君のとなり 〜約束の168〜
第2章 「いつか…」
梅雨が近づく頃には、放課後のグラウンドに漂う空気も少しずつ変わっていた。
夕方になっても気温は下がりきらず、走り終えた身体にはじっとりと汗が残る。土の匂いに混じって、雨の気配を含んだ湿った風がフェンスの向こうから吹いてきていた。
空は朝からずっと曇っている。
いつ降り出してもおかしくない色だった。
それでも、私たちは練習を続けていた。
「もう一回」
翔がバーを見上げた。
その声には、少しの苛立ちが混じっていた。
「さっきから何回目?」
「分かんない」
「数えてないの?」
「数えてたら余計イライラする」
私は笑った。
翔は最近、以前にも増して高跳びに熱中している。
私が跳べる高さを越えたい。
その気持ちは、もう隠そうともしなかった。
バーの高さは、少しずつ上がっている。
私はすでに越えている高さ。
翔にとっては、まだ届かない高さ。
「瑠夏」
「ん?」
「先に跳んで」
「私?」
「うん。見たい」
私は助走位置まで歩いた。
スパイクの底が、湿った土を軽く削る。
少しだけ呼吸を整える。
バーを見る。
その向こうには、灰色の雲が広がっていた。
雨が降る前の空は、いつもの夕方より低く感じる。
私は走った。
足音が一定のリズムを刻む。
踏み切る。
身体が浮く。
バーの上を越える。
マットに落ちる。
成功。
「ナイス」
翔が言った。
「ありがとう」
私は起き上がった。
翔はバーの高さを確認している。
「やっぱり越えるなあ」
「翔も跳べるよ」
「瑠夏は簡単に言う」
「簡単じゃないよ。私だって何回も失敗してる」
「でも越えるじゃん」
翔は笑わなかった。
バーを見つめたまま、少し黙っていた。
私はその横顔を見て、胸の奥が小さく痛んだ。
翔は悔しいんだ。
私より高く跳べないことが。
だけど、その悔しさを誰かにぶつけたりはしない。
ただ、自分の中に抱えて、また助走位置に戻る。
「翔」
「ん?」
「無理しないでね」
「してない」
「してるよ」
「してないって」
翔が笑った。
少しだけ、いつもの顔に戻る。
「だって、絶対越えたいから」
その言葉を聞いて、私は何も言えなくなった。
私が翔に勝ちたいと思っているわけじゃない。
むしろ逆だった。
翔には、私より高く跳んでほしかった。
いつか。
いつか本当に、私のところまで来てほしい。
そう思っていた。
だから――。
「ねえ、翔」
「なに?」
「私の身長って、今いくつだっけ?」
「急に何?」
「いいから」
「……165?」
「惜しい」
「162?」
「正解」
「なんで俺が覚えてるんだよ」
「知らないよ」
私は笑った。
翔も少しだけ笑う。
それから私は、自分の頭のてっぺんに手を置いた。
「私、これくらい」
「うん」
「いつかさ」
「うん」
「私の身長より高く跳んでね」
翔が、黙った。
ほんの数秒。
風の音だけが聞こえた。
フェンスが小さく揺れている。
遠くで、誰かが部活の片付けをしている音がした。
翔は私を見て、それからバーへ視線を移した。
「……164?」
「うん」
「それ、絶対?」
「絶対」
「じゃあ、越える」
翔の声は、今まで聞いたどの言葉よりも真っ直ぐだった。
「絶対、瑠夏より高く跳ぶ」
私は笑った。
「約束ね」
「約束」
小指を差し出す。
翔も自分の小指を絡めた。
触れた指先が、少しだけくすぐったかった。
けれど、私はその感覚を気にしないふりをした。
「破ったら?」
「破らない」
「もし破ったら?」
翔は少し考えてから言った。
「……何でもする」
「何でも?」
「うん」
「じゃあ、絶対ね」
「絶対」
小指が離れる。
その瞬間、ぽつ、と頬に冷たいものが落ちた。
「雨?」
私が空を見上げる。
もう一粒。
そして、また一粒。
グラウンドに小さな黒い点が増えていく。
「降ってきた」
「片付けよう」
「うん」
私たちは急いでバーを外し、マットを運び始めた。
雨は少しずつ強くなっていく。
濡れたグラウンドから、土の匂いが立ち上っていた。
私はマットの端を持ちながら、隣を歩く翔を見る。
「ねえ」
「ん?」
「本当に跳べるかな」
「跳ぶよ」
「私より?」
「うん」
「そんなに自信ある?」
翔が笑った。
「瑠夏が約束したんだから」
「私?」
「うん」
「私、何もしてないじゃん」
「したよ」
翔は前を向いたまま言った。
「俺が越える高さを、決めてくれた」
雨音が大きくなった。
私は何も言えなかった。
ただ、胸の奥に小さな何かが残った。
このときは、それが何なのか分からなかった。
ただ嬉しかった。
翔がいつか、私より高く跳ぶこと。
その瞬間を、私はきっと一番近くで見ていること。
そう思っていた。
――あの日の私は。
その約束が、これから先の私たちを繋ぐものになるなんて、まだ知らなかった。
夕方になっても気温は下がりきらず、走り終えた身体にはじっとりと汗が残る。土の匂いに混じって、雨の気配を含んだ湿った風がフェンスの向こうから吹いてきていた。
空は朝からずっと曇っている。
いつ降り出してもおかしくない色だった。
それでも、私たちは練習を続けていた。
「もう一回」
翔がバーを見上げた。
その声には、少しの苛立ちが混じっていた。
「さっきから何回目?」
「分かんない」
「数えてないの?」
「数えてたら余計イライラする」
私は笑った。
翔は最近、以前にも増して高跳びに熱中している。
私が跳べる高さを越えたい。
その気持ちは、もう隠そうともしなかった。
バーの高さは、少しずつ上がっている。
私はすでに越えている高さ。
翔にとっては、まだ届かない高さ。
「瑠夏」
「ん?」
「先に跳んで」
「私?」
「うん。見たい」
私は助走位置まで歩いた。
スパイクの底が、湿った土を軽く削る。
少しだけ呼吸を整える。
バーを見る。
その向こうには、灰色の雲が広がっていた。
雨が降る前の空は、いつもの夕方より低く感じる。
私は走った。
足音が一定のリズムを刻む。
踏み切る。
身体が浮く。
バーの上を越える。
マットに落ちる。
成功。
「ナイス」
翔が言った。
「ありがとう」
私は起き上がった。
翔はバーの高さを確認している。
「やっぱり越えるなあ」
「翔も跳べるよ」
「瑠夏は簡単に言う」
「簡単じゃないよ。私だって何回も失敗してる」
「でも越えるじゃん」
翔は笑わなかった。
バーを見つめたまま、少し黙っていた。
私はその横顔を見て、胸の奥が小さく痛んだ。
翔は悔しいんだ。
私より高く跳べないことが。
だけど、その悔しさを誰かにぶつけたりはしない。
ただ、自分の中に抱えて、また助走位置に戻る。
「翔」
「ん?」
「無理しないでね」
「してない」
「してるよ」
「してないって」
翔が笑った。
少しだけ、いつもの顔に戻る。
「だって、絶対越えたいから」
その言葉を聞いて、私は何も言えなくなった。
私が翔に勝ちたいと思っているわけじゃない。
むしろ逆だった。
翔には、私より高く跳んでほしかった。
いつか。
いつか本当に、私のところまで来てほしい。
そう思っていた。
だから――。
「ねえ、翔」
「なに?」
「私の身長って、今いくつだっけ?」
「急に何?」
「いいから」
「……165?」
「惜しい」
「162?」
「正解」
「なんで俺が覚えてるんだよ」
「知らないよ」
私は笑った。
翔も少しだけ笑う。
それから私は、自分の頭のてっぺんに手を置いた。
「私、これくらい」
「うん」
「いつかさ」
「うん」
「私の身長より高く跳んでね」
翔が、黙った。
ほんの数秒。
風の音だけが聞こえた。
フェンスが小さく揺れている。
遠くで、誰かが部活の片付けをしている音がした。
翔は私を見て、それからバーへ視線を移した。
「……164?」
「うん」
「それ、絶対?」
「絶対」
「じゃあ、越える」
翔の声は、今まで聞いたどの言葉よりも真っ直ぐだった。
「絶対、瑠夏より高く跳ぶ」
私は笑った。
「約束ね」
「約束」
小指を差し出す。
翔も自分の小指を絡めた。
触れた指先が、少しだけくすぐったかった。
けれど、私はその感覚を気にしないふりをした。
「破ったら?」
「破らない」
「もし破ったら?」
翔は少し考えてから言った。
「……何でもする」
「何でも?」
「うん」
「じゃあ、絶対ね」
「絶対」
小指が離れる。
その瞬間、ぽつ、と頬に冷たいものが落ちた。
「雨?」
私が空を見上げる。
もう一粒。
そして、また一粒。
グラウンドに小さな黒い点が増えていく。
「降ってきた」
「片付けよう」
「うん」
私たちは急いでバーを外し、マットを運び始めた。
雨は少しずつ強くなっていく。
濡れたグラウンドから、土の匂いが立ち上っていた。
私はマットの端を持ちながら、隣を歩く翔を見る。
「ねえ」
「ん?」
「本当に跳べるかな」
「跳ぶよ」
「私より?」
「うん」
「そんなに自信ある?」
翔が笑った。
「瑠夏が約束したんだから」
「私?」
「うん」
「私、何もしてないじゃん」
「したよ」
翔は前を向いたまま言った。
「俺が越える高さを、決めてくれた」
雨音が大きくなった。
私は何も言えなかった。
ただ、胸の奥に小さな何かが残った。
このときは、それが何なのか分からなかった。
ただ嬉しかった。
翔がいつか、私より高く跳ぶこと。
その瞬間を、私はきっと一番近くで見ていること。
そう思っていた。
――あの日の私は。
その約束が、これから先の私たちを繋ぐものになるなんて、まだ知らなかった。