婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった

第24話 欠落の証明 ~陽斗視点~

 詩織を突き放してから、数日が過ぎた。
 ポートアイランドのマンション、その二十五階にある俺の部屋は、以前よりもずっと最適化されているはずだった。

 無駄な感情の揺らぎはない。
 仕事の効率を落とすような、甘ったるいコーヒーの香りもしない。
 夜、窓の外に広がる神戸の夜景は、ただの光の集積として無機質に点滅している。
 あの一族から完全に解き放たれ、詩織という依存の種をも自らの手で排除した。
 これで俺は、誰にも侵されない、完全な自由を手に入れたはずだった。

(……寒い)

 ふと、思考が止まる。
 エアコンの液晶表示を確認すれば、温度設定は常に一定に保たれている。室温に異常はない。それなのに、体の芯から這い上がってくるようなこの震えは何だ。
 俺はソファーに深く沈み込み、自分の両腕をきつく抱きしめた。

 
 現在の俺は、プロジェクト全体の管理を任されている。
 メンバーの多くはリモートワークを推奨されているが、全体を統括し、不測の事態に即応しなければならない立場上、俺は中央区にある自社のオフィスに詰め、物理的なサーバーや機密資料を管理しながら指揮を執ることが常態化していた。
 だが、今日の俺は、その重責を果たすための機能を完全に喪失していた。

 フロアの奥に鎮座する、上司のデスク。
 普段なら報告事項を簡潔にまとめてから向かう場所へ、俺はふらつく足取りのまま、何の準備もなく突き進んだ。
 周囲で作業していた部下たちが、俺のただならぬ気配に手を止め、怪訝そうに視線を向けてくるのがわかった。だが、今の俺にはそれらを気にかける余裕など一分も残っていない。

「……部長」

 書類に目を落としていた上司が、俺の掠れた声に顔を上げた。
 次の瞬間、彼は見開いた目に驚愕の色を浮かべ、椅子を鳴らして身を乗り出した。

「浅井……どうした、その顔は。真っ青じゃないか。どこか悪いのか?」

 上司の問いかけに、言葉がすぐには出てこない。俺はデスクの端を、指の関節が白く浮き出るほどきつく握りしめた。そうしていなければ、今にもその場に膝をついてしまいそうだった。

「……申し訳、ありません。……早退させてください」

 フロアの一角が、静まり返った。
 常に冷酷なまでにタスクをこなし、『納期の鬼』、『精密機械』と呼ばれている俺が、勤務時間中に直接上司のデスクまで足を運び、震える声で早退を願い出る。それはオフィスにいる全員にとって、天地がひっくり返るほどの異常事態だったようだ。

「早退? 君が……? おい、浅井。本当に大丈夫か。後のことはいい、今すぐ帰れ。誰か、浅井をタクシー乗り場まで……」
 
「……いえ、結構です。失礼します」

 上司の心配そうな制止の声を背中で受け流し、俺は荷物も持たず、一礼もそこそこにオフィスを飛び出した。
 早退という概念など、俺の辞書には存在しないはずだった。だが、この場に留まって管理などという虚飾を続けていれば、俺というシステムそのものが内部から崩壊すると確信していた。

 オフィスビルを出て、三宮の喧騒の中に放り出されても、思考は一何も進まない。
 今までの俺なら、どんな絶望の中にいても仕事という錨を打って、正気を保っていた。
 だが今は、その錨が外れ、真っ暗な海を漂流しているような感覚だった。
 彼女がいない。ただそれだけの事実が、俺の生活から色彩と温度を根こそぎ奪い去り、生きるための基本的な機能すらも麻痺させていた。

 彼女の淹れてくれた、少し苦いコーヒー。
 北野の坂道で見せてくれた、眩しいほどの微笑み。
 生田の森で俺を包み込んでくれた、あの柔らかな温もり。
 それらを”毒”だと断じたのは自分だ。
 依存すれば壊れると。喪失を恐れるあまり、先にすべてを壊したのは、俺自身だ。
 だが、今の俺は、その毒がなければ一歩も前に進めないほど、無様に徹底的に作り変えられてしまっていた。
 
 彼女を排除してまで守った”自分”とは、一体何だ?
 傷つくことを免れた代わりに、何も感じなくなったこの抜け殻が、俺の守りたかった価値あるものなのか?
 
「……ああ、クソッ!」

 俺は立ち止まり、震える手で顔を覆った。
 思考が、論理が、防衛本能が、一斉に崩壊していく。
 あの女に裏切られたとき、俺は死を望んだ。
 だが今、詩織を失った自分は、死ぬことさえ忘れた()になろうとしている。
 それが、どれほど恐ろしいことか。
 彼女がいない世界に耐え続けることこそが、俺にとって真の消滅を意味するのだと、今さら気づかされた。

 俺は北野方面へと、なりふり構わず全力で走り出した。
 高級なスーツを汗で台無しにしながら、額を拭うことも、水たまりに足をとられようとも、必死に急勾配の坂を駆け上がる。呼吸が荒く、喉の奥が鉄の味に染まるが、足を止める選択肢はなかった。
 
 
 学校の正門に辿り着いたのは、昼を過ぎた頃だった。
 太陽は高く、街は午後の穏やかな静寂に包まれている。授業の真っ最中なのだろう、門の周辺に下校する生徒の姿はなく、坂道には場違いな俺の荒い呼吸音だけが響いていた。

「……何、あの人」
「すごい形相だけど。不審者じゃないよね?」

 校舎の窓越し、あるいは移動教室へ向かう渡り廊下からだろうか。校内を動く生徒たちの視線が、正門前で立ち尽くす俺の姿を捉え、怪訝そうに突き刺さる。
 彼女たちの嘲笑混じりの囁きや、遠巻きにこちらを伺う好奇の目。
 普段の俺なら、そんなノイズは徹底的に遮断し、効率的でない感情の無駄遣いだと切り捨てていたはずだ。だが今は、その視線さえもどうでもよかった。
 俺に向けられるいかなる社会的軽蔑よりも、詩織を失うことの恐怖の方が、数万倍も、数千万倍も重い。

 俺は荒い息を吐きながら、鉄格子をきつく掴んで中を覗き込んだ。
 移動中の生徒たちが時折足を止め、窓からこちらの様子を伺っているのがわかる。本能的に不審な気配を感じ取っているのだろう。
 だが俺の目は、彼女たちなど映していない。門の向こう、午後の光を反射する校舎だけを狂おしいほどに求めていた。

(……構うもんか。何を思われようが、俺はもう逃げない。ここで立ち止まれば、俺は一生、欠陥品のままだ)

 門越しに、血走った視線を走らせる。
 視界に校舎の窓が春の日差しを浴びて白く光っているのが映る。
 あの中のどこかに、俺がこの手で傷つけた、唯一無二の光がいる。
 
「詩織……さん……」

 名前を呼ぶ声は、激しい鼓動にかき消されるほどに小さかった。
 だが、俺の胸の奥で、凍りついていた何かが、激しい痛みとともに融け始めているのを確かに感じていた。
 
 彼女のいない生活は、耐え難いほどに寒い。
 たとえこの先、どれほど残酷な裏切りや、絶望的な喪失が待っていたとしても、俺は、あの温もりがない最適化された地獄に留まることだけは、もうできない。
 
 遠くから訝しげに見つめる生徒たちの視線を浴びながら、俺は彼女が姿を現すのを、祈るような心地で待ち続けていた。
 自由という名の檻から抜け出し、俺は今、初めて自分の足で『誰かを求める』という場所に立っていた。

 足の震えが止まらない。それは疲労のせいだけではない。
 
 もし、彼女に完全に拒絶されたら。
 もう二度と、あの慈しみに満ちた微笑みを向けられないのだとしたら。
 
 その恐怖が、かつてのどんな絶望よりも俺を震わせていた。
 だが、それでも。
 俺はここに居なければならないのだ。この寒々しい欠落を、彼女の熱で埋めるために。
 俺は門の冷たい鉄の感触を握りしめ、ただひたすらに、彼女という光が射す瞬間を待ち続けた。
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