夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~
第一章 幸せな専業主婦時代
第一話 完璧な朝
朝の光が薄いレースカーテンを透かして、リビングに柔らかく差し込んでいた。
黒瀬 凜は静かにキッチンに立ち、出汁を引いていた。昆布を取り出すタイミング、火加減、鰹節を入れる瞬間——そのどれもが、今では研究実験のように精密に、体に馴染んでいる。かつてピペットを握っていた指先が、今は木べらを持つ。それだけのことだ、と凜はいつも自分に言い聞かせていた。
「いい匂い」
背後から声がして、凜は振り返った。
黒瀬 樹が、ワイシャツのボタンを留めながらキッチンに入ってくる。髪はまだ少し濡れていて、シャワーの後の清潔な香りが漂った。端整な顔に穏やかな笑みを浮かべたその姿は、朝からため息が出るほど絵になっている。こんな男が夫だということを、凜はまだたまに不思議に思う。
「今日は白味噌にしてみた」
「好きだよ、それ」
樹はさりげなく凜の肩に手を置いて、出来上がった味噌汁の椀を覗き込んだ。そのまま凜の頬に軽くキスをして、何事もなかったように食卓へと向かう。
結婚して五年。それでもこういう朝の小さな仕草が、凜には心地よかった。
---
食事を終えた樹は、コーヒーを一口飲んでから鞄を手に取った。
「今日、遅くなるかもしれない。論文の締め切りが近くて」
「わかった。夕飯は温め直せるものにしておく」
「助かる」
樹は玄関で振り返り、いつものように言った。
「行ってきます、凜」
名前を呼ぶ声が、どこか甘い。凜はそれに小さく頷いて、「行ってらっしゃい」と返した。ドアが閉まる音を聞きながら、しばらくその場に立っていた。
静かだった。
マンションの十二階。東向きの窓から朝の光が斜めに入り込んで、リビングのフローリングに長い影を作っている。この静けさは、結婚当初は「穏やかさ」だと思っていた。でも最近は、ときどき違う言葉が浮かぶ。
凜はその言葉を、頭の隅に追いやった。考えても仕方のないことだ。
---
午前中は家事で過ぎた。
洗濯、掃除、買い物のリスト作り。凜はそれらを淡々とこなした。無駄のない動き、段取りよく進む作業——もともとこういうことは苦手ではなかった。研究でも、実験の計画を立てるのは得意だった。データを整理して、仮説を立てて、検証して。今の家事も、突き詰めれば同じことかもしれない。
でも、違う。
凜はスーパーのカゴに野菜を入れながら、心の中で苦笑した。何かが違う。研究には「問い」があった。まだ誰も知らないことを、自分の手で明らかにしようとする感覚。あの緊張感と高揚感は、今の生活にはない。
——それでいい。自分で選んだことだ。
凜はカゴを持ち直して、次の棚へと進んだ。
---
昼過ぎ、凜はソファに腰を下ろし、なんとなくスマートフォンを開いた。
タイムラインに、見慣れた名前が流れてきた。
御堂 隆一郎氏、来月の国際シンポジウムで基調講演。医療とテクノロジーの融合をテーマに、産学連携の新時代を語る——
凜の指が、自然と止まった。
御堂 隆一郎。かつての恩師。研究の世界では知らない人間がいないような大物で、しかし本人はどこまでも穏やかで、学生の話をちゃんと聞く人だった。凜が研究の道を本格的に歩むと決めたのも、大学で御堂の講義を聞いたのがきっかけだった。
君には本物の才能がある。研究を続けなさい。
あの言葉を、凜は今でも覚えている。
記事をスクロールすると、シンポジウムの登壇者一覧が並んでいた。大学教授、省庁の役人、製薬会社の重役——そして一人、場違いなほど若い名前が目に入った。
朝比奈 蓮氏、医療データ解析プラットフォーム「HELIOS」CEO、特別ゲストとして参加予定——
凜は首を傾げた。朝比奈。どこかで聞いたことがあるような、ないような。HELIOSといえば最近IT業界で急成長している会社だ。確か創業者はまだ三十代だと聞いた記憶がある。御堂先生とどういう繋がりがあるのだろう。
まあ、関係ない話だ。
凜は画面をスクロールしようとして、手が止まった。記事の下に関連リンクが並んでいた。その一つに、見慣れた名前が並んでいる。
黒瀬 樹・花咲 るな、共同論文が国際誌に掲載——
花咲 るな。確か樹の研究室の若手研究者だ。名前は何度か聞いたことがある。
別に、何もおかしくない。共同論文なんて研究者には珍しくもない。凜自身、かつては何本も書いた。
それでも凜は、なぜかそのリンクをタップしなかった。
スマートフォンを伏せて、ソファの背もたれに体を預ける。天井を見上げると、午後の光が白く広がっていた。
どこかが、静かに疼いた。
それが何なのか、凜にはうまく説明できなかった。嫉妬とも違う。寂しさとも違う。もっと輪郭のぼんやりした、名前のない感覚。
——気のせいだ。
凜は目を閉じた。樹はいい夫だ。毎朝名前を呼んでくれる。自分のコーヒーの好みを覚えている。忙しい中でも、ちゃんと凜を気にかけてくれる。
それ以上に、何が必要だというんだ。
夕方、買ってきた食材を冷蔵庫に仕舞いながら、凜はもう一度だけ考えた。花咲るな。共同論文。若い研究者。
考えるのをやめた。
夕飯の準備を始めよう。今日は豚の角煮にしようと思っていた。時間はかかるけれど、樹が好きだから。
---
その夜、樹が帰ってきたのは午後十一時を過ぎていた。
「遅かったね」と凜が言うと、樹は疲れた顔で「ああ、いろいろあって」とだけ答えた。
温め直した角煮を出すと、「うまいな」と笑った。その笑顔は、朝と変わらない。穏やかで、やさしい。
凜は向かいに座って、お茶を飲みながら樹を見ていた。
何も変わっていない。何もおかしくない。
ただ——樹がネクタイを緩めた拍子に、首筋がちらりと見えた。
凜の目が、止まった。
うっすらと、赤い痕があった。
気のせい、だろうか。
凜は目を逸らして、湯呑みに視線を落とした。お茶の水面が、かすかに揺れていた。
---
次話へ続く
黒瀬 凜は静かにキッチンに立ち、出汁を引いていた。昆布を取り出すタイミング、火加減、鰹節を入れる瞬間——そのどれもが、今では研究実験のように精密に、体に馴染んでいる。かつてピペットを握っていた指先が、今は木べらを持つ。それだけのことだ、と凜はいつも自分に言い聞かせていた。
「いい匂い」
背後から声がして、凜は振り返った。
黒瀬 樹が、ワイシャツのボタンを留めながらキッチンに入ってくる。髪はまだ少し濡れていて、シャワーの後の清潔な香りが漂った。端整な顔に穏やかな笑みを浮かべたその姿は、朝からため息が出るほど絵になっている。こんな男が夫だということを、凜はまだたまに不思議に思う。
「今日は白味噌にしてみた」
「好きだよ、それ」
樹はさりげなく凜の肩に手を置いて、出来上がった味噌汁の椀を覗き込んだ。そのまま凜の頬に軽くキスをして、何事もなかったように食卓へと向かう。
結婚して五年。それでもこういう朝の小さな仕草が、凜には心地よかった。
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食事を終えた樹は、コーヒーを一口飲んでから鞄を手に取った。
「今日、遅くなるかもしれない。論文の締め切りが近くて」
「わかった。夕飯は温め直せるものにしておく」
「助かる」
樹は玄関で振り返り、いつものように言った。
「行ってきます、凜」
名前を呼ぶ声が、どこか甘い。凜はそれに小さく頷いて、「行ってらっしゃい」と返した。ドアが閉まる音を聞きながら、しばらくその場に立っていた。
静かだった。
マンションの十二階。東向きの窓から朝の光が斜めに入り込んで、リビングのフローリングに長い影を作っている。この静けさは、結婚当初は「穏やかさ」だと思っていた。でも最近は、ときどき違う言葉が浮かぶ。
凜はその言葉を、頭の隅に追いやった。考えても仕方のないことだ。
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午前中は家事で過ぎた。
洗濯、掃除、買い物のリスト作り。凜はそれらを淡々とこなした。無駄のない動き、段取りよく進む作業——もともとこういうことは苦手ではなかった。研究でも、実験の計画を立てるのは得意だった。データを整理して、仮説を立てて、検証して。今の家事も、突き詰めれば同じことかもしれない。
でも、違う。
凜はスーパーのカゴに野菜を入れながら、心の中で苦笑した。何かが違う。研究には「問い」があった。まだ誰も知らないことを、自分の手で明らかにしようとする感覚。あの緊張感と高揚感は、今の生活にはない。
——それでいい。自分で選んだことだ。
凜はカゴを持ち直して、次の棚へと進んだ。
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昼過ぎ、凜はソファに腰を下ろし、なんとなくスマートフォンを開いた。
タイムラインに、見慣れた名前が流れてきた。
御堂 隆一郎氏、来月の国際シンポジウムで基調講演。医療とテクノロジーの融合をテーマに、産学連携の新時代を語る——
凜の指が、自然と止まった。
御堂 隆一郎。かつての恩師。研究の世界では知らない人間がいないような大物で、しかし本人はどこまでも穏やかで、学生の話をちゃんと聞く人だった。凜が研究の道を本格的に歩むと決めたのも、大学で御堂の講義を聞いたのがきっかけだった。
君には本物の才能がある。研究を続けなさい。
あの言葉を、凜は今でも覚えている。
記事をスクロールすると、シンポジウムの登壇者一覧が並んでいた。大学教授、省庁の役人、製薬会社の重役——そして一人、場違いなほど若い名前が目に入った。
朝比奈 蓮氏、医療データ解析プラットフォーム「HELIOS」CEO、特別ゲストとして参加予定——
凜は首を傾げた。朝比奈。どこかで聞いたことがあるような、ないような。HELIOSといえば最近IT業界で急成長している会社だ。確か創業者はまだ三十代だと聞いた記憶がある。御堂先生とどういう繋がりがあるのだろう。
まあ、関係ない話だ。
凜は画面をスクロールしようとして、手が止まった。記事の下に関連リンクが並んでいた。その一つに、見慣れた名前が並んでいる。
黒瀬 樹・花咲 るな、共同論文が国際誌に掲載——
花咲 るな。確か樹の研究室の若手研究者だ。名前は何度か聞いたことがある。
別に、何もおかしくない。共同論文なんて研究者には珍しくもない。凜自身、かつては何本も書いた。
それでも凜は、なぜかそのリンクをタップしなかった。
スマートフォンを伏せて、ソファの背もたれに体を預ける。天井を見上げると、午後の光が白く広がっていた。
どこかが、静かに疼いた。
それが何なのか、凜にはうまく説明できなかった。嫉妬とも違う。寂しさとも違う。もっと輪郭のぼんやりした、名前のない感覚。
——気のせいだ。
凜は目を閉じた。樹はいい夫だ。毎朝名前を呼んでくれる。自分のコーヒーの好みを覚えている。忙しい中でも、ちゃんと凜を気にかけてくれる。
それ以上に、何が必要だというんだ。
夕方、買ってきた食材を冷蔵庫に仕舞いながら、凜はもう一度だけ考えた。花咲るな。共同論文。若い研究者。
考えるのをやめた。
夕飯の準備を始めよう。今日は豚の角煮にしようと思っていた。時間はかかるけれど、樹が好きだから。
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その夜、樹が帰ってきたのは午後十一時を過ぎていた。
「遅かったね」と凜が言うと、樹は疲れた顔で「ああ、いろいろあって」とだけ答えた。
温め直した角煮を出すと、「うまいな」と笑った。その笑顔は、朝と変わらない。穏やかで、やさしい。
凜は向かいに座って、お茶を飲みながら樹を見ていた。
何も変わっていない。何もおかしくない。
ただ——樹がネクタイを緩めた拍子に、首筋がちらりと見えた。
凜の目が、止まった。
うっすらと、赤い痕があった。
気のせい、だろうか。
凜は目を逸らして、湯呑みに視線を落とした。お茶の水面が、かすかに揺れていた。
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次話へ続く