素知らぬふたり
窓の外、大粒の雨が降っている。
今日という特別な日に大雨なんて。
私はとても不愉快だった。
雨の日は特に、夫のタバコの臭いやら、部屋干したお義父さんの服に染みついた加齢臭やらが特に濃くなる。
部屋中に充満し、どこにいてもつきまとってくる気がした。
酷くなる雨足を窓越しに眺め、テーブルに視線を移す。吹き飛ばす方法は二種類だ。
一つ目は好物のオレンジの香りを嗅ぐこと。鼻の先にくっつけると暫く香りが持続する。
はやく、はやく。
二つ目が脳裏によぎった瞬間、スマホが震えた。
画面には、君島さんの文字。
「あと五分程で着きます」
私は電子タバコを付け、出掛け前の身だしなみをチェックする。化粧はよれてないか?新調した服に気づいてくれるだろうか?
電子タバコの残量メモリが短くなるにつれ、私の手足は素早くなり、つられて鼓動も早まった。
最後の一口を吸い終え、歯磨きをして家の下で彼を待つ。オレンジ色の乗用車が遠くから近づいてくる。
君島さんだ。
私は平常心を保とうと深呼吸をする。
尻尾を振る犬みたいに会いたい気持ちを全面に出すのはレディとしていかがなものか? と思うので、素知らぬふりをして大人なレディとして車に乗り込む。
「酷い天気だね」
君島さんも素知らぬふりをしている。私はそれに気づかぬふりをする。
月に一度。
そう決めた訳ではないが、これが私たちの暗黙の距離感。互いに別々の家庭を持ち、至極真っ当に生活をこなしている。
ただ、今日という特別な日だけは、日常を全て忘れ二人の世界に行く。まるで遠距離恋愛の恋人と久しぶりに会うかのようなそれを私たちは演じているのだ。
天気なんて関係ないでしょう? と心の中で思ったが、「止むといいね」と私は言う。
こんな時、彼の一挙手一投足で言いたい事が手に取るように分かる(と思っている)私は初デートを迎えた女子高生の如く、浮かれている。運転をしながら、君島さんが片手を私の膝に乗せてくる。
あぁ、はやく触れたい。
私はゆっくりと、滑らかに、その手を覆い彼の親指の先をしっとりとさする。この瞬間が堪らなく好きだ。これ以上先には進めないとわかっているから。
焦らして、焦らして、焦らすのだ。
手の動きとは裏腹に色気のない話題をいくつも続ける。会話に惑わされている彼に気づかれないように、私はもう片方の手を彼の膝に添える。何か言いたげな君島さんは、運転に集中しようとしたんだろう。一瞬、ぎゅっと目を瞑った。
可愛い。
と、気持ちが漏れないように目的地までの到着時間に目をやる。彼が思う存分私に触れるまで、後一時間半。スローセックスの前戯のようなこの時間を私たちは楽しんでいる。
互いの胸の内がバレないよう、心理戦が繰り広げられる車内。私はオレンジの残り香を探しながら、そうね。とか相槌を打つ。なんて満たされるんだろう。
余韻に浸る間もなく、スマホのバイブレーションが一気に現実へ引き戻す。何食わぬ顔なんてもう無理だった。それでも私は彼の膝に置いた手を離せない。
「出ていいよ」
君島さんは素知らぬ顔をして言う。私はそれがどんなに寂しい事か知っている。
平井デイサービスと表示された画面。
私が躊躇していると留守電に切り替わる。高速の入り口は目前だというのに、君島さんは左にウィンカーを出し、路肩に車を停める。
「タバコ吸ってるね」
まだ雨が降ってるというのに。
車外で一服をしてくれる。私は仕方なく平井デイサービスに折り返した。大雨の影響で送迎時間が早まると職員が言う。夫が帰るのは六時。お義父さんが帰るのは五時。
やはり雨は不愉快だ。
私が窓をノックすると、雨粒で服の色が少し変わった彼が戻って来る。
「ごめんなさい」
「しょうがないよ。家まで送るね」
あっけなく家まで着いてしまった。
帰りの車内は大雨で浸水したかと思うほど、雨の匂いと重苦しい空気が私の周りに流れていた。
エンジンが切られると、私はじっと彼を見つめた。素知らぬふりなどもう出来なかった。
キスだけでも。
私の気持ちを見透かされたのか、共鳴したのかはわからない。君島さんは、私の鼻をツンと触った。その瞬間、オレンジの香水がふわりと私の鼻孔をついた。
私がオレンジを好きな理由。
酸味と甘みと苦みの詰まった彼の香り。
私は深く、息を吸い込んだ。
「また連絡する」
じゃあ、また。と私は素知らぬふりをし、車を降りる。ぐつぐつと煮えたぎったナニカを冷ますには雨で丁度良かったのかもしれない。
帰宅した私はオレンジをカットし、大事に、丁寧に、嚙み締めて、いつものようにお義父さんの帰りを待つことにした。
今日という特別な日に大雨なんて。
私はとても不愉快だった。
雨の日は特に、夫のタバコの臭いやら、部屋干したお義父さんの服に染みついた加齢臭やらが特に濃くなる。
部屋中に充満し、どこにいてもつきまとってくる気がした。
酷くなる雨足を窓越しに眺め、テーブルに視線を移す。吹き飛ばす方法は二種類だ。
一つ目は好物のオレンジの香りを嗅ぐこと。鼻の先にくっつけると暫く香りが持続する。
はやく、はやく。
二つ目が脳裏によぎった瞬間、スマホが震えた。
画面には、君島さんの文字。
「あと五分程で着きます」
私は電子タバコを付け、出掛け前の身だしなみをチェックする。化粧はよれてないか?新調した服に気づいてくれるだろうか?
電子タバコの残量メモリが短くなるにつれ、私の手足は素早くなり、つられて鼓動も早まった。
最後の一口を吸い終え、歯磨きをして家の下で彼を待つ。オレンジ色の乗用車が遠くから近づいてくる。
君島さんだ。
私は平常心を保とうと深呼吸をする。
尻尾を振る犬みたいに会いたい気持ちを全面に出すのはレディとしていかがなものか? と思うので、素知らぬふりをして大人なレディとして車に乗り込む。
「酷い天気だね」
君島さんも素知らぬふりをしている。私はそれに気づかぬふりをする。
月に一度。
そう決めた訳ではないが、これが私たちの暗黙の距離感。互いに別々の家庭を持ち、至極真っ当に生活をこなしている。
ただ、今日という特別な日だけは、日常を全て忘れ二人の世界に行く。まるで遠距離恋愛の恋人と久しぶりに会うかのようなそれを私たちは演じているのだ。
天気なんて関係ないでしょう? と心の中で思ったが、「止むといいね」と私は言う。
こんな時、彼の一挙手一投足で言いたい事が手に取るように分かる(と思っている)私は初デートを迎えた女子高生の如く、浮かれている。運転をしながら、君島さんが片手を私の膝に乗せてくる。
あぁ、はやく触れたい。
私はゆっくりと、滑らかに、その手を覆い彼の親指の先をしっとりとさする。この瞬間が堪らなく好きだ。これ以上先には進めないとわかっているから。
焦らして、焦らして、焦らすのだ。
手の動きとは裏腹に色気のない話題をいくつも続ける。会話に惑わされている彼に気づかれないように、私はもう片方の手を彼の膝に添える。何か言いたげな君島さんは、運転に集中しようとしたんだろう。一瞬、ぎゅっと目を瞑った。
可愛い。
と、気持ちが漏れないように目的地までの到着時間に目をやる。彼が思う存分私に触れるまで、後一時間半。スローセックスの前戯のようなこの時間を私たちは楽しんでいる。
互いの胸の内がバレないよう、心理戦が繰り広げられる車内。私はオレンジの残り香を探しながら、そうね。とか相槌を打つ。なんて満たされるんだろう。
余韻に浸る間もなく、スマホのバイブレーションが一気に現実へ引き戻す。何食わぬ顔なんてもう無理だった。それでも私は彼の膝に置いた手を離せない。
「出ていいよ」
君島さんは素知らぬ顔をして言う。私はそれがどんなに寂しい事か知っている。
平井デイサービスと表示された画面。
私が躊躇していると留守電に切り替わる。高速の入り口は目前だというのに、君島さんは左にウィンカーを出し、路肩に車を停める。
「タバコ吸ってるね」
まだ雨が降ってるというのに。
車外で一服をしてくれる。私は仕方なく平井デイサービスに折り返した。大雨の影響で送迎時間が早まると職員が言う。夫が帰るのは六時。お義父さんが帰るのは五時。
やはり雨は不愉快だ。
私が窓をノックすると、雨粒で服の色が少し変わった彼が戻って来る。
「ごめんなさい」
「しょうがないよ。家まで送るね」
あっけなく家まで着いてしまった。
帰りの車内は大雨で浸水したかと思うほど、雨の匂いと重苦しい空気が私の周りに流れていた。
エンジンが切られると、私はじっと彼を見つめた。素知らぬふりなどもう出来なかった。
キスだけでも。
私の気持ちを見透かされたのか、共鳴したのかはわからない。君島さんは、私の鼻をツンと触った。その瞬間、オレンジの香水がふわりと私の鼻孔をついた。
私がオレンジを好きな理由。
酸味と甘みと苦みの詰まった彼の香り。
私は深く、息を吸い込んだ。
「また連絡する」
じゃあ、また。と私は素知らぬふりをし、車を降りる。ぐつぐつと煮えたぎったナニカを冷ますには雨で丁度良かったのかもしれない。
帰宅した私はオレンジをカットし、大事に、丁寧に、嚙み締めて、いつものようにお義父さんの帰りを待つことにした。