一ノ瀬玲は、恋をしない ~触れない看護師と、壊れた彼の特別室~

第24話 夜のコンビニ話

 その夜、特別室は昼間とは違う、どこか柔らかい空気に包まれていた。私は点滴の調整を終え、引き揚げようとした矢先、ベッドの中でくすぶっていた九条さんがふと声をかけてきた。

「なあ。あんた、夜勤中に急にアイスが食べたくなることはないのか」

 その唐突な問いかけに、私は思わず歩みを止める。これまで入院患者である彼と交わしてきた会話は、常に看護師としての事務的な質疑応答が中心だったからだ。

「そうですね……たまに、猛烈に甘いものが欲しくなることはあります。ですが、業務中は忙しくて、すぐに忘れてしまうんですよ」

 私が苦笑しながら答えると、彼は天井を見つめたまま、独り言のように言葉を紡ぐ。

「夜中のコンビニってのは、どうしてあんなに魅力的なんだろうな。行きたくならないのか、一人で」

 彼は少しだけ苦笑いを浮かべ、どこか遠い場所を懐かしむような視線を宙に放った。その表情を見て、私は今日という夜が、これまでとは違う特別な時間になりそうな予感に胸を弾ませる。

「夜中のコンビニですか。……確かに、あの独特の明るさと、誰もいない静かな空間には不思議な魔力がありますよね」

 今までの私たちは、質問と返事を繰り返すだけの関係だった。しかし今夜の彼は、私の個人的な感覚を探るような、柔らかな言葉を投げかけてくれている。

「なにか、コンビニで買ってきましょうか。この近くなら、まだ営業しているはずです」

「外出しても大丈夫なのか? 勤務中だろ?」

「私は、九条様専属の担当看護師ですので。他の患者様の対応もありますけど、九条様が気分よく入院生活を送っていただけるのであれば、大丈夫なんですよ」
 
 私がそう提案すると、彼はベッドサイドの引き出しを顎先でしゃくった。その仕草は、財布からお金を出して買ってきてほしいという合図だ。

「アイスを買ってきてくれないか。あぁ、あんたの分も買ってきてくれ。俺だけが食べるのは気が引けるからな」

 彼は無造作にそう言い放ち、百円玉をいくつか指し示す。私はそれを辞退するように首を振った。

「いえ、それはダメです。患者様からは、何もいただけないんです。決まりなんです」

 すると、彼はふっと喉の奥で笑い声を鳴らした。

「決まりってのはな、破るもんなんだよ。いいから、俺とあんたの二人分買ってきてくれ。あんたが隣で食べてくれないと、美味いものも不味くなる」

 強引な言い方に押し切られ、私は病院の売店が閉まっていることを理由に、少し先のコンビニまで足を運ぶことにした。夜の冷気が火照った頬を撫でる中、私は彼が喜びそうなバニラアイスを二つ選ぶ。

 病室に戻ると、彼は待ち遠しそうな顔をしていた。袋を差し出すと、彼は中身を覗き込み、わずかに目元を緩める。

「……随分と早かったな。あんた、走ったのか?」

「少しだけです。アイスが溶けると困りますから」

「ふん。あんたは本当に、俺が思っている以上に世話焼きなんだな」

 私は彼が食べやすいようにカップの蓋を開け、スプーンを添える。そして、まずは彼から食べてもらおうと、スプーンを差し出した。

「さあ、どうぞ。一番溶けかかっているところですから、お早めに」

 すると彼は、私の手元を見つめたまま首を振った。

「……いや、あんたから先に食え」

「えっ、でも、これは九条さんの分を買ってきたんですよ?」

「いいから食え。あんたが食べるところを見ていないと、味がよく分からない気がするんだ」

 彼は意地悪な笑みを浮かべ、私を促す。私は困惑しながらも彼に言われるがまま、自分のスプーンで一口すくった。

「……そうですか。では、お先にいただきます」

 一口食べると、冷たく甘い味が口いっぱいに広がる。それを見て、彼は満足そうに目を細めた。

「美味しいですね。……やっぱり、疲れた時はこれが一番です」

「だろう? ……じゃあ、今度は俺の番だ。頼む」

 私はスプーンを彼の方へ向け、慎重に一口分をすくう。彼がゆっくりと口を開くのを待っていると、不思議な違和感が湧き上がってきた。

 私は、彼用に買ったアイスを食べさせるのではなく、彼に差し出したのは、自分が食べていた方である。
 ひとつのアイスをお互いに食べている。考えれば、これは間接キスじゃないかと理解してしまった瞬間に、急激に羞恥心が沸き起こる。
 この感情から逃れたくて、私は彼が飲み込むのを待たずに、次々とスプーンを運んでしまった。

「あ、あの、どうぞ……美味しいですよ、ね?」

 私の手が止まらない。彼が咀嚼する間もなく、私はどんどんとアイスを口の中へと運ぶ。

「おい、ちょっと待て! そんなに急かすな、窒息させたいのか?」

 彼は驚いたように目を丸くする。私は自分の行動が荒っぽかったことに気づき、真っ赤になりながらスプーンを握りしめた。

「すみません、なんだか、早く食べてもらいたくて……」

 言い訳をしていると、彼は眉間に皺を寄せ、こめかみを押さえて固まる。

「……いてて。あんた、やりすぎだ」

「どうしたんですか? お腹でも痛いですか?」

「違う。……頭だ。頭がキーン。アイスクリーム頭痛ってやつだ」

 彼は苦しげに顔を歪め、そのままベッドに頭を預ける。私は無神経な振る舞いを激しく後悔し、焦ってタオルを取り出し、口元を拭く。

「本当にごめんなさい! 早く冷たいのを食べさせたかっただけで、その……」

「……分かっているよ。あんたが慌てていたから、俺まで釣られて慌ててしまったんだ」

 彼は少しだけ苦笑いを浮かべ、私の顔をじっと見つめてくる。その瞳には、からかいだけでなく、温かい光が宿っていた。

「……まあ、いい。あんたに食べさせてもらったと思えば、頭が痛いのも悪くない気分だ」

 彼の言葉に、私はさらに顔を熱くする。私たちはアイスを片手に、しばらく笑いながらその場を過ごした。

 この何気ないやり取りが、心に深く刻まれていくのが分かる。私たちはこうして、病院の夜を少しずつ塗り替えているのだ。

 カップの底が見えるまで、私たちはたわいもない話を続けた。コンビニの商品の入れ替わりや、最近のドラマの話、どうでもいい日常の断片を積み上げる。

 それは看護師と患者という境界線を超えた、人と人としての時間だった。私は彼がアイスを食べる様子を眺めながら、この夜がずっと続けばいいと願う。

 彼の表情は驚くほど穏やかで、もう孤独の中に沈んでいるようには見えない。私の言葉ひとつひとつを、彼は丁寧に拾い上げてくれる。

 そうして積み重なる言葉の重なりが、私たちを少しずつ結びつけていく。アイスが溶けきる頃には、私たちの心の距離も同じくらい溶けていた。

 食べ終わった空のカップを片付けるとき、彼は少しだけ寂しそうな顔を見せた。そんな彼を見て、私は思わず声をかける。

「また明日も、何かのついでに買い出しに行きましょうか」

 彼は一瞬驚いたような顔をし、すぐに深く頷いた。

「ああ、期待してる。……あんたが選ぶなら、次はどれでもいい」

 その言葉に、私は静かな喜びを感じる。私たちは明日のための約束を、ひとつだけ胸に詰め込む。

 
 私は病室の電気を少し落とし、彼の寝顔を最後に見届ける。彼は満足げに目を閉じ、静かな呼吸を繰り返していた。

 私はナースステーションへと戻る廊下で、自分の指先を眺める。そこには、まだ少しだけアイスの冷たさが残っている。

 明日の夜も、またこうしてアイスで夜を彩りたい。私はそんな期待を胸に、再び仕事という現実の海へと戻っていった。

 病院の中には孤独が溢れているけれど、私たちはこうして、ささやかな絆を見つけることができた。明日もまた、彼と一緒に新しい一歩を踏み出そう。

 空には月が浮かび、私たちの物語を見守っている。夜はまだ長く続くけれど、私の心の中には、ずっと柔らかな光が灯り続けている。

 今日という日が終わり、また新たな朝が来る。その時、彼がどんな顔で私を待っているのか。そんなことを考えるだけで、私はまた心が弾む。

 病院という場所は、命が繋がる場所だ。私はその繋がりを大切に、これからも歩み続けていく。

 朝の光が窓から差し込み、病院の床を照らし出す。私はその光を浴びながら、次の交代の時間へと準備を始めた。

 夜は終わり、新しい光が街を包み込む。私はその光の中で、明日への期待を胸に、ゆっくりと一歩を踏み出した。

 今日という一日が、彼にとっても、私にとっても、良き一日になりますように。そんな願いを込めて、私は病院の空を見上げた。

 空はどこまでも高く、澄み渡っている。新しい物語が、今ここから動き出そうとしている。
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