祀られぬものたち

一話



 物心ついたころからひとではないものが見えていた。


 たとえば人間が入れそうもない建物の隙間からこちらを覗く誰かの目。
 花壇に咲き乱れる花たちに紛れて、土から生えているナニかの手。
 ぺたぺたと廊下を歩く、足だけの存在。


 子供のときはまわりの大人や友人にその存在を訴え泣いて怖がったりもした。しかし周囲の困ったような反応や嘘つき呼ばわりされることが増え、柚葉はなにが起こっても"見えない"ものの存在を他人に話すことをやめてしまった。

 やめはしたが、やつらの存在に慣れたわけではない。きっと慣れることはないのだろう。

 中学二年の新学期の初日、教室から窓の外を眺めながら柚葉は思う。転任してきたばかりだと話す担任の先生の声や、ひそやかに交わされるクラスメイト同士のささやき、隣の席からシャーペンの芯を折るような音。誰もが新しい教室や新しい顔ぶれに浮き足立つなか、柚葉の意識は外にばかり向かうのだ。

 白い霧の張り付く窓。

 柚葉の通う中高一貫の学園は、山の裾に建つ小さな私立校だ。山が近いため、この時期は日が高く登っても霧が晴れ上がることは少ない。校舎は古びていて建て直しやリフォームが入った部分もありはするが、どこを見ても濡れたような静けさと重さがずっとまとわりついている。そのせいでこの時期は陰鬱な空気が、さらに陰鬱になる気がした。
 しかしそんな陰鬱さから逃れたいという思いよりもべつに、柚葉の意識は窓の外へと逃げていく。
 霧の向こう、教師も生徒も建物の中におさまり誰もいるはずの校庭。


 そこに、“首だけのなにか”が浮いていた。


 黒く長い髪が風に揺れることなく垂れている。その隙間から、白い輪郭が垣間見える。それはひとの頭部だった。しかし体はなく、首だけが浮いている。まるで校庭という風景画にその首の写真だけを貼り付けたように、首は浮きながら微動だにせず静止している。

 それは、柚葉にとって初めて見るものではなかった。
 一年生の春、入学してすぐのころにもしばらく見かけた記憶がある。朝の通学時。校舎に吸い込まれていく生徒たちの群れのなか、その首はぽつねんと浮いていた。毎日、見ていないふりをして過ごしていたら、いつの間にか消えていたのだけれど──。

 柚葉が一年のころに通っていた教室は、いまのように校庭を見下ろせる場所にはなかった。そのため気がつかなかったが、あの首は去年も、いまのこの時間にずっと同じように存在していたのだろう。


(……あれって、毎年この時期に現れてるってことよね?)


 そう思い至ったとき、教室のざわめきが一瞬遠のいた気がした。


 “首”が、弾かれたようにこちらを向いた。


 ──目が、合った。

 バッと柚葉は顔を逸らす。
 違う。目なんて合っていない。合ったかもしれないだけだ。霧がかかっていたし、距離もある。
 でも、見つかったという感覚だけが、柚葉の背筋にぞわりと這い上がってきた。

 下を向き、机の木目をじっと見つめる。

 深呼吸。気のせい。気のせいだ。あんなの、毎年出るだけの、ただの幻。きっとなんの害もない。ただ浮遊しているだけの存在だ。



 けれどその日の放課後。


 始業式と新しいクラスでの担任からの説明のみでその日は終わり、早く帰れるということで生徒たちは足早に学校を後にしていた。柚葉も怖気を振り払うかのように早々と帰ろうと昇降口に降り立った。
 しかし、校庭には、まだ“それ”が浮いていた。


(……おかしい。去年は、帰りの時間にはもう、いなかったのに)


 去年と同じであれば、あれは何事もなかったように消えているはずなのに。

 今年は、まだいる。

 帰っていく生徒たちの群れのなか、微動だにしなかったはずの首はくるり、くるりと向きを変えいる。生徒たちはそれの存在に気がつかない。それの存在自体見えていない。

 首がまわる。くるり、くるりと。

 まるでなにかを探しているかのように。
 まるでだれかを探しているかのように。


 (……もしかして……あたしを探してるの? ……目が合ったから?)


 胸の奥がざわりと波打つ。靴を履き替えて外に出ていく生徒たちのなか、柚葉は硬直したように動けなくなった。
 あれに見つかったらどうなるのだろう。あれの顔を間近で見てしまったら、自分はどうなるのだろう。教室から見下ろしたとき、あれの顔はよく見えなかった。あれがこちらに振り向いたときに急いで顔を逸らしたのだから。
 ただ、もしかしたら──ほんの少しだけ目を見てしまったかもしれない。
 いや、目といっていいのかわからない。だって目があるはずの場所は真っ黒になっており、眼孔がぽっかりと空いていた。

 去っていく生徒たちが、柚葉を怪訝そうに見やる。それにハッとして、柚葉は靴箱の影に隠れるように移動した。誰かと待ち合わせでもしているふうを装いながら、しばらくしたらあの首が消えていることを願ってジッとその場にとどまっていた。もうどれくらい経っただろうか。生徒たちの姿もほぼ消えて、昇降口には柚葉だけになってしまった。そっと、靴箱の影から外を見る。

 まだ、いた。

 途端に後悔が襲ってくる。どうして人ごみに紛れて帰らなかったのだろう。こんな状況だと、ひとりで校庭を突っ切るしかなくなってくるではないか。柚葉は頭を抱えそうになる。

 そんなときだった。

 「──先輩」

 背後から、静かな声がした。
 驚いて声のした方向を見ると、見覚えのある顔があった。
 春休みに公園で会った、あの色の白い狐目の少年。
 彼が、そこにいた。

「あれ、あんた……公園の。ここでなにしてんの?」
「なにって、帰ろうとしているんですよ。先輩こそこんな時間までなにを?誰か待っているんですか?」

 見れば少年は、ここの制服を着ていた。ついこの間まで小学生でしたといった風情の着こなしだ。柚葉のことを先輩と呼んだことから一年生なのは確実だろう。まさか新入生だったとは。
 柚葉は少年の問いにぐっと詰まり、ちらちらと校舎の外へ視線をやりながら、なんと返そうか思案した。
「待ってるっていうか……なんていうか……タイミングを見計らっていて……」
 少年は首を傾げる。ここで、首が浮いているから帰れないなんて言おうものなら、頭のおかしいやつだと思われかねないだろう。

 ──いや、実際に過去にそう思われてきた。

 だからこそ柚葉は、もごもごと要領を得ない返事を口にするしかなかった。
 少年は、そんな柚葉を訝るでもなく、柚葉がしきりに目線を向けていた方向へと、静かに顔を向けた。


「──ああ。あれが、怖いんですか?」


 少年の言葉に、柚葉は一瞬思考が止まる。

 あれとは、いったいなにを指して言ったのだろう。柚葉は目の前の少年に視線を定める。見えているのだろうか。
 あれが。

「……あれって、なんのこと言ってるの?」

 少年は、なにを言っているのだというふうに、このときばかりは眉をひそめた。柚葉がしらばっくれていることなんかお見通しといった表情だ。

「あの首が怖いんですよね、先輩」

 見えている。彼にも見えているのだ。あの首が。
 吐く息が震える。

「み、見えてるの? あれが……あの頭だけ浮いているやつが」
「はい。髪の長い、白い顔をしたやつですよね」
「まさか、……他のひとにも見えていたりする?あれ……」
「見えていないと思いますよ。それに、普通あんなのが浮いていたら誰かしらなにか言うでしょう」
「触れちゃいけないものだからみんなあれについて喋らないとか」
「だとしたらみなさん賢いですね。あれは見えないふりをしていれば害はなさそうですし」


 少年の言葉を、柚葉は反芻する。


『見えないふりをしていれば特に害はなさそうですし』


 だからだ。
 だからきっと、今年のあれはこの時間になっても消えていないのだ。
 柚葉は認めざるをえなかった。あのとき、自分は確かに目を合わせてしまった。
 だから、あれは自分を探している。

「あたし、あれと目が合っちゃったの」

 は、と玖透が口を開く。なんでまた、とでも言いたいのか。しかし玖透は言葉を発することはなく、なにかを考えるような素振りをみせた。

 それにしても、どうしてこの子はこうも平気そうなのだ。おまけに見えないふりをしていれば害はない、なんて冷静なことを言ってのける。その様子はああいった不可思議な存在に慣れているかのようだ。そこで柚葉ははたと気がついた。そうだ。この子は帰ろうとしてると言っていた。あの首の存在に気がつきながら普通に帰ろうとしていたのだ。おまけに『見えないふりをしていれば特に害はなさそうですし』という台詞。

「ねぇ、もしあいつとまた目が合ったりしたらどうなると思う?」
「…………それは、取り憑かれるでしょうね」
「じゃあさ、あたしがあいつと目を合わせないで校門まで出れたら、取り憑かれずに済むかな」
「おそらくは。でもあれが校外までついてこない保証はないですよ」
「それはたぶん、大丈夫。だってあいつ、ああしてくるくる回っているけどあの場所からまったく移動してない」

 そう、あの首は去年からいま現在、柚葉が見た限り出現している位置をいっさい変えていないのだ。きっとあれは、あの場所から動けない。なら逃げ切れるかもしれない。希望的観測だが、ここにひとりで居続けるよりは行動したほうがいい。

「じゃあ行くわよ。ほら、あんたもはやく靴履いて」
「俺も行くんですか」
「帰ろうとしていたんでしょ? それに、後輩をあんなわけのわかんないものと一緒にしておけないじゃない」
「先輩がひとりで帰るのが怖いだけでは」
「こ、怖くなんてないわよ! いいからとっとと靴履いて、──って、そういえばあんた名前なんだっけ」

 いまさら気がついたように訊ねると、少年の表情の乏しい面にどこか呆れのようなものが浮かんだ。

「………玖透(くとう)です」
「そ。じゃあ玖透、行くわよ。しっかりついてきなさいよ」

 玖透とともに、柚葉は昇降口の扉を押した。



 扉を開けた瞬間、肌に冷たい空気が触れた。霧は薄くなったようでいて、地面に溶けるように沈み、視界の端をぼやけさせている。
 柚葉は小さく息を吸い、手を伸ばしてそっと隣にいる玖透の手首をつかんだ。

「こっち。避けるようにして突っ切って行こう」

 玖透は掴まれた手首になにを言うでもなく、柚葉が進むままに従う。うつむきがちに早足で、あの首の脇を抜けて校門へと向かう。
 あの首が浮かんでいる場所を視界に入れないように、柚葉はずっと地面を見ていた。

 でも、気配がある。確かにある。
 なにかがこちらに近づいてきている。

 そんな、あの首は動けないはず。きっと自分が意識しすぎているだけ。大丈夫、あいつは移動なんてできないはず。大丈夫、校門なんてすぐそこだ。それにいまはこの小さな後輩だって一緒にいるのだ。この後輩をちゃんと無事に外まで送ってあげるという先輩としての務めがある。だから、だから急がなきゃ。
 視線を逸らしているはずなのに、“目が合いそうになる”感覚だけがじわりと胸を締めつけてくる。


(見ちゃダメ。絶対に、見ちゃ──)


 ふと、視界の端に“あれ”の姿が入ってきた気がした。風に流れされるかのようにしてすぐ横まで近づいてきているなんて、そんなのただの恐怖が生み出した妄想だ。しかしあの黒髪が、さらりと触れてきたかのような感触を覚えた。


 ──見つかってる。
 ──動いてる。
 ──視界に、入ってくる。


 長い黒髪が、柚葉の前に入り込んできた。
 肩が跳ねて、ザッと血の気が下がる。
 そのときだった。

「ッ……!」

 声にならない声を上げながら、柚葉は玖透の手首を強く引っ張った。
 もう、無理だ。逃げる。逃げるしかない。
 こんなもの、正気でやり過ごせるはずがない。

「走るよ!!」

 そう言って、柚葉は目を強く閉じ、そのまま勢いよく駆け出した。目の前に立ち塞がろうとした黒髪を振り払い、校庭を突っ切って校門へ向かう。さらりとした髪が簾をくぐったときのように体を撫でたのを感じて鳥肌が立つ。

 霧の中、地面を蹴る足音が響く。

 風が、あの首の髪を引き連れるように後方から吹いた気がした。なにも見たくない。あれが追ってくる様子なんて、感じたくない。
 ぎゅ、と掴んだ玖透の手首の感触だけが現実の手触りだった。
 柚葉は、彼の存在を頼りに必死に走った。

 振り返らない。声も出さない。泣かない。

 ──怖いなんて、言わない。

 どれだけ走ったのか、とにかくがむしゃらに前に進んでいるとき玖透の手首を掴んでいる腕を引っ張られる。

「先輩……っ」

 その声に柚葉はようやく足を止め、目を開くことができた。
 気がつけば校門の外まで飛び出していた。空気が変わっているのを感じる。あの首の気配が消え逃げ切れたのだと悟った。柚葉はその場に立ち尽くし、乱れる呼吸を抑えようとした。心臓がどくどくと暴れている。背中に汗が滲む。ふたたび、腕を引っ張られる感覚がして、柚葉は自分が引っ張ってきた後輩を振り返った。柚葉に掴まれている手と反対の手が、柚葉の手に添えられていた。どこか困った色を浮かべている玖透に、自分が強く彼の手首を握りしめていたことに気がついた。

「ご、ごめん!」

 慌てて手を離す。玖透は離された手首をしげしげと眺めていた。跡でもついていないか確認しているのだろうか。そんなに強く、自分は握りしめていたのだろうか。怒っているようではないとはいえ、いくぶんかの気まずさを覚えながら柚葉はとにかく校門から離れようと玖透を促した。

「……あいつ、動いたわ。あたしの目の前にいた」
「はい。たぶん先輩の気配を辿ったんでしょう。でも先輩の予想どおり、校庭から外へは出れないみたいですね」
「そう、そうね……よかった。でも、明日も追われたらどうしよう」
「あれだけ拒否したら大丈夫じゃないですか。でも、もうあれと目を合わせちゃダメですよ。たぶん、次は校外までついてきます」
「……なんでそんなこと言うのよ…ッ!」

 その不吉な忠告に、胸の奥がきゅっと縮んだ。 涙ぐみそうになるのをこらえながら、柚葉は彼を睨みつけてしまう。なのに玖透は、なぜ怒られているのか理解できないといった顔をしていた。

「目を合わせなきゃいいだけです。……怖がらせてしまいましたか?」
「は、はぁ!? 怖くない、怖くないわよ!! あんたが知ったようなこと言うからムカついただけよ!」
「なにをムカつくことが……」
「目を合わせなきゃ大丈夫ってもうわかっているんだから。そんなこと言われるまでもないってこと!」
「そう……ですか……?」

 釈然としない玖透をよそに、柚葉は歩みを進める。なんだかこの後輩ばかりが平気そうで気恥ずかしい。しかしこの子はなぜ、こうも平然としていられるのだ。柚葉はピタリと足を止めて振り返る。この後輩は何者なのだろう。

「なんであんた、そんなにあれに詳しいの?」
「あれってあの首のことですよね。べつに詳しくないです。あの首なんてこの学園に入ってはじめて見たものですし」
「首だけのこと言ってるんじゃなくて、なんていうか……ああいうお化けとか妖怪みたいなもののことよ。だってあんた、あれ以外にも見えるんでしょう? そういう、……ひとじゃないやつが」

 柚葉の言いたいことを察したのか、玖透が「ああ」と納得したように頷く。

「見えますよ」
「昔から?」
「はい、昔から」
「………あんたって人間よね?」
「……………」
「………ちょっと、黙らないでくれる?」
「先輩がどんな反応するのか気になって」
「先輩をからかうんじゃないわよ!」
「冗談です。人間ですよ。昔から続く神道系の家の出なので、見えてしまうのは……生まれとか、そういうものだと思います」

 玖透のどこかさらりとかわすような言い方に、柚葉はそれ以上深く追求することができなかった。
  思えば、玖透とは今日を含めても、まだたった二度しか会話をしていない。そんな近しくもない相手に、あれこれと訊くのはきっと無粋だ。柚葉は、ほんの少し自分を省みるように目を伏せた。


「……そういえば、あんたはなんであんな時間まで残ってたの?」
「先生に呼び出されていたんです」
「新学期初日から呼び出し食らうって、なにやったのよ」
「べつに説教じゃないですよ。ただ、俺の体調を気にかけてくれたみたいで」
「……まだ具合悪いの?」
「もう平気です。でも、小学生の頃から休みがちだったから……そのあたりを心配されたんだと思います」

 そう言う玖透は、強がりでもなんでもなく、本当に平気そうだった。その様子に、すこし前の春休みの出来事を思い出して柚葉は少しだけ安堵した。
 それから二人は、自然と会話を続けながら歩いた。
 やがて分かれ道へと差しかかり、玖透が「俺はこっちなので」と告げる。

 柚葉は、なにかを言いかけた。

 なにを言いたかったのか、うまく言葉にならないまま、喉の奥にひっかかった感情だけが残る。
 玖透は、その言葉を待つように、柚葉を見ていた。

「……なんでもないわ。じゃ、またね」
「はい。また」

 不可思議なものに出会ったあとは、いつも生きた心地がしない。
 けれど、その日の帰り道は、どうしてか足取りが少しだけ軽かった。
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