婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった

第49話 黄昏の包囲網 ~陽斗視点~

 三宮の喧騒は、週末を控えた金曜日の夜にふさわしく、どこか浮き足立った熱を帯びていた。家路を急ぐビジネスマンの群れ、夜の街へ繰り出す若者たちの嬌声、そして絶え間なく流れる街頭ビジョンの喧しい広告。その奔流を縫うようにしてオフィスを出た俺は、ポートライナーの駅へ向かう前に、駅近くのスーパーへと足を向けた。

(一人分の、それも胃を満たすためだけの食事を選ぶという作業は、どうしてこうも無機質なんだろう)

 詩織がパリへと旅立ってから半年。俺の生活からは、色彩という概念が決定的に欠落している。
 二人で歩いた北野の坂道や、共に眺めた港の風景は、今やモノクロの映画のように遠い。
 自動ドアを抜け、エアコンの効いた店内に足を踏み入れる。籠を手に取り、蛍光灯の下で不自然に輝く惣菜コーナーを、俺はただ無感情に眺めていた。安っぽいプラスチック容器に詰められた揚げ物や煮物。どれを手に取っても、以前の食卓の温もりを思い出し、胸の奥が重く疼くだけだった。

 特売のシールが貼られたひじき煮に手を伸ばしかけた、その瞬間だ。不意に背後から、聞き覚えのある、最も耳に入れたくない種類の賑やかな声が、俺の鼓膜を無遠慮に震わせたる。

「あーっ! やっぱり陽斗さんだぁー!」

 反射的に肩が強張る。振り返るまでもない。以前に出会った女子高生たちだ。

「こんなところで何してるんですか。一人で寂しくお惣菜選び?」

「もしかして、しおちゃん先生がいないからって、食生活死んでます?」

 次々に浴びせられる遠慮のない言葉に、俺は努めて事務的なトーンで応じた。

「……確か、詩織の生徒たちだったな。君たちこそ、こんな時間に集まって何を。それよりも、あまり大きな声を出すな。周囲の迷惑だ」

 俺は視線を合わせず、足早にその場を離れようとした。だが、彼女たちの包囲網は、美術部の共同作業で鍛えられた連携そのものだった。

「何って、今日はお泊まり会ですよ! 見てください、このお菓子とお肉の山!」

 由紀が特大のスナック菓子の袋を誇らしげに掲げ、俺の鼻先で振ってみせる。中身が擦れる乾いた音が、俺の神経を逆撫でする。

「今からみんなで私の家に籠もって、朝までパーティーなんです。これ全部、今夜のエネルギー源なんですから。陽斗さんも、本当は仲間に入りたいんでしょ?」

「入るわけがない。……どいてくれ。レジが混む前に帰りたいんだ」

 しかし、香奈が反対側に回り込み、カートを車止めのように置いて俺の進路を断つ。二人がかりで俺を精肉コーナーの壁際へと追い詰める。逃げ道は、山積みにされた特売の牛肉の籠と、彼女たちの執拗な好奇心によって完全に封鎖された。

「それより陽斗さん、しおちゃん先生がパリに行ってから、全然私たちに連絡くれないじゃないですか! 薄情すぎます!」

「当然だ。連絡先すら教えていないのだから。……それに、俺が君たちに連絡する理由もないだろう」

「理由ならありますよ! 先生がいなくなってから、美術室はもう火が消えたみたいで大変なんですよ。後輩たちは寂しがってるし、私たちだって『しおちゃん先生成分』が足りなくて干からびそうなんです!」

 由紀の瞳には、好奇心と親愛が混ざり合った特有の光が宿っていた。それは打算のない純粋な暴力となって俺に降り注いでくる。

「それなのに、一番先生に近いところにいる陽斗さんまで知らんぷりなんて、絶対に許されません! 自分だけ先生とこっそり連絡取って、いい思いしてるんでしょ?」

「……勝手な憶測を言うな」

「いいから今すぐ連絡先教えてくださいよ。先生が向こうで変なフランス人に口説かれてないか、私たちも監視しなきゃいけないんだから! 先生を守るのは、陽斗さんだけの役目じゃないんです!」

 彼女たちの声は、店内の空気において暴力的なまでに大きく響き渡る。隣で鶏肉を選んでいた主婦が、何事かとこちらを盗み見、好奇心旺盛な視線を俺に投げかけてくる。耳の付け根が火傷しそうなほど熱くなる。

「陽斗さんの家、ポートアイランドなんですよね?」

 不敵な笑みを浮かべた由紀が、とどめの一撃を放つ。

「連絡先教えてくれないなら、私たち、明日から島中のマンションを一軒ずつ回って、陽斗さんが出てくるまで張り込みますよ? それか、ポートライナーの改札前で待ち伏せしましょうか? 美術部員総出で。ふふふ、美術部の執念、舐めないでくださいね。私たちは、先生のためならなんだってするんです」

 冗談には聞こえない。彼女たちの行動力は、時として理性を凌駕する。俺の唯一の安息の地である島での生活までもが、彼女たちの”若さ”という名の猛威にさらされるのは、何としても避けなければならない。この閉鎖空間で晒し者にされ続ける屈辱か、あるいは俺の砦に踏み込まれるリスクか。天秤にかけるまでもない。

(……これ以上、ここで騒がれるわけにはいかない。詩織、君が愛した色彩の中には、こんなにも厄介な絵具が混ざっていたのか)

 俺は胃の底を焼かれるような屈辱と、閉口するほどの面倒臭さを飲み込み、観念してスマートフォンを取り出した。

「分かった。……教えるから、これ以上は静かにしてくれ。約束だぞ」

「やったー! エッフェル塔への直通ルート、ゲット! これで私たちの勝ちですね!」

 彼女たちは歓声を上げ、ハイタッチを交わすと、俺がQRコードを提示するのを今か今かと待ち構える。無機質な電子音が響き、通信が確立された瞬間、俺の日常の一部が彼女たちに明け渡されたことを悟った。

「よし、登録完了! あっ、今夜からお泊まり会の実況送るんで、ちゃんと読んでくださいね! 既読スルー禁止ですから!」

 満足げに頷くと、彼女たちは嵐のようにレジへと消えていった。一人残された俺は、籠の中の冷めた惣菜と、今しがた通知で埋め尽くされた画面を交互に見つめ、深く、重い溜息を吐き出した。

 スーパーの自動ドアを出ると、夜の帳が完全に降りていた。熱くなった耳の付け根を冷やすように夜風を仰ぐ。俺の金曜日の平穏は、今、音を立てて崩れ去ったのだ。ポートライナーのホームに向かう足取りは、いつにも増して重かった。

 
――――【詩織への返信メール】――――

件名:数の暴力について
送信者:浅井陽斗
宛先:瀬戸詩織

 先ほど、三宮のスーパーで美術部の由紀や香奈たちに捕まってしまった。

 彼女たちは以前にも増してエネルギッシュで、俺の逃げ場を完全に塞いできた。君も知っての通り、俺は、騒がしい場所や、自分の領域に他人が踏み込んでくることを好まない。だが、彼女たちはそんな俺の性格などお構いなしに、店内に響き渡るような大きな声で、君への想いを捲し立ててきた。

 正直に言えば、今すぐにでもあの場から逃げ出したかったし、記憶を消去して回りたいほどに閉口している。俺の自宅がポートアイランドにあることを盾に、「島中を捜索する」や「ポートライナーの改札前で張り込む」とまで脅され、ついには連絡先を明け渡す羽目になってしまった。俺の穏やかな生活が、これから彼女たちの通知によって侵食されるかと思うと、ため息しか出ない。

 だが、あの日、俺が醜態を晒してまで君に伝えたかった想いを、彼女たちだけは真っ直ぐに見ていてくれた。それだけは否定できない事実だ。だから、これも君が守ってきた場所の一部であり、俺が背負うべき報いなのだと思うと、無下にはできない。

 本当に、本当に()()ではあるが、俺は彼女たちの監視員としての熱意を受け入れることにする。彼女たちを通じて、君に迷惑がかからないようにだけは釘を刺しておくつもりだ。

 君が愛した生徒たちは、今も神戸で元気に、そして恐ろしいほど逞しく過ごしているよ。
 そちらの生活が、どうか順調でありますように。あまり無理をして、筆を折るような真似はしないでくれ。

 追伸。
 先ほど、美術部員たちの『お泊まり会』の会場に到着したらしい生徒たちから、浮かれた様子の写真が何枚も届いた。
 どうやら彼女たちは、自分たちの騒ぎっぷりを俺経由で君に報告させたいらしく、執拗な催促のメッセージを送り続けてきている。
 まだ連絡先を交換して一時間も経っていないというのに、この調子だ。
 明日、君の端末に騒がしい通知が届いても、それは俺が彼女たちの勢いに屈した証だと思って、笑って許してほしい。
 ……やはり、連絡先を教えたのは間違いだったかもしれないと、今さらながら後悔しているよ。
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