婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった

第14話 侵入者の排除 ~陽斗視点~

 アトリエの薄暗い廊下に響き渡る、乱暴なノック。
 論理も、マナーも、相手への敬意も欠落した、一方的な感情の垂れ流しだ。扉の向こうから聞こえる男の声は、湿り気を帯びた執着心と、自分が被害者であると信じ込んで疑わない傲慢さに満ちている。

「詩織! 頼む、開けてくれ! 俺が悪かった、今までのことは全部謝るから! お前しかいないんだ、俺を本当に助けてくれるのは!」

 背後にいる詩織さんの指先が、俺のシャツの裾を握りしめたまま小刻みに震えている。その震えが布地を通して背中に伝わるたび、胸の奥で静かに燃えていた怒りの炎が温度を増していく。

 『お前しかいない』だと? よくも、そんな身勝手な台詞を吐けたものだ。愛情でも信頼でもない。自分の人生を自分でメンテナンスできない無能が、他人のリソースを食い潰そうとする際に出す、最悪の甘えだ。自分の足で立てない男が、必死に立ち上がろうとしている彼女の足を引っ張る。その醜悪さが、今の俺には反吐が出るほど不快だった。

 俺は詩織さんの手をそっと解き、彼女をアトリエの奥、一番暗い影の中に座らせた。

「ここで見てろ。あんたの領域は、俺が守る」

 短く断固と言い、迷いのない足取りで扉へと向かう。

 鍵を外す重い金属音が、静まり返った室内に響き渡る。
 扉を開けた瞬間、激しい雨の匂いと共に、ずぶ濡れの男が転がり込むようにして身を乗り出してくる。その男が詩織の姿を探して視線を泳がせた先には、彼女ではなく、岩壁のように立ちはだかる俺がいた。

「……誰だ、お前? 詩織はどこだ? 引っ込んでろよ!」

 和真と呼ばれた男は、一瞬呆然とした後、剥き出しの敵意を向けてきた。
 安物のスーツは雨に打たれて形を失い、不規則な呼吸からは安酒の嫌な匂いが混じっている。その目は充血し、自分の思い通りにならない現実に対して、子供のような癇癪を爆発させる寸前のようだった。

「この部屋の主から、お前の立ち入りを拒否するよう()()された人間だ。言っておくが、今のあんたの行為は不法侵入に該当する。それ以上、一歩でも室内に足を踏み入れれば、即座に警察へ通報し、現行犯として処理させる」

「はあ? 委託だあ? ふざけんなよ、どこの馬の骨だ。俺と詩織はな、お前なんかが一生かかっても理解できない深い絆で結ばれてんだよ! おい、詩織! そこにいるんだろ! こんな得体の知れない男に何を吹き込まれたか知らねえが、目を覚ませよ! 俺がいなきゃお前はダメなんだろ!」

 男の声が、高い天井を打って不快に反響する。
 俺は一歩、男の方へ踏み出した。俺の方が僅かに背が高い。上から見下ろす形になった威圧的な視線に、男の言葉が僅かに詰まる。

「ハハハハ、絆、だと? 笑わせるな。お前が言っているのは、自分を全肯定してくれる便利な道具への執着だ。彼女がどれほどの思いで、お前が汚したこの場所を洗い流し、新しい色を描こうとしているか想像ができないのか? あぁ、想像する知性すら持ち合わせていないのか?」
 
「……何を知った風な口を叩いてんだ。絵なんて、ただの遊びだろ! 俺を支える方が大事なんだよ! あいつは俺がいないと何もできない、ただの出来損ないなんだよ!」

 その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが決定的な音を立てて断絶した。
 この男は、自分以外の人間が持つ時間の価値を、その尊厳を、全く理解していない。かつて俺を使い捨ての部品として扱い、人生ごとゴミ箱に捨てようとしたあの連中と、全く同じ人種の醜悪な顔をしている。

「遊びねぇ。なるほど。お前のような空っぽな人間には、彼女が命を削って絞り出した色彩の重みも、この灰色の静寂の価値も、一生理解できないらしいな。お前にとっての価値は、自分をどれだけ甘やかしてくれるかという、ただ一点だけだ。……浅ましい」

 俺はスマホの画面を男の目の前に突きつけた。
 そこには、数秒の検索と、かつての伝手を介して引き出したこの男の無惨な現状が羅列されている。

「和真さんといったか。あんた、今の会社でも既に退職勧奨の対象になっているらしいな。度重なる無断欠勤に、周囲へのハラスメント。今の彼女に捨てられたのも、性格の問題じゃない。あんたが社会的に終わっているという烙印を押されたからだ。……違うか?」

 男の顔が、一瞬で土色に変わった。

「な、なんでそれを……お前、何者だ……」
 
「俺の仕事を舐めるなよ。お前のような杜撰な人間の足跡を辿るなど、造作もない。あんたが今ここに縋りに来たのは、愛ゆえじゃない。再就職の見込みもなく、住む場所も失い、かつて自分に尽くしてくれた都合のいい女を、無料の宿舎兼、自分を甘やかすための介護要員として確保したかっただけだ。その浅ましい計算、俺がすべて暴いてやったよ」

 俺の言葉は、容赦なく男の急所を抉った。
 論理という名の冷徹な刃が、男の虚勢を一枚ずつ残酷に剥ぎ取っていく。
 男は顔を真っ赤に染め、暴力に訴えようと拳を振り上げた。俺はそれを冷ややかにかわし、男の手首を、逃げられない強さで締め上げる。

「暴力に出るか。本当に救いようのないクズだな。いいか、よく聞け。今の彼女は、お前の不始末を拭うための雑巾じゃない。ましてや、お前の無能を肩代わりするためのスペアでもない。彼女は、独りで生きていく誇りを取り戻したんだ。お前のような不純物に、その色を汚させるわけにはいかないだよっ!」

 掴んだ手に力を込めると、男が苦悶の表情を浮かべて膝をついた。
 そのまま、男をアトリエの外へと引きずり出す。
 激しい雨が降りしきる廊下。男を冷たい壁に押し付け、俺は耳元で、心臓まで凍りつくような声で囁いた。

「二度と、ここへ来るな。次があれば、俺の知るすべてのルートを使って、お前のこれまでの不祥事、借金、素行のすべてを、お前の親族と、今かろうじて繋がっている取引先に一斉送信してやる。社会的に二度と這い上がれないように叩き潰してやる。分かったら、今すぐこの坂を下れ。二度と、彼女の視界に入るな」

 俺が手を離すと、男は腰を抜かしたようにその場にへたり込んだ。俺の眼光に射すくめられたまま、這うようにして階段を駆け下りていく。
 乱暴に閉まる一階の鉄扉の音が夜の北野に響き渡り、ようやくこの場に静寂が戻ってきた。

 俺は乱れた呼吸を整え、びしょ濡れになった前髪を乱暴にかき上げた。
 アトリエに戻ると、椅子に座ったまま、幽霊のように青白い顔をした詩織さんがいた。彼女は俺を見上げ、震える唇を小さく戦慄かせた。

「……陽斗、さん」
「終わったぞ。もう、あの男がここへ来ることはない。保証する」

 ぶっきらぼうにそう言い、彼女の前の席に戻る。
 彼女を救ったという英雄的な実感など、これっぽっちもない。自分の穏やかな聖域を汚されることへの猛烈な拒絶反応が俺を動かしただけだ。
 詩織さんの瞳からゆっくりと涙が溢れ出すのを見た時。俺は、自分の中に厳格に設定したはずの『他者とは深入りしない』というルールが、今まで聞いたこともないような激しい警報を鳴らしていることに気づいた。

 窓の外、雨音は依然として激しい。
 アトリエの中には、先ほどまでの刺々しい響きはもう存在しなかった。
 震える彼女の肩に、そっと手を置くべきか迷い、結局、自分の分の既にぬるくなったビールを再び手に取った。
 それが、今の俺にできる精一杯の正しい独り身同士の距離感だと思った。

(……やれやれ。週末のデバッグにしては、少しばかり骨が折れたな)

 重く沈んだ心のまま、静かになったアトリエで一気にビールを飲み干した。
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