君がいなくなる前に、十個だけ

第06話 また、転勤

 五つ目の願いの日、俺と彩乃は湊川隧道へ向かった。ここへ来ることを決めたのは、彩乃だった。数日前、いつものようにノートを開いた彼女が、五つ目の欄を指差して言ったのだ。

「ここに行きたい」

「湊川隧道?」

「うん。知ってる?」

「名前くらいはな。でも、中に入れるん?」

「一般公開の日なら入れるんだって。毎月あるみたい」

「わざわざ調べたんか」

「だって、普段は入れない場所なんだもん。でもね、一般公開の日なら入れるんだって。毎月あるみたい」

「そう聞くと、ちょっと気になるな」

「でしょ?」

 彩乃が選んだ湊川隧道は、明治時代に造られた、日本で最初の近代的な河川トンネルとして知られている場所で、普段の神戸の街並みから少し離れるだけで、レンガと御影石に囲まれた地下空間へ入れる。

「なんで、ここにしたん?」

「神戸に住んでなかったら、知らなかったと思うから」

「それ、今までの願いと同じやな」

「うん。でも、今回はちょっと違う」

「どう違うん?」

「陽介と一緒に、昔の神戸を歩いてみたいの」

 俺たちが訪れた日も入口には見学に来た人の姿があった。彩乃は入口に立つと、少し驚いたように内部を覗き込んだ。

「ここ、本当に入れるんだね」

「俺も小さい頃に聞いたことはあるけど、入るのは初めてやな」

「陽介でも初めてなんだ」

「神戸に住んどっても、知らん場所はいっぱいあるからな」

「じゃあ、今日は一緒に初めてだね」

 彩乃が笑いながら歩き出したので、俺もその隣へ並ぶ。隧道の中へ入ると、外の光が少しずつ遠ざかり、レンガの壁と御影石で造られた空間が目の前に広がっていく。天井から落ちる水滴の音や二人の足音が壁に反響し、さっきまで歩いていた街とは別の場所へ来たような感覚があった。彩乃はスマートフォンを取り出したものの、すぐに撮影することはせず、しばらく黙って周囲を見回していた。俺はそんな横顔を見ながら、今日も彼女はこの場所を覚えて帰るつもりなのだろうと思った。

「綺麗だね」

「トンネルやのに?」

「うん。レンガの色とか、石の形とか、ちゃんと残ってるんだなって思って」

「俺には、ただの古いトンネルに見えとったわ」

「そういうところ、陽介らしいね」

「なんやそれ」

「だって、長田の商店街も普通の場所だと思ってたでしょ?」

「……まぁなぁ」

 そう言われて、俺は少し笑ってかえす。長田の商店街も、モトコーも、新開地も、須磨の海も、俺にとっては生活の中にある場所だった。それなのに、彩乃と一緒に歩くようになってから、今まで気にしたことのなかった景色が妙に目へ入るようになった。今の湊川隧道も同じだった。レンガの壁に残る古い時間を眺めながら歩いていると、彩乃がここを願いの一つに選んだ理由が少し分かった気がする。有名な場所だからではなく、神戸で暮らしていたからこそ知ることができた場所だからだ。

 しばらく歩いていると、彩乃が隧道の壁へ手を伸ばしかけて、触れずに引っ込めた。地下を流れる水の音が遠くから聞こえ、二人の間に自然と静かな時間が生まれる。彩乃は前を向いたまま、ぽつりと口を開いた。

「私ね、こういう場所も覚えておきたいの」

「こういう場所?」

「神戸に住んでなかったら、たぶん知らなかった場所」

「観光地じゃなくても?」

「うん。むしろ、そういう場所がいいのかも」

「なんで?」

 彩乃はすぐには答えなかった。少し歩いてから、俺のほうを振り向く。

「神戸で暮らしてたって思い出せるから」

 その言葉が胸に残った。彩乃が集めているのは、写真に残しやすい景色だけではない。学校帰りに通った道や、俺と一緒に食べたもの、何気なく歩いた場所まで、全部を自分の記憶に残そうとしている。それなら、今までの願いも同じだったのだろう。俺はそう考えながら、少し先を歩く彩乃の背中を追った。

「陽介」

「ん?」

「私、神戸に来たばかりの頃は、ここもすぐ離れる場所だと思ってた」

「神戸も?」

「うん。お父さんの仕事だから、いつかまた転勤するって思ってた」

 彩乃の声は、隧道の壁に小さく反響した。俺はその言葉を聞きながら、三年前のことを思い出した。高校一年生で転校してきた彩乃は、最初から誰とでも話せたわけではなかった。それでも少しずつ学校に馴染み、俺と帰るようになって、長田の商店街を歩くようになった。俺にはただの日常だった時間が、彩乃にとっては少しずつ神戸を好きになるきっかけになっていたのだ。

「今まで、何回くらい引っ越したん?」

「覚えてるだけでも、六回かな」

「そんなに?」

「小さい頃からだからね」

「大変やったんちゃう?」

「大変だったよ。でも、慣れるしかなかったから」

 彩乃はそう言って笑った。でも、その笑顔を見ていると、俺には「慣れた」という言葉の裏側に、何度も別れを経験してきた時間があるように思えた。新しい学校へ行って、新しい友達を作って、街を覚えて、それからまた離れる。その繰り返しなら、好きになった場所を手放すことにも慣れてしまうのかもしれない。

「だからね、私、いつも決めてたの」

「何を?」

「その街を好きになりすぎないこと」

「……それ、寂しくないん?」

「寂しいよ。でも、最初から離れるって分かってたら、そのほうが楽だから」

 俺は何も言えなかった。俺にとって神戸は、生まれたときからそこにあった街だ。卒業後もここで働くつもりだから、今歩いている道も、商店街も、山も海も、これから先も見られると思っている。だから、好きになった場所を失うことなんて考えたことがなかった。
 彩乃は違う。好きになるほど、別れが辛くなることを知っている。それでも今の彼女は、神戸の景色を一つずつ大切に見ている。

「じゃあ、神戸は?」

 自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。

「神戸は……」

 彩乃が足を止めた。薄暗い隧道の中で振り返った顔には、さっきまでの笑顔が消えている。

「神戸は、好きになりすぎちゃった」

 その一言を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。

「なんで?」

「陽介がいたから」

「俺?」

「うん」

 彩乃は少し照れたように笑った。

「放課後に一緒に歩いたり、くだらない話をしたり、長田でご飯食べたり、いろんなところへ行ったりしたでしょ?」

「まぁ、そうやな」

「そういうのが全部、神戸の思い出になっちゃったの」

 俺は返事をしながら、目の前に広がるレンガの壁を見つめた。今までなら、この場所を見学したというだけで終わっていたはずだ。でも今日は違う。彩乃がここで見たものも、俺と歩いた時間も、卒業後には彼女の中に残る思い出になる。そう考えると、俺にとって当たり前だった神戸という街が、急に大切なものへ変わっていく気がした。

 隧道を出る頃には、外は夕方になっていた。入口から差し込む光が思った以上に眩しくて、俺は一度目を細める。彩乃も同じように目を細めながら、空を見上げた。

「外、明るいね」

「ずっと中におったからな」

「なんか、少し寂しい」

「まだ帰らんでええやろ?」

「そうじゃなくて」

 彩乃は笑ったあと、鞄の中からいつものノートを取り出した。ページを開くと、そこには五つ目の願いまでが書かれている。俺はその文字を眺めながら、残りの願いが少なくなっていることを意識した。

「あと、いくつ?」

「五つ」

「半分か」

「うん」

「早いな」

「……そうだね」

 彩乃がノートを閉じた。その仕草を見た瞬間、俺の中に妙な不安が生まれた。願いが減ることは、卒業が近づくことでもある。そして卒業が来れば、彩乃は神戸を離れる。今までは頭の中で分かっていたはずなのに、今日はその事実が妙に近く感じられた。

 駅へ向かって歩いていると、街の明かりが一つずつ灯り始めた。彩乃はしばらく黙っていたが、交差点の手前で突然足を止めた。俺も立ち止まり、隣を見る。彩乃は鞄の持ち手を両手で握ったまま、俺を見つめていた。

「陽介」

「なんや?」

「話さないといけないことがあるの」

「……なんや?」

「お父さんの転勤が決まった」

 その言葉を聞いた瞬間、周囲の音が遠くなったように感じた。車の走る音も、信号の音も、人の話し声も聞こえている。それなのに、俺の意識には彩乃の言葉だけが残っていた。

「卒業したら、家族で神戸を離れることになったの」

「……そうか」

「うん」

「どこへ行くん?」

「まだ詳しくは決まってない。でも、神戸じゃない。遠いところってだけ」

 分かっていたはずだった。彩乃は転勤族で、いつか神戸を離れる可能性がある。ノートに十個の願いを書いた理由だって、今なら分かる。それでも、実際に聞かされると胸が苦しくなった。

「彩乃は、大丈夫なん?」

「大丈夫だと思ってた」

「思ってた?」

「うん。今まで何回も引っ越してきたから、今回も大丈夫だって」

 彩乃は笑おうとしたのだが、その顔はすぐに崩れた。目元に涙が浮かび、一粒が頬を伝って落ちていく。俺は何か言わなければと思ったのに、言葉が出てこなかった。

「でも……」

「うん」

「神戸は、離れたくないんだ」

 彩乃の声が震える。

「陽介とも、離れたくない」

 胸の奥を強く掴まれたような気がした。俺は彩乃の涙を見ながら、今まで一緒に叶えてきた願いを思い返していた。長田の商店街も、モトコーも、新開地も、須磨も、今日の湊川隧道も、全部が彩乃にとって神戸で過ごした時間そのものだった。

「俺も……離れたくない」

 気づけば、そう言っていた。

「……本当に?」

「うん。俺は神戸に残る。でも、彩乃がおらん神戸は、今までと同じにはならんと思う」

 彩乃は涙を拭いながら、少しだけ笑った。

「じゃあ、まだ願いは残ってるね」

「あと五つやろ?」

「うん」

「全部、付き合うで」

「約束?」

「約束や」

 彩乃は小さく頷いた。夕暮れの神戸を並んで歩きながら、俺は初めて、十個の願いを最後まで叶えたいと強く思った。彩乃に頼まれたからではない。卒業の日が来るまで、できるだけ長く、この街で彼女の隣にいたいと思ったからだ。
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