夜の庭
6節
「待ち望んでいたとはどういうことだ?」
目を見て話をするように言われてはいたが、エリザベスはとてもそんなことはできなかった。ドアの前に立ちふさがったシルヴィから少し離れてエリザベスは立ち止まった。
「私にそんなに興味があるとは思いませんでしたわ。ひと月、何の音沙汰もありませんでしたのに」
エリザベスは何とかこの場を逃げ出そうとしていた。そうできるなら、シルヴィの痛いところをついてもかまわないと思った。
「だからそれは悪かったと言っている……」
「あなたこそ……あなたこそ、どうして私を妻にしようなどと、奇特なことを考えたのです? ああ、それはでも口が裂けても本当のことなど言えませんわね。皇太子殿下からのお話では断りようが――」
エリザベスがそこまで言うと、シルヴィはかっと目を開いて、エリザベスの腕を猛然とつかんだ。
「そんな話を誰から聞いた? だれだ? ケイティか?」
シルヴィはエリザベスの肩をつかみなおして揺さぶったが、エリザベスは身を硬くした。彼に触れられると、どんな形であれ身体がこわばる。あの大きな手が私の肩をつかんでいる。もう触れることさえかなわないと思っていたあの大きな手が……
シルヴィはエリザベスを揺さぶるのをやめた。そして、エリザベスの肩に手をかけたまま一度下を向いて大きく息をついた。
「よろしい。では、私のことから話そう。そのかわり君も私が訊いたことに正直に答えるんだ。いいね?」
グレーの強い青みがかった大きな虹彩の瞳がエリザベスを見た。エリザベスはケイティのことはそれでも絶対に話すまいと決心していた。
「君が言ったように、確かに、皇太子ははっきり言わなかったが、そう仕向けられた。多分ピアソンがはじめに話を持っていったのだと思う。どうしても私と君を結婚させたかったのだ。ピアソンがどうしてそうさせたかったのか理由はわからない。話がはじめに出たのはもう一年以上も前のことだから、もしかすると、君の先行きを心配した君の父上から頼まれていたのかもしれないな」
「父が?」
エリザベスはそれを聞いてまさかと思った。父は私を結婚させたくなかったのだ。父が頼んでいたなんてありえない。
「バーティの方は私がロンドンにいるのを以前から望んでいたから、結婚すれば家にいると思ったんだろう。私もはじめはそうするつもりだったが、フランスへ行けと命令がでた」
その話はどこまで本当なの? はじめは家にいるつもりだった? けど、命令が出たから、何の音沙汰もなくひと月も家を空けたというの? エリザベスはシルヴィが信じられなかった。
「そうですわね。私は別に――あなたがお仕事でどちらにいらっしゃろうが、文句を言うつもりはありません。私の好きなようにさせてくださるのですから。さっきのは失言でしたわ」
うつむいたままエリザベスが言った。シルヴィはやはり義理で結婚したのだ。あんなことを言うのではなかった。自分が告白したところでどうなるというのだ。
「だが、この有り様は夫婦ではないと思っている。そうだろう?」
エリザベスはシルヴィがそんなことを言うのに驚き、また答えに窮した。こんな話をしていったいどうなると言うのだろう? 私は何も望んでいない。ただ、時折、あなたが帰ってきてくれて、その顔を見せてくれるだけでいいの。それ以上は望まない。
「私がどう思うかなんて、いちいち斟酌しないでください。私はあなたの妻でいられるだけで充分なのですから」
しかし、シルヴィはそれを聞いて大きく首を振った。
「エリザベス。君が怒っているのはわかるが、私が君を屋敷の置物にしたような言い方をするのはやめてくれ。私は君を妻として迎えた。確かに人から薦められたことではあったが、後悔などしていない。それどころか……」
シルヴィは言いよどんで、エリザベスの顔をまじまじと見つめた。「ひと月もほうっておいて本当に悪かった。これからは――」
シルヴィがエリザベスの手を取ったその時、閉ざされた食堂の扉の裏から誰かがノックするのが聞こえた。
「だんな様。ピアソン卿から使いが来ています」
エヴァンズが扉の裏にいた。シルヴィは一瞬迷ったようだったが、「ホールに待たせておいてくれ」とドアの向こうのエヴァンズに叫んだ。そして、エリザベスを自分の方へ引き寄せて強引に唇を重ねた。
それは今までエリザベスが覚えているあの泉のほとりでかわしたのと同じ、長くて熱い本当のキスだった。あの時と同じで、エリザベスははじめ、どうやって応えたらいいのかわからなかった。シルヴィがエリザベスの口を少しずつ開かせ、エリザベスはおそるおそるそれに応えた。シルヴィが自分を求めている……泉のそばで交わしたキスは何度も夢に見た。何度も夢に見ているうちに、あれが現実だったとはとても思えなくなっていた。けど、これは……身体中が緊張しているけれど、本物のシルヴィ。彼が次はどうしたらいいか教えてくれる。エリザベスは自分の身体がだんだん熱くなって来るのを感じた。
しかし、シルヴィはピアソンの使いのことを忘れてはいなかった。エリザベスの気持ちとは裏腹に、シルヴィはエリザベスを開放した。エリザベスはその衝撃を隠せず、胸を抑えながら大きく呼吸をした。シルヴィはエリザベスを見て微笑み、頬に手をあててもう一度軽く唇に触れたが、その後すぐ、食堂のドアを開けてエヴァンズから使いが持ってきた手紙を受け取った。暖炉のそばまで歩きながら手紙を読むと、シルヴィは暖炉の壁をドンとたたいた。
「こんな時に!」
ピアソンはパリでスエズ運河に向かう船の安全を確保するため、フランス政府に海賊船の一掃を同盟国として持ちかけていた。ピレネーのフランス側の地中海に面した場所からはしょっちゅう海賊に襲われる船が出ている。フランス政府は了解したが、この場所の元々の領主であるラトゥール・ドゥ・カロルの城主にはあらためてイギリス政府から正式の協力要請を出さなければならない。ピアソンはその親書を手配して、すぐフランスへやってくるように言ってきたのだった。
ダウニング街に戻って、十番地にいるあの男をたたき起こし、親書を書いてもらわねばならない。一晩で終わるか。一旦はここに戻ってこれるだろうが……
腕組みしてしばらく立ったまま考え事をしていたシルヴィはエヴァンズに言った。
「出かけるからしたくをしてくれ」
それを聞いたエリザベスは、今さっきあったことが嘘だったような気がした。また行ってしまうの?
シルヴィは食堂の方へ戻ってきてその大きな身体でエリザベスを抱きしめた。
「出かけなければならなくなった。すまない……」
シルヴィの固い胸板が、自分の頬にあたっている。こんな風に男の人は女性を抱きしめるのだ。暖かくて太い腕で。
「帰ってきたら、続きを……」
シルヴィが耳元でささやいて額にキスした。エリザベスは体中が熱くなってどうにかなりそうだった。彼はすぐに帰ってきてくれるだろうか。本当に自分のことを忘れずにいてくれるだろうか。ああ、期待しすぎてはいけない。けど……
「――いつ、帰っていらっしゃいますか?」
エリザベスは恐る恐る訊ねた。
「今夜はわからない。明日の朝か……先に寝ていなさい」
シルヴィはエリザベスの唇にもう一度キスして、エヴァンズと自分の部屋へ戻っていった。
さっきのキスは――あれは彼が愛している人にするキスなのだろうか? まるで雷に打たれるかのような衝撃……エリザベスは大きく息をついて胸を抑えた。
ああ、胸が痛い。彼は私を愛してくれるというの? もしかしたら、サウスハンプトンのあの泉に出かけたときのように戻ってくれると。
エリザベスは自分が再び叶わない夢の世界に溺れるのが怖かった。彼に初めて会った日から、ずっと夢を見つづけてきた。それは長い間ずっと夢でしかなかった。叶わない夢ではあるが、たとえ目が覚めても幸せな夢だったと、その余韻を味わうことさえ出来るものだった。それがついふた月前、本当の彼が現われて、それが本当になると宣言した。確かに、生活は一変し、今まで夢にしか現われなかった彼の姿を、本当にそばで見られることになったのだ。
けれど……ここに出てきてからは、心を惑わすようなことしか起こらなかった。期待していた全てが嘘だったかのように。
夢でない彼は存在しないか、あるいは存在を否定するかのように自分を無視し続けた。最近では、そんなことを期待する方が馬鹿だったのかもしれないと思い始めていた。
――けど、彼は私に謝ったわ。今まで放っておいて悪かったと。
これを信じてもいいのだろうか。本当に彼は帰ってきてくれるのだろうか。これは夢でなくなるのだろうか。エリザベスはまた眠れない夜を過ごした。
翌日の夕方、シルヴィは疲れた顔で屋敷に戻ってきた。エリザベスは玄関ホールで迎えたが、シルヴィはまたすぐに出かけると言った。
その時のエリザベスの落胆はもはや隠せるものではなかった。やはり、また行ってしまう。
「エリザベス。頼むから、そんなに悲しい顔をしないでくれ。今度は出来る限り早く戻ってくる」
「――どちらへ?」
「フランスだ」
フランス……エリザベスの頭の中にちらと良くないことがよぎった。
「いつまでですか。またひと月も先に戻ってこられるの?」
エリザベスはシルヴィがいるなら、サウスハンプトンに戻るのはやめようと思っていた。けれど、もしまた長く待つのなら……同じことを何度も訊くのは嫌だったが、今度こそ訊かずにはいられない。シルヴィは今度は出来る限り早くと言ったが、こんな風に捨ておかれたようにいるのは嫌だった。このロンドンの屋敷で、他人の噂の種になるのを恐れて外にも出ず、鬱々として過ごすのは。
「わからない。一週間先か、二週間先か……でもひと月はないと思う」
シルヴィのブルーグレーの瞳が寂しげに美しく光った。この人はいつもこんな風に微笑む。そこに嘘は無いかのように。ではもう一度だけ、私は貴方を信じることにするわ。
「そうですか……私、一度サウスハンプトンに戻ろうと思うのですが、いらっしゃらない間に戻ってもいいですか?」
少しためらいながらエリザベスは訊ねた。彼に何かを頼むのなら、このタイミングでなければならなかった。
「戻るってどこへ? 君のいとこの家か」
「ええ。叔母のエレンが一度戻ってきたらと薦めてくれているんです」
シルヴィはこの話を聞いてしばらく考えるようだったが、エリザベスは結局一週間だけということで許可をもらった。ただし、サウスハンプトンにはコリンを一緒に連れて行くという条件つきだ。コリンは十二歳になったばかりだが、この屋敷ではもういっぱし御者の代わりができるほどになっている。これまでもキューへ何度もお供させた。ベネを先に帰らせたことはエヴァンズから聞いてシルヴィも知っていた。まさか従者なしでサウスハンプトンまで帰らせるわけには行かないが、エヴァンズには家にいてもらわねばならないし、屋敷の中の男手として最も役に立っているゴードンはなおさらだった。サウスハンプトンに行かせるだけなら、コリンでいいだろうとシルヴィは言った。
その後、夜通し書斎で何かをやっていたシルヴィは翌日の朝早く出かけることになった。同じように早くに起きだしたエリザベスと玄関ホールで熱いキスをかわし、名残惜しそうに馬車に乗り込んだ。後輪が白い埃を巻き上げていくのを最後まで見送ったエリザベスは、急に寂しくなってがっかりと肩を落とした。ひと月にはならないだろうとシルヴィは言ったけれど、本当のところはわからない。いえ、たとえ少しぐらい長くなっても無事に帰ってきてもらえればそれでいい。ケイティが言ったことが本当なのだとしたら、シルヴィのやっている仕事はきっととても危ないことだ。
そして、エリザベスは以前自分が描きとめたシルヴィを描いたデッサン帳を持ち出し、胸に抱きしめた。
目を見て話をするように言われてはいたが、エリザベスはとてもそんなことはできなかった。ドアの前に立ちふさがったシルヴィから少し離れてエリザベスは立ち止まった。
「私にそんなに興味があるとは思いませんでしたわ。ひと月、何の音沙汰もありませんでしたのに」
エリザベスは何とかこの場を逃げ出そうとしていた。そうできるなら、シルヴィの痛いところをついてもかまわないと思った。
「だからそれは悪かったと言っている……」
「あなたこそ……あなたこそ、どうして私を妻にしようなどと、奇特なことを考えたのです? ああ、それはでも口が裂けても本当のことなど言えませんわね。皇太子殿下からのお話では断りようが――」
エリザベスがそこまで言うと、シルヴィはかっと目を開いて、エリザベスの腕を猛然とつかんだ。
「そんな話を誰から聞いた? だれだ? ケイティか?」
シルヴィはエリザベスの肩をつかみなおして揺さぶったが、エリザベスは身を硬くした。彼に触れられると、どんな形であれ身体がこわばる。あの大きな手が私の肩をつかんでいる。もう触れることさえかなわないと思っていたあの大きな手が……
シルヴィはエリザベスを揺さぶるのをやめた。そして、エリザベスの肩に手をかけたまま一度下を向いて大きく息をついた。
「よろしい。では、私のことから話そう。そのかわり君も私が訊いたことに正直に答えるんだ。いいね?」
グレーの強い青みがかった大きな虹彩の瞳がエリザベスを見た。エリザベスはケイティのことはそれでも絶対に話すまいと決心していた。
「君が言ったように、確かに、皇太子ははっきり言わなかったが、そう仕向けられた。多分ピアソンがはじめに話を持っていったのだと思う。どうしても私と君を結婚させたかったのだ。ピアソンがどうしてそうさせたかったのか理由はわからない。話がはじめに出たのはもう一年以上も前のことだから、もしかすると、君の先行きを心配した君の父上から頼まれていたのかもしれないな」
「父が?」
エリザベスはそれを聞いてまさかと思った。父は私を結婚させたくなかったのだ。父が頼んでいたなんてありえない。
「バーティの方は私がロンドンにいるのを以前から望んでいたから、結婚すれば家にいると思ったんだろう。私もはじめはそうするつもりだったが、フランスへ行けと命令がでた」
その話はどこまで本当なの? はじめは家にいるつもりだった? けど、命令が出たから、何の音沙汰もなくひと月も家を空けたというの? エリザベスはシルヴィが信じられなかった。
「そうですわね。私は別に――あなたがお仕事でどちらにいらっしゃろうが、文句を言うつもりはありません。私の好きなようにさせてくださるのですから。さっきのは失言でしたわ」
うつむいたままエリザベスが言った。シルヴィはやはり義理で結婚したのだ。あんなことを言うのではなかった。自分が告白したところでどうなるというのだ。
「だが、この有り様は夫婦ではないと思っている。そうだろう?」
エリザベスはシルヴィがそんなことを言うのに驚き、また答えに窮した。こんな話をしていったいどうなると言うのだろう? 私は何も望んでいない。ただ、時折、あなたが帰ってきてくれて、その顔を見せてくれるだけでいいの。それ以上は望まない。
「私がどう思うかなんて、いちいち斟酌しないでください。私はあなたの妻でいられるだけで充分なのですから」
しかし、シルヴィはそれを聞いて大きく首を振った。
「エリザベス。君が怒っているのはわかるが、私が君を屋敷の置物にしたような言い方をするのはやめてくれ。私は君を妻として迎えた。確かに人から薦められたことではあったが、後悔などしていない。それどころか……」
シルヴィは言いよどんで、エリザベスの顔をまじまじと見つめた。「ひと月もほうっておいて本当に悪かった。これからは――」
シルヴィがエリザベスの手を取ったその時、閉ざされた食堂の扉の裏から誰かがノックするのが聞こえた。
「だんな様。ピアソン卿から使いが来ています」
エヴァンズが扉の裏にいた。シルヴィは一瞬迷ったようだったが、「ホールに待たせておいてくれ」とドアの向こうのエヴァンズに叫んだ。そして、エリザベスを自分の方へ引き寄せて強引に唇を重ねた。
それは今までエリザベスが覚えているあの泉のほとりでかわしたのと同じ、長くて熱い本当のキスだった。あの時と同じで、エリザベスははじめ、どうやって応えたらいいのかわからなかった。シルヴィがエリザベスの口を少しずつ開かせ、エリザベスはおそるおそるそれに応えた。シルヴィが自分を求めている……泉のそばで交わしたキスは何度も夢に見た。何度も夢に見ているうちに、あれが現実だったとはとても思えなくなっていた。けど、これは……身体中が緊張しているけれど、本物のシルヴィ。彼が次はどうしたらいいか教えてくれる。エリザベスは自分の身体がだんだん熱くなって来るのを感じた。
しかし、シルヴィはピアソンの使いのことを忘れてはいなかった。エリザベスの気持ちとは裏腹に、シルヴィはエリザベスを開放した。エリザベスはその衝撃を隠せず、胸を抑えながら大きく呼吸をした。シルヴィはエリザベスを見て微笑み、頬に手をあててもう一度軽く唇に触れたが、その後すぐ、食堂のドアを開けてエヴァンズから使いが持ってきた手紙を受け取った。暖炉のそばまで歩きながら手紙を読むと、シルヴィは暖炉の壁をドンとたたいた。
「こんな時に!」
ピアソンはパリでスエズ運河に向かう船の安全を確保するため、フランス政府に海賊船の一掃を同盟国として持ちかけていた。ピレネーのフランス側の地中海に面した場所からはしょっちゅう海賊に襲われる船が出ている。フランス政府は了解したが、この場所の元々の領主であるラトゥール・ドゥ・カロルの城主にはあらためてイギリス政府から正式の協力要請を出さなければならない。ピアソンはその親書を手配して、すぐフランスへやってくるように言ってきたのだった。
ダウニング街に戻って、十番地にいるあの男をたたき起こし、親書を書いてもらわねばならない。一晩で終わるか。一旦はここに戻ってこれるだろうが……
腕組みしてしばらく立ったまま考え事をしていたシルヴィはエヴァンズに言った。
「出かけるからしたくをしてくれ」
それを聞いたエリザベスは、今さっきあったことが嘘だったような気がした。また行ってしまうの?
シルヴィは食堂の方へ戻ってきてその大きな身体でエリザベスを抱きしめた。
「出かけなければならなくなった。すまない……」
シルヴィの固い胸板が、自分の頬にあたっている。こんな風に男の人は女性を抱きしめるのだ。暖かくて太い腕で。
「帰ってきたら、続きを……」
シルヴィが耳元でささやいて額にキスした。エリザベスは体中が熱くなってどうにかなりそうだった。彼はすぐに帰ってきてくれるだろうか。本当に自分のことを忘れずにいてくれるだろうか。ああ、期待しすぎてはいけない。けど……
「――いつ、帰っていらっしゃいますか?」
エリザベスは恐る恐る訊ねた。
「今夜はわからない。明日の朝か……先に寝ていなさい」
シルヴィはエリザベスの唇にもう一度キスして、エヴァンズと自分の部屋へ戻っていった。
さっきのキスは――あれは彼が愛している人にするキスなのだろうか? まるで雷に打たれるかのような衝撃……エリザベスは大きく息をついて胸を抑えた。
ああ、胸が痛い。彼は私を愛してくれるというの? もしかしたら、サウスハンプトンのあの泉に出かけたときのように戻ってくれると。
エリザベスは自分が再び叶わない夢の世界に溺れるのが怖かった。彼に初めて会った日から、ずっと夢を見つづけてきた。それは長い間ずっと夢でしかなかった。叶わない夢ではあるが、たとえ目が覚めても幸せな夢だったと、その余韻を味わうことさえ出来るものだった。それがついふた月前、本当の彼が現われて、それが本当になると宣言した。確かに、生活は一変し、今まで夢にしか現われなかった彼の姿を、本当にそばで見られることになったのだ。
けれど……ここに出てきてからは、心を惑わすようなことしか起こらなかった。期待していた全てが嘘だったかのように。
夢でない彼は存在しないか、あるいは存在を否定するかのように自分を無視し続けた。最近では、そんなことを期待する方が馬鹿だったのかもしれないと思い始めていた。
――けど、彼は私に謝ったわ。今まで放っておいて悪かったと。
これを信じてもいいのだろうか。本当に彼は帰ってきてくれるのだろうか。これは夢でなくなるのだろうか。エリザベスはまた眠れない夜を過ごした。
翌日の夕方、シルヴィは疲れた顔で屋敷に戻ってきた。エリザベスは玄関ホールで迎えたが、シルヴィはまたすぐに出かけると言った。
その時のエリザベスの落胆はもはや隠せるものではなかった。やはり、また行ってしまう。
「エリザベス。頼むから、そんなに悲しい顔をしないでくれ。今度は出来る限り早く戻ってくる」
「――どちらへ?」
「フランスだ」
フランス……エリザベスの頭の中にちらと良くないことがよぎった。
「いつまでですか。またひと月も先に戻ってこられるの?」
エリザベスはシルヴィがいるなら、サウスハンプトンに戻るのはやめようと思っていた。けれど、もしまた長く待つのなら……同じことを何度も訊くのは嫌だったが、今度こそ訊かずにはいられない。シルヴィは今度は出来る限り早くと言ったが、こんな風に捨ておかれたようにいるのは嫌だった。このロンドンの屋敷で、他人の噂の種になるのを恐れて外にも出ず、鬱々として過ごすのは。
「わからない。一週間先か、二週間先か……でもひと月はないと思う」
シルヴィのブルーグレーの瞳が寂しげに美しく光った。この人はいつもこんな風に微笑む。そこに嘘は無いかのように。ではもう一度だけ、私は貴方を信じることにするわ。
「そうですか……私、一度サウスハンプトンに戻ろうと思うのですが、いらっしゃらない間に戻ってもいいですか?」
少しためらいながらエリザベスは訊ねた。彼に何かを頼むのなら、このタイミングでなければならなかった。
「戻るってどこへ? 君のいとこの家か」
「ええ。叔母のエレンが一度戻ってきたらと薦めてくれているんです」
シルヴィはこの話を聞いてしばらく考えるようだったが、エリザベスは結局一週間だけということで許可をもらった。ただし、サウスハンプトンにはコリンを一緒に連れて行くという条件つきだ。コリンは十二歳になったばかりだが、この屋敷ではもういっぱし御者の代わりができるほどになっている。これまでもキューへ何度もお供させた。ベネを先に帰らせたことはエヴァンズから聞いてシルヴィも知っていた。まさか従者なしでサウスハンプトンまで帰らせるわけには行かないが、エヴァンズには家にいてもらわねばならないし、屋敷の中の男手として最も役に立っているゴードンはなおさらだった。サウスハンプトンに行かせるだけなら、コリンでいいだろうとシルヴィは言った。
その後、夜通し書斎で何かをやっていたシルヴィは翌日の朝早く出かけることになった。同じように早くに起きだしたエリザベスと玄関ホールで熱いキスをかわし、名残惜しそうに馬車に乗り込んだ。後輪が白い埃を巻き上げていくのを最後まで見送ったエリザベスは、急に寂しくなってがっかりと肩を落とした。ひと月にはならないだろうとシルヴィは言ったけれど、本当のところはわからない。いえ、たとえ少しぐらい長くなっても無事に帰ってきてもらえればそれでいい。ケイティが言ったことが本当なのだとしたら、シルヴィのやっている仕事はきっととても危ないことだ。
そして、エリザベスは以前自分が描きとめたシルヴィを描いたデッサン帳を持ち出し、胸に抱きしめた。