夏の匂いがした。
夏休みが始まって、三日目。
今年も俺は、祖父母の家に来ていた。
毎年のことだから、特別楽しみなわけでもなかった。
朝から蝉がうるさく鳴いていて、縁側に座っているだけで汗がにじむ。
「暇だな……」
そう呟いて、俺は家を出た。
目的なんてなかった。
ただ、少し歩きたかった。
祖父母の家から少し離れた道を歩いていると、今まで見たことのない細い小道が目に入った。
「……こんな道、あったんだ」
草の間から続く道。
その先には、木々が重なっている。
なんとなく気になって、俺はその道を進んだ。
森の中は、外より少し涼しかった。
蝉の声が遠くなって、代わりに葉っぱの擦れる音が聞こえる。
しばらく歩いていると――
ふと、足が止まった。
「……なんだ、あれ」
曇っているはずなのに。
森の奥にある一本の木だけが、やさしく光っていた。
まるで、そこだけ夏の光が落ちてきているみたいだった。
俺はゆっくり近づいていく。
そして、その木の下に――
女の子がいた。
長い黒髪。
白いワンピース。
木にもたれて、目を閉じている。
風が吹くたびに、彼女の髪とワンピースの裾が、ふわりと揺れた。
なんだか、そのまま光の中に消えてしまいそうだった。
俺は少し迷ってから、声をかけた。
「……ねえ」
女の子のまつ毛が、かすかに動いた。
ゆっくりと目を開ける。
そして――
俺を見て、にこっと笑った。
「……夏の匂いがしたから」
「え?」
意味が分からなかった。
俺が首を傾げると、彼女は木の幹に背中を預けたまま、少しだけ笑った。
「ここに座ってるとね、夏の匂いがする気がするのー、」
俺はその言葉を聞きながら、彼女の隣に静かに座った。
しばらく、何も話さなかった。
木の葉の隙間から落ちてくる光を、ただ眺めていた。
やがて彼女が、ぽつりと言った。
「ねえ、名前は?」
俺は彼女を見る。
「……翠。ひすい」
「翠……」
彼女は俺の名前を口の中で転がすように呟いた。
「素敵だねー、」
そう言って笑う。
「そっちは?」
聞いてみた。
彼女は答えなかった。
ただ、少しだけ目を細めて――笑った。
俺も、それ以上は聞かなかった。
知らない女の子。
名前も知らない。
なのに、不思議と嫌じゃなかった。
しばらくして、俺は立ち上がった。
「……また来る」
自分でも、なんでそんなことを言ったのか分からなかった。
彼女は何も答えず、ただ目を瞑った。
森を出る直前。
背中から、柔らかな声が聞こえた。
「明日も晴れるといいねー、」
振り返る。
そこには、木漏れ日の中で目を閉じた彼女がいた。
俺は小さく笑って、森を後にした。
このときの俺は、まだ知らなかった。
この夏が、俺にとって一生忘れられない夏になることを。
次の日も、朝から蝉が鳴いていた。
目が覚めた瞬間、昨日のことを思い出した。
森。
木漏れ日。
白いワンピース。
そして、あの女の子。
名前は――知らない。
昨日、聞いたのに教えてくれなかった。
なのに、なぜか気になった。
「……なんなんだよ、あの子」
独り言を呟いて、布団の上で仰向けになる。
別に、会う約束をしたわけじゃない。
「また来る」と言っただけだ。
それなのに。
朝ご飯を食べている間も、縁側で麦茶を飲んでいる間も、ずっと昨日の女の子のことを考えていた。
「翠、今日は出かけるのかい?」
祖父に聞かれて、俺は少し考えた。
「……うん。ちょっと散歩」
「暑いから、あんまり遠くまで行くんじゃないよ」
「分かってる」
玄関を出る。
昨日と同じ道を歩く。
昨日と同じ蝉の声。
昨日と同じ暑さ。
でも、昨日とは少し違う気がした。
森へ続く小道を見つけたとき、俺の足は自然とそちらへ向いた。
草を踏みながら進んでいく。
森の中へ入ると、少しだけ空気が涼しくなった。
木々の間から差し込む光を眺めながら、昨日の場所へ向かう。
そして――
いた。
昨日と同じ木。
昨日と同じ場所。
そこに、あの子がいた。
木にもたれて、目を閉じている。
長い黒髪が風に揺れていた。
俺は、なぜか少し安心した。
「……いた」
思わず声に出ていた。
女の子が目を開ける。
俺を見ると、昨日と同じように笑った。
「また会えたね、」
「うん」
俺はそのまま隣に座った。
「……また会いに来た」
そう言うと、彼女は何も言わなかった。
ただ、目を閉じた。
昨日と同じように。
俺も黙って隣に座った。
しばらくして、彼女が口を開いた。
「今日は、昨日より暑いねー」
「そう?」
「うん」
「俺、あんまり分かんない」
「ふふ」
彼女が小さく笑った。
「翠くんって、変だねー」
「……初対面の人に言われたくない」
「昨日会ったよ?」
「そういう問題じゃないだろ」
彼女はまた笑った。
その笑い声が、森の中に溶けていく。
不思議な子だった。
話していることは普通なのに、どこか現実感がない。
風が吹く。
木の葉が揺れる。
光が揺れる。
そのたびに、彼女の姿まで揺れて見えた。
「ねえ」
「ん?」
「翠くんは、夏好き?」
突然聞かれた。
「……普通」
「そっかぁ」
「雫は?」
言ってから、しまったと思った。
「……あ」
彼女が笑う。
「雫って、誰?」
「いや……」
自分でも驚いた。
いつの間にか、頭の中で彼女を「雫」と呼んでいた。
もちろん、まだ名前は知らない。
「……なんとなく」
「ふふ。面白いねー」
「笑うなよ」
「ごめんごめん」
彼女は笑ったまま、空を見上げた。
「でも、夏は好きだよ」
「なんで?」
「夏の匂いがするから」
また、それだった。
「……夏の匂いって、そんなにいい?」
「うん」
「俺には普通の匂いにしか思えないけど」
「いつか分かるよ」
「いつ?」
彼女は答えなかった。
ただ、木漏れ日の向こうを見ていた。
その横顔が、妙に綺麗だった。
「……ねえ」
「なに?」
「名前、教えてよ」
今度こそ聞いてみた。
彼女は俺を見る。
少しだけ目を細めて――
また笑った。
「秘密」
「なんでだよ」
「秘密は、秘密だから」
「意味分かんない」
「ふふ」
また笑う。
俺は呆れてため息をついた。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
名前なんて知らなくてもいい。
そう思ってしまうくらいには、この時間が心地よかった。
その日も、夕方になるまで俺たちは一緒にいた。
くだらない話をした。
好きな食べ物。
好きな季節。
夏祭りの話。
好きな空の色。
でも、彼女は自分のことだけはほとんど話さなかった。
どこに住んでいるのか。
学校はどこなのか。
家族はいるのか。
聞いても、笑って誤魔化す。
それでも俺は、聞くのをやめた。
いつか話してくれる気がしたから。
森を出る前、彼女が言った。
「明日も来る?」
「……来る」
「そっかぁ」
彼女は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。
俺は森を出た。
振り返る。
木漏れ日の中にいる彼女が、小さく手を振っていた。
俺も手を振り返した。
それから、俺は毎日のように森へ行った。
朝、祖父母の家を出る。
蝉の声を聞きながら、昨日と同じ道を歩く。
森の入口に着く頃には、もう少しだけ足取りが軽くなっていた。
木々の間を抜ける。
葉っぱの隙間から、ちらちらと光が落ちている。
そして、あの木。
今日も雫はそこにいた。
「おはよー、翠くん」
「……おはよう」
いつからだっただろう。
雫がそこにいることを、当たり前だと思うようになったのは。
「今日は遅かったねー」
「別に。いつもと同じくらいだろ」
「そうかなぁ」
雫は笑った。
俺はいつものように、その隣に座る。
「今日、何してたの?」
「何もしてないよー」
「ずっとここにいたの?」
「うん」
「暇じゃない?」
「全然」
雫は木の葉を見上げる。
「ここにいると、いろんな音がするから」
「音?」
「うん。蝉の声とか、風の音とか」
雫が目を閉じる。
「葉っぱが揺れる音も好き」
俺も耳を澄ませてみる。
ミンミンと鳴く蝉。
遠くで鳴いている鳥。
風が木々の間を通り抜ける音。
「……確かに」
「でしょ?」
雫が嬉しそうに笑った。
「翠くん、昨日より夏の匂い分かる?」
「分かんない」
「まだまだだねー」
「なんだよ、それ」
雫は楽しそうに笑う。
俺もつられて笑った。
こんなふうに笑ったのは、久しぶりだった。
祖父母の家に来ると、いつも暇だった。
毎年同じ景色。
同じ道。
同じ蝉の声。
でも今年は違う。
森に来れば、雫がいる。
「ねえ、翠くん」
「ん?」
「夏休み、好き?」
「まあ……嫌いじゃない」
「じゃあ、終わってほしくない?」
その質問に、少しだけ考える。
「……まだ始まったばっかりだし」
「そっかぁ」
雫はそれ以上何も言わなかった。
俺は横目で雫を見る。
白いワンピース。
長い黒髪。
木漏れ日に照らされた横顔。
いつ見ても、少しだけ現実から離れているように見えた。
「雫」
「なに?」
「……やっぱり名前、教えてよ」
雫がこっちを見る。
そして、いつものように笑った。
「秘密ー」
「またそれ?」
「うん」
「じゃあ、俺が勝手に名前つけるから」
「いいよー」
「……じゃあ」
少し考える。
雫は黙って俺を見ている。
「……雫」
「雫?」
「うん。なんとなく」
雫は少しだけ目を丸くした。
それから――
ふわっと笑った。
「素敵な名前だねー」
「本名じゃないけどな」
「うん」
「……嫌じゃない?」
「全然」
雫はそう言って、また木にもたれた。
俺も隣に座り直す。
蝉の声が響いている。
夏の日差しが、葉っぱの隙間からこぼれている。
何も特別なことは起きない。
ただ、隣に雫がいる。
それだけだった。
それだけなのに。
その時間が、俺には少しだけ大切に思えた。
その日の夕方。
いつものように木の下で話していると、遠くから小さな音が聞こえてきた。
ドン。
少し遅れて、もう一度。
ドン、ドン。
「……花火?」
俺が空を見上げる。
森の木々に隠れていて、姿は見えない。
「今日、お祭りなんだって」
雫が言った。
「知ってたの?」
「うん」
「じゃあ行く?」
そう言うと、雫は少し驚いた顔をした。
「……私も?」
「他に誰がいるんだよ」
雫は少し黙って、それから笑った。
「行きたい」
俺たちは森を出た。
夕暮れの道を並んで歩く。
蝉の声はまだ聞こえていたけど、森の中より少しだけ遠く感じた。
町に近づくにつれて、人の声が増えていく。
屋台の明かり。
浴衣を着た人たち。
風に揺れる提灯。
夏祭りなんて毎年見ているはずなのに、今日は少し違って見えた。
「すごいねー」
雫が目を輝かせる。
「祭り、初めて?」
「ううん」
「じゃあ、なんでそんなに嬉しそうなの?」
「……今年は一緒に見る人がいるから」
雫はそう言って笑った。
俺は少しだけ黙った。
「……そっか」
それだけしか言えなかった。
屋台を見て回る。
りんご飴。
焼きそば。
かき氷。
「雫、何食べたい?」
「んー……」
雫はしばらく悩んで、かき氷を指差した。
「これ」
「意外」
「なんで?」
「もっと大人っぽいの選ぶかと思った」
「私、そんなに大人っぽい?」
「……まあ」
「ふふ」
かき氷を買って、二人で食べる。
雫は一口食べて、少し顔をしかめた。
「冷たい……」
「当たり前だろ」
「頭痛いー」
「食べるの早いからだよ」
雫が笑う。
その笑顔を見ていると、なぜか安心した。
しばらくして、空に大きな花火が上がった。
ドン、と響く音。
夜空いっぱいに広がる光。
「綺麗……」
雫が呟いた。
俺も空を見上げる。
「うん」
「翠くん」
「ん?」
「来年も、一緒に見られるかな」
俺は少し考えてから答えた。
「見られるだろ」
「……そっか」
雫は笑った。
花火が次々と夜空に咲いていく。
その横顔を見ながら、俺は思った。
来年も。
その次も。
こうやって一緒に夏を過ごせたらいい。
そんなことを、当たり前みたいに思っていた。
帰り道。
森へ続く小道の前で、雫が立ち止まった。
「今日は楽しかったねー」
「うん」
「また明日ね」
「ああ。また明日」
雫は手を振って、森の中へ歩いていった。
白いワンピースが暗い木々の間に消えていく。
俺はその姿を見送ってから、祖父母の家へ帰った。
夜の空気には、まだ少しだけ花火の煙の匂いが残っていた。
夏祭りの翌日。
俺はいつもより少し早く森へ向かった。
昨日の夜のことが、なんとなく頭に残っていた。
来年も一緒に花火を見られるかな。
雫が言った言葉。
俺は何も考えずに「見られるだろ」と答えた。
でも、朝になってからふと思った。
雫は、来年もここにいるんだろうか。
そんなことを考えながら歩いていると、いつもの木が見えてきた。
雫は、今日もそこにいた。
木にもたれて、空を見上げている。
「おはよ」
「おはよー、翠くん」
俺は隣に座った。
「昨日、楽しかった?」
「うん」
「花火、綺麗だったねー」
「雫、ずっと見てたもんな」
「だって好きなんだもん」
「花火が?」
「うん」
雫は笑った。
「夏も好き」
「それは知ってる」
「ふふ」
しばらく沈黙が続いた。
俺は昨日から気になっていたことを聞いてみた。
「雫ってさ」
「んー?」
「どこに住んでるの?」
雫の表情が、一瞬だけ止まった。
でもすぐに、いつもの笑顔に戻った。
「……近くだよー」
「どこ?」
「秘密」
「また?」
「うん」
「家族は?」
「秘密」
「学校は?」
「秘密」
「秘密多すぎない?」
雫は声を出して笑った。
「だって、秘密って楽しいでしょ?」
「俺は全然楽しくない」
「そう?」
「うん」
雫は少しだけ考えるように空を見た。
「じゃあ、ひとつだけ教えてあげる」
「何?」
「私はね――」
そこで、雫が黙った。
「……?」
俺が待っていると、雫はふっと笑った。
「やっぱり秘密」
「おい」
思わず笑ってしまった。
雫も笑った。
森の中に、二人の笑い声が響く。
そのあと、俺たちはくだらない話をした。
好きな食べ物。
苦手なもの。
子どもの頃のこと。
俺が話すたび、雫は楽しそうに聞いてくれた。
でも、俺が雫について聞くと、必ず笑って誤魔化す。
それが少し不思議だった。
それでも、無理に聞こうとは思わなかった。
いつか話してくれる。
そんな気がしていた。
帰る時間になって、俺が立ち上がる。
「また明日」
「うん」
雫が笑う。
「翠くん」
「ん?」
「明日も晴れるといいねー」
「……昨日も言ってたな、それ」
「そうだっけ?」
「言ってた」
「じゃあ、今日も言う」
雫は楽しそうに笑った。
「明日も晴れるといいねー」
「……うん」
俺も笑った。
森を出る。
帰り道、ふと振り返る。
木の下にいる雫は、まだこちらを見ていた。
俺が手を振ると、雫も小さく手を振り返した。
それから何日か経った。
俺は毎日、森へ行った。
朝起きて、朝ご飯を食べて、祖父母に「ちょっと出てくる」と言う。
そして、あの小道を歩く。
もう迷うことはなかった。
森の中に入ると、少しだけ空気が変わる。
蝉の声。
葉っぱの音。
土の匂い。
そして――夏の匂い。
最近になって、少しだけ分かるようになった気がする。
あの木の下には、今日も雫がいた。
「遅かったねー」
「別に。いつもと同じだろ」
「今日は五分遅いよ」
「……なんで分かるんだよ」
「分かるよー」
雫は笑った。
俺は隣に座る。
「今日は何してたの?」
「何も」
「また?」
「うん」
「毎日ここにいて飽きない?」
「飽きないよ」
「なんで?」
雫は少し考えてから、木の葉を見上げた。
「翠くんが来るから」
心臓が、一瞬だけ変な音を立てた気がした。
「……俺が?」
「うん」
「俺が来なかったら?」
「待つ」
「ずっと?」
「うん」
雫は当たり前みたいに言った。
「変なの」
「翠くんもねー」
「俺は普通」
「普通じゃないよ」
「どこが?」
「秘密」
「またそれかよ」
雫が笑う。
俺も笑った。
少しして、雫が木の根元に落ちていた小さな葉っぱを拾った。
「見て」
「何?」
「ハートみたい」
「……ほんとだ」
雫はその葉っぱを俺に渡した。
「あげる」
「いいの?」
「うん」
俺は葉っぱを受け取った。
ただの葉っぱ。
それなのに、捨てる気にはなれなかった。
「ありがとう」
「どういたしましてー」
風が吹いた。
雫の髪が揺れる。
白いワンピースの裾も揺れる。
俺はぼんやりと、その姿を見ていた。
「……何?」
「え?」
「ずっと見てる」
「……別に」
「ふふ」
雫が笑う。
俺は慌てて視線を逸らした。
なんだろう。
最近、雫のことを見てしまうことが増えた。
笑っている顔。
眠そうな顔。
空を見ている横顔。
どれも、気づけば目で追っている。
「翠くん」
「ん?」
「私ね」
「うん」
「ここが好き」
「森?」
「うん」
雫は木の幹に手を添えた。
「ここにいると、夏の匂いがするから」
「……それ、まだ分かんない」
「いつか分かるよー」
また同じ言葉。
でも今度は、少しだけ違って聞こえた。
「……じゃあ、分かるまでここに来る」
雫が俺を見る。
「毎日?」
「毎日」
雫は少し驚いた顔をして、それから――
いつものように、ふわっと笑った。
「そっかぁ」
その笑顔を見ていると、胸の奥が温かくなった。
蝉の声が、森いっぱいに響いていた。
俺は隣にいる雫を見ながら、もう一度だけ思った。
明日も、ここに来よう。
その日は、朝から少しだけ涼しかった。
蝉の声も、いつもより遠くに聞こえる。
俺は朝ご飯を食べ終えると、いつものように森へ向かった。
木の下には、まだ雫はいなかった。
「……あれ?」
いつもなら、俺より先にいる。
少しだけ不安になって、木の周りを見渡した。
すると――
「翠くーん」
「うわっ」
背後から声がした。
振り返る。
雫が立っていた。
「……びっくりした」
「ふふ、ごめん」
「どこにいたんだよ」
「ちょっと散歩してたの」
「この森を?」
「うん」
雫は何でもないように笑った。
俺は木の下に座る。
雫も隣に座った。
「ねえ、翠くん」
「ん?」
「宿題、終わった?」
「……」
「終わってないんだ」
「まだ夏休み始まってそんなに経ってないだろ」
「でも、宿題はあるよ?」
「分かってる」
「ふふ」
「笑うなよ」
俺は鞄から宿題を取り出した。
「じゃあ、今日はこれやる」
「ここで?」
「うん」
雫が少し嬉しそうな顔をした。
「じゃあ、私も隣にいる」
「雫は宿題ないの?」
「ないよ」
「ずるいな」
「そう?」
俺はノートを開いた。
蝉の声を聞きながら、問題を解いていく。
雫は隣で何もせずに、ただ木にもたれていた。
しばらくして――
「翠くん」
「なに?」
「これ、分かる?」
雫が俺のノートを覗き込む。
「……分かるよ」
「教えて」
「いいけど」
俺は問題を指差した。
「ここは――」
「うん」
「だから、ここをこうして……」
雫は真剣に聞いている。
「分かった?」
「うん」
「じゃあ解いてみて」
雫が紙に何かを書いた。
「できたー」
「……正解」
「やった」
雫が小さくガッツポーズをした。
「子どもみたい」
「翠くんより年上かもしれないよ?」
「え?」
「秘密」
「またそれかよ」
雫は笑った。
昼を過ぎる頃には、俺の宿題もかなり進んでいた。
ノートを閉じる。
「終わった」
「お疲れさまー」
「疲れた……」
「じゃあ寝れば?」
「ここで?」
「うん」
「……雫は?」
「いるよ」
俺は少し迷ってから、木にもたれた。
目を閉じる。
葉っぱが揺れる音がする。
蝉の声。
風の音。
隣にいる雫の気配。
なんだか、不思議なくらい落ち着いた。
「翠くん」
「ん……?」
「寝ちゃった?」
「……寝てない」
「ふふ」
その声を聞きながら、俺は目を閉じた。
どれくらい経ったのか分からない。
目を開ける。
雫が空を見上げていた。
「起きた?」
「……うん」
「よく寝てたねー」
「寝てないって」
「寝てたよ」
雫は笑った。
俺は空を見上げる。
朝より雲が少なくなっていた。
「晴れてきたな」
「うん」
「昨日、明日も晴れるといいって言ってたけど」
「晴れたねー」
「……そうだな」
雫は嬉しそうに笑った。
「よかった」
その一言が、なぜか心に残った。
帰る時間になった。
俺は立ち上がる。
「また明日」
「うん」
少し歩いてから、振り返る。
雫はいつもの木の下に座っていた。
木漏れ日の中で、静かに笑っている。
俺も手を振った。
その日は家に帰ってからも、なぜか眠る前まで雫のことを考えていた。
翌日。
森へ向かう途中、俺は昨日のことを考えていた。
雫は、俺のことを少しずつ知っていく。
好きな食べ物。
好きな音楽。
小さい頃の話。
くだらないことまで、たくさん話した。
でも――
俺は雫のことを、ほとんど知らない。
名前すら知らない。
どこに住んでいるのかも。
学校も。
家族も。
何も知らない。
なのに、毎日会っている。
「……変なの」
小さく呟いて、森へ入った。
いつもの木。
今日は雫が先に来ていた。
「おはよー」
「おはよう」
俺は隣に座った。
「今日、なんか考え事してる?」
雫が俺の顔を覗き込む。
「……雫のこと」
「私?」
「うん」
「どうして?」
「だって俺、雫のこと何も知らないから」
雫は少し黙った。
「知りたい?」
「……うん」
素直に答えると、雫は笑った。
「じゃあ、ひとつだけ」
「何?」
「私、夏が好き」
「それはもう知ってる」
「じゃあ……」
雫は少し考える。
「甘いものが好き」
「それも知ってる」
「えー」
「前にかき氷食べてたじゃん」
「あれは夏だから食べたの」
「じゃあ普段は?」
「秘密」
「……」
俺は呆れて雫を見る。
雫は楽しそうに笑っている。
「もういい」
「怒った?」
「怒ってない」
「よかったー」
雫は木の葉を一枚拾った。
「翠くん」
「ん?」
「人ってね、知らないことがあるほうが、楽しいこともあるんだよ」
「そうかな」
「うん」
雫は葉っぱを指先でくるくる回した。
「全部知っちゃったら、もう知りたいって思わなくなるでしょ?」
「……それは、そうかも」
「だから、少しずつでいいの」
俺は雫を見る。
その横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「じゃあ、少しずつ教えてよ」
「うん」
「約束な」
「約束」
雫は小指を差し出した。
「……子どもかよ」
「いいから」
俺は小指を絡めた。
「約束」
雫が笑う。
その瞬間、風が吹いた。
木の葉が一斉に揺れて、光が二人の間にこぼれた。
「ねえ、翠くん」
「ん?」
「もし、夏が終わったら――」
雫が言葉を止めた。
「……何?」
「ううん。なんでもない」
また、笑って誤魔化した。
「気になるだろ」
「ふふ」
雫は答えない。
俺も、それ以上は聞かなかった。
ただ、絡めた小指だけが、いつまでも離れなかった。
その日の帰り道。
俺はふと、ポケットの中を探った。
昨日もらった、ハートみたいな葉っぱ。
まだ捨てずに持っていた。
それを見ながら、なんとなく思った。
もっと雫のことを知りたい。
もっと、ここにいたい。
そんな気持ちが、少しずつ大きくなっていた。
翌日。
森へ向かう途中、俺は昨日のことを考えていた。
雫は、俺のことを少しずつ知っていく。
好きな食べ物。
好きな音楽。
小さい頃の話。
くだらないことまで、たくさん話した。
でも――
俺は雫のことを、ほとんど知らない。
名前すら知らない。
どこに住んでいるのかも。
学校も。
家族も。
何も知らない。
なのに、毎日会っている。
「……変なの」
小さく呟いて、森へ入った。
いつもの木。
今日は雫が先に来ていた。
「おはよー」
「おはよう」
俺は隣に座った。
「今日、なんか考え事してる?」
雫が俺の顔を覗き込む。
「……雫のこと」
「私?」
「うん」
「どうして?」
「だって俺、雫のこと何も知らないから」
雫は少し黙った。
「知りたい?」
「……うん」
素直に答えると、雫は笑った。
「じゃあ、ひとつだけ」
「何?」
「私、夏が好き」
「それはもう知ってる」
「じゃあ……」
雫は少し考える。
「甘いものが好き」
「それも知ってる」
「えー」
「前にかき氷食べてたじゃん」
「あれは夏だから食べたの」
「じゃあ普段は?」
「秘密」
「……」
俺は呆れて雫を見る。
雫は楽しそうに笑っている。
「もういい」
「怒った?」
「怒ってない」
「よかったー」
雫は木の葉を一枚拾った。
「翠くん」
「ん?」
「人ってね、知らないことがあるほうが、楽しいこともあるんだよ」
「そうかな」
「うん」
雫は葉っぱを指先でくるくる回した。
「全部知っちゃったら、もう知りたいって思わなくなるでしょ?」
「……それは、そうかも」
「だから、少しずつでいいの」
俺は雫を見る。
その横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「じゃあ、少しずつ教えてよ」
「うん」
「約束な」
「約束」
雫は小指を差し出した。
「……子どもかよ」
「いいから」
俺は小指を絡めた。
「約束」
雫が笑う。
その瞬間、風が吹いた。
木の葉が一斉に揺れて、光が二人の間にこぼれた。
「ねえ、翠くん」
「ん?」
「もし、夏が終わったら――」
雫が言葉を止めた。
「……何?」
「ううん。なんでもない」
また、笑って誤魔化した。
「気になるだろ」
「ふふ」
雫は答えない。
俺も、それ以上は聞かなかった。
ただ、絡めた小指だけが、いつまでも離れなかった。
その日の帰り道。
俺はふと、ポケットの中を探った。
昨日もらった、ハートみたいな葉っぱ。
まだ捨てずに持っていた。
それを見ながら、なんとなく思った。
もっと雫のことを知りたい。
もっと、ここにいたい。
そんな気持ちが、少しずつ大きくなっていた。
森へ着くと、雫はいつもの木の下にいた。
でも、今日は少しだけ様子が違った。
いつもなら俺が近づくと笑うのに、今日は空を見上げたまま黙っている。
「……雫?」
「ん?」
雫が振り向く。
「どうした?」
「なんでもないよー」
いつもの笑顔。
でも、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
「今日は何する?」
「んー……」
雫は少し考えた。
「今日は、ここにいたい」
「いつもここにいるじゃん」
「うん。でも今日は、ずっと」
俺は隣に座った。
何も話さず、木にもたれる。
風が吹く。
蝉が鳴く。
葉っぱが揺れる。
いつもと同じ音。
なのに、今日は少し違って聞こえた。
「ねえ、翠くん」
「ん?」
「夏休み、あとどれくらい?」
「……二週間くらい」
「そっか」
雫が小さく呟く。
「すぐだね」
「何が?」
「夏休みが終わるの」
「まだ二週間もあるだろ」
「二週間しかないよ」
「……そうか?」
「うん」
雫は笑った。
その笑顔が、いつもより少しだけ寂しかった。
「夏休みが終わったら、どうする?」
「学校行く」
「そうじゃなくて」
「じゃあ何?」
「……来年もここに来る?」
俺は少し驚いた。
「来るよ」
「絶対?」
「絶対」
「約束?」
「約束」
雫が小指を差し出す。
俺も小指を絡める。
「来年も、ここで会おうね」
「ああ」
「再来年も?」
「うん」
「その次も?」
「……何年分約束する気だよ」
雫が笑った。
「ずっと」
「じゃあ、ずっと」
指を絡めたまま、二人で笑った。
しばらくして、雫がぽつりと言った。
「……ありがとう」
「何が?」
「ううん」
雫は首を振る。
「なんでもない」
「またそれ?」
「ふふ」
夕方。
森を出る前、雫が俺を呼び止めた。
「翠くん」
「ん?」
「明日も来てね」
「もちろん」
「絶対だよ」
「分かってるって」
雫は安心したように笑った。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
俺は森を出た。
帰り道、空を見上げる。
夕焼けが広がっていた。
夏休みは、まだ終わっていない。
だから俺は、明日もまた雫に会えると思っていた。
次の日。
朝から雨が降っていた。
窓を打つ雨音を聞きながら、俺は外を眺めていた。
「……雨か」
昨日、雫は言った。
明日も来てね。
絶対だよ。
俺は時計を見る。
雨はまだ止みそうにない。
「……行くか」
傘を持って、家を出た。
森へ続く道は、昨日までとは全然違っていた。
土は濡れている。
葉っぱには雨粒が残っている。
蝉の声も、今日は聞こえない。
森の中へ入る。
足元に気をつけながら、いつもの木へ向かった。
木の下に着く。
「……雫?」
誰もいなかった。
いつもなら、そこにいる。
木にもたれて、目を閉じている。
でも今日は――いない。
俺は木の下に立ったまま、しばらく待った。
五分。
十分。
三十分。
雨は弱くなってきた。
それでも、雫は来なかった。
「……今日は、来ないのかな」
そう呟いて、俺は家に帰った。
次の日。
雫はいなかった。
その次の日も。
いなかった。
三日目。
四日目。
五日目。
毎日、俺は森へ行った。
いつもの木の下で待った。
でも、雫は来なかった。
「……なんで」
木にもたれて座る。
昨日まで、ここにいた。
笑っていた。
くだらない話をしていた。
来年も会おうって約束した。
なのに。
突然、いなくなった。
「……雫」
名前を呼んでも、返事はない。
森の中には蝉の声だけが響いていた。
夏休みは、残り少なくなっていた。
カレンダーを見る。
あと一週間。
あと六日。
あと五日。
時間だけが過ぎていく。
俺は毎日、あの木へ行った。
もしかしたら今日こそいるかもしれない。
そう思って。
でも、いない。
ある日の夕方。
いつもの木の下で、俺は一人で座っていた。
風が吹く。
葉っぱが揺れる。
木漏れ日が地面に落ちる。
俺は目を閉じた。
あの日と同じように。
すると――
ふわっと、夏の匂いがした。
俺は目を開ける。
「……雫?」
もちろん、そこには誰もいなかった。
ただ、木の葉が風に揺れているだけだった。
雫が来なくなって、一週間が経った。
俺は今日も森へ向かった。
いつもの木。
いつもの場所。
でも、そこに雫はいない。
「……雫」
名前を呼ぶ。
返事はない。
蝉の声だけが、森の中に響いていた。
俺は立ち上がった。
今日は、いつもの場所で待つだけじゃなくて、森の中を探してみることにした。
雫がよく歩いていた道。
小さな川。
少し開けた場所。
昨日まで知らなかった場所まで、全部歩いた。
「雫ー!」
呼んでも、返事はない。
それでも歩き続けた。
森を抜けて、近くの集落まで行った。
道を歩いていたおばあさんを見つけて、声をかける。
「あの……この辺に、女の子って住んでますか?」
「女の子?」
「黒い長い髪で、白いワンピースを着てて……」
おばあさんは少し考える。
「うーん……見たことないねぇ」
「そうですか……」
その日は、それだけだった。
次の日も、その次の日も探した。
近所の人に聞いた。
森の中を歩いた。
雫がいそうな場所を探した。
でも、何も見つからない。
ある日の夕方。
俺はまた、あの木の下に戻ってきた。
疲れて、その場に座り込む。
「……どこにいるんだよ」
返事はない。
「約束したじゃん」
小指を絡めた日のことを思い出す。
来年も。
再来年も。
その次も。
ずっと。
「……嘘つき」
自分で言っておいて、胸が苦しくなった。
雫が嘘をついたなんて、思っていない。
ただ、もう一度会いたかった。
もう一度だけでいい。
いつものように笑って、
「また会えたね」
って言ってほしかった。
夕日が木々の隙間から差し込む。
地面に落ちた光が、ゆっくりと薄くなっていく。
俺は立ち上がった。
帰ろうとした、そのとき。
風が吹いた。
木の葉が一斉に揺れる。
ふわりと、あの匂いがした。
夏の匂い。
俺は振り返った。
「……雫?」
誰もいない。
それでも俺は、しばらくそこから動けなかった。
やがて空が暗くなってきて、俺は一人で森を出た。
ポケットの中には、あの日雫からもらった小さな葉っぱが入っていた。
夏休み最後の日。
朝から空が高かった。
蝉の声も、少しだけ弱くなった気がする。
俺は朝ご飯を食べると、何も言わず家を出た。
向かう場所は、決まっている。
あの森。
あの木。
あの場所。
いつもの道を歩く。
草を踏む音。
蝉の声。
風の音。
森の奥へ進んでいく。
そして、あの木が見えた。
誰もいない。
今日も、雫はいなかった。
俺は木の下に座った。
「……今日で夏休み終わりだな」
もちろん返事はない。
隣を見る。
いつも雫が座っていた場所。
そこだけ、少しだけ草が倒れている。
俺はそこを見つめた。
「明日から学校だから、毎日は来られない」
言いながら、自分でも変だと思った。
誰もいないのに。
それでも話しかけてしまう。
「でも、また来るから」
風が吹いた。
木の葉が揺れる。
「来年も来る」
少し間を置いて、続ける。
「その次も」
返事はない。
「……ずっと」
俺はポケットから、あの葉っぱを取り出した。
少し乾いて、前より脆くなっていた。
それでも、捨てられなかった。
「これ、まだ持ってる」
葉っぱを手のひらに乗せる。
「雫がくれたやつ」
風が吹く。
葉っぱが飛びそうになって、俺は慌てて握りしめた。
「……危な」
思わず笑う。
そして、ふと気づいた。
俺は雫の顔を思い出していた。
笑った顔。
少し眠そうな顔。
木漏れ日の中で目を閉じていた姿。
夏祭りで花火を見上げていた横顔。
全部、覚えている。
忘れたくないと思った。
いつか、この夏が遠い昔になっても。
大人になっても。
この場所に来られなくなっても。
雫と過ごした時間だけは、忘れない。
「……じゃあな」
俺は立ち上がった。
「また来年」
森を出る。
最後に一度だけ振り返った。
あの木の下に、やさしい光が落ちていた。
俺は小さく笑って、帰った。
その年の夏は、それで終わった。
それから、夏が来るたびに。
俺はあの森へ行った。
高校三年生になっても。
卒業しても。
夏休みがなくなっても。
時間を作って、あの木へ向かった。
最初の頃は、雫が戻ってくると本気で思っていた。
今年こそ。
もしかしたら。
そう思いながら、木の下で何時間も待った。
でも、雫は来なかった。
何年経っても。
一度も。
それでも、夏になるとあの場所へ行きたくなった。
理由は、自分でもよく分からなかった。
ある夏の日。
俺は久しぶりに祖父母の家を訪れた。
昔より家が小さく見えた。
縁側に座って、麦茶を飲む。
蝉の声が聞こえる。
「……懐かしいな」
そう呟いて、俺は森へ向かった。
あの頃より少し背が高くなった。
歩く道も、木々の間から見える景色も変わっていない。
森の奥へ進む。
そして――
あの木。
何年経っても、そこにあった。
俺は木の下に座った。
背中を幹に預ける。
目を閉じる。
蝉の声。
風の音。
葉っぱの揺れる音。
そして、あの夏の記憶。
「……雫」
名前を呼ぶ。
やっぱり返事はない。
俺は少し笑った。
「まだ待ってるって言ったら、笑うかな」
もちろん、誰も答えない。
それでも、不思議と寂しくはなかった。
ポケットから、小さな葉っぱを取り出す。
あの日からずっと持っていた。
もうすっかり形は変わってしまっている。
それでも、捨てることはできなかった。
「俺、ちゃんと覚えてるよ」
風が吹く。
木漏れ日が揺れる。
目を開ける。
すると、ほんの一瞬だけ――
白いものが視界の端を横切った気がした。
「……」
俺は立ち上がった。
けれど、そこには何もない。
ただ、木々の間から風が吹き抜けているだけだった。
俺は小さく息を吐いた。
「……気のせいか」
そう言って、また木の下に座った。
空を見上げる。
雲の隙間から、夏の光が差し込んでいた。
昔と同じだった。
あの日と、何も変わらない。
俺は目を閉じた。
すると――
ふわっと、懐かしい匂いがした。
あの頃には分からなかった。
でも今なら、分かる。
土の匂い。
草の匂い。
陽に温められた木の匂い。
蝉の声。
風の音。
全部が混ざったような、夏の匂い。
「……これだったんだ」
思わず笑った。
あの子が好きだと言っていたもの。
俺にはずっと分からなかったもの。
今になって、ようやく分かった。
「雫」
名前を呼ぶ。
「……夏の匂い、したよ」
返事はなかった。
けれど、木の葉が一枚だけ、俺の肩に落ちてきた。
その日も、蝉が鳴いていた。
俺はいつもの木の下に座っていた。
何年経っても変わらない。
葉っぱが風に揺れて、木漏れ日が地面に落ちている。
目を閉じる。
静かだった。
すると――
「……翠くん」
聞き覚えのある声がした。
俺はゆっくり目を開けた。
「…………え」
目の前に、女の子が立っていた。
長い黒髪。
白いワンピース。
あの日と、何も変わらない姿。
「……雫?」
雫は、あの頃と同じように笑った。
「久しぶり」
声が出なかった。
何年も待った。
何度も、ここへ来た。
もう会えないと思っていた。
なのに――
目の前にいる。
「……なんで」
「うん」
「なんで、今……」
雫は少しだけ寂しそうに笑った。
「今日は、ちゃんと話したかったの」
「何を?」
雫は俺の隣に座った。
昔と同じように。
俺も、隣に座る。
しばらく二人とも何も言わなかった。
やがて雫が、ぽつりと口を開いた。
「私ね」
「うん」
「ずっと、ここにいたわけじゃないんだ」
俺は黙って雫を見る。
「この木が好きだったの」
「……うん」
「夏の匂いが好きだった」
「知ってる」
「だから、毎年夏になるとここに来てた」
俺は少し笑った。
「……じゃあ、やっぱり来年も会えるって――」
言いかけて、雫が首を横に振った。
「ごめんね」
その一言で、胸がざわついた。
「……何?」
雫は俯いた。
「私ね……」
少しだけ間を置いて。
「翠くんと会ったときには、もうこの世の人じゃなかったんだよねー、」
時間が止まったような気がした。
「……え?」
「だから、あの森で私を見た人は、翠くん以外にはいないと思う」
「……嘘だろ」
雫は首を横に振った。
「嘘じゃないよ」
俺は何も言えなかった。
頭の中に、あの夏の記憶が一気に流れ込んでくる。
誰も雫のことを知らなかった。
どこに住んでいるのか聞いても、教えてくれなかった。
学校も。
家族も。
全部、秘密だった。
そして――
夏休みが終わる前に、突然いなくなった。
「……じゃあ、なんで俺に会えたの?」
「分からない」
雫は笑った。
「でも、夏になるとここにいられたの」
「……夏休みだけ?」
「うん」
雫は木を見上げる。
「この木が、好きだったから」
風が吹いた。
黒い髪が揺れる。
「だから、夏が終わったら帰らなきゃいけなかったの」
「……俺、ずっと待ってた」
「うん」
「毎年、来た」
「知ってるよ」
「……知ってたの?」
「うん」
雫は優しく笑った。
「ずっと見てた」
俺は俯いた。
「……じゃあ、なんで会ってくれなかったんだよ」
「会えなかったの」
「どうして」
「翠くんが大きくなっていくのを見てたら、いつかちゃんとお別れしなきゃって思ったから」
雫の声が、少し震えた。
「でも、怖かった」
「……」
「翠くんと会えなくなるのが」
俺は雫を見る。
雫は笑っていた。
でも、泣きそうな顔だった。
「だから、ずっと言えなかった」
「……何を?」
「ありがとうって」
風が吹いた。
木漏れ日が揺れる。
「私ね、翠くんと会えてよかった」
「……俺も」
「夏が終わるのが嫌だった」
「……俺も」
「もっと一緒にいたかった」
「……俺も」
雫は少し笑った。
「でもね、翠くん」
「ん?」
「もう、待たなくていいよ」
その言葉が、一番苦しかった。
「……嫌だ」
「うん」
「待つよ」
「……うん」
「毎年ここに来る」
「うん」
雫は笑った。
「でも、待たなくていいの」
俺は何も言えなかった。
雫は立ち上がった。
「翠くん」
「……なに」
「夏の匂い、分かった?」
俺は涙をこらえながら笑った。
「……分かった」
「そっか」
雫も笑った。
「よかった」
その瞬間、風が吹いた。
木の葉が舞い上がる。
眩しくて、俺は目を細めた。
そして――
目を開けたとき。
雫はいなかった。
ただ、木漏れ日だけが残っていた。
俺はしばらく、その場所を見つめていた。
そして小さく呟いた。
「……またね、雫」
返事はなかった。
でも、その日は不思議なくらい――
夏の匂いがした。
今年も俺は、祖父母の家に来ていた。
毎年のことだから、特別楽しみなわけでもなかった。
朝から蝉がうるさく鳴いていて、縁側に座っているだけで汗がにじむ。
「暇だな……」
そう呟いて、俺は家を出た。
目的なんてなかった。
ただ、少し歩きたかった。
祖父母の家から少し離れた道を歩いていると、今まで見たことのない細い小道が目に入った。
「……こんな道、あったんだ」
草の間から続く道。
その先には、木々が重なっている。
なんとなく気になって、俺はその道を進んだ。
森の中は、外より少し涼しかった。
蝉の声が遠くなって、代わりに葉っぱの擦れる音が聞こえる。
しばらく歩いていると――
ふと、足が止まった。
「……なんだ、あれ」
曇っているはずなのに。
森の奥にある一本の木だけが、やさしく光っていた。
まるで、そこだけ夏の光が落ちてきているみたいだった。
俺はゆっくり近づいていく。
そして、その木の下に――
女の子がいた。
長い黒髪。
白いワンピース。
木にもたれて、目を閉じている。
風が吹くたびに、彼女の髪とワンピースの裾が、ふわりと揺れた。
なんだか、そのまま光の中に消えてしまいそうだった。
俺は少し迷ってから、声をかけた。
「……ねえ」
女の子のまつ毛が、かすかに動いた。
ゆっくりと目を開ける。
そして――
俺を見て、にこっと笑った。
「……夏の匂いがしたから」
「え?」
意味が分からなかった。
俺が首を傾げると、彼女は木の幹に背中を預けたまま、少しだけ笑った。
「ここに座ってるとね、夏の匂いがする気がするのー、」
俺はその言葉を聞きながら、彼女の隣に静かに座った。
しばらく、何も話さなかった。
木の葉の隙間から落ちてくる光を、ただ眺めていた。
やがて彼女が、ぽつりと言った。
「ねえ、名前は?」
俺は彼女を見る。
「……翠。ひすい」
「翠……」
彼女は俺の名前を口の中で転がすように呟いた。
「素敵だねー、」
そう言って笑う。
「そっちは?」
聞いてみた。
彼女は答えなかった。
ただ、少しだけ目を細めて――笑った。
俺も、それ以上は聞かなかった。
知らない女の子。
名前も知らない。
なのに、不思議と嫌じゃなかった。
しばらくして、俺は立ち上がった。
「……また来る」
自分でも、なんでそんなことを言ったのか分からなかった。
彼女は何も答えず、ただ目を瞑った。
森を出る直前。
背中から、柔らかな声が聞こえた。
「明日も晴れるといいねー、」
振り返る。
そこには、木漏れ日の中で目を閉じた彼女がいた。
俺は小さく笑って、森を後にした。
このときの俺は、まだ知らなかった。
この夏が、俺にとって一生忘れられない夏になることを。
次の日も、朝から蝉が鳴いていた。
目が覚めた瞬間、昨日のことを思い出した。
森。
木漏れ日。
白いワンピース。
そして、あの女の子。
名前は――知らない。
昨日、聞いたのに教えてくれなかった。
なのに、なぜか気になった。
「……なんなんだよ、あの子」
独り言を呟いて、布団の上で仰向けになる。
別に、会う約束をしたわけじゃない。
「また来る」と言っただけだ。
それなのに。
朝ご飯を食べている間も、縁側で麦茶を飲んでいる間も、ずっと昨日の女の子のことを考えていた。
「翠、今日は出かけるのかい?」
祖父に聞かれて、俺は少し考えた。
「……うん。ちょっと散歩」
「暑いから、あんまり遠くまで行くんじゃないよ」
「分かってる」
玄関を出る。
昨日と同じ道を歩く。
昨日と同じ蝉の声。
昨日と同じ暑さ。
でも、昨日とは少し違う気がした。
森へ続く小道を見つけたとき、俺の足は自然とそちらへ向いた。
草を踏みながら進んでいく。
森の中へ入ると、少しだけ空気が涼しくなった。
木々の間から差し込む光を眺めながら、昨日の場所へ向かう。
そして――
いた。
昨日と同じ木。
昨日と同じ場所。
そこに、あの子がいた。
木にもたれて、目を閉じている。
長い黒髪が風に揺れていた。
俺は、なぜか少し安心した。
「……いた」
思わず声に出ていた。
女の子が目を開ける。
俺を見ると、昨日と同じように笑った。
「また会えたね、」
「うん」
俺はそのまま隣に座った。
「……また会いに来た」
そう言うと、彼女は何も言わなかった。
ただ、目を閉じた。
昨日と同じように。
俺も黙って隣に座った。
しばらくして、彼女が口を開いた。
「今日は、昨日より暑いねー」
「そう?」
「うん」
「俺、あんまり分かんない」
「ふふ」
彼女が小さく笑った。
「翠くんって、変だねー」
「……初対面の人に言われたくない」
「昨日会ったよ?」
「そういう問題じゃないだろ」
彼女はまた笑った。
その笑い声が、森の中に溶けていく。
不思議な子だった。
話していることは普通なのに、どこか現実感がない。
風が吹く。
木の葉が揺れる。
光が揺れる。
そのたびに、彼女の姿まで揺れて見えた。
「ねえ」
「ん?」
「翠くんは、夏好き?」
突然聞かれた。
「……普通」
「そっかぁ」
「雫は?」
言ってから、しまったと思った。
「……あ」
彼女が笑う。
「雫って、誰?」
「いや……」
自分でも驚いた。
いつの間にか、頭の中で彼女を「雫」と呼んでいた。
もちろん、まだ名前は知らない。
「……なんとなく」
「ふふ。面白いねー」
「笑うなよ」
「ごめんごめん」
彼女は笑ったまま、空を見上げた。
「でも、夏は好きだよ」
「なんで?」
「夏の匂いがするから」
また、それだった。
「……夏の匂いって、そんなにいい?」
「うん」
「俺には普通の匂いにしか思えないけど」
「いつか分かるよ」
「いつ?」
彼女は答えなかった。
ただ、木漏れ日の向こうを見ていた。
その横顔が、妙に綺麗だった。
「……ねえ」
「なに?」
「名前、教えてよ」
今度こそ聞いてみた。
彼女は俺を見る。
少しだけ目を細めて――
また笑った。
「秘密」
「なんでだよ」
「秘密は、秘密だから」
「意味分かんない」
「ふふ」
また笑う。
俺は呆れてため息をついた。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
名前なんて知らなくてもいい。
そう思ってしまうくらいには、この時間が心地よかった。
その日も、夕方になるまで俺たちは一緒にいた。
くだらない話をした。
好きな食べ物。
好きな季節。
夏祭りの話。
好きな空の色。
でも、彼女は自分のことだけはほとんど話さなかった。
どこに住んでいるのか。
学校はどこなのか。
家族はいるのか。
聞いても、笑って誤魔化す。
それでも俺は、聞くのをやめた。
いつか話してくれる気がしたから。
森を出る前、彼女が言った。
「明日も来る?」
「……来る」
「そっかぁ」
彼女は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。
俺は森を出た。
振り返る。
木漏れ日の中にいる彼女が、小さく手を振っていた。
俺も手を振り返した。
それから、俺は毎日のように森へ行った。
朝、祖父母の家を出る。
蝉の声を聞きながら、昨日と同じ道を歩く。
森の入口に着く頃には、もう少しだけ足取りが軽くなっていた。
木々の間を抜ける。
葉っぱの隙間から、ちらちらと光が落ちている。
そして、あの木。
今日も雫はそこにいた。
「おはよー、翠くん」
「……おはよう」
いつからだっただろう。
雫がそこにいることを、当たり前だと思うようになったのは。
「今日は遅かったねー」
「別に。いつもと同じくらいだろ」
「そうかなぁ」
雫は笑った。
俺はいつものように、その隣に座る。
「今日、何してたの?」
「何もしてないよー」
「ずっとここにいたの?」
「うん」
「暇じゃない?」
「全然」
雫は木の葉を見上げる。
「ここにいると、いろんな音がするから」
「音?」
「うん。蝉の声とか、風の音とか」
雫が目を閉じる。
「葉っぱが揺れる音も好き」
俺も耳を澄ませてみる。
ミンミンと鳴く蝉。
遠くで鳴いている鳥。
風が木々の間を通り抜ける音。
「……確かに」
「でしょ?」
雫が嬉しそうに笑った。
「翠くん、昨日より夏の匂い分かる?」
「分かんない」
「まだまだだねー」
「なんだよ、それ」
雫は楽しそうに笑う。
俺もつられて笑った。
こんなふうに笑ったのは、久しぶりだった。
祖父母の家に来ると、いつも暇だった。
毎年同じ景色。
同じ道。
同じ蝉の声。
でも今年は違う。
森に来れば、雫がいる。
「ねえ、翠くん」
「ん?」
「夏休み、好き?」
「まあ……嫌いじゃない」
「じゃあ、終わってほしくない?」
その質問に、少しだけ考える。
「……まだ始まったばっかりだし」
「そっかぁ」
雫はそれ以上何も言わなかった。
俺は横目で雫を見る。
白いワンピース。
長い黒髪。
木漏れ日に照らされた横顔。
いつ見ても、少しだけ現実から離れているように見えた。
「雫」
「なに?」
「……やっぱり名前、教えてよ」
雫がこっちを見る。
そして、いつものように笑った。
「秘密ー」
「またそれ?」
「うん」
「じゃあ、俺が勝手に名前つけるから」
「いいよー」
「……じゃあ」
少し考える。
雫は黙って俺を見ている。
「……雫」
「雫?」
「うん。なんとなく」
雫は少しだけ目を丸くした。
それから――
ふわっと笑った。
「素敵な名前だねー」
「本名じゃないけどな」
「うん」
「……嫌じゃない?」
「全然」
雫はそう言って、また木にもたれた。
俺も隣に座り直す。
蝉の声が響いている。
夏の日差しが、葉っぱの隙間からこぼれている。
何も特別なことは起きない。
ただ、隣に雫がいる。
それだけだった。
それだけなのに。
その時間が、俺には少しだけ大切に思えた。
その日の夕方。
いつものように木の下で話していると、遠くから小さな音が聞こえてきた。
ドン。
少し遅れて、もう一度。
ドン、ドン。
「……花火?」
俺が空を見上げる。
森の木々に隠れていて、姿は見えない。
「今日、お祭りなんだって」
雫が言った。
「知ってたの?」
「うん」
「じゃあ行く?」
そう言うと、雫は少し驚いた顔をした。
「……私も?」
「他に誰がいるんだよ」
雫は少し黙って、それから笑った。
「行きたい」
俺たちは森を出た。
夕暮れの道を並んで歩く。
蝉の声はまだ聞こえていたけど、森の中より少しだけ遠く感じた。
町に近づくにつれて、人の声が増えていく。
屋台の明かり。
浴衣を着た人たち。
風に揺れる提灯。
夏祭りなんて毎年見ているはずなのに、今日は少し違って見えた。
「すごいねー」
雫が目を輝かせる。
「祭り、初めて?」
「ううん」
「じゃあ、なんでそんなに嬉しそうなの?」
「……今年は一緒に見る人がいるから」
雫はそう言って笑った。
俺は少しだけ黙った。
「……そっか」
それだけしか言えなかった。
屋台を見て回る。
りんご飴。
焼きそば。
かき氷。
「雫、何食べたい?」
「んー……」
雫はしばらく悩んで、かき氷を指差した。
「これ」
「意外」
「なんで?」
「もっと大人っぽいの選ぶかと思った」
「私、そんなに大人っぽい?」
「……まあ」
「ふふ」
かき氷を買って、二人で食べる。
雫は一口食べて、少し顔をしかめた。
「冷たい……」
「当たり前だろ」
「頭痛いー」
「食べるの早いからだよ」
雫が笑う。
その笑顔を見ていると、なぜか安心した。
しばらくして、空に大きな花火が上がった。
ドン、と響く音。
夜空いっぱいに広がる光。
「綺麗……」
雫が呟いた。
俺も空を見上げる。
「うん」
「翠くん」
「ん?」
「来年も、一緒に見られるかな」
俺は少し考えてから答えた。
「見られるだろ」
「……そっか」
雫は笑った。
花火が次々と夜空に咲いていく。
その横顔を見ながら、俺は思った。
来年も。
その次も。
こうやって一緒に夏を過ごせたらいい。
そんなことを、当たり前みたいに思っていた。
帰り道。
森へ続く小道の前で、雫が立ち止まった。
「今日は楽しかったねー」
「うん」
「また明日ね」
「ああ。また明日」
雫は手を振って、森の中へ歩いていった。
白いワンピースが暗い木々の間に消えていく。
俺はその姿を見送ってから、祖父母の家へ帰った。
夜の空気には、まだ少しだけ花火の煙の匂いが残っていた。
夏祭りの翌日。
俺はいつもより少し早く森へ向かった。
昨日の夜のことが、なんとなく頭に残っていた。
来年も一緒に花火を見られるかな。
雫が言った言葉。
俺は何も考えずに「見られるだろ」と答えた。
でも、朝になってからふと思った。
雫は、来年もここにいるんだろうか。
そんなことを考えながら歩いていると、いつもの木が見えてきた。
雫は、今日もそこにいた。
木にもたれて、空を見上げている。
「おはよ」
「おはよー、翠くん」
俺は隣に座った。
「昨日、楽しかった?」
「うん」
「花火、綺麗だったねー」
「雫、ずっと見てたもんな」
「だって好きなんだもん」
「花火が?」
「うん」
雫は笑った。
「夏も好き」
「それは知ってる」
「ふふ」
しばらく沈黙が続いた。
俺は昨日から気になっていたことを聞いてみた。
「雫ってさ」
「んー?」
「どこに住んでるの?」
雫の表情が、一瞬だけ止まった。
でもすぐに、いつもの笑顔に戻った。
「……近くだよー」
「どこ?」
「秘密」
「また?」
「うん」
「家族は?」
「秘密」
「学校は?」
「秘密」
「秘密多すぎない?」
雫は声を出して笑った。
「だって、秘密って楽しいでしょ?」
「俺は全然楽しくない」
「そう?」
「うん」
雫は少しだけ考えるように空を見た。
「じゃあ、ひとつだけ教えてあげる」
「何?」
「私はね――」
そこで、雫が黙った。
「……?」
俺が待っていると、雫はふっと笑った。
「やっぱり秘密」
「おい」
思わず笑ってしまった。
雫も笑った。
森の中に、二人の笑い声が響く。
そのあと、俺たちはくだらない話をした。
好きな食べ物。
苦手なもの。
子どもの頃のこと。
俺が話すたび、雫は楽しそうに聞いてくれた。
でも、俺が雫について聞くと、必ず笑って誤魔化す。
それが少し不思議だった。
それでも、無理に聞こうとは思わなかった。
いつか話してくれる。
そんな気がしていた。
帰る時間になって、俺が立ち上がる。
「また明日」
「うん」
雫が笑う。
「翠くん」
「ん?」
「明日も晴れるといいねー」
「……昨日も言ってたな、それ」
「そうだっけ?」
「言ってた」
「じゃあ、今日も言う」
雫は楽しそうに笑った。
「明日も晴れるといいねー」
「……うん」
俺も笑った。
森を出る。
帰り道、ふと振り返る。
木の下にいる雫は、まだこちらを見ていた。
俺が手を振ると、雫も小さく手を振り返した。
それから何日か経った。
俺は毎日、森へ行った。
朝起きて、朝ご飯を食べて、祖父母に「ちょっと出てくる」と言う。
そして、あの小道を歩く。
もう迷うことはなかった。
森の中に入ると、少しだけ空気が変わる。
蝉の声。
葉っぱの音。
土の匂い。
そして――夏の匂い。
最近になって、少しだけ分かるようになった気がする。
あの木の下には、今日も雫がいた。
「遅かったねー」
「別に。いつもと同じだろ」
「今日は五分遅いよ」
「……なんで分かるんだよ」
「分かるよー」
雫は笑った。
俺は隣に座る。
「今日は何してたの?」
「何も」
「また?」
「うん」
「毎日ここにいて飽きない?」
「飽きないよ」
「なんで?」
雫は少し考えてから、木の葉を見上げた。
「翠くんが来るから」
心臓が、一瞬だけ変な音を立てた気がした。
「……俺が?」
「うん」
「俺が来なかったら?」
「待つ」
「ずっと?」
「うん」
雫は当たり前みたいに言った。
「変なの」
「翠くんもねー」
「俺は普通」
「普通じゃないよ」
「どこが?」
「秘密」
「またそれかよ」
雫が笑う。
俺も笑った。
少しして、雫が木の根元に落ちていた小さな葉っぱを拾った。
「見て」
「何?」
「ハートみたい」
「……ほんとだ」
雫はその葉っぱを俺に渡した。
「あげる」
「いいの?」
「うん」
俺は葉っぱを受け取った。
ただの葉っぱ。
それなのに、捨てる気にはなれなかった。
「ありがとう」
「どういたしましてー」
風が吹いた。
雫の髪が揺れる。
白いワンピースの裾も揺れる。
俺はぼんやりと、その姿を見ていた。
「……何?」
「え?」
「ずっと見てる」
「……別に」
「ふふ」
雫が笑う。
俺は慌てて視線を逸らした。
なんだろう。
最近、雫のことを見てしまうことが増えた。
笑っている顔。
眠そうな顔。
空を見ている横顔。
どれも、気づけば目で追っている。
「翠くん」
「ん?」
「私ね」
「うん」
「ここが好き」
「森?」
「うん」
雫は木の幹に手を添えた。
「ここにいると、夏の匂いがするから」
「……それ、まだ分かんない」
「いつか分かるよー」
また同じ言葉。
でも今度は、少しだけ違って聞こえた。
「……じゃあ、分かるまでここに来る」
雫が俺を見る。
「毎日?」
「毎日」
雫は少し驚いた顔をして、それから――
いつものように、ふわっと笑った。
「そっかぁ」
その笑顔を見ていると、胸の奥が温かくなった。
蝉の声が、森いっぱいに響いていた。
俺は隣にいる雫を見ながら、もう一度だけ思った。
明日も、ここに来よう。
その日は、朝から少しだけ涼しかった。
蝉の声も、いつもより遠くに聞こえる。
俺は朝ご飯を食べ終えると、いつものように森へ向かった。
木の下には、まだ雫はいなかった。
「……あれ?」
いつもなら、俺より先にいる。
少しだけ不安になって、木の周りを見渡した。
すると――
「翠くーん」
「うわっ」
背後から声がした。
振り返る。
雫が立っていた。
「……びっくりした」
「ふふ、ごめん」
「どこにいたんだよ」
「ちょっと散歩してたの」
「この森を?」
「うん」
雫は何でもないように笑った。
俺は木の下に座る。
雫も隣に座った。
「ねえ、翠くん」
「ん?」
「宿題、終わった?」
「……」
「終わってないんだ」
「まだ夏休み始まってそんなに経ってないだろ」
「でも、宿題はあるよ?」
「分かってる」
「ふふ」
「笑うなよ」
俺は鞄から宿題を取り出した。
「じゃあ、今日はこれやる」
「ここで?」
「うん」
雫が少し嬉しそうな顔をした。
「じゃあ、私も隣にいる」
「雫は宿題ないの?」
「ないよ」
「ずるいな」
「そう?」
俺はノートを開いた。
蝉の声を聞きながら、問題を解いていく。
雫は隣で何もせずに、ただ木にもたれていた。
しばらくして――
「翠くん」
「なに?」
「これ、分かる?」
雫が俺のノートを覗き込む。
「……分かるよ」
「教えて」
「いいけど」
俺は問題を指差した。
「ここは――」
「うん」
「だから、ここをこうして……」
雫は真剣に聞いている。
「分かった?」
「うん」
「じゃあ解いてみて」
雫が紙に何かを書いた。
「できたー」
「……正解」
「やった」
雫が小さくガッツポーズをした。
「子どもみたい」
「翠くんより年上かもしれないよ?」
「え?」
「秘密」
「またそれかよ」
雫は笑った。
昼を過ぎる頃には、俺の宿題もかなり進んでいた。
ノートを閉じる。
「終わった」
「お疲れさまー」
「疲れた……」
「じゃあ寝れば?」
「ここで?」
「うん」
「……雫は?」
「いるよ」
俺は少し迷ってから、木にもたれた。
目を閉じる。
葉っぱが揺れる音がする。
蝉の声。
風の音。
隣にいる雫の気配。
なんだか、不思議なくらい落ち着いた。
「翠くん」
「ん……?」
「寝ちゃった?」
「……寝てない」
「ふふ」
その声を聞きながら、俺は目を閉じた。
どれくらい経ったのか分からない。
目を開ける。
雫が空を見上げていた。
「起きた?」
「……うん」
「よく寝てたねー」
「寝てないって」
「寝てたよ」
雫は笑った。
俺は空を見上げる。
朝より雲が少なくなっていた。
「晴れてきたな」
「うん」
「昨日、明日も晴れるといいって言ってたけど」
「晴れたねー」
「……そうだな」
雫は嬉しそうに笑った。
「よかった」
その一言が、なぜか心に残った。
帰る時間になった。
俺は立ち上がる。
「また明日」
「うん」
少し歩いてから、振り返る。
雫はいつもの木の下に座っていた。
木漏れ日の中で、静かに笑っている。
俺も手を振った。
その日は家に帰ってからも、なぜか眠る前まで雫のことを考えていた。
翌日。
森へ向かう途中、俺は昨日のことを考えていた。
雫は、俺のことを少しずつ知っていく。
好きな食べ物。
好きな音楽。
小さい頃の話。
くだらないことまで、たくさん話した。
でも――
俺は雫のことを、ほとんど知らない。
名前すら知らない。
どこに住んでいるのかも。
学校も。
家族も。
何も知らない。
なのに、毎日会っている。
「……変なの」
小さく呟いて、森へ入った。
いつもの木。
今日は雫が先に来ていた。
「おはよー」
「おはよう」
俺は隣に座った。
「今日、なんか考え事してる?」
雫が俺の顔を覗き込む。
「……雫のこと」
「私?」
「うん」
「どうして?」
「だって俺、雫のこと何も知らないから」
雫は少し黙った。
「知りたい?」
「……うん」
素直に答えると、雫は笑った。
「じゃあ、ひとつだけ」
「何?」
「私、夏が好き」
「それはもう知ってる」
「じゃあ……」
雫は少し考える。
「甘いものが好き」
「それも知ってる」
「えー」
「前にかき氷食べてたじゃん」
「あれは夏だから食べたの」
「じゃあ普段は?」
「秘密」
「……」
俺は呆れて雫を見る。
雫は楽しそうに笑っている。
「もういい」
「怒った?」
「怒ってない」
「よかったー」
雫は木の葉を一枚拾った。
「翠くん」
「ん?」
「人ってね、知らないことがあるほうが、楽しいこともあるんだよ」
「そうかな」
「うん」
雫は葉っぱを指先でくるくる回した。
「全部知っちゃったら、もう知りたいって思わなくなるでしょ?」
「……それは、そうかも」
「だから、少しずつでいいの」
俺は雫を見る。
その横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「じゃあ、少しずつ教えてよ」
「うん」
「約束な」
「約束」
雫は小指を差し出した。
「……子どもかよ」
「いいから」
俺は小指を絡めた。
「約束」
雫が笑う。
その瞬間、風が吹いた。
木の葉が一斉に揺れて、光が二人の間にこぼれた。
「ねえ、翠くん」
「ん?」
「もし、夏が終わったら――」
雫が言葉を止めた。
「……何?」
「ううん。なんでもない」
また、笑って誤魔化した。
「気になるだろ」
「ふふ」
雫は答えない。
俺も、それ以上は聞かなかった。
ただ、絡めた小指だけが、いつまでも離れなかった。
その日の帰り道。
俺はふと、ポケットの中を探った。
昨日もらった、ハートみたいな葉っぱ。
まだ捨てずに持っていた。
それを見ながら、なんとなく思った。
もっと雫のことを知りたい。
もっと、ここにいたい。
そんな気持ちが、少しずつ大きくなっていた。
翌日。
森へ向かう途中、俺は昨日のことを考えていた。
雫は、俺のことを少しずつ知っていく。
好きな食べ物。
好きな音楽。
小さい頃の話。
くだらないことまで、たくさん話した。
でも――
俺は雫のことを、ほとんど知らない。
名前すら知らない。
どこに住んでいるのかも。
学校も。
家族も。
何も知らない。
なのに、毎日会っている。
「……変なの」
小さく呟いて、森へ入った。
いつもの木。
今日は雫が先に来ていた。
「おはよー」
「おはよう」
俺は隣に座った。
「今日、なんか考え事してる?」
雫が俺の顔を覗き込む。
「……雫のこと」
「私?」
「うん」
「どうして?」
「だって俺、雫のこと何も知らないから」
雫は少し黙った。
「知りたい?」
「……うん」
素直に答えると、雫は笑った。
「じゃあ、ひとつだけ」
「何?」
「私、夏が好き」
「それはもう知ってる」
「じゃあ……」
雫は少し考える。
「甘いものが好き」
「それも知ってる」
「えー」
「前にかき氷食べてたじゃん」
「あれは夏だから食べたの」
「じゃあ普段は?」
「秘密」
「……」
俺は呆れて雫を見る。
雫は楽しそうに笑っている。
「もういい」
「怒った?」
「怒ってない」
「よかったー」
雫は木の葉を一枚拾った。
「翠くん」
「ん?」
「人ってね、知らないことがあるほうが、楽しいこともあるんだよ」
「そうかな」
「うん」
雫は葉っぱを指先でくるくる回した。
「全部知っちゃったら、もう知りたいって思わなくなるでしょ?」
「……それは、そうかも」
「だから、少しずつでいいの」
俺は雫を見る。
その横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「じゃあ、少しずつ教えてよ」
「うん」
「約束な」
「約束」
雫は小指を差し出した。
「……子どもかよ」
「いいから」
俺は小指を絡めた。
「約束」
雫が笑う。
その瞬間、風が吹いた。
木の葉が一斉に揺れて、光が二人の間にこぼれた。
「ねえ、翠くん」
「ん?」
「もし、夏が終わったら――」
雫が言葉を止めた。
「……何?」
「ううん。なんでもない」
また、笑って誤魔化した。
「気になるだろ」
「ふふ」
雫は答えない。
俺も、それ以上は聞かなかった。
ただ、絡めた小指だけが、いつまでも離れなかった。
その日の帰り道。
俺はふと、ポケットの中を探った。
昨日もらった、ハートみたいな葉っぱ。
まだ捨てずに持っていた。
それを見ながら、なんとなく思った。
もっと雫のことを知りたい。
もっと、ここにいたい。
そんな気持ちが、少しずつ大きくなっていた。
森へ着くと、雫はいつもの木の下にいた。
でも、今日は少しだけ様子が違った。
いつもなら俺が近づくと笑うのに、今日は空を見上げたまま黙っている。
「……雫?」
「ん?」
雫が振り向く。
「どうした?」
「なんでもないよー」
いつもの笑顔。
でも、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
「今日は何する?」
「んー……」
雫は少し考えた。
「今日は、ここにいたい」
「いつもここにいるじゃん」
「うん。でも今日は、ずっと」
俺は隣に座った。
何も話さず、木にもたれる。
風が吹く。
蝉が鳴く。
葉っぱが揺れる。
いつもと同じ音。
なのに、今日は少し違って聞こえた。
「ねえ、翠くん」
「ん?」
「夏休み、あとどれくらい?」
「……二週間くらい」
「そっか」
雫が小さく呟く。
「すぐだね」
「何が?」
「夏休みが終わるの」
「まだ二週間もあるだろ」
「二週間しかないよ」
「……そうか?」
「うん」
雫は笑った。
その笑顔が、いつもより少しだけ寂しかった。
「夏休みが終わったら、どうする?」
「学校行く」
「そうじゃなくて」
「じゃあ何?」
「……来年もここに来る?」
俺は少し驚いた。
「来るよ」
「絶対?」
「絶対」
「約束?」
「約束」
雫が小指を差し出す。
俺も小指を絡める。
「来年も、ここで会おうね」
「ああ」
「再来年も?」
「うん」
「その次も?」
「……何年分約束する気だよ」
雫が笑った。
「ずっと」
「じゃあ、ずっと」
指を絡めたまま、二人で笑った。
しばらくして、雫がぽつりと言った。
「……ありがとう」
「何が?」
「ううん」
雫は首を振る。
「なんでもない」
「またそれ?」
「ふふ」
夕方。
森を出る前、雫が俺を呼び止めた。
「翠くん」
「ん?」
「明日も来てね」
「もちろん」
「絶対だよ」
「分かってるって」
雫は安心したように笑った。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
俺は森を出た。
帰り道、空を見上げる。
夕焼けが広がっていた。
夏休みは、まだ終わっていない。
だから俺は、明日もまた雫に会えると思っていた。
次の日。
朝から雨が降っていた。
窓を打つ雨音を聞きながら、俺は外を眺めていた。
「……雨か」
昨日、雫は言った。
明日も来てね。
絶対だよ。
俺は時計を見る。
雨はまだ止みそうにない。
「……行くか」
傘を持って、家を出た。
森へ続く道は、昨日までとは全然違っていた。
土は濡れている。
葉っぱには雨粒が残っている。
蝉の声も、今日は聞こえない。
森の中へ入る。
足元に気をつけながら、いつもの木へ向かった。
木の下に着く。
「……雫?」
誰もいなかった。
いつもなら、そこにいる。
木にもたれて、目を閉じている。
でも今日は――いない。
俺は木の下に立ったまま、しばらく待った。
五分。
十分。
三十分。
雨は弱くなってきた。
それでも、雫は来なかった。
「……今日は、来ないのかな」
そう呟いて、俺は家に帰った。
次の日。
雫はいなかった。
その次の日も。
いなかった。
三日目。
四日目。
五日目。
毎日、俺は森へ行った。
いつもの木の下で待った。
でも、雫は来なかった。
「……なんで」
木にもたれて座る。
昨日まで、ここにいた。
笑っていた。
くだらない話をしていた。
来年も会おうって約束した。
なのに。
突然、いなくなった。
「……雫」
名前を呼んでも、返事はない。
森の中には蝉の声だけが響いていた。
夏休みは、残り少なくなっていた。
カレンダーを見る。
あと一週間。
あと六日。
あと五日。
時間だけが過ぎていく。
俺は毎日、あの木へ行った。
もしかしたら今日こそいるかもしれない。
そう思って。
でも、いない。
ある日の夕方。
いつもの木の下で、俺は一人で座っていた。
風が吹く。
葉っぱが揺れる。
木漏れ日が地面に落ちる。
俺は目を閉じた。
あの日と同じように。
すると――
ふわっと、夏の匂いがした。
俺は目を開ける。
「……雫?」
もちろん、そこには誰もいなかった。
ただ、木の葉が風に揺れているだけだった。
雫が来なくなって、一週間が経った。
俺は今日も森へ向かった。
いつもの木。
いつもの場所。
でも、そこに雫はいない。
「……雫」
名前を呼ぶ。
返事はない。
蝉の声だけが、森の中に響いていた。
俺は立ち上がった。
今日は、いつもの場所で待つだけじゃなくて、森の中を探してみることにした。
雫がよく歩いていた道。
小さな川。
少し開けた場所。
昨日まで知らなかった場所まで、全部歩いた。
「雫ー!」
呼んでも、返事はない。
それでも歩き続けた。
森を抜けて、近くの集落まで行った。
道を歩いていたおばあさんを見つけて、声をかける。
「あの……この辺に、女の子って住んでますか?」
「女の子?」
「黒い長い髪で、白いワンピースを着てて……」
おばあさんは少し考える。
「うーん……見たことないねぇ」
「そうですか……」
その日は、それだけだった。
次の日も、その次の日も探した。
近所の人に聞いた。
森の中を歩いた。
雫がいそうな場所を探した。
でも、何も見つからない。
ある日の夕方。
俺はまた、あの木の下に戻ってきた。
疲れて、その場に座り込む。
「……どこにいるんだよ」
返事はない。
「約束したじゃん」
小指を絡めた日のことを思い出す。
来年も。
再来年も。
その次も。
ずっと。
「……嘘つき」
自分で言っておいて、胸が苦しくなった。
雫が嘘をついたなんて、思っていない。
ただ、もう一度会いたかった。
もう一度だけでいい。
いつものように笑って、
「また会えたね」
って言ってほしかった。
夕日が木々の隙間から差し込む。
地面に落ちた光が、ゆっくりと薄くなっていく。
俺は立ち上がった。
帰ろうとした、そのとき。
風が吹いた。
木の葉が一斉に揺れる。
ふわりと、あの匂いがした。
夏の匂い。
俺は振り返った。
「……雫?」
誰もいない。
それでも俺は、しばらくそこから動けなかった。
やがて空が暗くなってきて、俺は一人で森を出た。
ポケットの中には、あの日雫からもらった小さな葉っぱが入っていた。
夏休み最後の日。
朝から空が高かった。
蝉の声も、少しだけ弱くなった気がする。
俺は朝ご飯を食べると、何も言わず家を出た。
向かう場所は、決まっている。
あの森。
あの木。
あの場所。
いつもの道を歩く。
草を踏む音。
蝉の声。
風の音。
森の奥へ進んでいく。
そして、あの木が見えた。
誰もいない。
今日も、雫はいなかった。
俺は木の下に座った。
「……今日で夏休み終わりだな」
もちろん返事はない。
隣を見る。
いつも雫が座っていた場所。
そこだけ、少しだけ草が倒れている。
俺はそこを見つめた。
「明日から学校だから、毎日は来られない」
言いながら、自分でも変だと思った。
誰もいないのに。
それでも話しかけてしまう。
「でも、また来るから」
風が吹いた。
木の葉が揺れる。
「来年も来る」
少し間を置いて、続ける。
「その次も」
返事はない。
「……ずっと」
俺はポケットから、あの葉っぱを取り出した。
少し乾いて、前より脆くなっていた。
それでも、捨てられなかった。
「これ、まだ持ってる」
葉っぱを手のひらに乗せる。
「雫がくれたやつ」
風が吹く。
葉っぱが飛びそうになって、俺は慌てて握りしめた。
「……危な」
思わず笑う。
そして、ふと気づいた。
俺は雫の顔を思い出していた。
笑った顔。
少し眠そうな顔。
木漏れ日の中で目を閉じていた姿。
夏祭りで花火を見上げていた横顔。
全部、覚えている。
忘れたくないと思った。
いつか、この夏が遠い昔になっても。
大人になっても。
この場所に来られなくなっても。
雫と過ごした時間だけは、忘れない。
「……じゃあな」
俺は立ち上がった。
「また来年」
森を出る。
最後に一度だけ振り返った。
あの木の下に、やさしい光が落ちていた。
俺は小さく笑って、帰った。
その年の夏は、それで終わった。
それから、夏が来るたびに。
俺はあの森へ行った。
高校三年生になっても。
卒業しても。
夏休みがなくなっても。
時間を作って、あの木へ向かった。
最初の頃は、雫が戻ってくると本気で思っていた。
今年こそ。
もしかしたら。
そう思いながら、木の下で何時間も待った。
でも、雫は来なかった。
何年経っても。
一度も。
それでも、夏になるとあの場所へ行きたくなった。
理由は、自分でもよく分からなかった。
ある夏の日。
俺は久しぶりに祖父母の家を訪れた。
昔より家が小さく見えた。
縁側に座って、麦茶を飲む。
蝉の声が聞こえる。
「……懐かしいな」
そう呟いて、俺は森へ向かった。
あの頃より少し背が高くなった。
歩く道も、木々の間から見える景色も変わっていない。
森の奥へ進む。
そして――
あの木。
何年経っても、そこにあった。
俺は木の下に座った。
背中を幹に預ける。
目を閉じる。
蝉の声。
風の音。
葉っぱの揺れる音。
そして、あの夏の記憶。
「……雫」
名前を呼ぶ。
やっぱり返事はない。
俺は少し笑った。
「まだ待ってるって言ったら、笑うかな」
もちろん、誰も答えない。
それでも、不思議と寂しくはなかった。
ポケットから、小さな葉っぱを取り出す。
あの日からずっと持っていた。
もうすっかり形は変わってしまっている。
それでも、捨てることはできなかった。
「俺、ちゃんと覚えてるよ」
風が吹く。
木漏れ日が揺れる。
目を開ける。
すると、ほんの一瞬だけ――
白いものが視界の端を横切った気がした。
「……」
俺は立ち上がった。
けれど、そこには何もない。
ただ、木々の間から風が吹き抜けているだけだった。
俺は小さく息を吐いた。
「……気のせいか」
そう言って、また木の下に座った。
空を見上げる。
雲の隙間から、夏の光が差し込んでいた。
昔と同じだった。
あの日と、何も変わらない。
俺は目を閉じた。
すると――
ふわっと、懐かしい匂いがした。
あの頃には分からなかった。
でも今なら、分かる。
土の匂い。
草の匂い。
陽に温められた木の匂い。
蝉の声。
風の音。
全部が混ざったような、夏の匂い。
「……これだったんだ」
思わず笑った。
あの子が好きだと言っていたもの。
俺にはずっと分からなかったもの。
今になって、ようやく分かった。
「雫」
名前を呼ぶ。
「……夏の匂い、したよ」
返事はなかった。
けれど、木の葉が一枚だけ、俺の肩に落ちてきた。
その日も、蝉が鳴いていた。
俺はいつもの木の下に座っていた。
何年経っても変わらない。
葉っぱが風に揺れて、木漏れ日が地面に落ちている。
目を閉じる。
静かだった。
すると――
「……翠くん」
聞き覚えのある声がした。
俺はゆっくり目を開けた。
「…………え」
目の前に、女の子が立っていた。
長い黒髪。
白いワンピース。
あの日と、何も変わらない姿。
「……雫?」
雫は、あの頃と同じように笑った。
「久しぶり」
声が出なかった。
何年も待った。
何度も、ここへ来た。
もう会えないと思っていた。
なのに――
目の前にいる。
「……なんで」
「うん」
「なんで、今……」
雫は少しだけ寂しそうに笑った。
「今日は、ちゃんと話したかったの」
「何を?」
雫は俺の隣に座った。
昔と同じように。
俺も、隣に座る。
しばらく二人とも何も言わなかった。
やがて雫が、ぽつりと口を開いた。
「私ね」
「うん」
「ずっと、ここにいたわけじゃないんだ」
俺は黙って雫を見る。
「この木が好きだったの」
「……うん」
「夏の匂いが好きだった」
「知ってる」
「だから、毎年夏になるとここに来てた」
俺は少し笑った。
「……じゃあ、やっぱり来年も会えるって――」
言いかけて、雫が首を横に振った。
「ごめんね」
その一言で、胸がざわついた。
「……何?」
雫は俯いた。
「私ね……」
少しだけ間を置いて。
「翠くんと会ったときには、もうこの世の人じゃなかったんだよねー、」
時間が止まったような気がした。
「……え?」
「だから、あの森で私を見た人は、翠くん以外にはいないと思う」
「……嘘だろ」
雫は首を横に振った。
「嘘じゃないよ」
俺は何も言えなかった。
頭の中に、あの夏の記憶が一気に流れ込んでくる。
誰も雫のことを知らなかった。
どこに住んでいるのか聞いても、教えてくれなかった。
学校も。
家族も。
全部、秘密だった。
そして――
夏休みが終わる前に、突然いなくなった。
「……じゃあ、なんで俺に会えたの?」
「分からない」
雫は笑った。
「でも、夏になるとここにいられたの」
「……夏休みだけ?」
「うん」
雫は木を見上げる。
「この木が、好きだったから」
風が吹いた。
黒い髪が揺れる。
「だから、夏が終わったら帰らなきゃいけなかったの」
「……俺、ずっと待ってた」
「うん」
「毎年、来た」
「知ってるよ」
「……知ってたの?」
「うん」
雫は優しく笑った。
「ずっと見てた」
俺は俯いた。
「……じゃあ、なんで会ってくれなかったんだよ」
「会えなかったの」
「どうして」
「翠くんが大きくなっていくのを見てたら、いつかちゃんとお別れしなきゃって思ったから」
雫の声が、少し震えた。
「でも、怖かった」
「……」
「翠くんと会えなくなるのが」
俺は雫を見る。
雫は笑っていた。
でも、泣きそうな顔だった。
「だから、ずっと言えなかった」
「……何を?」
「ありがとうって」
風が吹いた。
木漏れ日が揺れる。
「私ね、翠くんと会えてよかった」
「……俺も」
「夏が終わるのが嫌だった」
「……俺も」
「もっと一緒にいたかった」
「……俺も」
雫は少し笑った。
「でもね、翠くん」
「ん?」
「もう、待たなくていいよ」
その言葉が、一番苦しかった。
「……嫌だ」
「うん」
「待つよ」
「……うん」
「毎年ここに来る」
「うん」
雫は笑った。
「でも、待たなくていいの」
俺は何も言えなかった。
雫は立ち上がった。
「翠くん」
「……なに」
「夏の匂い、分かった?」
俺は涙をこらえながら笑った。
「……分かった」
「そっか」
雫も笑った。
「よかった」
その瞬間、風が吹いた。
木の葉が舞い上がる。
眩しくて、俺は目を細めた。
そして――
目を開けたとき。
雫はいなかった。
ただ、木漏れ日だけが残っていた。
俺はしばらく、その場所を見つめていた。
そして小さく呟いた。
「……またね、雫」
返事はなかった。
でも、その日は不思議なくらい――
夏の匂いがした。