いつもの席で、また明日
第四章 好きになるまで
第四章 好きになるまで
土曜日の午後、駅前で待ち合わせた二人は、結局どこへ行くかを最後まで決めないまま歩き始めた。
大学のある方向とは反対へ進み、人の多い商業通りを抜け、途中で見つけた雑貨店に入り、気になる店があれば立ち止まる。目的地がないぶん時間にも追われず、どちらかが何かを見つけるたびに足を止めているうちに、気づけば普段ならほとんど歩かない場所まで来ていた。
「何か、普通ですね」
琴葉が言った。
「何が?」
「休日に会うっていうから、もうちょっと何かするのかと思ってました」
「宮下さんが何も決めてなかったんでしょ」
「瀬戸さんも何も提案しなかったじゃないですか」
「任せていいのかと思って」
「完全に人任せ」
「でも楽しくない?」
悠介が何気なく聞くと、琴葉は一瞬だけ黙った。
「……楽しいです」
その返事が少しだけ照れくさく聞こえて、悠介も前を向いた。
「ならいいじゃん」
「そうですね」
二人はまた歩き出す。
恋人らしいことは何もしていない。
手もつながないし、写真を撮るわけでもない。
それでも大学の帰りに一緒にいる時とは違って、今日は最初から相手と過ごすためだけに会っている。
その事実が、悠介には少し不思議だった。
◇
昼を過ぎた頃、二人は駅から少し離れた小さな公園へ入った。
ベンチの前には低い木が並び、奥には子どもたちが遊ぶ広場がある。大きな公園ではないが、街の中心にあるわりには静かで、木陰に入れば初夏の暑さも少しだけ和らいだ。
「ちょっと休みます?」
琴葉が言う。
「結構歩いたしね」
二人は並んでベンチへ座った。
自動販売機で買った飲み物を開ける。
琴葉はレモンティー。
悠介は炭酸飲料。
「瀬戸さん、それ好きですね」
「何が?」
「炭酸」
「よく見てるな」
「ひよりでは珈琲だから意外」
「宮下さんだって今日は紅茶じゃないじゃん」
「これは紅茶です」
「確かに」
琴葉が笑う。
少しの間、二人は何も話さなかった。
目の前を小さな子どもが走っていく。
父親らしい男性がその後ろを追い、少し離れた場所から母親が笑っている。
琴葉がその様子をぼんやり眺めていた。
「子ども好き?」
悠介が聞く。
「好きですよ」
「へえ」
「何ですか」
「意外とかじゃなくて、何となく」
「瀬戸さんは?」
「嫌いじゃない」
「曖昧」
「どう接したらいいか分からないだけ」
「分かります。急に話しかけられると困る」
「でしょ」
「でも可愛い」
「それは分かる」
また少しだけ沈黙が落ちる。
気まずくはなかった。
むしろこういう何でもない時間を一緒に過ごせることの方が、最近は自然になっていた。
「瀬戸さん」
「ん?」
「将来って何したいですか?」
唐突な質問だった。
「急だな」
「さっき家族見てたから」
「それで将来?」
「何となく」
悠介は少し考えた。
「まだ分からない」
「就職は?」
「地元かな。たぶん」
「東京とか行かないんですか」
「特に行きたい理由ないし」
「そっか」
「宮下さんは?」
「私もまだ」
琴葉はレモンティーのペットボトルを両手で持った。
「出版社とかちょっと興味あるけど、すごく行きたいってほどでもなくて」
「文学部っぽい」
「今日は許します」
「初めて許された」
「でも出版社って東京多いんですよね」
「そうなの?」
「たぶん」
「じゃあ東京行くかも?」
「分かりません」
琴葉は笑った。
「まだ二年生ですし」
「だよね」
「あと二年以上ある」
「長いな」
「長いですよ」
その時の二人にとって、二年という時間はとても長く感じられた。
卒業も就職も、まだ遠い未来のことだった。
だからその会話も、ただの雑談として流れていった。
後になって思えば、あれが初めて二人の未来が別々の方向を向く可能性に触れた瞬間だったのかもしれない。
けれど、その頃の悠介はまだ何も考えていなかった。
◇
その日は夕方まで歩き回り、最後は結局ひよりへ戻った。
「おかえり」
店主が言った。
「おかえりって何ですか」
悠介が笑う。
「朝から出かけてたんでしょ」
「なんで知ってるんですか」
「琴葉ちゃんが昨日言ってた」
「言いましたっけ」
「言ってたよ」
「余計なこと覚えてますね」
「店主だからね」
二人はいつもの席へ座った。
「結局ここ来るんですね」
琴葉が言う。
「落ち着くから」
「分かる」
「今日は何飲む?」
店主が聞く。
「アイス珈琲」
「紅茶で」
「いつも通りだね」
「結局これがいいんです」
店主が戻っていく。
悠介は窓の外を見る。
「今日どうでした?」
琴葉が聞いた。
「何が?」
「休日」
「楽しかったよ」
「本当ですか」
「なんで疑うの」
「ずっと歩いてただけだから」
「十分じゃない?」
琴葉は少しだけ笑った。
「私も楽しかったです」
「ならよかった」
その時、悠介は妙な安心感を覚えた。
自分だけが楽しかったわけではなかった。
琴葉も同じように感じていた。
それだけのことなのに、少し嬉しかった。
◇
それから休日に会う回数が少しずつ増えた。
映画を見に行った。
古本屋を回った。
川沿いを歩いた。
夏服を見たいという琴葉に付き合って買い物へ行き、悠介は二時間近く店の外で待たされた。
「長すぎない?」
店から出てきた琴葉へ言う。
「女の人の買い物はこんなものです」
「俺、三回座る場所変えたよ」
「帰らなかったの偉い」
「褒めるところ?」
「はい」
琴葉は紙袋を持ち上げた。
「似合うか今度見てください」
「今見せてくれればいいのに」
「着てるところ見てもらいたいんです」
「……そっか」
その言葉に少しだけ意味があるように感じたのは、たぶん悠介の考えすぎだった。
別の日には琴葉が悠介のアルバイト終わりを待っていた。
「何でいるの?」
店を出た悠介が驚く。
「近くまで来たので」
「もう九時だけど」
「知ってます」
「帰ればよかったのに」
「嫌ですか?」
「そうじゃないけど」
「じゃあいいじゃないですか」
二人で駅まで歩く。
夜の商店街は昼より静かで、閉まった店のシャッターが並んでいる。
「待った?」
「二十分くらい」
「ごめん」
「別に」
「それ便利な言葉だな」
「瀬戸さんも使ってるでしょ」
「最近移った」
そんなことを言いながら歩く。
もう二人でいる理由を探すこともなくなっていた。
◇
七月に入る頃には、周囲から見ればほとんど恋人のようだったと思う。
大学で顔を合わせれば一緒に昼を食べる。
講義が終われば連絡する。
ひよりへ行く。
駅まで帰る。
休みの日も会う。
夜には時々電話する。
それでも二人は付き合っていなかった。
告白というものがない。
それだけだった。
「付き合ってないの?」
ある日の昼休み、琴葉の友人が本人の前で聞いた。
「付き合ってないよ」
琴葉は普通に答えた。
「嘘」
「本当」
「じゃあ何なの?」
「友達」
「それ無理あるって」
「何が?」
「休日二人で映画行って、毎週喫茶店行って、夜電話して?」
「友達でもするでしょ」
「私はしない」
「人によるんじゃない?」
琴葉は笑っていた。
しかし、その日の夕方。
ひよりで向かい合って座った時、琴葉は珍しく少し静かだった。
「どうした?」
悠介が聞く。
「何が?」
「今日あんまり喋らない」
「そんなことないですよ」
「ある」
「……ちょっと考えてました」
「何を?」
琴葉は紅茶のカップを見る。
「私たちって、友達ですよね」
悠介の指が止まった。
「急だな」
「今日友達に言われて」
「何て?」
「付き合ってないのって」
「俺もよく言われる」
「ですよね」
「うん」
「瀬戸さんはどう思ってます?」
悠介はすぐには答えられなかった。
「どうって?」
「私のこと」
琴葉は顔を上げる。
「友達?」
真正面から聞かれると、急に難しくなる。
友達。
間違いではない。
でも、それだけなのかと言われれば違う気がした。
会えない日は少し物足りない。
連絡が来ると嬉しい。
休日に会いたい。
電話の声を聞きたい。
他の誰かと一緒にいる琴葉を見ると、少し気になる。
それを全部まとめた言葉を、悠介はまだ口にしたことがなかった。
「……分からない」
正直に言った。
琴葉は少しだけ視線を落とした。
「そっか」
「いや、違う」
「何が?」
「友達じゃないって意味じゃなくて」
「はい」
「でも、友達だけって言うのも違う気がする」
琴葉は黙っている。
「宮下さんは?」
「私も分からないです」
「同じじゃん」
「だから聞いたんです」
「ずるいな」
「瀬戸さんも答えてないじゃないですか」
二人とも笑った。
少しだけ緊張がほどける。
それでも、その日から「友達」という言葉を使う時、前より少しだけ意識するようになった。
◇
七月十二日。
その日は珍しく、ひよりが休みだった。
入口には小さな紙が貼られている。
本日臨時休業
「どうします?」
琴葉が聞く。
「珍しいね」
「おじさん何かあったのかな」
「明日聞けばいいでしょ」
「じゃあどこ行きます?」
「駅前?」
「混んでそう」
「公園でも行く?」
「暑いです」
「わがままだな」
「涼しいところがいいです」
結局、二人は大学近くのファミリーレストランへ入った。
「ひよりと全然違う」
琴葉が言う。
「ドリンクバーあるよ」
「瀬戸さん向きですね」
「高校までだから」
「前言ってましたね」
「覚えてた?」
「覚えてますよ」
悠介は少し笑った。
琴葉は意外と、どうでもいいことを覚えている。
炭酸が好きなこと。
きのこが苦手なこと。
朝が弱いこと。
金曜日はアルバイトがあること。
経済学部を選んだ理由。
悠介も同じだった。
琴葉は唐揚げにレモンをかける。
紅茶は砂糖を入れない。
暑いのが苦手。
雨は嫌いではない。
本を買う時は帯を必ず取っておく。
実家では犬を飼っている。
いつの間にか、そういう小さなことをたくさん知っていた。
「瀬戸さん」
「何?」
「今日、このあと時間あります?」
「あるよ」
「じゃあちょっと付き合ってください」
「どこ?」
「見たいところがあって」
◇
連れて行かれたのは、駅から少し離れた小さな雑貨店だった。
「これ」
琴葉が棚から一つの商品を手に取る。
革製の栞。
「本の栞?」
「はい」
「今も使ってるじゃん」
「紙のやつだからすぐ曲がるんです」
「買えば?」
「どっちがいいと思います?」
茶色と紺色。
「紺」
「即答ですね」
「宮下さんっぽい」
「どういう意味ですか」
「落ち着いてる」
「茶色は?」
「ひよりっぽい」
「迷う」
琴葉は何度も見比べている。
悠介は少し笑った。
「じゃあ両方」
「そんなにいらないです」
「一個俺が買う」
「え?」
悠介は茶色の栞を取った。
「これ」
「何で?」
「この前本貸してくれたから」
「お礼?」
「そう」
「まだ読み終わってないですよね」
「それは別」
「でも」
「千円もしないでしょ」
「値段じゃなくて」
「嫌?」
琴葉は少し黙った。
「……嫌じゃないです」
「じゃあ決まり」
悠介は会計へ持っていった。
ほんの小さなものだった。
誕生日でもない。
記念日でもない。
ただ何となく買っただけ。
それでも琴葉は店を出てから何度も袋を見ていた。
「そんな嬉しい?」
「嬉しいですよ」
「栞だよ」
「知ってます」
「じゃあよかった」
「大事にします」
その言葉を聞いて、悠介も少し嬉しくなった。
◇
夏休みが近づくにつれ、大学内では試験や課題の話が増えていった。
二人も例外ではなく、ひよりで会っていても会話より勉強をしている時間が長くなる。
「無理」
琴葉が机へ額をつけた。
「何が」
「レポート」
「さっきから一文字も進んでないじゃん」
「考えてます」
「十分?」
「考える時間も必要なんです」
「寝てなかった?」
「目を閉じてただけです」
「それ寝てる人の言い訳」
悠介は笑いながら自分のノートへ戻る。
「瀬戸さんは終わったんですか」
「あと一個」
「裏切り者」
「何で」
「一緒に苦しんでくれると思ったのに」
「勝手に仲間にするなよ」
琴葉が顔を上げる。
「手伝ってください」
「文学部のレポートは無理」
「読むだけ」
「何について?」
「近代文学と都市文化」
「無理」
「即答しないで」
「単語だけで眠い」
「失礼すぎる」
それでも悠介は琴葉の文章を読んだ。
内容は半分くらいしか理解できなかったが、誤字を見つけたり、文章の重複を指摘したりすることくらいはできた。
「ここ同じこと二回書いてる」
「本当だ」
「あとここ、何言ってるか分からない」
「瀬戸さんが文学を知らないからでは」
「読者のせいにするなよ」
「厳しい編集者」
「出版社行きたいなら練習」
「まだ行くって決めてません」
琴葉は笑いながら修正する。
その横顔を、悠介は少しだけ長く見ていた。
理由は分からない。
ただ、こうして同じ机でそれぞれのことをしている時間が好きだった。
◇
七月最後の日。
試験がすべて終わり、二人はひよりで小さく乾杯をした。
悠介はアイス珈琲。
琴葉は紅茶。
「何に乾杯してるんだろ」
琴葉が笑う。
「夏休み」
「大学生っぽい」
「大学生だから」
「そうでした」
翌日から琴葉は実家へ帰る。
一週間。
たった一週間。
以前なら何とも思わなかった時間なのに、今は少しだけ長く感じる。
「明日何時?」
悠介が聞いた。
「十一時の電車」
「駅まで送ろうか」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
「え?」
「いや、荷物あるなら」
「そんなにないですよ」
「じゃあいいけど」
琴葉は少し考えた。
「……来てくれるなら嬉しいです」
「じゃあ行く」
「十時半」
「了解」
二人はいつものように駅まで歩いた。
夕方の空はまだ明るく、蝉の声が聞こえる。
「一週間」
琴葉が言った。
「うん」
「長いですか?」
「前も聞いたな」
「今は?」
悠介は少し考えた。
「長いかも」
琴葉が前を向いたまま笑った。
「私も」
その言葉だけで、胸の奥が少し温かくなる。
◇
翌朝。
悠介は約束より十五分早く駅へ着いた。
琴葉もすでにいた。
「また早い」
「宮下さんも」
「今回は十分前です」
「俺十五分」
「負けた」
「勝負だったの?」
「今決まりました」
琴葉の足元には小さなキャリーケースがある。
「それ持つよ」
「大丈夫です」
「階段あるでしょ」
「じゃあお願いします」
悠介が持つ。
「軽いじゃん」
「だから大丈夫って言ったんです」
「気分」
「何の?」
「送ってる感」
「何ですかそれ」
二人はホームまで歩く。
電車の到着まで十分ほど。
琴葉はベンチへ座り、悠介も隣へ座った。
「帰ったら何するんですか?」
「犬と遊ぶ」
「写真送って」
「いいですよ」
「あと?」
「友達と会うくらい」
「高校の?」
「うん」
「男?」
口に出してから、悠介は自分でも驚いた。
琴葉も一瞬だけ目を丸くした。
「女の子です」
「あ、そう」
「何ですか」
「何が?」
「今、男って聞きましたよね」
「聞いた」
「何で?」
「別に」
「便利な言葉」
「本当に意味ない」
「へえ」
琴葉が少し笑う。
「もし男だったら?」
「別に」
「また別に」
「友達なら普通でしょ」
「そうですね」
琴葉はそれ以上言わなかった。
けれど、その横顔は少しだけ楽しそうだった。
◇
電車がホームへ入ってくる。
「じゃあ」
琴葉が立ち上がった。
「うん」
悠介はキャリーケースを渡す。
「一週間後」
「ですね」
「帰ってきたらひより?」
「もちろん」
琴葉は電車へ乗る前に、少しだけ振り返った。
「瀬戸さん」
「何?」
「電話してもいいですか」
「いつでも」
「本当に?」
「バイト中以外なら」
「じゃあ夜」
「うん」
琴葉が笑った。
「また明日、は変ですね」
「明日会わないしね」
「一週間後だから」
「じゃあ何て言う?」
琴葉は少し考えた。
「また電話で」
「うん」
ドアが閉まる。
電車が動き出す。
悠介はホームに残り、遠ざかる車両を見送った。
姿が見えなくなる。
そして。
「……寂しいな」
誰にも聞こえない声で呟いた。
その瞬間だった。
自分の気持ちが、ようやく少しだけ形を持った。
会えないのが寂しい。
他の誰かと会うのが少し気になる。
声を聞きたい。
帰ってきてほしい。
そして、帰ってきたらまた一緒にいたい。
友達に対しても、そう思うことはある。
でも、たぶんこれはそれだけではない。
悠介はスマートフォンを取り出した。
琴葉からメッセージが届いている。
『乗りました』
『見れば分かる』
『一応』
『気をつけて』
『はい』
続いて。
『一週間後、楽しみにしてます』
悠介はしばらく画面を見た。
それから返す。
『俺も』
送信する。
数秒後。
琴葉から一つだけ届いた。
『よかった』
悠介はその文字を見ながら笑った。
◇
一週間は、思っていたより長かった。
電話はほぼ毎晩した。
最初は十分程度のつもりだったのに、話し始めると三十分、一時間と延びていく。
琴葉の飼っている犬の話。
実家の夕食。
高校時代の友人。
悠介のアルバイト。
ひよりの店主が「琴葉ちゃん来ないね」と言っていたこと。
『ひより行ったんですか?』
「今日行った」
『一人で?』
「一人」
『どうでした?』
「普通」
『寂しかった?』
「……ちょっと」
電話の向こうで琴葉が黙る。
「何?」
『私も行きたかったなと思って』
「帰ってきたら行けばいいじゃん」
『うん』
少し間が空いた。
『あと三日』
「数えてるの?」
『瀬戸さんもでしょ』
「まあ」
『ほら』
二人とも笑った。
告白はしていない。
それでも気持ちは少しずつ見え始めていた。
◇
一週間後。
午後二時。
悠介は駅の改札前に立っていた。
琴葉の電車が到着する。
人の流れの中から、キャリーケースを引いた琴葉が現れた。
悠介を見つける。
笑う。
その瞬間、悠介は一週間前よりはっきりと分かった。
会いたかった。
琴葉が近づいてくる。
「ただいま」
「おかえり」
「何か変ですね」
「何が?」
「家族みたい」
「嫌?」
「嫌じゃないです」
琴葉は笑った。
「ひより行きます?」
「もちろん」
◇
久しぶりのひより。
「おかえり」
店主が言った。
「本当におかえりって言うんですね」
琴葉が笑う。
「常連だから」
「瀬戸さんにも言いました?」
「言ってない」
「俺ずっといたから」
「そっか」
琴葉が悠介を見る。
「ちゃんと来てたんですね」
「何回か」
「私いないのに」
「店が好きなんで」
「へえ」
「何」
「別に」
いつもの席。
いつもの珈琲。
いつもの紅茶。
一週間しか空いていないのに、妙に懐かしく感じる。
「これ」
琴葉が鞄から小さな袋を出した。
「何?」
「お土産」
「俺に?」
「はい」
中には地元の菓子が入っていた。
「ありがとう」
「あと」
琴葉は少し迷ってから、もう一つ小さなものを出した。
木製のキーホルダー。
「これも?」
「駅で見つけて」
「何で二つ?」
「……何となく瀬戸さんっぽかったから」
「どこが?」
「分からないです」
「適当」
「でも見た時に瀬戸さん思い出したんです」
悠介の手が止まる。
琴葉も自分で言ったあと、少し恥ずかしくなったのか視線を逸らした。
「だから買いました」
「そっか」
「嫌だったら」
「嬉しい」
悠介はすぐに言った。
琴葉が顔を上げる。
「本当?」
「本当」
小さなキーホルダー。
特別高いものではない。
でも旅先で琴葉が自分を思い出した。
それが何より嬉しかった。
◇
店を出たのは夕方だった。
二人は駅へ向かって歩く。
夏の陽はまだ高く、商店街にはオレンジ色の光が差している。
「一週間ぶりですね」
琴葉が言う。
「何が?」
「一緒に歩くの」
「電話はしてたけど」
「やっぱり違います」
「何が?」
「会って話す方が好き」
悠介は少しだけ黙った。
「俺も」
二人は歩き続ける。
いつもの道。
何度も歩いた道。
でも、その日は今までと少しだけ違って見えた。
駅の手前。
信号が赤になる。
二人は横断歩道の前で止まった。
琴葉が隣にいる。
その横顔を見る。
話すなら今かもしれない。
そう思った。
理由はない。
何か特別な出来事があったわけでもない。
ただ一週間会わなかったことで、会いたいという気持ちがよく分かった。
それだけだった。
「宮下さん」
「はい?」
「ちょっといい?」
「何ですか」
信号はまだ赤。
「俺」
そこまで言って止まる。
琴葉が待っている。
「何ですか?」
「……」
言葉にするのが急に難しくなった。
好き。
たった二文字なのに、友達だった時間が長くなるほど簡単には言えない。
「瀬戸さん?」
「いや」
「言ってくださいよ」
「ちょっと待って」
「何で」
「今考えてる」
「何を?」
「言い方」
琴葉が笑った。
「何ですか、それ」
「笑うなよ」
「だって」
信号が青になる。
周りの人が歩き始める。
それでも二人は動かなかった。
「宮下さん」
「はい」
悠介は一度だけ息を吸った。
「好きです」
琴葉の笑顔が止まる。
初めて、ちゃんと言った。
「たぶんじゃなくて、ちゃんと好き」
琴葉は何も言わない。
悠介は続けた。
「いつからかは分からないけど、会えないと寂しいし、会うと嬉しいし、他の人より宮下さんのこと考えてる」
少しだけ笑う。
「だから、友達って言うのはもう違うと思う」
琴葉はまだ黙っていた。
悠介の心臓だけが妙に速い。
「……何か言って」
琴葉がようやく顔を上げた。
「私も」
「え?」
「私も好きです」
今度は悠介が黙る。
「いつからか分からないですけど」
琴葉が少し照れたように笑う。
「ひよりに瀬戸さんがいないと寂しいし、連絡来ないと気になるし、帰省してても毎日電話したかった」
「うん」
「だから多分、同じです」
悠介は少し笑った。
「じゃあ」
「はい」
「付き合います?」
「その聞き方何ですか」
「緊張してるんだよ」
「分かりますけど」
琴葉は笑いながら頷いた。
「付き合いましょう」
「はい」
ちょうどその時、信号が再び赤へ変わった。
二人は顔を見合わせる。
「渡れなかった」
琴葉が言う。
「話してたから」
「もう一回待ちですね」
「うん」
少しだけ沈黙が落ちる。
さっきまでと同じ距離に立っている。
それなのに、何かが変わった。
悠介は少し迷ってから、琴葉の手へ自分の手を近づけた。
触れる。
琴葉が一瞬だけこちらを見る。
「……嫌?」
「嫌じゃないです」
悠介はそっと手を握った。
琴葉も握り返す。
初めてつないだ手は、思っていたより普通だった。
劇的でもない。
音楽が流れるわけでもない。
ただ、少しだけ温かい。
信号が青になる。
「行きます?」
「うん」
二人は手をつないだまま歩き出した。
◇
駅前。
いつもの別れ道。
「じゃあ」
琴葉が言う。
「うん」
二人とも、なぜか少し笑っている。
「明日も会います?」
「会うでしょ」
「どこで?」
「ひより」
「やっぱり」
「嫌?」
「全然」
琴葉が一歩離れる。
そして振り返る。
出会った雨の日と同じ場所だった。
「また明日」
悠介も笑う。
「また明日」
何度も交わしてきた言葉。
でも、その日の「また明日」は少しだけ違っていた。
昨日までは、会えたらいいなという言葉だった。
今日からは、会いたい人へ向ける言葉になった。
それだけの変化だった。
けれど悠介には、それで十分だった。
この頃の二人はまだ、恋人になれたことだけで嬉しかった。
来年のことも。
卒業のことも。
就職のことも。
どこで暮らすのかも。
何も決まっていない。
けれど、それでよかった。
明日会える。
その次の日も会える。
その繰り返しがずっと続いていくような気がしていた。
そして二人とも、その感覚を疑う理由をまだ持っていなかった。
――第五章「何でもない毎日」へ続く。
土曜日の午後、駅前で待ち合わせた二人は、結局どこへ行くかを最後まで決めないまま歩き始めた。
大学のある方向とは反対へ進み、人の多い商業通りを抜け、途中で見つけた雑貨店に入り、気になる店があれば立ち止まる。目的地がないぶん時間にも追われず、どちらかが何かを見つけるたびに足を止めているうちに、気づけば普段ならほとんど歩かない場所まで来ていた。
「何か、普通ですね」
琴葉が言った。
「何が?」
「休日に会うっていうから、もうちょっと何かするのかと思ってました」
「宮下さんが何も決めてなかったんでしょ」
「瀬戸さんも何も提案しなかったじゃないですか」
「任せていいのかと思って」
「完全に人任せ」
「でも楽しくない?」
悠介が何気なく聞くと、琴葉は一瞬だけ黙った。
「……楽しいです」
その返事が少しだけ照れくさく聞こえて、悠介も前を向いた。
「ならいいじゃん」
「そうですね」
二人はまた歩き出す。
恋人らしいことは何もしていない。
手もつながないし、写真を撮るわけでもない。
それでも大学の帰りに一緒にいる時とは違って、今日は最初から相手と過ごすためだけに会っている。
その事実が、悠介には少し不思議だった。
◇
昼を過ぎた頃、二人は駅から少し離れた小さな公園へ入った。
ベンチの前には低い木が並び、奥には子どもたちが遊ぶ広場がある。大きな公園ではないが、街の中心にあるわりには静かで、木陰に入れば初夏の暑さも少しだけ和らいだ。
「ちょっと休みます?」
琴葉が言う。
「結構歩いたしね」
二人は並んでベンチへ座った。
自動販売機で買った飲み物を開ける。
琴葉はレモンティー。
悠介は炭酸飲料。
「瀬戸さん、それ好きですね」
「何が?」
「炭酸」
「よく見てるな」
「ひよりでは珈琲だから意外」
「宮下さんだって今日は紅茶じゃないじゃん」
「これは紅茶です」
「確かに」
琴葉が笑う。
少しの間、二人は何も話さなかった。
目の前を小さな子どもが走っていく。
父親らしい男性がその後ろを追い、少し離れた場所から母親が笑っている。
琴葉がその様子をぼんやり眺めていた。
「子ども好き?」
悠介が聞く。
「好きですよ」
「へえ」
「何ですか」
「意外とかじゃなくて、何となく」
「瀬戸さんは?」
「嫌いじゃない」
「曖昧」
「どう接したらいいか分からないだけ」
「分かります。急に話しかけられると困る」
「でしょ」
「でも可愛い」
「それは分かる」
また少しだけ沈黙が落ちる。
気まずくはなかった。
むしろこういう何でもない時間を一緒に過ごせることの方が、最近は自然になっていた。
「瀬戸さん」
「ん?」
「将来って何したいですか?」
唐突な質問だった。
「急だな」
「さっき家族見てたから」
「それで将来?」
「何となく」
悠介は少し考えた。
「まだ分からない」
「就職は?」
「地元かな。たぶん」
「東京とか行かないんですか」
「特に行きたい理由ないし」
「そっか」
「宮下さんは?」
「私もまだ」
琴葉はレモンティーのペットボトルを両手で持った。
「出版社とかちょっと興味あるけど、すごく行きたいってほどでもなくて」
「文学部っぽい」
「今日は許します」
「初めて許された」
「でも出版社って東京多いんですよね」
「そうなの?」
「たぶん」
「じゃあ東京行くかも?」
「分かりません」
琴葉は笑った。
「まだ二年生ですし」
「だよね」
「あと二年以上ある」
「長いな」
「長いですよ」
その時の二人にとって、二年という時間はとても長く感じられた。
卒業も就職も、まだ遠い未来のことだった。
だからその会話も、ただの雑談として流れていった。
後になって思えば、あれが初めて二人の未来が別々の方向を向く可能性に触れた瞬間だったのかもしれない。
けれど、その頃の悠介はまだ何も考えていなかった。
◇
その日は夕方まで歩き回り、最後は結局ひよりへ戻った。
「おかえり」
店主が言った。
「おかえりって何ですか」
悠介が笑う。
「朝から出かけてたんでしょ」
「なんで知ってるんですか」
「琴葉ちゃんが昨日言ってた」
「言いましたっけ」
「言ってたよ」
「余計なこと覚えてますね」
「店主だからね」
二人はいつもの席へ座った。
「結局ここ来るんですね」
琴葉が言う。
「落ち着くから」
「分かる」
「今日は何飲む?」
店主が聞く。
「アイス珈琲」
「紅茶で」
「いつも通りだね」
「結局これがいいんです」
店主が戻っていく。
悠介は窓の外を見る。
「今日どうでした?」
琴葉が聞いた。
「何が?」
「休日」
「楽しかったよ」
「本当ですか」
「なんで疑うの」
「ずっと歩いてただけだから」
「十分じゃない?」
琴葉は少しだけ笑った。
「私も楽しかったです」
「ならよかった」
その時、悠介は妙な安心感を覚えた。
自分だけが楽しかったわけではなかった。
琴葉も同じように感じていた。
それだけのことなのに、少し嬉しかった。
◇
それから休日に会う回数が少しずつ増えた。
映画を見に行った。
古本屋を回った。
川沿いを歩いた。
夏服を見たいという琴葉に付き合って買い物へ行き、悠介は二時間近く店の外で待たされた。
「長すぎない?」
店から出てきた琴葉へ言う。
「女の人の買い物はこんなものです」
「俺、三回座る場所変えたよ」
「帰らなかったの偉い」
「褒めるところ?」
「はい」
琴葉は紙袋を持ち上げた。
「似合うか今度見てください」
「今見せてくれればいいのに」
「着てるところ見てもらいたいんです」
「……そっか」
その言葉に少しだけ意味があるように感じたのは、たぶん悠介の考えすぎだった。
別の日には琴葉が悠介のアルバイト終わりを待っていた。
「何でいるの?」
店を出た悠介が驚く。
「近くまで来たので」
「もう九時だけど」
「知ってます」
「帰ればよかったのに」
「嫌ですか?」
「そうじゃないけど」
「じゃあいいじゃないですか」
二人で駅まで歩く。
夜の商店街は昼より静かで、閉まった店のシャッターが並んでいる。
「待った?」
「二十分くらい」
「ごめん」
「別に」
「それ便利な言葉だな」
「瀬戸さんも使ってるでしょ」
「最近移った」
そんなことを言いながら歩く。
もう二人でいる理由を探すこともなくなっていた。
◇
七月に入る頃には、周囲から見ればほとんど恋人のようだったと思う。
大学で顔を合わせれば一緒に昼を食べる。
講義が終われば連絡する。
ひよりへ行く。
駅まで帰る。
休みの日も会う。
夜には時々電話する。
それでも二人は付き合っていなかった。
告白というものがない。
それだけだった。
「付き合ってないの?」
ある日の昼休み、琴葉の友人が本人の前で聞いた。
「付き合ってないよ」
琴葉は普通に答えた。
「嘘」
「本当」
「じゃあ何なの?」
「友達」
「それ無理あるって」
「何が?」
「休日二人で映画行って、毎週喫茶店行って、夜電話して?」
「友達でもするでしょ」
「私はしない」
「人によるんじゃない?」
琴葉は笑っていた。
しかし、その日の夕方。
ひよりで向かい合って座った時、琴葉は珍しく少し静かだった。
「どうした?」
悠介が聞く。
「何が?」
「今日あんまり喋らない」
「そんなことないですよ」
「ある」
「……ちょっと考えてました」
「何を?」
琴葉は紅茶のカップを見る。
「私たちって、友達ですよね」
悠介の指が止まった。
「急だな」
「今日友達に言われて」
「何て?」
「付き合ってないのって」
「俺もよく言われる」
「ですよね」
「うん」
「瀬戸さんはどう思ってます?」
悠介はすぐには答えられなかった。
「どうって?」
「私のこと」
琴葉は顔を上げる。
「友達?」
真正面から聞かれると、急に難しくなる。
友達。
間違いではない。
でも、それだけなのかと言われれば違う気がした。
会えない日は少し物足りない。
連絡が来ると嬉しい。
休日に会いたい。
電話の声を聞きたい。
他の誰かと一緒にいる琴葉を見ると、少し気になる。
それを全部まとめた言葉を、悠介はまだ口にしたことがなかった。
「……分からない」
正直に言った。
琴葉は少しだけ視線を落とした。
「そっか」
「いや、違う」
「何が?」
「友達じゃないって意味じゃなくて」
「はい」
「でも、友達だけって言うのも違う気がする」
琴葉は黙っている。
「宮下さんは?」
「私も分からないです」
「同じじゃん」
「だから聞いたんです」
「ずるいな」
「瀬戸さんも答えてないじゃないですか」
二人とも笑った。
少しだけ緊張がほどける。
それでも、その日から「友達」という言葉を使う時、前より少しだけ意識するようになった。
◇
七月十二日。
その日は珍しく、ひよりが休みだった。
入口には小さな紙が貼られている。
本日臨時休業
「どうします?」
琴葉が聞く。
「珍しいね」
「おじさん何かあったのかな」
「明日聞けばいいでしょ」
「じゃあどこ行きます?」
「駅前?」
「混んでそう」
「公園でも行く?」
「暑いです」
「わがままだな」
「涼しいところがいいです」
結局、二人は大学近くのファミリーレストランへ入った。
「ひよりと全然違う」
琴葉が言う。
「ドリンクバーあるよ」
「瀬戸さん向きですね」
「高校までだから」
「前言ってましたね」
「覚えてた?」
「覚えてますよ」
悠介は少し笑った。
琴葉は意外と、どうでもいいことを覚えている。
炭酸が好きなこと。
きのこが苦手なこと。
朝が弱いこと。
金曜日はアルバイトがあること。
経済学部を選んだ理由。
悠介も同じだった。
琴葉は唐揚げにレモンをかける。
紅茶は砂糖を入れない。
暑いのが苦手。
雨は嫌いではない。
本を買う時は帯を必ず取っておく。
実家では犬を飼っている。
いつの間にか、そういう小さなことをたくさん知っていた。
「瀬戸さん」
「何?」
「今日、このあと時間あります?」
「あるよ」
「じゃあちょっと付き合ってください」
「どこ?」
「見たいところがあって」
◇
連れて行かれたのは、駅から少し離れた小さな雑貨店だった。
「これ」
琴葉が棚から一つの商品を手に取る。
革製の栞。
「本の栞?」
「はい」
「今も使ってるじゃん」
「紙のやつだからすぐ曲がるんです」
「買えば?」
「どっちがいいと思います?」
茶色と紺色。
「紺」
「即答ですね」
「宮下さんっぽい」
「どういう意味ですか」
「落ち着いてる」
「茶色は?」
「ひよりっぽい」
「迷う」
琴葉は何度も見比べている。
悠介は少し笑った。
「じゃあ両方」
「そんなにいらないです」
「一個俺が買う」
「え?」
悠介は茶色の栞を取った。
「これ」
「何で?」
「この前本貸してくれたから」
「お礼?」
「そう」
「まだ読み終わってないですよね」
「それは別」
「でも」
「千円もしないでしょ」
「値段じゃなくて」
「嫌?」
琴葉は少し黙った。
「……嫌じゃないです」
「じゃあ決まり」
悠介は会計へ持っていった。
ほんの小さなものだった。
誕生日でもない。
記念日でもない。
ただ何となく買っただけ。
それでも琴葉は店を出てから何度も袋を見ていた。
「そんな嬉しい?」
「嬉しいですよ」
「栞だよ」
「知ってます」
「じゃあよかった」
「大事にします」
その言葉を聞いて、悠介も少し嬉しくなった。
◇
夏休みが近づくにつれ、大学内では試験や課題の話が増えていった。
二人も例外ではなく、ひよりで会っていても会話より勉強をしている時間が長くなる。
「無理」
琴葉が机へ額をつけた。
「何が」
「レポート」
「さっきから一文字も進んでないじゃん」
「考えてます」
「十分?」
「考える時間も必要なんです」
「寝てなかった?」
「目を閉じてただけです」
「それ寝てる人の言い訳」
悠介は笑いながら自分のノートへ戻る。
「瀬戸さんは終わったんですか」
「あと一個」
「裏切り者」
「何で」
「一緒に苦しんでくれると思ったのに」
「勝手に仲間にするなよ」
琴葉が顔を上げる。
「手伝ってください」
「文学部のレポートは無理」
「読むだけ」
「何について?」
「近代文学と都市文化」
「無理」
「即答しないで」
「単語だけで眠い」
「失礼すぎる」
それでも悠介は琴葉の文章を読んだ。
内容は半分くらいしか理解できなかったが、誤字を見つけたり、文章の重複を指摘したりすることくらいはできた。
「ここ同じこと二回書いてる」
「本当だ」
「あとここ、何言ってるか分からない」
「瀬戸さんが文学を知らないからでは」
「読者のせいにするなよ」
「厳しい編集者」
「出版社行きたいなら練習」
「まだ行くって決めてません」
琴葉は笑いながら修正する。
その横顔を、悠介は少しだけ長く見ていた。
理由は分からない。
ただ、こうして同じ机でそれぞれのことをしている時間が好きだった。
◇
七月最後の日。
試験がすべて終わり、二人はひよりで小さく乾杯をした。
悠介はアイス珈琲。
琴葉は紅茶。
「何に乾杯してるんだろ」
琴葉が笑う。
「夏休み」
「大学生っぽい」
「大学生だから」
「そうでした」
翌日から琴葉は実家へ帰る。
一週間。
たった一週間。
以前なら何とも思わなかった時間なのに、今は少しだけ長く感じる。
「明日何時?」
悠介が聞いた。
「十一時の電車」
「駅まで送ろうか」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
「え?」
「いや、荷物あるなら」
「そんなにないですよ」
「じゃあいいけど」
琴葉は少し考えた。
「……来てくれるなら嬉しいです」
「じゃあ行く」
「十時半」
「了解」
二人はいつものように駅まで歩いた。
夕方の空はまだ明るく、蝉の声が聞こえる。
「一週間」
琴葉が言った。
「うん」
「長いですか?」
「前も聞いたな」
「今は?」
悠介は少し考えた。
「長いかも」
琴葉が前を向いたまま笑った。
「私も」
その言葉だけで、胸の奥が少し温かくなる。
◇
翌朝。
悠介は約束より十五分早く駅へ着いた。
琴葉もすでにいた。
「また早い」
「宮下さんも」
「今回は十分前です」
「俺十五分」
「負けた」
「勝負だったの?」
「今決まりました」
琴葉の足元には小さなキャリーケースがある。
「それ持つよ」
「大丈夫です」
「階段あるでしょ」
「じゃあお願いします」
悠介が持つ。
「軽いじゃん」
「だから大丈夫って言ったんです」
「気分」
「何の?」
「送ってる感」
「何ですかそれ」
二人はホームまで歩く。
電車の到着まで十分ほど。
琴葉はベンチへ座り、悠介も隣へ座った。
「帰ったら何するんですか?」
「犬と遊ぶ」
「写真送って」
「いいですよ」
「あと?」
「友達と会うくらい」
「高校の?」
「うん」
「男?」
口に出してから、悠介は自分でも驚いた。
琴葉も一瞬だけ目を丸くした。
「女の子です」
「あ、そう」
「何ですか」
「何が?」
「今、男って聞きましたよね」
「聞いた」
「何で?」
「別に」
「便利な言葉」
「本当に意味ない」
「へえ」
琴葉が少し笑う。
「もし男だったら?」
「別に」
「また別に」
「友達なら普通でしょ」
「そうですね」
琴葉はそれ以上言わなかった。
けれど、その横顔は少しだけ楽しそうだった。
◇
電車がホームへ入ってくる。
「じゃあ」
琴葉が立ち上がった。
「うん」
悠介はキャリーケースを渡す。
「一週間後」
「ですね」
「帰ってきたらひより?」
「もちろん」
琴葉は電車へ乗る前に、少しだけ振り返った。
「瀬戸さん」
「何?」
「電話してもいいですか」
「いつでも」
「本当に?」
「バイト中以外なら」
「じゃあ夜」
「うん」
琴葉が笑った。
「また明日、は変ですね」
「明日会わないしね」
「一週間後だから」
「じゃあ何て言う?」
琴葉は少し考えた。
「また電話で」
「うん」
ドアが閉まる。
電車が動き出す。
悠介はホームに残り、遠ざかる車両を見送った。
姿が見えなくなる。
そして。
「……寂しいな」
誰にも聞こえない声で呟いた。
その瞬間だった。
自分の気持ちが、ようやく少しだけ形を持った。
会えないのが寂しい。
他の誰かと会うのが少し気になる。
声を聞きたい。
帰ってきてほしい。
そして、帰ってきたらまた一緒にいたい。
友達に対しても、そう思うことはある。
でも、たぶんこれはそれだけではない。
悠介はスマートフォンを取り出した。
琴葉からメッセージが届いている。
『乗りました』
『見れば分かる』
『一応』
『気をつけて』
『はい』
続いて。
『一週間後、楽しみにしてます』
悠介はしばらく画面を見た。
それから返す。
『俺も』
送信する。
数秒後。
琴葉から一つだけ届いた。
『よかった』
悠介はその文字を見ながら笑った。
◇
一週間は、思っていたより長かった。
電話はほぼ毎晩した。
最初は十分程度のつもりだったのに、話し始めると三十分、一時間と延びていく。
琴葉の飼っている犬の話。
実家の夕食。
高校時代の友人。
悠介のアルバイト。
ひよりの店主が「琴葉ちゃん来ないね」と言っていたこと。
『ひより行ったんですか?』
「今日行った」
『一人で?』
「一人」
『どうでした?』
「普通」
『寂しかった?』
「……ちょっと」
電話の向こうで琴葉が黙る。
「何?」
『私も行きたかったなと思って』
「帰ってきたら行けばいいじゃん」
『うん』
少し間が空いた。
『あと三日』
「数えてるの?」
『瀬戸さんもでしょ』
「まあ」
『ほら』
二人とも笑った。
告白はしていない。
それでも気持ちは少しずつ見え始めていた。
◇
一週間後。
午後二時。
悠介は駅の改札前に立っていた。
琴葉の電車が到着する。
人の流れの中から、キャリーケースを引いた琴葉が現れた。
悠介を見つける。
笑う。
その瞬間、悠介は一週間前よりはっきりと分かった。
会いたかった。
琴葉が近づいてくる。
「ただいま」
「おかえり」
「何か変ですね」
「何が?」
「家族みたい」
「嫌?」
「嫌じゃないです」
琴葉は笑った。
「ひより行きます?」
「もちろん」
◇
久しぶりのひより。
「おかえり」
店主が言った。
「本当におかえりって言うんですね」
琴葉が笑う。
「常連だから」
「瀬戸さんにも言いました?」
「言ってない」
「俺ずっといたから」
「そっか」
琴葉が悠介を見る。
「ちゃんと来てたんですね」
「何回か」
「私いないのに」
「店が好きなんで」
「へえ」
「何」
「別に」
いつもの席。
いつもの珈琲。
いつもの紅茶。
一週間しか空いていないのに、妙に懐かしく感じる。
「これ」
琴葉が鞄から小さな袋を出した。
「何?」
「お土産」
「俺に?」
「はい」
中には地元の菓子が入っていた。
「ありがとう」
「あと」
琴葉は少し迷ってから、もう一つ小さなものを出した。
木製のキーホルダー。
「これも?」
「駅で見つけて」
「何で二つ?」
「……何となく瀬戸さんっぽかったから」
「どこが?」
「分からないです」
「適当」
「でも見た時に瀬戸さん思い出したんです」
悠介の手が止まる。
琴葉も自分で言ったあと、少し恥ずかしくなったのか視線を逸らした。
「だから買いました」
「そっか」
「嫌だったら」
「嬉しい」
悠介はすぐに言った。
琴葉が顔を上げる。
「本当?」
「本当」
小さなキーホルダー。
特別高いものではない。
でも旅先で琴葉が自分を思い出した。
それが何より嬉しかった。
◇
店を出たのは夕方だった。
二人は駅へ向かって歩く。
夏の陽はまだ高く、商店街にはオレンジ色の光が差している。
「一週間ぶりですね」
琴葉が言う。
「何が?」
「一緒に歩くの」
「電話はしてたけど」
「やっぱり違います」
「何が?」
「会って話す方が好き」
悠介は少しだけ黙った。
「俺も」
二人は歩き続ける。
いつもの道。
何度も歩いた道。
でも、その日は今までと少しだけ違って見えた。
駅の手前。
信号が赤になる。
二人は横断歩道の前で止まった。
琴葉が隣にいる。
その横顔を見る。
話すなら今かもしれない。
そう思った。
理由はない。
何か特別な出来事があったわけでもない。
ただ一週間会わなかったことで、会いたいという気持ちがよく分かった。
それだけだった。
「宮下さん」
「はい?」
「ちょっといい?」
「何ですか」
信号はまだ赤。
「俺」
そこまで言って止まる。
琴葉が待っている。
「何ですか?」
「……」
言葉にするのが急に難しくなった。
好き。
たった二文字なのに、友達だった時間が長くなるほど簡単には言えない。
「瀬戸さん?」
「いや」
「言ってくださいよ」
「ちょっと待って」
「何で」
「今考えてる」
「何を?」
「言い方」
琴葉が笑った。
「何ですか、それ」
「笑うなよ」
「だって」
信号が青になる。
周りの人が歩き始める。
それでも二人は動かなかった。
「宮下さん」
「はい」
悠介は一度だけ息を吸った。
「好きです」
琴葉の笑顔が止まる。
初めて、ちゃんと言った。
「たぶんじゃなくて、ちゃんと好き」
琴葉は何も言わない。
悠介は続けた。
「いつからかは分からないけど、会えないと寂しいし、会うと嬉しいし、他の人より宮下さんのこと考えてる」
少しだけ笑う。
「だから、友達って言うのはもう違うと思う」
琴葉はまだ黙っていた。
悠介の心臓だけが妙に速い。
「……何か言って」
琴葉がようやく顔を上げた。
「私も」
「え?」
「私も好きです」
今度は悠介が黙る。
「いつからか分からないですけど」
琴葉が少し照れたように笑う。
「ひよりに瀬戸さんがいないと寂しいし、連絡来ないと気になるし、帰省してても毎日電話したかった」
「うん」
「だから多分、同じです」
悠介は少し笑った。
「じゃあ」
「はい」
「付き合います?」
「その聞き方何ですか」
「緊張してるんだよ」
「分かりますけど」
琴葉は笑いながら頷いた。
「付き合いましょう」
「はい」
ちょうどその時、信号が再び赤へ変わった。
二人は顔を見合わせる。
「渡れなかった」
琴葉が言う。
「話してたから」
「もう一回待ちですね」
「うん」
少しだけ沈黙が落ちる。
さっきまでと同じ距離に立っている。
それなのに、何かが変わった。
悠介は少し迷ってから、琴葉の手へ自分の手を近づけた。
触れる。
琴葉が一瞬だけこちらを見る。
「……嫌?」
「嫌じゃないです」
悠介はそっと手を握った。
琴葉も握り返す。
初めてつないだ手は、思っていたより普通だった。
劇的でもない。
音楽が流れるわけでもない。
ただ、少しだけ温かい。
信号が青になる。
「行きます?」
「うん」
二人は手をつないだまま歩き出した。
◇
駅前。
いつもの別れ道。
「じゃあ」
琴葉が言う。
「うん」
二人とも、なぜか少し笑っている。
「明日も会います?」
「会うでしょ」
「どこで?」
「ひより」
「やっぱり」
「嫌?」
「全然」
琴葉が一歩離れる。
そして振り返る。
出会った雨の日と同じ場所だった。
「また明日」
悠介も笑う。
「また明日」
何度も交わしてきた言葉。
でも、その日の「また明日」は少しだけ違っていた。
昨日までは、会えたらいいなという言葉だった。
今日からは、会いたい人へ向ける言葉になった。
それだけの変化だった。
けれど悠介には、それで十分だった。
この頃の二人はまだ、恋人になれたことだけで嬉しかった。
来年のことも。
卒業のことも。
就職のことも。
どこで暮らすのかも。
何も決まっていない。
けれど、それでよかった。
明日会える。
その次の日も会える。
その繰り返しがずっと続いていくような気がしていた。
そして二人とも、その感覚を疑う理由をまだ持っていなかった。
――第五章「何でもない毎日」へ続く。