君が思い出になる前に

第40話 もう一度、二人で

週が明けた。

月曜日の朝。

葵はいつものように電車に乗り、会社へ向かった。

けれど、何かが少しだけ違っていた。

窓に映る自分の顔を見ながら、昨日までとは違うことを考えている。

仕事の予定。

今日の打ち合わせ。

午後のプレゼン。

今週中に仕上げる企画書。

どれも、もちろん大切だった。

けれど、それだけではなくなっていた。

土曜日に悠真と歩いた街のことを思い出す。

知らない本屋。

小さな定食屋。

川沿いの道。

悠真が高校生の頃に見ていた景色。

自分が知らなかった彼の時間。

四年間一緒にいたのに。

まだ知らないことが、たくさんあった。

会社に着くと、葵はパソコンを開いた。

いつもの仕事が始まる。

昼休みになっても、以前のようにスマートフォンを何度も確認することはなかった。

悠真から連絡が来ているか。

次はいつ会えるか。

そんなことばかり考えるのではなく、自分の目の前にある仕事にもちゃんと集中できた。

午後の打ち合わせが終わった頃。

スマートフォンが震えた。

悠真からだった。

──今日、少し電話できる?

葵は画面を見つめた。

以前なら、すぐに「できるよ」と返していた。

けれど今日は、時計を確認した。

まだ仕事が残っている。

だから。

──うん。帰ってからでもいい?

そう返した。

すぐに返信が来る。

──分かった。待ってる。

その文字を見て、葵は小さく笑った。

待ってる。

その言葉が、以前よりも嬉しく感じた。

その日の仕事を終えたのは、午後七時過ぎだった。

以前の葵なら、まだ会社に残っていたかもしれない。

けれど今日はパソコンを閉じた。

「お疲れさまでした」

そう言って会社を出る。

外はもう暗かった。

帰宅して簡単に夕食を済ませる。

そして、八時半。

スマートフォンが鳴った。

「もしもし」

『もしもし』

悠真の声。

たったそれだけで、土曜日の景色が蘇る。

「今日はどうだった?」

『普通。父さんの病院に行ってきた』

「そっか。具合は?」

『今のところ落ち着いてる』

「よかった」

少し話してから、葵が聞いた。

「ねえ、悠真」

『ん?』

「土曜日、楽しかった?」

『楽しかったよ』

「私も」

そこで会話が途切れた。

いつもの電話なら、どちらかが仕事の話をしたり、今日あったことを話したりする。

でも今日は、二人とも何かを待っているようだった。

先に口を開いたのは、悠真だった。

『葵』

「うん」

『もう少し、ちゃんと話さない?』

「……何を?」

『俺たちのこと』

胸が小さく跳ねた。

「……うん」

『別れてるわけじゃない』

「うん」

『でも、前と同じでもないよな』

葵は黙った。

その言葉を、否定できなかった。

「……そうだね」

『俺、土曜日に葵と会って、少し安心した』

「私も」

『でも、安心しただけじゃ駄目なんだと思う』

葵は黙って聞いた。

悠真の声は穏やかだった。

責めるわけでもない。

別れを迫るわけでもない。

ただ、逃げずに話そうとしている。

『俺たち、四年間一緒にいたから』

「うん」

『だから、離れたからって簡単に終わるものじゃないと思う』

「私もそう思う」

『でも』

その一言のあと、少し長い沈黙があった。

『続けるなら、今までとは違う形じゃないといけないと思う』

葵は目を閉じた。

それは、ずっと心のどこかで感じていたことだった。

「……どういう形がいいと思う?」

『分からない』

悠真は正直に答えた。

『俺も分からない』

その答えに、葵は少しだけ救われた。

分からないのは、自分だけではなかった。

『だから、もう少し一緒に考えたい』

「うん」

『次に会ったときに』

「うん」

『そのとき、昔のことも話さない?』

「昔のこと?」

『俺たちが付き合い始めた頃のこととか』

葵は少し笑った。

「急にどうしたの?」

『土曜日、葵が俺の昔の話を聞きたがっただろ』

「ああ……」

『俺も、葵のことをもっと知りたいと思った』

葵の胸が、静かに温かくなる。

『だからさ』

悠真が言った。

『今度は、俺たちが一緒に行った場所を、もう一回行ってみない?』

「……一緒に行った場所?」

『うん』

葵は少し考えた。

思い浮かぶ場所はいくつもあった。

初めて手を繋いだ場所。

雨宿りしたカフェ。

二人で将来の話をした場所。

四年間の中に、たくさんの場所がある。

「……いいね」

葵は笑った。

「行きたい」

『じゃあ、次に会うときは、そうしよう』

「うん」

電話を切ったあと。

葵はしばらく動かなかった。

昔の場所へ行く。

それが何を意味するのかは、まだ分からない。

ただ、ひとつだけ分かることがある。

二人は、過去に戻るために会うのではない。

今の二人で、過去を見つめ直すために会うのだ。

葵はスマートフォンを置いた。

窓の外を見る。

東京の夜景。

ここは、自分が今暮らしている場所。

悠真は遠くの町で暮らしている。

距離は変わらない。

それでも。

今日までとは、少しだけ違う気がした。

「次は、どこから行こうかな」

葵は小さく笑った。

そして、四年間の記憶を一つずつ思い浮かべ始めた。
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