一ノ瀬玲は、恋をしない ~触れない看護師と、壊れた彼の特別室~

第08話 同情するな

 夜の病院は、昼間の騒がしさが嘘のように息を潜めている。私はナースステーションで記録を整理しながら、夜勤特有の静かな時間を過ごしていた。
 
 ふと、廊下の奥から小さな物音が聞こえる。嫌な予感が背筋を駆け抜け、私は反射的に立ち上がって病棟へ飛び出した。特別室の方から聞こえた気がして、自然と足が急ぐ。

 特別室の扉をわずかに開けると、暗い室内で九条さんが無理に起き上がろうとして身体を揺らしていた。ベッドから滑り落ちそうなほど大きく傾いている。危ない! と思った瞬間に身体が勝手に動き、私は駆け寄って彼の肩をしっかりと支える。彼の身体は信じられないほど震えている。私は深呼吸を一つして、彼をゆっくりと背もたれへ戻した。

 「九条様、何をされているのですか。安静にしていなければ身体に障ります」

 私がそう告げると、彼は力を抜いたまま、虚ろな瞳で私を見上げた。その瞳には、私に向けられたものとは違う、強い拒絶の色がある。彼は私の腕を振り払うようにして、絞り出すような声で言い放った。

 「同情ならいりません。そんな顔で俺を見るな」

 一瞬、意味が分からず私は立ち尽くした。私が彼に抱いているのは同情ではない。ただの看護師としての義務であり、患者を不慮の事態から守ろうとする本能に過ぎない。

 「していません。同情など、ひとつもしていません!」

 「嘘だ。あんたの目には、哀れみが宿っている」

 「それは違います。これは仕事ですから。患者様の安全を確保し、適切な看護を行う。それ以外に、私の意図はありません」

 私は反射的にそう答えた。自分の言葉が、想像以上に突き放す響きを持っていることに気づく。言った後で、少しだけ後悔の念が胸をよぎった。もっと別の言い方があったのではないか。それでも、私はこの関係性において、私情を挟むことを自分に許してはいけないと信じている。

 沈黙が、病室の空気を支配した。九条さんは窓の方を向いたまま、何も言わずにじっとしている。窓の外には神戸の夜景が広がっているが、彼は何も見ていないようだった。

 「……すみません。少し、興奮していたようです」

 随分と時間が経ってから、九条さんがそう漏らした。消え入りそうな小さな声だった。

 「いえ。お気になさらないでください。指示された処置を続けます」

 私は淡々とした口調でそう告げ、再び彼の身体を整える。彼は再び窓の方へ視線を戻し、深い溜息をついた。

 「あんたは、俺が哀れだと思うか?」

 突然の問いかけに、私は動きを止めた。

 「……思いません。今の九条様は、ご自身の立場や状況と、必死に向き合っているだけです」

 「必死か。笑わせるな。俺はただ、何もできずにここに寝ているだけだ」

 「いいえ。自分自身と向き合うことは、何よりも大変な仕事です。私は、それを怠る人よりも、ずっと誠実だと思います」

 九条さんは驚いたように肩を揺らし、初めて私を真っ直ぐに見つめた。その瞳の奥には、先ほどまでの鋭さとは違う、戸惑いの色が混じっている。

 「誠実……あんた、そんなふうに言ったのは初めてだな」

 「これまで、お伝えする機会がなかっただけです。私は看護師として、患者様がどのような状況であれ、その方自身の戦いを尊重したいと思っています」

 「尊重……ね。なら、あんたは俺の何を知っているんだ」

 彼の言葉には挑発的な響きがあった。

 「詳しい事情は知りません。でも、九条様が自分の価値を守ろうとされていることは、伝わってきます」

 「……それが、俺の最後のプライドだ」

 彼は少しだけ自嘲気味に笑った。その顔は、ほんの少しだけ緊張が解けているように見える。私は彼から視線を逸らさずに言葉を続けた。

 「素晴らしいプライドだと思います。自分の価値を信じられる人は、それだけで強い人です」

 九条さんは何も言わず、ただ私をじっと見つめ続けた。部屋の中に流れる時間は、先ほどよりも少しだけ穏やかになっている。

 「あんた、変わっているな。他の看護師たちは、俺のことを怖がって近寄らないのに」

 「怖いですか。私は、九条様の言葉の裏にあるものが見たいだけです」

 「言葉の裏……俺の言葉には、棘しかないぞ」

 「それでも構いません。棘があるということは、自分を守るための鎧を持っているということです。その鎧を剥がす必要はありません。ただ、その鎧を着ている間も、私たちは寄り添うことができます」

 彼は沈黙し、また窓の外へ目を向けた。でも、その背中からは、先ほどの張り詰めた空気が消えている。私は彼にこれ以上踏み込まないよう、少しだけ距離を取った。

 「今日はもう休んでください。身体を回復させることが、九条様にとって一番の戦いですから」

 「……そうだな。明日も、あんたが来るのか」

 「はい。私の担当ですから」

 彼は小さく頷き、目を閉じた。私は彼の枕元の明かりを消し、静かに部屋を出る。

 廊下を歩きながら、自分の心臓の鼓動を確認した。彼と言葉を交わすたびに、自分の中の何かが少しずつ変わっていくのを感じる。それは、看護師としての私にとって、危険なことなのかもしれない。でも、私はこの感情を捨てるつもりはない。彼が自分自身を取り戻すまで、私はただの看護師として、彼の傍らに立ち続ける。それが、私の選んだ道だから。
 
 私はナースステーションへ戻り、今日の出来事をカルテに記録した。誰にも見られない記録。でも、私にとっては、何よりも確かな真実。

 夜の明かりの下で、私はペンを握りしめる。明日の朝、彼とどんな会話を交わそうか。そんなことを考えるだけで、胸の奥が少しだけ熱くなる。この感情に名前をつける必要はない。私はただ、看護師として、彼を見守り続けるだけなのだから。夜勤の時間は、私に色々なことを教えてくれる。患者との距離、自分自身の境界線、そして人間が持つ強さと脆さ。その全てを、私は受け入れて生きていこうと思う。

 窓の外では、夜の闇が徐々に薄れ、港町を包む空が柔らかな群青色へと姿を変えていく。遠くの埠頭から鳴り響く始発の汽笛が、眠りから覚め始めた街の音と重なった。私はナースステーションの窓際で、新しい一日が始まる気配をただじっと見つめている。自分自身がどこへ向かっているのか、はっきりと分かっているわけではない。それでも、今この場所で呼吸をしているという事実だけが、今の私を繋ぎ止めてくれている。

 特別室のドアを開けるたびに、私はいつも少しだけ緊張する。彼がどんな表情で私を迎え、どんな言葉で私を突き放すのか。あるいは、ほんの少しだけその鎧を緩めてくれるのか。そのすべてを受け止める覚悟は、まだ整っていないかもしれない。だけど、扉の向こうにある彼の存在が、私という人間を少しずつ変えているという実感がある。病院という日常は、明日もきっと昨日と同じように流れていく。その平坦な日々の中で、私たちは互いの心に小さな足跡を残していくのだ。

 私はもう一度、深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を満たし、頭が少しだけ冴えていく。私はただ、誠実であることだけを信じようと思う。誰かの人生に踏み込む権利はなくとも、寄り添う時間は誰にも奪えない。だからこそ、今この瞬間を、私らしく丁寧に過ごしたいのだ。朝の光が廊下の床を照らし始め、私は再び歩き出す。この病院で出会うすべての命が、それぞれの物語を紡いでいくその場所に、私もまた身を置いているのだと、改めて感じた。
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