あなたをみてる
あなたをみてる
八月。
窓の外では、朝からうるさいくらいに蝉が鳴いていた。
カーテンの隙間から差し込む日差しが、部屋の床を白く照らしている。
今日はバイトもない。
こんな暑い日にわざわざ外へ出る理由もないし、冷房の効いた部屋で一日だらだら過ごそう。
そう決めていた。
ベッドに寝転がり、枕元に置いてあったスマホを手に取った、そのときだった。
突然、着信音が鳴った。
「ん?」
画面に表示された名前を見て、俺は反射的に身体を起こした。
鮎田ゆかり
「……え?」
一瞬、見間違えたのかと思った。
同じコンビニでバイトをしている、鮎田ゆかり。
そして——俺がずっと好きな女の子。
そのゆかりから電話がかかってきている。
バイトの連絡なら店長から来るはずだ。
シフトを代わってほしいとか?
いろんなことを考えているうちにも、スマホは鳴り続けている。
俺は慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『あ、奏くん?』
聞き慣れた声なのに、電話越しに聞くと妙に近く感じる。
「うん。どうした?」
『今日って、バイト入ってないよね?』
「入ってないけど」
『よかった……』
その言い方が気になった。
いつものゆかりなら、もう少し明るく話す。
『あのさ……奏くん、今日ちょっと会えない?』
「え?」
思わず間の抜けた声が出た。
ゆかりが俺に会いたい?
一瞬だけ胸が高鳴る。
けれど、すぐにそんな都合のいい話じゃないと思い直した。
電話の向こうのゆかりは、明らかにいつもと違う。
「いいけど……何かあった?」
少しの沈黙。
それから、ゆかりが小さな声で言った。
『最近ね、ちょっと困ってることがあるの』
「困ってること?」
『うん。誰に相談したらいいのか分かんなくて……』
また少し黙ったあと、
『奏くんなら、聞いてくれるかなって』
心臓が、また大きく鳴った。
「……分かった。どこ行けばいい?」
待ち合わせ場所を聞いて電話を切ったあとも、俺はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。
嬉しかった。
ゆかりが俺を頼ってくれたことが。
でも——。
最後に聞いたゆかりの声が、妙に耳に残っていた。
待ち合わせ場所に着くと、ゆかりはもう来ていた。
照りつける日差しを避けるように日陰に立ち、スマホをいじっている。
「ゆかり」
声をかけると、ゆかりが顔を上げた。
「あ、奏くん。ごめんね、休みなのに呼び出しちゃって」
「別にいいよ。それより、どうしたの?」
近くのファミレスに入り、向かい合って座った。
注文したアイスティーが運ばれてきても、ゆかりはなかなか話そうとしなかった。
ストローで氷を何度もつついている。
「……言いにくいこと?」
俺が聞くと、ゆかりは少し困ったように笑った。
「うん……まあ、ちょっとね」
そして、意を決したように俺を見た。
「哲平くんのことなんだけど」
武藤哲平。
俺より少し前から同じコンビニで働いている、一つ年上のバイト仲間だ。
俺が入ったばかりの頃には仕事を教えてもらったし、バイトが終わってから一緒に飯を食いに行くこともある。
友達、と言っていいと思う。
そして——哲平がゆかりを気に入っていることも、俺は知っていた。
「哲平がどうかした?」
「最近、ちょっと強引なの」
ゆかりの表情から笑顔が消えた。
「バイト終わるの待ってたり、送ってくって何度も言ってきたり。断ってるんだけど……あんまり聞いてくれなくて」
「そんなことしてたのか、あいつ」
「うん……」
知らなかった。
哲平がゆかりにちょっかいを出しているのは知っていた。
でも、ゆかりが本気で困っているとは思っていなかった。
「奏くん、哲平くんと仲いいでしょ?」
「まあ……うん」
「だから言おうか迷ったんだけど」
ゆかりが俯いた。
「私から言っても聞いてくれないから……奏くんから、それとなく言ってもらえないかな」
俺はすぐに返事ができなかった。
哲平は友達だ。
できれば揉めたくない。
だけど——。
目の前で困っているゆかりを放っておくこともできなかった。
「分かった。俺から話してみる」
「ほんと?」
その瞬間、ゆかりの表情が明るくなった。
「ありがとう、奏くん」
その笑顔を見ただけで、引き受けてよかったと思ってしまう。
我ながら単純だ。
「それとね……もう一個あるんだ」
「まだあるの?」
「うん」
ゆかりはストローを指先で回しながら、今度は少し不満そうに頬を膨らませた。
「店長の奥さん」
「かの子さん?」
「そう。なんか私、嫌われてるみたいなんだよね」
「なんで?」
「それが分かんないから困ってるの」
ゆかりはため息をついた。
「店長と仕事の話してるだけなのに、すっごい不機嫌な顔でこっち見てるし。挨拶しても冷たいときあるし」
「ああ……」
なんとなく想像できた。
店長の沖島真司は、この辺りではちょっとした有名人だった。
三十四歳。
コンビニの店長にしては妙に顔がいい。
誰が言い始めたのか、『イケメン店長がいるコンビニ』なんて噂まで広まって、近所の女子高生が店長目当てにやって来ることさえある。
そして、妻のかの子さんは——。
かなりのヤキモチ妬きだ。
「この前なんか女子高生が店長に話しかけてただけで、かの子さん、ずっと機嫌悪かったよ」
俺が言うと、ゆかりが苦笑した。
「でしょ? だから私もそれかなって思うんだけど……」
「じゃあ、気にしなくていいんじゃない?」
「そうかなぁ」
「ゆかりが何かしたわけじゃないんだろ?」
俺がそう言うと、
「うん」
ゆかりは小さく笑った。
「何もしてないよ」
窓の外では、真夏の日差しが道路を照りつけていた。
行き交う人たち。
信号待ちの車。
いつもと変わらない夏の景色。
俺はただ、好きな女の子が自分を頼ってくれたことが嬉しかった。
窓の外では、朝からうるさいくらいに蝉が鳴いていた。
カーテンの隙間から差し込む日差しが、部屋の床を白く照らしている。
今日はバイトもない。
こんな暑い日にわざわざ外へ出る理由もないし、冷房の効いた部屋で一日だらだら過ごそう。
そう決めていた。
ベッドに寝転がり、枕元に置いてあったスマホを手に取った、そのときだった。
突然、着信音が鳴った。
「ん?」
画面に表示された名前を見て、俺は反射的に身体を起こした。
鮎田ゆかり
「……え?」
一瞬、見間違えたのかと思った。
同じコンビニでバイトをしている、鮎田ゆかり。
そして——俺がずっと好きな女の子。
そのゆかりから電話がかかってきている。
バイトの連絡なら店長から来るはずだ。
シフトを代わってほしいとか?
いろんなことを考えているうちにも、スマホは鳴り続けている。
俺は慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『あ、奏くん?』
聞き慣れた声なのに、電話越しに聞くと妙に近く感じる。
「うん。どうした?」
『今日って、バイト入ってないよね?』
「入ってないけど」
『よかった……』
その言い方が気になった。
いつものゆかりなら、もう少し明るく話す。
『あのさ……奏くん、今日ちょっと会えない?』
「え?」
思わず間の抜けた声が出た。
ゆかりが俺に会いたい?
一瞬だけ胸が高鳴る。
けれど、すぐにそんな都合のいい話じゃないと思い直した。
電話の向こうのゆかりは、明らかにいつもと違う。
「いいけど……何かあった?」
少しの沈黙。
それから、ゆかりが小さな声で言った。
『最近ね、ちょっと困ってることがあるの』
「困ってること?」
『うん。誰に相談したらいいのか分かんなくて……』
また少し黙ったあと、
『奏くんなら、聞いてくれるかなって』
心臓が、また大きく鳴った。
「……分かった。どこ行けばいい?」
待ち合わせ場所を聞いて電話を切ったあとも、俺はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。
嬉しかった。
ゆかりが俺を頼ってくれたことが。
でも——。
最後に聞いたゆかりの声が、妙に耳に残っていた。
待ち合わせ場所に着くと、ゆかりはもう来ていた。
照りつける日差しを避けるように日陰に立ち、スマホをいじっている。
「ゆかり」
声をかけると、ゆかりが顔を上げた。
「あ、奏くん。ごめんね、休みなのに呼び出しちゃって」
「別にいいよ。それより、どうしたの?」
近くのファミレスに入り、向かい合って座った。
注文したアイスティーが運ばれてきても、ゆかりはなかなか話そうとしなかった。
ストローで氷を何度もつついている。
「……言いにくいこと?」
俺が聞くと、ゆかりは少し困ったように笑った。
「うん……まあ、ちょっとね」
そして、意を決したように俺を見た。
「哲平くんのことなんだけど」
武藤哲平。
俺より少し前から同じコンビニで働いている、一つ年上のバイト仲間だ。
俺が入ったばかりの頃には仕事を教えてもらったし、バイトが終わってから一緒に飯を食いに行くこともある。
友達、と言っていいと思う。
そして——哲平がゆかりを気に入っていることも、俺は知っていた。
「哲平がどうかした?」
「最近、ちょっと強引なの」
ゆかりの表情から笑顔が消えた。
「バイト終わるの待ってたり、送ってくって何度も言ってきたり。断ってるんだけど……あんまり聞いてくれなくて」
「そんなことしてたのか、あいつ」
「うん……」
知らなかった。
哲平がゆかりにちょっかいを出しているのは知っていた。
でも、ゆかりが本気で困っているとは思っていなかった。
「奏くん、哲平くんと仲いいでしょ?」
「まあ……うん」
「だから言おうか迷ったんだけど」
ゆかりが俯いた。
「私から言っても聞いてくれないから……奏くんから、それとなく言ってもらえないかな」
俺はすぐに返事ができなかった。
哲平は友達だ。
できれば揉めたくない。
だけど——。
目の前で困っているゆかりを放っておくこともできなかった。
「分かった。俺から話してみる」
「ほんと?」
その瞬間、ゆかりの表情が明るくなった。
「ありがとう、奏くん」
その笑顔を見ただけで、引き受けてよかったと思ってしまう。
我ながら単純だ。
「それとね……もう一個あるんだ」
「まだあるの?」
「うん」
ゆかりはストローを指先で回しながら、今度は少し不満そうに頬を膨らませた。
「店長の奥さん」
「かの子さん?」
「そう。なんか私、嫌われてるみたいなんだよね」
「なんで?」
「それが分かんないから困ってるの」
ゆかりはため息をついた。
「店長と仕事の話してるだけなのに、すっごい不機嫌な顔でこっち見てるし。挨拶しても冷たいときあるし」
「ああ……」
なんとなく想像できた。
店長の沖島真司は、この辺りではちょっとした有名人だった。
三十四歳。
コンビニの店長にしては妙に顔がいい。
誰が言い始めたのか、『イケメン店長がいるコンビニ』なんて噂まで広まって、近所の女子高生が店長目当てにやって来ることさえある。
そして、妻のかの子さんは——。
かなりのヤキモチ妬きだ。
「この前なんか女子高生が店長に話しかけてただけで、かの子さん、ずっと機嫌悪かったよ」
俺が言うと、ゆかりが苦笑した。
「でしょ? だから私もそれかなって思うんだけど……」
「じゃあ、気にしなくていいんじゃない?」
「そうかなぁ」
「ゆかりが何かしたわけじゃないんだろ?」
俺がそう言うと、
「うん」
ゆかりは小さく笑った。
「何もしてないよ」
窓の外では、真夏の日差しが道路を照りつけていた。
行き交う人たち。
信号待ちの車。
いつもと変わらない夏の景色。
俺はただ、好きな女の子が自分を頼ってくれたことが嬉しかった。