氷の公爵様は、愛を知らない令嬢を離してくれない
第四話 もう、遠慮しなくていい
翌朝。
エレノアはいつものように、朝日が昇る前に目を覚ました。
身支度を整え、寝台の上の布団を綺麗に整える。
それから、何か仕事がないかと部屋を出ようとしたところで――
「お嬢様」
扉の前に、マリアが立っていた。
「おはようございます」
「おはようございます。……朝食へ参りましょう」
「はい」
エレノアは素直についていく。
食堂へ入ると、すでにレオンハルトが席についていた。
「おはようございます、公爵様」
「ああ」
エレノアが席につく。
ほどなくして、料理が運ばれてきた。
パン。
卵。
野菜のスープ。
焼いた肉。
果物。
いつもと変わらない、豪華な朝食。
エレノアはパンを一切れだけ取り、卵を少しだけ皿へ乗せた。
それを見たレオンハルトが、眉を寄せる。
「……それだけか?」
「はい」
「昨日も同じだったな」
「そう、でしたでしょうか」
「そうだ」
レオンハルトは彼女の皿を見る。
小さすぎる。
十六歳の少女が食べる量とは到底思えない。
「なぜ食べない?」
「……」
エレノアは少し考える。
「食べてはいけないと言われておりましたので」
レオンハルトの手が止まった。
「誰に?」
「父にです」
「……いつ?」
「幼い頃からです」
あまりにも淡々とした口調だった。
まるで、どうでもいいことを話しているように。
レオンハルトは昨日の調査報告を思い出した。
十分な食事を与えられていなかった。
新しい衣服も買ってもらえなかった。
家事をさせられていた。
そして今。
食べることさえ、自分で制限している。
「……エレノア」
「はい」
「この家では、誰も君に食べるなとは言わない」
「……」
「むしろ逆だ」
レオンハルトは目の前の料理を指した。
「食べろ」
「はい」
「遠慮する必要もない」
「はい」
「好きなだけ食べていい」
エレノアは目を瞬かせた。
「……好きなだけ、ですか?」
「ああ」
「……残しても?」
「構わない」
「たくさん食べても?」
「構わない」
「……」
エレノアは料理を見る。
それからレオンハルトを見る。
「本当に、よろしいのでしょうか」
「何度言わせるつもりだ」
「申し訳ございません」
「だから、謝るな」
「……はい」
エレノアは少しだけ困った顔をした。
そして。
今までよりほんの少し多く、料理を皿へ取った。
それを見たレオンハルトは、何も言わなかった。
◇
朝食が終わる頃。
エレノアの前には、まだいくつか料理が残っていた。
彼女はフォークを置いた。
「ごちそうさまでした」
「もう終わりか?」
「はい」
「足りたか?」
「……」
エレノアは自分のお腹へ手を当てる。
「……わかりません」
レオンハルトは思わず目を細めた。
「わからない?」
「お腹がいっぱい、という感覚を……あまり知りませんので」
まただった。
この少女は、何も知らない。
空腹も。
満腹も。
好き嫌いも。
欲しいものも。
普通の人間なら幼い頃に自然と覚えるようなことを、何一つ教えられていない。
レオンハルトは静かに息を吐いた。
「ローズを呼べ」
「かしこまりました」
近くにいた侍女が頭を下げる。
しばらくして料理長のローズがやってきた。
「お呼びでしょうか、旦那様」
「エレノアの食事について、今後は少し考えてくれ」
「……はい?」
「食べられるだけ食べさせろ」
「承知しました」
レオンハルトはエレノアを見る。
「嫌いなものがあれば言え」
「……」
「何でも食べる必要はない」
「嫌いなもの……」
エレノアは真剣に考える。
「わかりません」
「……そうか」
ローズが困ったように笑った。
「では、少しずつ色々なものを食べていただきましょう」
「はい」
エレノアが頷く。
「お嬢様。明日の朝は何が食べたいですか?」
「……」
また、エレノアは考え込んだ。
しばらくして。
「……卵が、食べたいです」
ローズの目が丸くなる。
「卵ですか?」
「はい」
「では、明日は卵料理にしましょう!」
「……ありがとうございます」
エレノアは小さく頭を下げた。
その横顔を見ながら、レオンハルトは何も言わなかった。
ただ。
彼女が自分から「食べたい」と言ったことだけが、妙に印象に残った。
◇
その日の昼。
「お嬢様、昼食の時間ですよ」
マリアが呼びに来た。
「はい」
エレノアは食堂へ向かう。
そこには、ローズが用意した料理が並んでいた。
「今日はスープとパン、それから柔らかく煮込んだお肉です」
「……はい」
「無理に全部食べなくても大丈夫ですよ」
「わかりました」
エレノアは席につく。
そして、一口。
スープを飲む。
「……」
もう一口。
肉を食べる。
「……美味しいです」
ローズが嬉しそうに笑った。
「よかったです」
それでも、まだ量は少ない。
けれど。
食事が終わったとき、エレノアは小さく呟いた。
「……もう少し、食べてもよろしいでしょうか」
「もちろんです!」
ローズはすぐに料理を取り分けた。
「いくらでもどうぞ」
エレノアは少しだけ目を見開いた。
「……ありがとうございます」
そして、もう一口。
◇
その日の夕方。
レオンハルトは執務室で仕事をしていた。
そこへセバスチャンが入ってくる。
「旦那様」
「何だ」
「エレノア様ですが、本日の昼食はいつもより多く召し上がりました」
「そうか」
「それから、料理長に『もう少し食べてもいいか』と尋ねられたそうです」
レオンハルトのペンが止まった。
「……そうか」
「はい」
「それだけか?」
「はい」
「……」
なぜだろう。
ほんの少しだけ、胸の奥が軽くなった。
食べた。
それだけの話なのに。
「今後も食事の量には気をつけろ」
「かしこまりました」
セバスチャンが出ていく。
レオンハルトは再び書類へ目を落とす。
だが、しばらくして。
ペンを持つ手が止まった。
「……もう少し、食べたか」
誰もいない部屋で、ぽつりと呟く。
自分でも馬鹿らしいと思う。
妻が食事をした。
それだけのことだ。
けれど。
翌朝の朝食に、エレノアの好きだと言った卵料理を出すよう、無意識のうちに料理長へ伝えていた。
まだ彼は、それを「気遣い」だとは認めていなかった。