触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜

第一章 十八歳の政略花嫁

「玲奈、本当にいいのか?」

父にそう尋ねられたのは、結婚式の三日前だった。

東京の中心部に建つ一条家の邸宅。その二階にある父の書斎には、夕暮れの淡い光が差し込んでいた。

窓の向こうには、幼い頃から何度も眺めてきた庭が広がっている。

母が好きだった白い薔薇。

玲奈が小学生の頃に父と一緒に植えた桜。

ずっと変わらないと思っていた景色なのに、今はすべてが遠く感じられた。

一条玲奈は、膝の上で両手を重ねた。

艶のある黒髪が肩から胸元へ流れ、大きな焦げ茶色の瞳が目の前の父を見つめる。

「何が?」

わざと何も分からないふりをすると、父一条慎吾は苦しそうに眉を寄せた。

「隼人君との結婚だ」

「……今さらでしょう?」

「今からでも断れる」

「お父様」

「会社のことなら気にしなくていい」

父は机の上に置かれた書類へ視線を落とした。

そこには、一条化粧品の経営状況を示す数字が並んでいる。

玲奈には、そのすべてを理解できるわけではない。

それでも、会社が危機にあることくらいは分かっていた。

大口取引先との契約終了。

新ブランドへの過剰投資。

海外事業の失敗。

資金繰りは限界に近づき、このままでは数か月以内に大規模な事業縮小を迫られる。

最悪の場合一条化粧品そのものがなくなる。

そして先月。

日本有数の企業グループを率いる黒川家から、救済の話が持ち込まれた。

資本提携。

経営支援。

取引先の紹介。

それだけなら、願ってもない話だった。

ただし、それと同時に持ち上がったのが――。

黒川家の御曹司、黒川隼人との結婚。

「お父様」

玲奈は静かに父を見つめた。

「会社には、何人の方が働いているの?」

「玲奈」

「本社だけじゃないでしょう? 工場の人も、お店の人もいる。家族のいる人だってたくさんいる」

「それをお前が背負う必要はない」

「でも、私は一条家の娘よ」

「十八歳の娘に背負わせるくらいなら、会社なんて……」

「嫌」

思ったより強い声が出た。

父が言葉を止める。

玲奈は唇をきゅっと結んだ。

つい数週間前まで、玲奈は制服を着て学校へ通っていた。

友達と卒業旅行の話をして、大学に入ったら何をしようかと笑っていた。

恋愛だって、まともにしたことがない。

そんな自分が、七歳年上の男性と結婚する。

しかも相手は、雑誌やニュースで何度も名前を見たことのある黒川財閥の御曹司。

怖くないはずがなかった。

それでも。

「私が結婚すれば、会社は助かるんでしょう?」

父は答えなかった。

それだけで十分だった。

玲奈は小さく笑った。

「なら、いいの」

「よくない」

「お父様」

「玲奈。私はお前を会社のために育てたのではない」

父の声が震えていた。

玲奈は胸の奥が痛くなった。

それでも泣かなかった。

泣けば、父はもっと自分を責める。

「分かっています」

玲奈は立ち上がり、父のそばまで歩いた。

「私が決めたの」

「……本当に?」

「うん」

「隼人君を……好きなのか?」

その質問だけは、困った。

玲奈は少し視線を下げた。

「分からない」

正直に答えた。

黒川隼人とは、これまで数えるほどしか会ったことがない。

端正な顔立ち。

背が高く、いつも黒や濃紺のスーツを着ている。

二十五歳とは思えないほど落ち着いていて、仕事の話をしている時は近寄りがたい雰囲気があった。

けれど、玲奈に対して乱暴なことを言ったことは一度もない。

婚約が決まった日も、

『嫌なら断っていい』

と最初に言ったのは隼人だった。

その言葉だけで、玲奈は少し救われた。

「でも……隼人さんなら、きっと大丈夫だと思う」

自分に言い聞かせるようにそう言うと、父は苦しそうな顔で玲奈を見つめた。

三日後。

玲奈は黒川隼人の妻になった。

都内でも有数の格式を持つホテル。

大きなシャンデリアが輝く挙式会場には、財界、政界、芸能界まで、玲奈が名前だけ知っているような人々が集まっていた。

控室の鏡の前。

純白のウェディングドレスを着た玲奈は、鏡の中の自分をじっと見つめていた。

胸元から肩にかけては上品なレースで覆われ、腰から下には柔らかな生地が幾重にも重なっている。

黒髪は低い位置でまとめられ、白い花がいくつも飾られていた。

「玲奈、すごく綺麗」

幼馴染の桜庭紗良が背後から覗き込んでくる。

「ありがとう」

「でも顔、緊張しすぎ」

「だって……」

「まあ相手が黒川隼人じゃ、緊張するよね」

紗良はそう言ってから、慌てて口元を押さえた。

玲奈が振り返る。

「何?」

「いや、その……」

「何か知ってるの?」

「別に」

「紗良」

幼い頃からの付き合いだ。

隠し事をしている時くらい分かる。

玲奈が見つめ続けると、紗良は困ったように眉を下げた。

「本当に大したことじゃないから」

「言って」

「……黒川さんって、女性の噂がほとんどない人なんだけど」

玲奈の胸が少しざわつく。

「うん」

「一人だけ、ずっと名前が出てる人がいるの」

「……誰?」

「秘書」

「秘書?」

「香月美月さん。黒川さんより二歳上。大学の頃からそばにいるらしくて……すごく綺麗な人」

玲奈は鏡へ視線を戻した。

純白のドレスをまとった十八歳の自分。

大人っぽく化粧をしてもらっているのに、どこか制服姿の延長のように見える。

「付き合ってるの?」

「分からない。黒川さん本人は一度も認めてないし」

「そう……」

「玲奈、気にしないで。たぶん噂だけだから」

「うん」

笑ったつもりだった。

けれど、うまく笑えている自信はなかった。

その時、控室の扉が開いた。

「玲奈様。そろそろお時間です」

スタッフに呼ばれ、玲奈は立ち上がった。

胸の奥に生まれた小さな引っかかりを、そのまま飲み込んだ。

今から自分は妻になるのだ。

夫に長年噂されている女性がいるとしても。

政略結婚なのだから。

最初から愛されることを期待する方がおかしい。

そう思った。


「一条玲奈さんを、生涯の妻として……」

神父の言葉を聞きながら、玲奈は隣に立つ隼人を見上げた。

黒川隼人。

七歳年上の夫。

黒のタキシードを着た彼は、いつも以上に近寄りがたいほど美しく見えた。

黒い髪。

涼しげな目元。

すっと通った鼻筋。

玲奈が見上げていることに気づいたのか、隼人がこちらを見る。

目が合った。

「……玲奈?」

小さな声。

「な、何でもありません」

慌てて前へ向き直る。

こんな人が今日から自分の夫なのだ。

その事実がまだ現実とは思えない。

指輪の交換。

隼人が玲奈の左手を取る。

大きな手。

触れられた指先から、じわりと熱が広がった。

結婚指輪が薬指に通される。

玲奈はそれを見つめた。

嬉しい。

そう思ってしまった自分に驚いた。

会社のための結婚。

そう分かっていたはずなのに。

隼人が自分の夫になったことを、少しだけ嬉しいと思っている。

(……私、どうしたんだろう)

けれど考えている暇はなかった。

式はそのまま進み、やがて盛大な披露宴が始まった。

玲奈は何度も笑顔を作り、知らない人々に頭を下げた。

「若くて可愛らしい奥様ですね」

「黒川さんがこんなに早くご結婚されるとは」

「お幸せに」

何度も同じ言葉を聞いた。

そのたびに隣の隼人を見る。

彼は完璧だった。

玲奈が立つ時にはさりげなく手を差し出し、慣れないヒールで歩きにくそうにしていれば速度を合わせてくれる。

「疲れたか?」

「少しだけ」

「あと三十分だ。無理なら先に休め」

「大丈夫です」

「我慢するな」

ぶっきらぼうなのに優しい。

玲奈の胸が少し温かくなる。

もしかしたら。

本当に、少しずつ夫婦になれるのかもしれない。

そんな期待が生まれかけた。

夜……。

披露宴を終えた二人は黒川家の本邸へ向かった。

都心から車でしばらく走った先にある広大な敷地。

正門から玄関までですら車で数分かかる。

「……大きい」

思わず声にすると、隼人が隣から玲奈を見る。

「一条の家も十分大きいだろう」

「全然違います」

「そのうち慣れる」

その言葉に、玲奈は小さく胸が高鳴った。

そのうち。

つまり隼人は、玲奈がここで長く暮らすことを当たり前だと思っている。

そんな些細なことが嬉しかった。

屋敷へ入ると、使用人たちが一斉に頭を下げる。

「お帰りなさいませ、隼人様、玲奈様」

「……ただいま、戻りました」

まだ自分の家という感覚はない。

それでも玲奈がそう答えると、隼人がほんの少しこちらを見た。

「玲奈」

「はい?」

「疲れているだろう。部屋へ案内させる」

玲奈の心臓が大きく鳴った。

部屋。

今夜は――結婚初夜。

披露宴の間は考えないようにしていた。

けれど避けられることではない。

玲奈は十八歳。

恋人がいたこともない。

もちろん男性と夜を過ごした経験もない。

何をすればいいのか。

どう振る舞えばいいのか。

何も分からない。

「玲奈?」

「だ、大丈夫です」

「顔が赤いぞ」

「暑いだけです」

隼人が不思議そうに玲奈を見た。

(お願いだから気づかないで……)


玲奈に用意された部屋は、想像していたより落ち着いた雰囲気だった。

淡いクリーム色を基調とした家具。

大きな窓のそばには小さなソファ。

花瓶には玲奈の好きな白い薔薇まで飾られている。

「……私の好きな花」

思わず呟いた。

誰が用意してくれたのだろう。

メイドに手伝ってもらい、ドレスから淡い色のナイトドレスへ着替える。

髪もほどいた。

鏡の中には、さっきまで花嫁だった少女がいる。

「……少女じゃ駄目よね」

玲奈は自分の頬に触れた。

今日から妻なのだから。

しばらくすると、扉がノックされた。

心臓が跳ねる。

「はい」

扉が開き、隼人が入ってきた。

タキシードではない。

シャツに黒いスラックス。

ネクタイも外している。

それだけで昼間よりずっと大人の男性に見えた。

玲奈はベッドの端に座ったまま、どうしたらいいのか分からなくなる。

隼人は少し離れた場所で足を止めた。

「疲れたか?」

「……少し」

「今日は大変だったな」

「隼人さんも」

「俺は慣れている」

何に慣れているのだろう。

社交の場だろうか。

それとも――。

昼間に聞いた美月という秘書の存在が頭をよぎる。

玲奈は慌てて考えるのをやめた。

「玲奈」

「はい」

「今日は休め」

「……はい」

隼人がそれだけ言って、扉へ向かう。

玲奈は目を瞬いた。

「あの」

隼人が振り返る。

「どうした?」

「どこへ行くんですか?」

「自分の部屋だ」

玲奈はしばらく意味が分からなかった。

「……隼人さんのお部屋?」

「ああ」

「ここでは……寝ないんですか?」

その瞬間、自分が何を聞いているのか理解して、頬が一気に熱くなった。

けれど隼人は笑わなかった。

ただ玲奈を見つめる。

「玲奈」

「はい」

「君はまだ十八だ」

昼間にも似たようなことを言われた。

玲奈は膝の上で指を重ねる。

「でも……結婚しました」

「ああ」

「私たち、夫婦ですよね?」

「分かっている」

なら、どうして。

そう聞きたいのに声が出ない。

隼人は少しだけ視線を外した。

「無理に妻になる必要はない」

胸の奥に冷たいものが落ちた。

「……無理?」

「今日は疲れている。休め」

「私が嫌だからですか?」

思わず聞いてしまった。

隼人の表情が変わった。

「何?」

「いえ……」

「玲奈」

「何でもありません」

恥ずかしかった。

こんなことを聞くつもりではなかった。

隼人は自分と結婚したくて結婚したわけではない。

一条家との関係。

会社同士の利益。

黒川家の事情。

理由はいくらでもある。

そこに恋愛感情まで求めるなんて、自分勝手だ。

「おやすみなさい、隼人さん」

玲奈は笑った。

ちゃんと笑えているだろうか。

隼人は何か言いたそうに玲奈を見つめた。

けれど結局、

「……おやすみ」

それだけ残して部屋を出ていった。

扉が閉じる。

玲奈はしばらく動けなかった。

広すぎる寝室。

大きすぎるベッド。

隣には誰もいない。

左手の薬指には、昼間もらったばかりの結婚指輪がある。

玲奈はそっと指輪に触れた。

ほんの数時間前。

指輪をはめてもらった時は、嬉しかった。

これから少しずつ夫婦になれるのかもしれない。

そう思った。

けれど隼人は、自分に触れようともしなかった。

『君はまだ十八だ』

優しさなのかもしれない。

玲奈にも、それくらいは分かる。

それでも。

もし本当に好きな女性が目の前にいたら、同じように離れていくだろうか。

もし相手が美月という大人の女性だったなら?

そんな考えが浮かんでしまう。

「……馬鹿みたい」

まだ会ったことさえない女性に嫉妬するなんて。

しかもこれは政略結婚なのに。

玲奈はベッドへ横になった。

天井を見上げる。

今日、自分は十八歳で花嫁になった。

大勢の人に祝福された。

誰もが羨む黒川隼人の妻になった。

それなのに。

こんなに広いベッドで一人になるなんて、思っていなかった。

「妻なのに……」

小さく呟いた声は、誰にも届かない。

その夜。

玲奈は初めて、自分の結婚が少しだけ寂しいものなのだと知った。
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