ、絡めた小指だけが、いつまでも離れなかった。

 その日の帰り道。

 俺はふと、ポケットの中を探った。

 昨日もらった、ハートみたいな葉っぱ。

 まだ捨てずに持っていた。

 それを見ながら、なんとなく思った。

 もっと雫のことを知りたい。

 もっと、ここにいたい。

 そんな気持ちが、少しずつ大きくなっていた。

森へ着くと、雫はいつもの木の下にいた。

 でも、今日は少しだけ様子が違った。

 いつもなら俺が近づくと笑うのに、今日は空を見上げたまま黙っている。

「……雫?」

「ん?」

 雫が振り向く。

「どうした?」

「なんでもないよー」

 いつもの笑顔。

 でも、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。

「今日は何する?」

「んー……」

 雫は少し考えた。

「今日は、ここにいたい」

「いつもここにいるじゃん」

「うん。でも今日は、ずっと」

 俺は隣に座った。

 何も話さず、木にもたれる。

 風が吹く。

 蝉が鳴く。

 葉っぱが揺れる。

 いつもと同じ音。

 なのに、今日は少し違って聞こえた。

「ねえ、翠くん」

「ん?」

「夏休み、あとどれくらい?」

「……二週間くらい」

「そっか」

 雫が小さく呟く。

「すぐだね」

「何が?」

「夏休みが終わるの」

「まだ二週間もあるだろ」

「二週間しかないよ」

「……そうか?」

「うん」

 雫は笑った。

 その笑顔が、いつもより少しだけ寂しかった。

「夏休みが終わったら、どうする?」

「学校行く」

「そうじゃなくて」

「じゃあ何?」

「……来年もここに来る?」

 俺は少し驚いた。

「来るよ」

「絶対?」

「絶対」

「約束?」

「約束」

 雫が小指を差し出す。

 俺も小指を絡める。

「来年も、ここで会おうね」

「ああ」

「再来年も?」

「うん」

「その次も?」

「……何年分約束する気だよ」

 雫が笑った。

「ずっと」

「じゃあ、ずっと」

 指を絡めたまま、二人で笑った。

 しばらくして、雫がぽつりと言った。

「……ありがとう」

「何が?」

「ううん」

 雫は首を振る。

「なんでもない」

「またそれ?」

「ふふ」

 夕方。

 森を出る前、雫が俺を呼び止めた。

「翠くん」

「ん?」

「明日も来てね」

「もちろん」

「絶対だよ」

「分かってるって」

 雫は安心したように笑った。

「じゃあ、また明日」

「ああ。また明日」

 俺は森を出た。

 帰り道、空を見上げる。

 夕焼けが広がっていた。

 夏休みは、まだ終わっていない。

 だから俺は、明日もまた雫に会えると思っていた。

次の日。

 朝から雨が降っていた。

 窓を打つ雨音を聞きながら、俺は外を眺めていた。

「……雨か」

 昨日、雫は言った。

 明日も来てね。

 絶対だよ。

 俺は時計を見る。

 雨はまだ止みそうにない。

「……行くか」

 傘を持って、家を出た。

 森へ続く道は、昨日までとは全然違っていた。

 土は濡れている。

 葉っぱには雨粒が残っている。

 蝉の声も、今日は聞こえない。

 森の中へ入る。

 足元に気をつけながら、いつもの木へ向かった。

 木の下に着く。

「……雫?」

 誰もいなかった。

 いつもなら、そこにいる。

 木にもたれて、目を閉じている。

 でも今日は――いない。

 俺は木の下に立ったまま、しばらく待った。

 五分。

 十分。

 三十分。

 雨は弱くなってきた。

 それでも、雫は来なかった。

「……今日は、来ないのかな」

 そう呟いて、俺は家に帰った。

 次の日。

 雫はいなかった。

 その次の日も。

 いなかった。

 三日目。

 四日目。

 五日目。

 毎日、俺は森へ行った。

 いつもの木の下で待った。

 でも、雫は来なかった。

「……なんで」

 木にもたれて座る。

 昨日まで、ここにいた。

 笑っていた。

 くだらない話をしていた。

 来年も会おうって約束した。

 なのに。

 突然、いなくなった。

「……雫」

 名前を呼んでも、返事はない。

 森の中には蝉の声だけが響いていた。

 夏休みは、残り少なくなっていた。

 カレンダーを見る。

 あと一週間。

 あと六日。

 あと五日。

 時間だけが過ぎていく。

 俺は毎日、あの木へ行った。

 もしかしたら今日こそいるかもしれない。

 そう思って。

 でも、いない。

 ある日の夕方。

 いつもの木の下で、俺は一人で座っていた。

 風が吹く。

 葉っぱが揺れる。

 木漏れ日が地面に落ちる。

 俺は目を閉じた。

 あの日と同じように。

 すると――

 ふわっと、夏の匂いがした。

 俺は目を開ける。

「……雫?」

 もちろん、そこには誰もいなかった。

 ただ、木の葉が風に揺れているだけだった。

雫が来なくなって、一週間が経った。

 俺は今日も森へ向かった。

 いつもの木。

 いつもの場所。

 でも、そこに雫はいない。

「……雫」

 名前を呼ぶ。

 返事はない。

 蝉の声だけが、森の中に響いていた。

 俺は立ち上がった。

 今日は、いつもの場所で待つだけじゃなくて、森の中を探してみることにした。

 雫がよく歩いていた道。

 小さな川。

 少し開けた場所。

 昨日まで知らなかった場所まで、全部歩いた。

「雫ー!」

 呼んでも、返事はない。

 それでも歩き続けた。

 森を抜けて、近くの集落まで行った。

 道を歩いていたおばあさんを見つけて、声をかける。

「あの……この辺に、女の子って住んでますか?」

「女の子?」

「黒い長い髪で、白いワンピースを着てて……」

 おばあさんは少し考える。

「うーん……見たことないねぇ」

「そうですか……」

 その日は、それだけだった。

 次の日も、その次の日も探した。

 近所の人に聞いた。

 森の中を歩いた。

 雫がいそうな場所を探した。

 でも、何も見つからない。

 ある日の夕方。

 俺はまた、あの木の下に戻ってきた。

 疲れて、その場に座り込む。

「……どこにいるんだよ」

 返事はない。

「約束したじゃん」

 小指を絡めた日のことを思い出す。

 来年も。

 再来年も。

 その次も。

 ずっと。

「……嘘つき」

 自分で言っておいて、胸が苦しくなった。

 雫が嘘をついたなんて、思っていない。

 ただ、もう一度会いたかった。

 もう一度だけでいい。

 いつものように笑って、

「また会えたね」

って言ってほしかった。

 夕日が木々の隙間から差し込む。

 地面に落ちた光が、ゆっくりと薄くなっていく。

 俺は立ち上がった。

 帰ろうとした、そのとき。

 風が吹いた。

 木の葉が一斉に揺れる。

 ふわりと、あの匂いがした。

 夏の匂い。

 俺は振り返った。

「……雫?」

 誰もいない。

 それでも俺は、しばらくそこから動けなかった。

 やがて空が暗くなってきて、俺は一人で森を出た。

 ポケットの中には、あの日雫からもらった小さな葉っぱが入っていた。


夏休み最後の日。

 朝から空が高かった。

 蝉の声も、少しだけ弱くなった気がする。

 俺は朝ご飯を食べると、何も言わず家を出た。

 向かう場所は、決まっている。

 あの森。

 あの木。

 あの場所。

 いつもの道を歩く。

 草を踏む音。

 蝉の声。

 風の音。

 森の奥へ進んでいく。

 そして、あの木が見えた。

 誰もいない。

 今日も、雫はいなかった。

 俺は木の下に座った。

「……今日で夏休み終わりだな」

 もちろん返事はない。

 隣を見る。

 いつも雫が座っていた場所。

 そこだけ、少しだけ草が倒れている。

 俺はそこを見つめた。

「明日から学校だから、毎日は来られない」

 言いながら、自分でも変だと思った。

 誰もいないのに。

 それでも話しかけてしまう。

「でも、また来るから」

 風が吹いた。

 木の葉が揺れる。

「来年も来る」

 少し間を置いて、続ける。

「その次も」

 返事はない。

「……ずっと」

 俺はポケットから、あの葉っぱを取り出した。

 少し乾いて、前より脆くなっていた。

 それでも、捨てられなかった。

「これ、まだ持ってる」

 葉っぱを手のひらに乗せる。

「雫がくれたやつ」

 風が吹く。

 葉っぱが飛びそうになって、俺は慌てて握りしめた。

「……危な」

 思わず笑う。

 そして、ふと気づいた。

 俺は雫の顔を思い出していた。

 笑った顔。

 少し眠そうな顔。

 木漏れ日の中で目を閉じていた姿。

 夏祭りで花火を見上げていた横顔。

 全部、覚えている。

 忘れたくないと思った。

 いつか、この夏が遠い昔になっても。

 大人になっても。

 この場所に来られなくなっても。

 雫と過ごした時間だけは、忘れない。

「……じゃあな」

 俺は立ち上がった。

「また来年」

 森を出る。

 最後に一度だけ振り返った。

 あの木の下に、やさしい光が落ちていた。

 俺は小さく笑って、帰った。

 その年の夏は、それで終わった。

それから、夏が来るたびに。

 俺はあの森へ行った。

 高校三年生になっても。

 卒業しても。

 夏休みがなくなっても。

 時間を作って、あの木へ向かった。

 最初の頃は、雫が戻ってくると本気で思っていた。

 今年こそ。

 もしかしたら。

 そう思いながら、木の下で何時間も待った。

 でも、雫は来なかった。

 何年経っても。

 一度も。

 それでも、夏になるとあの場所へ行きたくなった。

 理由は、自分でもよく分からなかった。

 ある夏の日。

 俺は久しぶりに祖父母の家を訪れた。

 昔より家が小さく見えた。

 縁側に座って、麦茶を飲む。

 蝉の声が聞こえる。

「……懐かしいな」

 そう呟いて、俺は森へ向かった。

 あの頃より少し背が高くなった。

 歩く道も、木々の間から見える景色も変わっていない。

 森の奥へ進む。

 そして――

 あの木。

 何年経っても、そこにあった。

 俺は木の下に座った。

 背中を幹に預ける。

 目を閉じる。

 蝉の声。

 風の音。

 葉っぱの揺れる音。

 そして、あの夏の記憶。

「……雫」

 名前を呼ぶ。

 やっぱり返事はない。

 俺は少し笑った。

「まだ待ってるって言ったら、笑うかな」

 もちろん、誰も答えない。

 それでも、不思議と寂しくはなかった。

 ポケットから、小さな葉っぱを取り出す。

 あの日からずっと持っていた。

 もうすっかり形は変わってしまっている。

 それでも、捨てることはできなかった。

「俺、ちゃんと覚えてるよ」

 風が吹く。

 木漏れ日が揺れる。

 目を開ける。

 すると、ほんの一瞬だけ――

 白いものが視界の端を横切った気がした。

「……」

 俺は立ち上がった。

 けれど、そこには何もない。

 ただ、木々の間から風が吹き抜けているだけだった。

 俺は小さく息を吐いた。

「……気のせいか」

 そう言って、また木の下に座った。

 空を見上げる。

 雲の隙間から、夏の光が差し込んでいた。

 昔と同じだった。

 あの日と、何も変わらない。

 俺は目を閉じた。

 すると――

 ふわっと、懐かしい匂いがした。

 あの頃には分からなかった。

 でも今なら、分かる。

 土の匂い。

 草の匂い。

 陽に温められた木の匂い。

 蝉の声。

 風の音。

 全部が混ざったような、夏の匂い。

「……これだったんだ」

 思わず笑った。

 あの子が好きだと言っていたもの。

 俺にはずっと分からなかったもの。

 今になって、ようやく分かった。

「雫」

 名前を呼ぶ。

「……夏の匂い、したよ」

 返事はなかった。

 けれど、木の葉が一枚だけ、俺の肩に落ちてきた。

その日も、蝉が鳴いていた。

 俺はいつもの木の下に座っていた。

 何年経っても変わらない。

 葉っぱが風に揺れて、木漏れ日が地面に落ちている。

 目を閉じる。

 静かだった。

 すると――

「……翠くん」

 聞き覚えのある声がした。

 俺はゆっくり目を開けた。

「…………え」

 目の前に、女の子が立っていた。

 長い黒髪。

 白いワンピース。

 あの日と、何も変わらない姿。

「……雫?」

 雫は、あの頃と同じように笑った。

「久しぶり」

 声が出なかった。

 何年も待った。

 何度も、ここへ来た。

 もう会えないと思っていた。

 なのに――

 目の前にいる。

「……なんで」

「うん」

「なんで、今……」

 雫は少しだけ寂しそうに笑った。

「今日は、ちゃんと話したかったの」

「何を?」

 雫は俺の隣に座った。

 昔と同じように。

 俺も、隣に座る。

 しばらく二人とも何も言わなかった。

 やがて雫が、ぽつりと口を開いた。

「私ね」

「うん」

「ずっと、ここにいたわけじゃないんだ」

 俺は黙って雫を見る。

「この木が好きだったの」

「……うん」

「夏の匂いが好きだった」

「知ってる」

「だから、毎年夏になるとここに来てた」

 俺は少し笑った。

「……じゃあ、やっぱり来年も会えるって――」

 言いかけて、雫が首を横に振った。

「ごめんね」

 その一言で、胸がざわついた。

「……何?」

 雫は俯いた。

「私ね……」

 少しだけ間を置いて。

「翠くんと会ったときには、もうこの世の人じゃなかったんだよねー、」

 時間が止まったような気がした。

「……え?」

「だから、あの森で私を見た人は、翠くん以外にはいないと思う」

「……嘘だろ」

 雫は首を横に振った。

「嘘じゃないよ」

 俺は何も言えなかった。

 頭の中に、あの夏の記憶が一気に流れ込んでくる。

 誰も雫のことを知らなかった。

 どこに住んでいるのか聞いても、教えてくれなかった。

 学校も。

 家族も。

 全部、秘密だった。

 そして――

 夏休みが終わる前に、突然いなくなった。

「……じゃあ、なんで俺に会えたの?」

「分からない」

 雫は笑った。

「でも、夏になるとここにいられたの」

「……夏休みだけ?」

「うん」

 雫は木を見上げる。

「この木が、好きだったから」

 風が吹いた。

 黒い髪が揺れる。

「だから、夏が終わったら帰らなきゃいけなかったの」

「……俺、ずっと待ってた」

「うん」

「毎年、来た」

「知ってるよ」

「……知ってたの?」

「うん」

 雫は優しく笑った。

「ずっと見てた」

 俺は俯いた。

「……じゃあ、なんで会ってくれなかったんだよ」

「会えなかったの」

「どうして」

「翠くんが大きくなっていくのを見てたら、いつかちゃんとお別れしなきゃって思ったから」

 雫の声が、少し震えた。

「でも、怖かった」

「……」

「翠くんと会えなくなるのが」

 俺は雫を見る。

 雫は笑っていた。

 でも、泣きそうな顔だった。

「だから、ずっと言えなかった」

「……何を?」

「ありがとうって」

 風が吹いた。

 木漏れ日が揺れる。

「私ね、翠くんと会えてよかった」

「……俺も」

「夏が終わるのが嫌だった」

「……俺も」

「もっと一緒にいたかった」

「……俺も」

 雫は少し笑った。

「でもね、翠くん」

「ん?」

「もう、待たなくていいよ」

 その言葉が、一番苦しかった。

「……嫌だ」

「うん」

「待つよ」

「……うん」

「毎年ここに来る」

「うん」

 雫は笑った。

「でも、待たなくていいの」

 俺は何も言えなかった。

 雫は立ち上がった。

「翠くん」

「……なに」

「夏の匂い、分かった?」

 俺は涙をこらえながら笑った。

「……分かった」

「そっか」

 雫も笑った。

「よかった」

 その瞬間、風が吹いた。

 木の葉が舞い上がる。

 眩しくて、俺は目を細めた。

 そして――

 目を開けたとき。

 雫はいなかった。

 ただ、木漏れ日だけが残っていた。

 俺はしばらく、その場所を見つめていた。

 そして小さく呟いた。

「……またね、雫」

 返事はなかった。

 でも、その日は不思議なくらい――

夏の匂いがした。

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