一ノ瀬玲は、恋をしない ~触れない看護師と、壊れた彼の特別室~

第14話 察する癖

 私は最近、自分でも少し怖くなるくらい、九条さんの小さな変化へ敏感になっていた。
 水を飲みたくなる少し前になると、彼は無意識に喉を鳴らす。背中へ痛みが溜まり始めると、呼吸がほんの少し浅くなる。鎮痛剤が切れかける頃には、眉間へうっすら力が入り、視線が落ち着かなくなる。そんな些細な癖を、私は気づけば自然と覚えてしまっていた。

 もちろん、看護師という仕事は患者の変化を観察することが前提にある。本人が不調を訴える前に異変へ気づき、必要になる少し前に動く。その積み重ねが患者の負担を減らし、回復へ繋がるのだと、看護学校でも何度も教えられてきた。
 
 だから最初は、自分が九条さんの変化へ敏感になっていることも、単なる職業病の延長だと思っていた。

 ただ、最近は少し違う。
 業務として観察しているだけなら、ここまで細かな呼吸の癖や、視線を逸らす間の長さまで記憶へ残ったりはしない。
 
 それなのに私は、病室へ向かう途中でさえ、『今日は昨夜より顔色が悪そうだ』とか、『夜中にまた眠れなかったのかもしれない』とか、そんなことばかり考えてしまうようになっていた。

 昼前の外科病棟は、朝の慌ただしさが一段落した時間帯特有の静けさに包まれていた。
 午前中の処置や回診を終えた看護師たちは、ナースステーションでカルテを確認しながら次の業務の準備を進めている。
 
 廊下の向こうではワゴンの車輪がゆっくり転がる音が聞こえ、遠くの病室からはテレビの小さな笑い声が漏れていた。

 病院という場所は不思議だと思う。毎日誰かが苦しみ、泣き、回復し、そして退院していく。その一方で、働く側の日常は驚くほど淡々と流れていく。
 
 新人の頃の私は、その空気にうまく馴染めなかった。患者の痛みを見れば一緒に気持ちが沈み、家族の涙を見るたび胸の奥が苦しくなった。感情を切り離さなければ仕事にならないと分かっていても、私は昔から人の感情へ引きずられやすい。

 だから少しずつ覚えたのだ。
 必要以上に踏み込まないこと。
 感情を表へ出しすぎないこと。
 一定の距離を保ちながら接すること。

 それが一番安全だった。患者にとっても、自分にとっても。
 私は昼食のトレーをワゴンへ乗せたまま、特別室の前で一度だけ深呼吸した。理由は自分でもよく分からない。
 ただ、九条さんの病室へ入る前だけは、いつも少し意識が変わる。患者対応のために気持ちを切り替える、というだけでは説明できない感覚だった。

 軽くノックをしてから扉を開ける。

「失礼します。昼食お持ちしました」

 病室の中には柔らかな昼の光が差し込んでいた。窓際へ落ちた陽射しが白いシーツを照らし、消毒液の匂いばかりだった空間へわずかな温度を与えている。窓の外には薄青い春の空が広がっていた。

 九条さんはベッドの上で窓の外を見ていた。以前の彼は、ほとんど天井しか見ていなかった。白い天井の一点をぼんやり見つめ、そのまま何時間でも動かない。話しかけても返事は最低限で、必要以上にこちらを見ようともしなかった。
 
 だから最近、窓の外へ視線を向けるようになったことを、私は小さな変化として覚えている。もちろん、急に明るくなったわけではない。愛想がいいわけでもないし、会話が増えたわけでもない。それでも、外の景色を見る余裕が少し戻ってきたのだとしたら、それは回復のひとつなのかもしれなかった。

「今日は魚ですね」

 私がトレーを置きながら言うと、九条さんは小さく息を吐いた。

「最近ずっと魚じゃないですか」

「外科病棟なので」

「便利な言葉ですね、それ」

「病院は便利な言葉で回ってますから」

 私はそう返しながら、ベッドの背もたれへ手を掛ける。両腕を複雑骨折している九条さんは、自分で身体を支えることが難しい。ほんの少し角度を変えるだけでも、背中や肩へ負担が掛かるらしく、体勢を変える時には必ず表情が曇る。

「このくらいで大丈夫ですか」

「……もう少し上でお願いします」

 私はゆっくりベッドを起こした。
 機械音が静かに響き、九条さんの身体が少しずつ持ち上がっていく。
 その途中で、彼は一度だけ息を止めた。私はその変化へすぐ気づく。

「痛みますか?」

「いや……大丈夫です」

 返事は短かった。ただ、その声が少し掠れている。本当は痛いのだろう。
 でも九条さんは、自分から弱音を口にしない。頼ることにも、甘えることにも慣れていない人だ。
 私はそれ以上聞かず、角度を細かく調整する。しばらくして九条さんは小さく息を吐き、ようやく肩の力を抜いた。

「この辺で平気です」

「無理しないでくださいね」

「最近、その台詞ばっかり聞いてる気がします」

「実際、無理されるので」

 九条さんは何も返さなかった。否定しないあたり、少しだけ自覚はあるのだと思う。

 私はテーブルを引き寄せ、昼食を並べていく。味噌汁の蓋を開けると、湯気が静かに立ち上った。白身魚の煮付けからは甘辛い匂いが漂っている。
 病院食としては悪くない方だ。ただ、毎日似たような味が続けば嫌になる気持ちも分かる。

 九条さんは食事を見下ろしたまま黙っていた。その横顔を見ながら、私は小さな変化へ気づく。

 喉が動いた。ほんの一瞬だけ、飲み込みを我慢するみたいな動きだった。
 でも、自分から水を頼もうとはしない。
 私は何も言わず、自然な動作でコップを手に取る。ストローを口元へ寄せた瞬間、九条さんがわずかに目を見開いた。

「……何で分かるんですか?」

 本気で不思議そうな声だった。
 私はコップを支えながら答える。

「顔に出てますよ」

「出てないと思うんですけど」

「出てます」

 九条さんは納得していない顔のまま水を飲んだ。飲み終えたあとも、どこか落ち着かない様子でこちらを見る。

「何か嫌ですね」

「嫌ですか?」

「見透かされてる感じするので」

 私はコップをテーブルへ戻しながら、小さく笑った。

「そんな大げさなものじゃないですよ」

「いや、普通分からないでしょう。言ってないのに」

「仕事ですから」

 口にした瞬間、自分の中へ小さな引っ掛かりが残る。

 もちろん半分は本当だ。患者を観察し、変化へ気づくことは看護師として当然の役目である。ただ、最近の私は、それだけでは説明できないくらい九条さんのことを見てしまっていた。

 どういう時に視線を逸らすのか。
 何を言われると急に黙り込むのか。
 どんな瞬間に、自分でも気づかないほど呼吸が止まるのか。
 そんな細かなことばかり覚えてしまう。

「便利ですね、その言葉」

 九条さんがぼそりと言った。

「仕事だからって言えば、全部説明できるみたいになる」

「かなり便利ですよ」

「一ノ瀬さん、絶対よく使ってるでしょう」

「否定はしません」

 そう返すと、九条さんはほんの少しだけ口元を緩めた。
 本当にわずかな変化だった。
 笑うというほど大きくはない。ただ、最初に会った頃の鋭い拒絶とは違う空気がそこにはあった。
 私はその変化へ気づかないふりをして、魚を食べやすいよう崩していく。

 九条さんはまだ心を開いていない。少し会話が増えたくらいで、人を信用できるようになるほど簡単な傷ではないのだろう。近づきすぎれば、また距離を取られる気がする。
 
 だから私も踏み込みすぎない。踏み込みすぎないようにしている。それなのに、水を飲みたそうなタイミングや、痛みを我慢している瞬間へ気づくたび、私は少し困ってしまう。ただの患者として接しているだけなら、こんな感覚にはならない。そのことへ薄々気づき始めている自分が、一番厄介だった。

 病室の窓から差し込む春の光は穏やかで、時間だけが静かに流れていく。

 私は魚を一口分すくいながら、小さく息を吐く。この人はまだ遠い。それでも私は、少しずつその距離を意識し始めてしまっていた。
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