氷の公爵様は、愛を知らない令嬢を離してくれない

第二話 何もしなくていい朝

 翌朝。

 エレノアは、まだ空が明るくなる前に目を覚ました。

 見慣れない天井。

 柔らかな布団。

 暖かな部屋。

 数秒だけ、ぼんやりと天井を見つめる。

 それから身体を起こした。

 時計を見ると、まだ朝の五時だった。

 いつもと同じ時間。

 エレノアはベッドから降りると、静かに身支度を始めた。

 髪を整え、寝間着を畳む。

 そして部屋を出た。

 廊下には誰もいない。

 エレノアはそのまま歩き、昨日案内された使用人用の場所へ向かった。

 掃除道具を見つける。

 手に取る。

 ――何をすればいいのか。

 考えるまでもなかった。

 掃除をする。

 それが今までのエレノアの日常だった。

「……お嬢様?」

 突然、後ろから声がした。

 振り返る。

 昨日から自分付きになった侍女、マリアが立っていた。

「おはようございます」

「お、おはようございます……」

 マリアはエレノアが持っている箒を見つめた。

「それは……?」

「掃除をしようと思いまして」

「……掃除?」

「はい」

「なぜですか?」

「仕事ですので」

 マリアは数秒、黙った。

「お嬢様のお仕事ではありませんよ」

「……そうなのですか?」

「はい」

 エレノアは箒を見る。

 そしてマリアを見る。

「では、私は何をすればよろしいのでしょうか?」

「え?」

「仕事がないのであれば、何をすればよいのかわかりません」

 マリアは言葉を失った。

 普通の令嬢なら、朝はゆっくり起きて、侍女に着替えを手伝ってもらい、朝食を食べる。

 その後は刺繍をしたり、本を読んだり、友人と話したり。

 何もしない時間があっても、困ることなどない。

 しかし目の前の少女は違う。

 仕事がないことそのものを、不思議に思っている。

「……そうですね」

 マリアは少し考えた。

「それなら、今日は私と一緒にお散歩でもしませんか?」

マリアは優しく微笑んだ

「散歩……ですか?」

「はい。お庭がとても綺麗なんですよ」

「わかりました」

 エレノアは素直に頷いた。




 ◇

 庭へ出ると、朝露に濡れた花々が朝日に照らされていた。

「綺麗でしょう?」

「……はい」

 エレノアは足を止めた。

 昨日、部屋から見た庭。

 近くで見ると、もっと綺麗だった。

「こちらには薔薇がたくさんあります。春になると、もっと綺麗になりますよ」

「そうなのですか」

「ええ」

 マリアが嬉しそうに話す横で、エレノアは花を見つめている。

 しばらくすると、一人の男性が花壇の手入れをしていることに気づいた。

「お嬢様、おはようございます」

 男性が顔を上げた。

「おはようございます」

 エレノアも頭を下げる。

「庭師のトーマスです。昨日からお嬢様が来られると聞いております」

「エレノア・ベルナールです。よろしくお願いいたします」

「こちらこそ」

 トーマスは土のついた手袋を外した。

「花がお好きですか?」

「……」

 エレノアは花を見る。

「わかりません」

「え?」

「綺麗だとは思います」

「それなら、好きなんじゃないですか?」

「……そう、なのでしょうか」

 本気でわからないようだった。

 トーマスは少しだけ目を細める。

「では、好きということにしておきましょう」

「はい」

 エレノアは素直に頷いた。

 その会話を見ていたマリアが、思わず微笑む。

「お嬢様、こちらの花は何という名前かご存じですか?」

「……存じません」

「これはリュミエールという花です」

「リュミエール……」

 エレノアは小さく繰り返した。

 まるで覚えるように。

「綺麗な名前ですね」

 トーマスが笑った。

「花も綺麗ですよ」

「はい」

 ほんの少し。

 エレノアの口元が緩んだ。

 マリアはそれを見逃さなかった。

 昨日から一度も笑わなかった少女が、初めて見せた表情だった。




 ◇

 朝食の時間。

 エレノアが食堂へ入ると、すでにレオンハルトが席についていた。

「おはようございます」

「……おはよう」

 エレノアは席に座る。

 目の前には、いくつもの料理が並んでいた。

 焼きたてのパン。

 卵料理。

 野菜のスープ。

 果物。

 そして柔らかな肉料理。

 エレノアはしばらく料理を見つめた。

「……どうした?」

「いえ」

「食べないのか?」

「いただきます」

 エレノアはナイフとフォークを手に取った。

 そして、少しずつ食べ始める。

 ゆっくり。

 とてもゆっくり。

レオンハルトは不思議そうに顔を上げた。

「……それだけか?」

「はい」

 エレノアの皿には、ほんの少ししか料理が残っていない。

 いや。

 正確には、最初からほとんど取っていなかった。

「足りないだろう」

「問題ございません」

「そうか」


 しばらくして、エレノアが食事を終える。

「ごちそうさまでした」

 立ち上がろうとしたところで、

「待て」

「はい?」

「果物が残っている」

「……?」

「食べないのか?」

「いただいても、よろしいのですか?」

 レオンハルトの手が止まった。

「……当然だ」

「ありがとうございます」

 エレノアは小さく頭を下げた。

 そして果物を一切れ食べる。

 それを見て、レオンハルトは何とも言えない違和感を覚えた。

 ――なぜ、いちいち許可を取る?

 だが、深く考えることはなかった。

「今日は何をする?」

「……」

 エレノアは困ったように黙った。

「わかりません」

「マリアに聞けばいい」

「はい」

 それだけ言って、エレノアは食堂を出ていった。

 レオンハルトはその背中を見送った。

「……変わった娘だ」

 小さく呟く。




 ◇

 昼前。

 エレノアは厨房にいた。

「お嬢様、こちらへどうぞ」

 料理長のローズが笑顔で手招きする。

「ここは厨房ですか?」

「そうですよ」

「私が入ってもよろしいのでしょうか」

「もちろん」

 ローズは小さな焼き菓子を一つ差し出した。

「どうぞ」

 エレノアは受け取った。

「……これは?」

「焼き菓子です。食べてみてください」

「よろしいのですか?」

「ええ」

 エレノアは一口食べた。

 サクッ。

 口の中に甘さが広がる。

 エレノアの目が、ほんの少しだけ開いた。

「……」

「どうです?」

「……美味しい、です」

 ローズは嬉しそうに笑った。

「よかった!」

 エレノアはもう一口食べる。

 そして、

「もう一つ、いただいてもよろしいでしょうか」

 ローズが固まった。

 エレノア自身も、自分がそんなことを言ったことに少し驚いていた。

「もちろんです!」

 ローズは笑いながら、もう一つ焼き菓子を渡した。

「たくさんありますからね」

「……ありがとうございます」

 エレノアは大切そうに両手で受け取った。




 ◇

 その日の夕方。

 エレノアは自室の窓辺に座っていた。

 朝に見た花。

 昼に食べた焼き菓子。

 初めて話した庭師。

 初めて優しく料理を渡してくれた料理長。

 どれも、今まで知らなかったものだった。

「……今日は、色々ありました」

 誰に言うでもなく呟く。

 それからベッドへ入った。

 柔らかな布団に身体を沈める。

 こんなに柔らかいベッドで眠るのも初めてだった。

 目を閉じる。

 胸の奥に、昨日までにはなかった小さな何かが生まれている。

 それが何なのか。

 エレノアにはまだわからない。

 ただ――

 今日という日は、少しだけ嫌いではなかった。




 ◇

 一方その頃。

 公爵家の執務室では、

レオンハルトが一人書類に目を通しながら

 ふと、朝食のときの少女を思い出す。

 ――「いただいても、よろしいのですか?」

 なぜ、そんなことを聞いたのだろう。

 果物一つ食べることさえ、許可が必要だと思っているような言い方だった。

「……」

 レオンハルトはペンを置く。

 そしてすぐに、

「くだらない」

 と呟いた。

 妻の過去など、自分には関係ない。

 そう思い直して、再び仕事へ戻る。

 けれど。

 その夜、彼の頭からあの少女の姿が完全に消えることはなかった。
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