怪盗は二度盗む
第九章 白い羽根は檻の中で
翌日、ハーロウ邸に現れたのはレオンハルトだった。
「犬は好きですか」
唐突な問いかけに、エリーゼは思わず、動きを止めてしまう。
――こんな時に犬の話だなんて、不器用……なのかしら。
どこか力が抜けるような心地がして、彼女はかすかに笑った。
「ええ」
「そこも問題ないようだ」
彼はティーカップに口をつけた。
「この契約結婚で、私が得られるものはわかりました。
あなたにメリットはあるの?」
エリーゼは静かだけれど強い目で、レオンハルトを見る。
「……メリットですか」
レオンハルトは珍しく、少し考えた後にこう言った。
「あなたとは、いつも余計な説明がいらない」
エリーゼがパチリとまばたきをする。
「王女としてではないのね」
「ええ。穏やかに暮らせるならそれが十分です」
エリーゼは返事をしなかった。
ただ彼を見つめ返した。
夕方、エリーゼはハーロウ卿の書斎を訪れていた。
マホガニーの机の向こうで、老いた卿は疲労を隠しきれない顔をしている。
昨夜の騒ぎが、この屋敷の空気を変えてしまったことは明らかだった。
エリーゼは告げた。
「ハーロウ卿、あの書類は無事です」
老人は驚きに目を見張り、それから安堵したように深く息をついた。
「無事だったか……。あの夜、宝飾品は戻ったが書類は消えていて肝が冷えたよ」
「亡国のサファイアを返してもらったときに……」
言葉をにごす。怪盗3Xの名前を出すわけにはいかない。
卿も沈黙で返した。
「すぐにお伝えできず、ごめんなさい」
卿は責めるような顔はせず、うれいた目を伏せた。
「あの書類の存在を認めてはこの国はまた燃えていた。
私は新政府派である警察にも、もちろん王政復古派の使者にも、一切言わなかった。
……彼らに探らせれば、すべてが踏みにじられるからだ」
エリーゼは胸を突かれた。
ハーロウ卿もまた、彼女とこの屋敷を沈黙で守ってくれていたのだ。
「あの書類はこれまで通り私が預かろう。またこの屋敷で穏やかに暮らすといい」
その言葉は、慈愛に満ちた本物だった。我が子のように自分をかくまい、守り続けてくれた恩人。
エリーゼは静かに首をふった。
「いいえ。これ以上、卿やこの屋敷を危険に巻き込むわけにはいきません」
ハーロウ卿は眉を寄せる。
「では、どうするつもりだ」
「書類は私が管理します」
エリーゼの眼差しは強い。
老人はしばらく黙っていたが、寂しそうに言った。
「……そうか。そこまで決めているなら、私が言えることはないな」
「これまで、本当にありがとうございました」
エリーゼは立ち上がり、深く頭を下げた。その声に混じったかすかな震えを、老人はただの緊張だと思っただろう。
「お父様」
ハーロウ卿が動きを止めたのがわかった。
戸籍上も、世間体の上でも、自分たちは「雇い主と家庭教師」にすぎない。だけど、亡命したその日から今日まで、自分を育ててくれたのはまぎれもなくこの人だった。
これが最後になるかもしれない。そう思うと喉の奥が熱くなった。
「ああ」
老人のしわだらけの手が、そっと彼女の手を包んだ。
「私はいつでもお前の父親だよ、エリーゼ」
温かかった。だからこそ、ここでは泣いてはならない。
部屋を出たエリーゼの足取りは、不思議と軽かった。
あの書類が争いの種であり、呪いであるならば、これ以上誰かの武器にさせるわけにはいかない。
誰の手にも届かない場所へ運ぶために、まずこの屋敷から遠ざける。
そのために使えるものはなんであっても、使う。
たとえばそれが、あの冷たい少佐の差し出した道であっても、他の何かだとしても。
自室へ戻ったエリーゼは、サイドテーブルの上の一枚のカードに触れた。
レオンハルトから渡された連絡先だ。
深く吸い、息を整えたあと、番号を押す。
数回の呼び出し音のあと、落ち着いた声が耳に届いた。
『――予想していたより早い連絡ですね』
「レオンハルト少佐。続きの話をしましょう」
エリーゼは揺るぎなく言った。
短い沈黙ののち、少佐が続ける。
『いい決断です。だが、急いだほうがいい。
昨夜の侵入で終わりではない。復古派は近くもう一度動く。新政府側もそれを察知している。
この屋敷はすでに、両方から監視されていると見ていい』
背筋が冷えた。
『次の接触があれば、今度こそ巻き添えが出る。あなたも、屋敷の者も』
一拍おいて、耳に入る声の調子がわずかに落ちる。
『それにあなたの声はどうも、疲れているように聞こえる。今すぐこちらへ――』
「わかりました」
エリーゼはそれだけ言って通話を切った。
猶予はない。
引き出しを開け、小さな木箱を取り出す。
中に入っているのは、なじみ深い絵本、両親から贈られたバースデーカード、古びたしおり、幼いころに使っていたリボン。
そこへあの予告状も入れた。
外套を羽織る。
部屋を見渡した。
見慣れた家具。窓辺。寝台。
ここを出れば、もう戻れない。
エリーゼは扉へ向き直る。
そのときだった。
窓ガラスが小さく鳴った。
エリーゼが振り返るより早く、冷たい夜風が吹き込む。開け放たれた窓から軽やかな影が滑り込んできた。
「――お出かけかい、王女様」
そこにいたのはディオンだった。
緑の瞳が、彼女の旅立ちの気配を鋭く見すえていた。
「犬は好きですか」
唐突な問いかけに、エリーゼは思わず、動きを止めてしまう。
――こんな時に犬の話だなんて、不器用……なのかしら。
どこか力が抜けるような心地がして、彼女はかすかに笑った。
「ええ」
「そこも問題ないようだ」
彼はティーカップに口をつけた。
「この契約結婚で、私が得られるものはわかりました。
あなたにメリットはあるの?」
エリーゼは静かだけれど強い目で、レオンハルトを見る。
「……メリットですか」
レオンハルトは珍しく、少し考えた後にこう言った。
「あなたとは、いつも余計な説明がいらない」
エリーゼがパチリとまばたきをする。
「王女としてではないのね」
「ええ。穏やかに暮らせるならそれが十分です」
エリーゼは返事をしなかった。
ただ彼を見つめ返した。
夕方、エリーゼはハーロウ卿の書斎を訪れていた。
マホガニーの机の向こうで、老いた卿は疲労を隠しきれない顔をしている。
昨夜の騒ぎが、この屋敷の空気を変えてしまったことは明らかだった。
エリーゼは告げた。
「ハーロウ卿、あの書類は無事です」
老人は驚きに目を見張り、それから安堵したように深く息をついた。
「無事だったか……。あの夜、宝飾品は戻ったが書類は消えていて肝が冷えたよ」
「亡国のサファイアを返してもらったときに……」
言葉をにごす。怪盗3Xの名前を出すわけにはいかない。
卿も沈黙で返した。
「すぐにお伝えできず、ごめんなさい」
卿は責めるような顔はせず、うれいた目を伏せた。
「あの書類の存在を認めてはこの国はまた燃えていた。
私は新政府派である警察にも、もちろん王政復古派の使者にも、一切言わなかった。
……彼らに探らせれば、すべてが踏みにじられるからだ」
エリーゼは胸を突かれた。
ハーロウ卿もまた、彼女とこの屋敷を沈黙で守ってくれていたのだ。
「あの書類はこれまで通り私が預かろう。またこの屋敷で穏やかに暮らすといい」
その言葉は、慈愛に満ちた本物だった。我が子のように自分をかくまい、守り続けてくれた恩人。
エリーゼは静かに首をふった。
「いいえ。これ以上、卿やこの屋敷を危険に巻き込むわけにはいきません」
ハーロウ卿は眉を寄せる。
「では、どうするつもりだ」
「書類は私が管理します」
エリーゼの眼差しは強い。
老人はしばらく黙っていたが、寂しそうに言った。
「……そうか。そこまで決めているなら、私が言えることはないな」
「これまで、本当にありがとうございました」
エリーゼは立ち上がり、深く頭を下げた。その声に混じったかすかな震えを、老人はただの緊張だと思っただろう。
「お父様」
ハーロウ卿が動きを止めたのがわかった。
戸籍上も、世間体の上でも、自分たちは「雇い主と家庭教師」にすぎない。だけど、亡命したその日から今日まで、自分を育ててくれたのはまぎれもなくこの人だった。
これが最後になるかもしれない。そう思うと喉の奥が熱くなった。
「ああ」
老人のしわだらけの手が、そっと彼女の手を包んだ。
「私はいつでもお前の父親だよ、エリーゼ」
温かかった。だからこそ、ここでは泣いてはならない。
部屋を出たエリーゼの足取りは、不思議と軽かった。
あの書類が争いの種であり、呪いであるならば、これ以上誰かの武器にさせるわけにはいかない。
誰の手にも届かない場所へ運ぶために、まずこの屋敷から遠ざける。
そのために使えるものはなんであっても、使う。
たとえばそれが、あの冷たい少佐の差し出した道であっても、他の何かだとしても。
自室へ戻ったエリーゼは、サイドテーブルの上の一枚のカードに触れた。
レオンハルトから渡された連絡先だ。
深く吸い、息を整えたあと、番号を押す。
数回の呼び出し音のあと、落ち着いた声が耳に届いた。
『――予想していたより早い連絡ですね』
「レオンハルト少佐。続きの話をしましょう」
エリーゼは揺るぎなく言った。
短い沈黙ののち、少佐が続ける。
『いい決断です。だが、急いだほうがいい。
昨夜の侵入で終わりではない。復古派は近くもう一度動く。新政府側もそれを察知している。
この屋敷はすでに、両方から監視されていると見ていい』
背筋が冷えた。
『次の接触があれば、今度こそ巻き添えが出る。あなたも、屋敷の者も』
一拍おいて、耳に入る声の調子がわずかに落ちる。
『それにあなたの声はどうも、疲れているように聞こえる。今すぐこちらへ――』
「わかりました」
エリーゼはそれだけ言って通話を切った。
猶予はない。
引き出しを開け、小さな木箱を取り出す。
中に入っているのは、なじみ深い絵本、両親から贈られたバースデーカード、古びたしおり、幼いころに使っていたリボン。
そこへあの予告状も入れた。
外套を羽織る。
部屋を見渡した。
見慣れた家具。窓辺。寝台。
ここを出れば、もう戻れない。
エリーゼは扉へ向き直る。
そのときだった。
窓ガラスが小さく鳴った。
エリーゼが振り返るより早く、冷たい夜風が吹き込む。開け放たれた窓から軽やかな影が滑り込んできた。
「――お出かけかい、王女様」
そこにいたのはディオンだった。
緑の瞳が、彼女の旅立ちの気配を鋭く見すえていた。