あの夢の続き
〜第一章〜
うるさいなぁ。
ここは、どこ?
鼓膜を破らんばかりの大歓声と、肋骨の奥まで揺らす重低音。
暗がりの中、無数に揺れるペンライトの光の海。ステージの上では、誰かが歌い、踊り、熱狂を巻き起こしている。
けれど、私の頭の中は真っ白だった。
息ができない。怖い。
周囲の熱狂から完全に切り離され、全身の細胞が激しい警鐘を鳴らしていた。
逃げ出さなきゃ。
わけも分からぬまま、私は客席を抜け出し、非常口の重い鉄の扉を力任せに押し開けた。
その瞬間、外からちょうど扉を開けて入ろうとしていた誰かの身体と、まともにぶつかった。
「……っ」
「おい、どこ行くんだよ」
息を呑んで見上げた。
黒いキャップを目深に被った、背の高い男。世間を騒がせるトップアイドルグループのセンター――|透(とおる)だった。
ふたりで誰かのライブに来ていたのだと、なぜかその輪郭だけは頭の隅で理解できた。けれど、目の前の男の瞳も、向けてくる強い気迫も、今の私にはあまりにも見知らぬ恐怖でしかない。
混乱して後ずさりしかけた私の腕を、透は強い力で引き寄せた。
「……キャップ、深く被れ」
低く乾いた声とともに、透が自分の頭から脱いだ黒いキャップを、私の頭に深く押し込んできた。
続いて肩にかかる重み。仕立てのいい上質な革の質感と、ずっしりとした重み。高価なものだとすぐに分かるジャケットから、ふわりとどこか懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。引き寄せられた胸元で、ジッパーの冷たい金属が頬に当たる。
私のバッグの金具で、小さなプラスチックが擦れ合う音が小さく響く。
擦り切れてプリントが剥げかけた、少し不格好なキャラクターのキーホルダー。
揺れるそれを見つめながら、私の心臓は早鐘を打っていた。
――私は、誰なんだろう。
鏡を見なくてもわかる。今の自分は、自分の体であって自分じゃない。
誰かの体に、あるはずのない魂として紛れ込んでしまった偽物なんじゃないか。
その恐怖で指先が氷のように冷たくなり、声すら出ない。
透は周囲の気配を殺すように素早く見回すと、私の手を引いて夜の路地へと滑り出し、人目を避けるように駅へと足早に向かった。
地下鉄の入り口へと続く下りエスカレーターに乗る。
無機質なステップが静かに沈んでいく中、透は正面を見据えたまま、ボソリと口を開いた。
「ツアーが終わったら、ちゃんと事務所にも話す。……あの家、もう契約の手続き進めてるから」
「……え?」
「ふたりで探しただろ。庭が広くて、古いけど日当たりのいい空き家。あそこなら、誰も来ない」
透の横顔は、テレビの中で見る完璧な笑顔とはまるで違っていた。
無防備で、少し照れくさそうで、確かな未来を疑っていない男の顔。
その言葉のひとつひとつが、私の胸を鋭くえぐった。
知らない。
そんな約束、私は知らない。
駅のプラットホームに降り立つと、終電間際のホームにはほとんど人影がなかった。
蛍光灯の白い光が、ホームの床を寒々しく照らしている。
透が足を止め、私の肩からジャケットを、そして頭からキャップをすっと引き取った。
ふっと体温が奪われ、夜の冷気が肌に突き刺さる。キャップを目深に被り直した透の表情が、深い影に隠れて見えなくなった。
「……ここを、真っ直ぐ行けばいいから」
透は改札の方を指差した。
その声音の冷たさに、私は息を呑んだ。
さっきエスカレーターで話していたときの熱が、嘘のように消え失せている。
「じゃあな」
背を向けて歩き出そうとする透の広い背中に、私はたまらなくなって手を伸ばした。
「……待って!」
透の足が止まった。
ゆっくりと振り返ったその瞳には、射抜くような鋭い光が宿っていた。
私を、私の顔を見ているようで、その奥の「何か」を冷徹に見透かしているような目。
透は私の震える唇と、強張った指先を冷ややかに一瞥すると、低く言い放った。
「……これ以上一緒にいても、意味ないだろ」
透は二度と振り返らず、足音を響かせて階段を上がっていった。
残された私は、冷え切ったホームのベンチにへたり込み、バッグに揺れる擦り切れたキーホルダーを、爪が食い込むほど強く握りしめることしかできなかった。
あの人は、気づいていたのだ。
私が、彼のかつて愛していた彼女ではない何者かだと。
〜第二章〜
一人きりで戻ったアパートは、静まり返っていた。
部屋の中に置かれた家具や服、洗面台の歯ブラシ。
そのすべてが、見知らぬ他人の持ち物のように思えて触れることすら恐ろしかった。
翌朝、恐怖に耐えかねて飛び込んだ総合病院の精神科で、私はいくつもの検査を受けた。
脳のMRI、心理テスト、医師との長い問診。
カルテに記された私の名前を見て、息が止まった。
『薫子』(かおるこ)
……薫子。
私が「乗っ取ってしまった」と思っていた彼女の名前は、私の名前と同じだった。
数週間の通院と投薬を経て、霧が晴れるように、少しずつ記憶の断片が繋ぎ合わされていった。
数ヶ月前、雨の夜の交差点。激しい衝撃と、割れるガラスの音。
命に別条はなかったものの、激しい精神的ショックから、私の脳は過去の記憶をすべて遮断してしまったのだという。
「全健忘に伴う解離症状です」
主治医は、穏やかな声でそう説明した。
「あまりの恐怖と混乱から、防衛本能として『自分は別人だ』『他人の体を借りている』という錯覚を作り出してしまう患者さんは少なくありません。あなたが薫子さんですよ。
他の誰でもない」
医師の言葉を聞いた瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
溢れ出す記憶。
透と出会った雨の日。真夜中のドライブ。
ふたりで図面を広げて笑い合った、あの古い平屋の庭。
そして――あのエスカレーターでの透の横顔と、ホームでの冷たい別れ。
私は、偽物なんかじゃなかった。
私は最初から薫子で、透の恋人で、彼と未来を誓い合っていた本人だったのだ。
しかしその事実が、何よりも私を絶望させた。
記憶を失い、怯え、透を怯えた目で見つめ、彼が差し出してくれた未来を突っぱねるように立ち竦んでいた、あの夜の私。
透は気づいていたのだ。
姿形は同じでも、瞳の奥に自分への愛が宿っていないことに。
「中身が違う」と肌で察したからこそ、あの人はあれほど傷つき、冷たく背を向けたのだ。
『これ以上一緒にいても、意味ないだろ』
耳の奥で、透の乾いた声がリフレインする。
私は、私が一番大切にしなければならなかった人を、この手で決定的に傷つけてしまった。
今さら「あれは記憶喪失のせいだった」「本当は私だった」なんて、どの面を下げて言えるだろう。
そんな都合のいい言い訳、プライドの高い透が信じるはずがない。むしろ、さらに惨めに彼を愚弄することになるだけだ。
「薫子さん、次回の診察ですが――」
医師の声が遠くに聞こえる。
私は深く頭を下げ、逃げるように診察室を出た。
待合室の硬い椅子に座り、バッグからノートを取り出す。
治療の一環として、医師から「頭に浮かんだ感情や記憶をすべて書き留めるように」と言われて渡されていたノートだった。
震える手でペンを走らせる。
透への想い、引き裂かれた時間の恐怖、そして取り戻してしまった記憶の重み。
自分という存在がどれほど透の人生を壊してしまったかという、血を吐くような悔恨の痕跡を、ただ無我夢中で刻みつけた。
書き終えたとき、私は静かに立ち上がった。
二度と、透の前に現れてはいけない。
それが、彼を裏切ってしまった私が差し出せる、唯一の誠意だった。
その日を境に、私は病院へ行くのをやめた。
アパートを引き払い、携帯の番号を変え、名前も気配も消すようにして、社会の片隅で細々と働きながら一人で息を潜めて生きていく道を選んだ。
〜第三章〜
あれから、三年が過ぎていた。
テレビや街頭ビジョンで見かける透は、相変わらず圧倒的な存在感を放っていた。
けれど、どこか以前よりも眼差しが鋭く、人を寄せ付けない冷徹な影を纏っているように見えた。
その画面を見かけるたびに、私の胸は細い針で刺されたように痛んだ。
初夏の、生ぬるい風が吹く夜だった。
同僚との付き合いで慣れない酒を口にし、酔いが回った私の足は、吸い寄せられるように電車に乗っていた。
降り立ったのは、かつて透と別れたあの駅だった。
暗い夜道を、ふらつく足取りで歩く。
辿り着いたのは、住宅街の奥にひっそりと佇む、あの平屋だった。
門扉は錆びつき、庭には雑草が生い茂っている。
ふたりで暮らすはずだった家。透が契約し、家具の配置まで話し合っていた、私たちの約束の場所。
「……ごめんなさい」
誰もいない廃屋に向かって、私は膝をついた。
雑草の青臭い匂いと、土の冷たさ。
溢れ出す涙を止められず、私は地面に両手をついて泣き崩れた。
「ごめんなさい、透……ごめんなさい……」
「……なんで?」
背後から降ってきた低い声に、心臓が凍りついた。
弾かれたように振り返ると、闇の中に人影が立っていた。
黒いキャップを目深に被り、街灯の逆光を背負った男。
透だった。
どうして彼がここに?
透は息を乱し、信じられないものを見るような目で、地面にへたり込む私を見下ろしていた。
「……なんで、ここにきた?」
その声に含まれていたのは、再会の歓喜などではなかった。
濃密な警戒心と、欺瞞を許さない冷たい猜疑心。
透にとって、あの夜の私は「中身の違う偽物」だったはずだ。その女が、ふたりだけの秘密の場所に現れた。透の頑固なプライドと警戒心が、拒絶の壁を立ち上げるのが分かった。
息が詰まった。
見られたくない。これ以上、汚れた記憶を彼に残したくない。
「……ごめんなさい!」
私は顔を覆ったまま立ち上がり、無我夢中で走り出した。
透は追わない。あの夜と同じように、疑念を抱えたまま、ただ冷たく見送るだけだ。
それが透という男の、頑なな防衛本能なのだと痛いほど分かっていた。
翌週、透は都内の総合病院の精神科を訪れていた。
あの夜、逃げ去った薫子の足取りを執念で辿り、彼女が数年前に通っていた唯一の場所を突き止めたのだ。
「……ですから、ご家族でもない方に、患者の診療情報をお話しすることはできません」
白衣を着た医師は、書類から目を離さずに淡々と告げた。
透は深く被ったキャップのツバの下で、奥歯を噛み締めた。
「頼みます。あいつが、どんな状態だったのかだけでいい。教えてください」
「警察でもない限り、開示義務はありません。お引き取りください」
取り付く島もない拒絶。
透は拳を強く握りしめ、諦めて背を向けた。
診察室の重い扉に手をかけた時、医師のデスクの脇、カルテの山が積まれたトレイの端に、小さなプラスチックの塊が転がっているのが視界の端をかすめた。
透の足が、床に縫い付けられたように止まった。
ゆっくりと視線を戻す。
薄暗い診察室の灯りの下で、それは確かにそこにあった。
擦り切れてプリントが剥げかけ、チェーンの金具が少し錆びついた、あのちょっと不格好なキャラクターのキーホルダー。
透の脳裏に、かつての記憶がフラッシュバックする。
ふたりで初めて遠出した旅先で、薫子が「これ可愛い」と笑って買った、数百円の安物。
あの駅の夜、薫子のバッグで揺れていた、世界にひとつしかない薫子の私物。
「……それ」
透の声が、かすかに震えた。
振り返った透の瞳は、トレイのキーホルダーを射抜いていた。
「それ……あいつの私物ですよね。なんで、あなたがそれを持ってるんですか」
医師の眉がピクリと跳ねた。
医師は手元のトレイに目を落とし、それからゆっくりと顔を上げ、透を値踏みするように見つめた。
「……これは、三年前、彼女が最後にここへ来た日に待合室に落ちていたものです。連絡先も繋がらなくなり、処分もできずにお預かりしていました」
医師の目が、冷たく細められる。
「ですが……なぜ、赤の他人であるあなたが、彼女の持ち物をそこまで正確に知っているのですか? あなたは一体、誰なんです」
厳しい詰問だった。
医師の鋭い視線が、透の喉元に突きつけられる。
誤魔化しは効かない。ここで嘘をつけば、永遠に真実は闇に葬られる。
透はゆっくりとキャップを脱いだ。
芸能人としての仮面も、傷つくことを恐れていた頑固なプライドも、すべてをなぐり捨てるように、静かに息を吸い込んだ。
「……透といいます、、」
絞り出すような、掠れた一言だった。
余計な肩書きも、言い訳も何もない。ただ、己の存在そのものを差し出すような響き。
診察室の空気が、凍りついたように止まった。
医師の目が大きく見開かれた。
デスクの引き出しに手を伸ばしかけた医師の指先が、微かに震える。
「……あなたが、、『透』さん……ですか」
医師の口から漏れたその名前に、透は息を呑んだ。
医師は立ち上がり、デスクの引き出しから、一冊の薄いノートを取り出した。
使い古された、角の丸くなったノート。
「本来なら、守秘義務違反で医師免許を剥奪される行為です」
医師は静かに、だが重みのある声で語り始めた。
「三年前、彼女は重度の全健忘を患っていました。激しいショックから、自分の心を守るために『自分は別人の体を乗っ取ってしまった魂だ』と信じこんでいた」
「……っ!?」
「彼女があなたと別れたあの夜、彼女にはあなたの記憶がまったくなかったのです。……ですが、治療を続けるうちに、記憶は戻った。自分が薫子本人であり、あなたとの記憶が、すべて」
医師はノートとそしてトレイにあったキーホルダーをそっと透の前に置いた。
「彼女はこれを、あなたに見せるつもりは毛頭なかったはずです。あなたに合わせる顔がないと、一人で罰を受けるように生きていた。……彼女の落とし物です。あなたから返してあげてください」
透は震える手で、ノートを開いた。
ページを繰る透の指先が、激しく強張る。
そこに並んでいたのは、乱れた筆跡でびっしりと書き殴られた、薫子の叫びだった。
記憶の断片、引き裂かれた時間の恐怖、そしてたった一人の男に向けられた、狂おしいほどの祈りと悔恨の痕跡。
ページをめくるごとに、透の息が荒くなる。
喉の奥が引き攣れ、視界が急速に歪んでいく。
偽物なんかじゃなかった。
裏切りでも、、心変わりでもなかった。
あいつはずっと、たった一人で、暗闇の中で自分を責め続けながら、俺の名前を呼び続けていたのだ。
そして俺は、自分のちっぽけなプライドと警戒心に閉じこもり、あいつを暗闇の中に置き去りにした。
「……っ」
透はノートを胸に強く押し当て、ボロボロと大粒の涙を床に落とした。
言葉にならない嗚咽が、無機質な診察室に漏れ、消えた。
〜第四章〜
初夏の夜風が、廃屋の庭の草を波立たせていた。
薫子は、生い茂る雑草の中に静かに立っていた。
手には、小さな花束。
今日で、すべてを終わりにしようと思っていた。
あの日、ここで透に姿を見られてしまった。もう二度とここへは来られない。
最後に、ふたりで見るはずだった未来の残骸に、別れを告げに来たのだ。
地面に花束を置き、薫子は深く息を吸い込んだ。
涙はもう出なかった。胸の中には、冷たい静寂だけが広がっていた。
立ち上がり、背を向けて歩き出そうとした、、
暗闇の向こうから、静かに草を踏みしめる音が近づいてきた。
薫子の身体が強張る。
逃げ出そうと足を踏み出しかけた背中に、風に乗って、吐息のような声が届いた。
「……薫子」
低く、掠れた、泣き出しそうなほど優しい声。
心臓を撃ち抜かれたように、薫子の足が止まった。
呼吸が止まる。
三年間、一度も呼ばれることのなかった、この先も呼ばれることはなかったはずの懐かしい声。
偽物としてではなく、ただ一人の彼女として、その魂を射抜くようにはじめて呼ばれた自分の名前。
薫子の肩が、小刻みに震え始める。
ゆっくりと、恐る恐る振り返った。
数メートル離れた暗闇の中に、透が立っていた。
肩で息をして、ぼろぼろと涙をこぼしながら、ただそこに立ち尽くしていた。
透は無理に近づこうとはしなかった。
手を伸ばすことも、言葉をかけることもせず、ただ薫子から数歩離れた場所で、壊れ物を扱うように足を止めている。
お互いに、触れることすら躊躇われるほどの、三年という空白の距離。
風の音だけが、ふたりの間を通り抜けていく。
やがて透は、震える右手をゆっくりと上着のポケットに差し入れた。
取り出された手が、静かに、薫子の方へと差し出される。
言い訳も、謝罪も、愛の言葉すら透は口にしない。
ただ、静かに開かれた透の手のひらの上に、月明かりを浴びて横たわっていた。
擦り切れてプリントの剥げかけた、あの不格好なキーホルダー。
夜の底のような静寂の中、手のひらの上の小さなプラスチックだけが、ふたりが確かに共有していた時間の証として、静かにそこにあった。
薫子の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
透は声も発さず、ただ濡れた瞳で、手のひらを差し出したままキーホルダーを見つめ続けている。
言い訳もしない、カッコつけもしない、ただその場に立ち尽くしてキーホルダーを差し出すだけ。
三年という歳月を経ても、何ひとつ変わっていない、あまりにも不器用で真っ直ぐな佇まい。
薫子は、涙で滲む視界の中、胸の前でぎゅっと両手を握りしめた。
泣き笑いのようなかすかな笑みを浮かべ、薫子の唇が小さく動く。
「……透らしい」
夜風に溶けるような、微かな呟き。
それはあの日以来、薫子が初めて口にした、彼の名前だった。
うるさいなぁ。
ここは、どこ?
鼓膜を破らんばかりの大歓声と、肋骨の奥まで揺らす重低音。
暗がりの中、無数に揺れるペンライトの光の海。ステージの上では、誰かが歌い、踊り、熱狂を巻き起こしている。
けれど、私の頭の中は真っ白だった。
息ができない。怖い。
周囲の熱狂から完全に切り離され、全身の細胞が激しい警鐘を鳴らしていた。
逃げ出さなきゃ。
わけも分からぬまま、私は客席を抜け出し、非常口の重い鉄の扉を力任せに押し開けた。
その瞬間、外からちょうど扉を開けて入ろうとしていた誰かの身体と、まともにぶつかった。
「……っ」
「おい、どこ行くんだよ」
息を呑んで見上げた。
黒いキャップを目深に被った、背の高い男。世間を騒がせるトップアイドルグループのセンター――|透(とおる)だった。
ふたりで誰かのライブに来ていたのだと、なぜかその輪郭だけは頭の隅で理解できた。けれど、目の前の男の瞳も、向けてくる強い気迫も、今の私にはあまりにも見知らぬ恐怖でしかない。
混乱して後ずさりしかけた私の腕を、透は強い力で引き寄せた。
「……キャップ、深く被れ」
低く乾いた声とともに、透が自分の頭から脱いだ黒いキャップを、私の頭に深く押し込んできた。
続いて肩にかかる重み。仕立てのいい上質な革の質感と、ずっしりとした重み。高価なものだとすぐに分かるジャケットから、ふわりとどこか懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。引き寄せられた胸元で、ジッパーの冷たい金属が頬に当たる。
私のバッグの金具で、小さなプラスチックが擦れ合う音が小さく響く。
擦り切れてプリントが剥げかけた、少し不格好なキャラクターのキーホルダー。
揺れるそれを見つめながら、私の心臓は早鐘を打っていた。
――私は、誰なんだろう。
鏡を見なくてもわかる。今の自分は、自分の体であって自分じゃない。
誰かの体に、あるはずのない魂として紛れ込んでしまった偽物なんじゃないか。
その恐怖で指先が氷のように冷たくなり、声すら出ない。
透は周囲の気配を殺すように素早く見回すと、私の手を引いて夜の路地へと滑り出し、人目を避けるように駅へと足早に向かった。
地下鉄の入り口へと続く下りエスカレーターに乗る。
無機質なステップが静かに沈んでいく中、透は正面を見据えたまま、ボソリと口を開いた。
「ツアーが終わったら、ちゃんと事務所にも話す。……あの家、もう契約の手続き進めてるから」
「……え?」
「ふたりで探しただろ。庭が広くて、古いけど日当たりのいい空き家。あそこなら、誰も来ない」
透の横顔は、テレビの中で見る完璧な笑顔とはまるで違っていた。
無防備で、少し照れくさそうで、確かな未来を疑っていない男の顔。
その言葉のひとつひとつが、私の胸を鋭くえぐった。
知らない。
そんな約束、私は知らない。
駅のプラットホームに降り立つと、終電間際のホームにはほとんど人影がなかった。
蛍光灯の白い光が、ホームの床を寒々しく照らしている。
透が足を止め、私の肩からジャケットを、そして頭からキャップをすっと引き取った。
ふっと体温が奪われ、夜の冷気が肌に突き刺さる。キャップを目深に被り直した透の表情が、深い影に隠れて見えなくなった。
「……ここを、真っ直ぐ行けばいいから」
透は改札の方を指差した。
その声音の冷たさに、私は息を呑んだ。
さっきエスカレーターで話していたときの熱が、嘘のように消え失せている。
「じゃあな」
背を向けて歩き出そうとする透の広い背中に、私はたまらなくなって手を伸ばした。
「……待って!」
透の足が止まった。
ゆっくりと振り返ったその瞳には、射抜くような鋭い光が宿っていた。
私を、私の顔を見ているようで、その奥の「何か」を冷徹に見透かしているような目。
透は私の震える唇と、強張った指先を冷ややかに一瞥すると、低く言い放った。
「……これ以上一緒にいても、意味ないだろ」
透は二度と振り返らず、足音を響かせて階段を上がっていった。
残された私は、冷え切ったホームのベンチにへたり込み、バッグに揺れる擦り切れたキーホルダーを、爪が食い込むほど強く握りしめることしかできなかった。
あの人は、気づいていたのだ。
私が、彼のかつて愛していた彼女ではない何者かだと。
〜第二章〜
一人きりで戻ったアパートは、静まり返っていた。
部屋の中に置かれた家具や服、洗面台の歯ブラシ。
そのすべてが、見知らぬ他人の持ち物のように思えて触れることすら恐ろしかった。
翌朝、恐怖に耐えかねて飛び込んだ総合病院の精神科で、私はいくつもの検査を受けた。
脳のMRI、心理テスト、医師との長い問診。
カルテに記された私の名前を見て、息が止まった。
『薫子』(かおるこ)
……薫子。
私が「乗っ取ってしまった」と思っていた彼女の名前は、私の名前と同じだった。
数週間の通院と投薬を経て、霧が晴れるように、少しずつ記憶の断片が繋ぎ合わされていった。
数ヶ月前、雨の夜の交差点。激しい衝撃と、割れるガラスの音。
命に別条はなかったものの、激しい精神的ショックから、私の脳は過去の記憶をすべて遮断してしまったのだという。
「全健忘に伴う解離症状です」
主治医は、穏やかな声でそう説明した。
「あまりの恐怖と混乱から、防衛本能として『自分は別人だ』『他人の体を借りている』という錯覚を作り出してしまう患者さんは少なくありません。あなたが薫子さんですよ。
他の誰でもない」
医師の言葉を聞いた瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
溢れ出す記憶。
透と出会った雨の日。真夜中のドライブ。
ふたりで図面を広げて笑い合った、あの古い平屋の庭。
そして――あのエスカレーターでの透の横顔と、ホームでの冷たい別れ。
私は、偽物なんかじゃなかった。
私は最初から薫子で、透の恋人で、彼と未来を誓い合っていた本人だったのだ。
しかしその事実が、何よりも私を絶望させた。
記憶を失い、怯え、透を怯えた目で見つめ、彼が差し出してくれた未来を突っぱねるように立ち竦んでいた、あの夜の私。
透は気づいていたのだ。
姿形は同じでも、瞳の奥に自分への愛が宿っていないことに。
「中身が違う」と肌で察したからこそ、あの人はあれほど傷つき、冷たく背を向けたのだ。
『これ以上一緒にいても、意味ないだろ』
耳の奥で、透の乾いた声がリフレインする。
私は、私が一番大切にしなければならなかった人を、この手で決定的に傷つけてしまった。
今さら「あれは記憶喪失のせいだった」「本当は私だった」なんて、どの面を下げて言えるだろう。
そんな都合のいい言い訳、プライドの高い透が信じるはずがない。むしろ、さらに惨めに彼を愚弄することになるだけだ。
「薫子さん、次回の診察ですが――」
医師の声が遠くに聞こえる。
私は深く頭を下げ、逃げるように診察室を出た。
待合室の硬い椅子に座り、バッグからノートを取り出す。
治療の一環として、医師から「頭に浮かんだ感情や記憶をすべて書き留めるように」と言われて渡されていたノートだった。
震える手でペンを走らせる。
透への想い、引き裂かれた時間の恐怖、そして取り戻してしまった記憶の重み。
自分という存在がどれほど透の人生を壊してしまったかという、血を吐くような悔恨の痕跡を、ただ無我夢中で刻みつけた。
書き終えたとき、私は静かに立ち上がった。
二度と、透の前に現れてはいけない。
それが、彼を裏切ってしまった私が差し出せる、唯一の誠意だった。
その日を境に、私は病院へ行くのをやめた。
アパートを引き払い、携帯の番号を変え、名前も気配も消すようにして、社会の片隅で細々と働きながら一人で息を潜めて生きていく道を選んだ。
〜第三章〜
あれから、三年が過ぎていた。
テレビや街頭ビジョンで見かける透は、相変わらず圧倒的な存在感を放っていた。
けれど、どこか以前よりも眼差しが鋭く、人を寄せ付けない冷徹な影を纏っているように見えた。
その画面を見かけるたびに、私の胸は細い針で刺されたように痛んだ。
初夏の、生ぬるい風が吹く夜だった。
同僚との付き合いで慣れない酒を口にし、酔いが回った私の足は、吸い寄せられるように電車に乗っていた。
降り立ったのは、かつて透と別れたあの駅だった。
暗い夜道を、ふらつく足取りで歩く。
辿り着いたのは、住宅街の奥にひっそりと佇む、あの平屋だった。
門扉は錆びつき、庭には雑草が生い茂っている。
ふたりで暮らすはずだった家。透が契約し、家具の配置まで話し合っていた、私たちの約束の場所。
「……ごめんなさい」
誰もいない廃屋に向かって、私は膝をついた。
雑草の青臭い匂いと、土の冷たさ。
溢れ出す涙を止められず、私は地面に両手をついて泣き崩れた。
「ごめんなさい、透……ごめんなさい……」
「……なんで?」
背後から降ってきた低い声に、心臓が凍りついた。
弾かれたように振り返ると、闇の中に人影が立っていた。
黒いキャップを目深に被り、街灯の逆光を背負った男。
透だった。
どうして彼がここに?
透は息を乱し、信じられないものを見るような目で、地面にへたり込む私を見下ろしていた。
「……なんで、ここにきた?」
その声に含まれていたのは、再会の歓喜などではなかった。
濃密な警戒心と、欺瞞を許さない冷たい猜疑心。
透にとって、あの夜の私は「中身の違う偽物」だったはずだ。その女が、ふたりだけの秘密の場所に現れた。透の頑固なプライドと警戒心が、拒絶の壁を立ち上げるのが分かった。
息が詰まった。
見られたくない。これ以上、汚れた記憶を彼に残したくない。
「……ごめんなさい!」
私は顔を覆ったまま立ち上がり、無我夢中で走り出した。
透は追わない。あの夜と同じように、疑念を抱えたまま、ただ冷たく見送るだけだ。
それが透という男の、頑なな防衛本能なのだと痛いほど分かっていた。
翌週、透は都内の総合病院の精神科を訪れていた。
あの夜、逃げ去った薫子の足取りを執念で辿り、彼女が数年前に通っていた唯一の場所を突き止めたのだ。
「……ですから、ご家族でもない方に、患者の診療情報をお話しすることはできません」
白衣を着た医師は、書類から目を離さずに淡々と告げた。
透は深く被ったキャップのツバの下で、奥歯を噛み締めた。
「頼みます。あいつが、どんな状態だったのかだけでいい。教えてください」
「警察でもない限り、開示義務はありません。お引き取りください」
取り付く島もない拒絶。
透は拳を強く握りしめ、諦めて背を向けた。
診察室の重い扉に手をかけた時、医師のデスクの脇、カルテの山が積まれたトレイの端に、小さなプラスチックの塊が転がっているのが視界の端をかすめた。
透の足が、床に縫い付けられたように止まった。
ゆっくりと視線を戻す。
薄暗い診察室の灯りの下で、それは確かにそこにあった。
擦り切れてプリントが剥げかけ、チェーンの金具が少し錆びついた、あのちょっと不格好なキャラクターのキーホルダー。
透の脳裏に、かつての記憶がフラッシュバックする。
ふたりで初めて遠出した旅先で、薫子が「これ可愛い」と笑って買った、数百円の安物。
あの駅の夜、薫子のバッグで揺れていた、世界にひとつしかない薫子の私物。
「……それ」
透の声が、かすかに震えた。
振り返った透の瞳は、トレイのキーホルダーを射抜いていた。
「それ……あいつの私物ですよね。なんで、あなたがそれを持ってるんですか」
医師の眉がピクリと跳ねた。
医師は手元のトレイに目を落とし、それからゆっくりと顔を上げ、透を値踏みするように見つめた。
「……これは、三年前、彼女が最後にここへ来た日に待合室に落ちていたものです。連絡先も繋がらなくなり、処分もできずにお預かりしていました」
医師の目が、冷たく細められる。
「ですが……なぜ、赤の他人であるあなたが、彼女の持ち物をそこまで正確に知っているのですか? あなたは一体、誰なんです」
厳しい詰問だった。
医師の鋭い視線が、透の喉元に突きつけられる。
誤魔化しは効かない。ここで嘘をつけば、永遠に真実は闇に葬られる。
透はゆっくりとキャップを脱いだ。
芸能人としての仮面も、傷つくことを恐れていた頑固なプライドも、すべてをなぐり捨てるように、静かに息を吸い込んだ。
「……透といいます、、」
絞り出すような、掠れた一言だった。
余計な肩書きも、言い訳も何もない。ただ、己の存在そのものを差し出すような響き。
診察室の空気が、凍りついたように止まった。
医師の目が大きく見開かれた。
デスクの引き出しに手を伸ばしかけた医師の指先が、微かに震える。
「……あなたが、、『透』さん……ですか」
医師の口から漏れたその名前に、透は息を呑んだ。
医師は立ち上がり、デスクの引き出しから、一冊の薄いノートを取り出した。
使い古された、角の丸くなったノート。
「本来なら、守秘義務違反で医師免許を剥奪される行為です」
医師は静かに、だが重みのある声で語り始めた。
「三年前、彼女は重度の全健忘を患っていました。激しいショックから、自分の心を守るために『自分は別人の体を乗っ取ってしまった魂だ』と信じこんでいた」
「……っ!?」
「彼女があなたと別れたあの夜、彼女にはあなたの記憶がまったくなかったのです。……ですが、治療を続けるうちに、記憶は戻った。自分が薫子本人であり、あなたとの記憶が、すべて」
医師はノートとそしてトレイにあったキーホルダーをそっと透の前に置いた。
「彼女はこれを、あなたに見せるつもりは毛頭なかったはずです。あなたに合わせる顔がないと、一人で罰を受けるように生きていた。……彼女の落とし物です。あなたから返してあげてください」
透は震える手で、ノートを開いた。
ページを繰る透の指先が、激しく強張る。
そこに並んでいたのは、乱れた筆跡でびっしりと書き殴られた、薫子の叫びだった。
記憶の断片、引き裂かれた時間の恐怖、そしてたった一人の男に向けられた、狂おしいほどの祈りと悔恨の痕跡。
ページをめくるごとに、透の息が荒くなる。
喉の奥が引き攣れ、視界が急速に歪んでいく。
偽物なんかじゃなかった。
裏切りでも、、心変わりでもなかった。
あいつはずっと、たった一人で、暗闇の中で自分を責め続けながら、俺の名前を呼び続けていたのだ。
そして俺は、自分のちっぽけなプライドと警戒心に閉じこもり、あいつを暗闇の中に置き去りにした。
「……っ」
透はノートを胸に強く押し当て、ボロボロと大粒の涙を床に落とした。
言葉にならない嗚咽が、無機質な診察室に漏れ、消えた。
〜第四章〜
初夏の夜風が、廃屋の庭の草を波立たせていた。
薫子は、生い茂る雑草の中に静かに立っていた。
手には、小さな花束。
今日で、すべてを終わりにしようと思っていた。
あの日、ここで透に姿を見られてしまった。もう二度とここへは来られない。
最後に、ふたりで見るはずだった未来の残骸に、別れを告げに来たのだ。
地面に花束を置き、薫子は深く息を吸い込んだ。
涙はもう出なかった。胸の中には、冷たい静寂だけが広がっていた。
立ち上がり、背を向けて歩き出そうとした、、
暗闇の向こうから、静かに草を踏みしめる音が近づいてきた。
薫子の身体が強張る。
逃げ出そうと足を踏み出しかけた背中に、風に乗って、吐息のような声が届いた。
「……薫子」
低く、掠れた、泣き出しそうなほど優しい声。
心臓を撃ち抜かれたように、薫子の足が止まった。
呼吸が止まる。
三年間、一度も呼ばれることのなかった、この先も呼ばれることはなかったはずの懐かしい声。
偽物としてではなく、ただ一人の彼女として、その魂を射抜くようにはじめて呼ばれた自分の名前。
薫子の肩が、小刻みに震え始める。
ゆっくりと、恐る恐る振り返った。
数メートル離れた暗闇の中に、透が立っていた。
肩で息をして、ぼろぼろと涙をこぼしながら、ただそこに立ち尽くしていた。
透は無理に近づこうとはしなかった。
手を伸ばすことも、言葉をかけることもせず、ただ薫子から数歩離れた場所で、壊れ物を扱うように足を止めている。
お互いに、触れることすら躊躇われるほどの、三年という空白の距離。
風の音だけが、ふたりの間を通り抜けていく。
やがて透は、震える右手をゆっくりと上着のポケットに差し入れた。
取り出された手が、静かに、薫子の方へと差し出される。
言い訳も、謝罪も、愛の言葉すら透は口にしない。
ただ、静かに開かれた透の手のひらの上に、月明かりを浴びて横たわっていた。
擦り切れてプリントの剥げかけた、あの不格好なキーホルダー。
夜の底のような静寂の中、手のひらの上の小さなプラスチックだけが、ふたりが確かに共有していた時間の証として、静かにそこにあった。
薫子の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
透は声も発さず、ただ濡れた瞳で、手のひらを差し出したままキーホルダーを見つめ続けている。
言い訳もしない、カッコつけもしない、ただその場に立ち尽くしてキーホルダーを差し出すだけ。
三年という歳月を経ても、何ひとつ変わっていない、あまりにも不器用で真っ直ぐな佇まい。
薫子は、涙で滲む視界の中、胸の前でぎゅっと両手を握りしめた。
泣き笑いのようなかすかな笑みを浮かべ、薫子の唇が小さく動く。
「……透らしい」
夜風に溶けるような、微かな呟き。
それはあの日以来、薫子が初めて口にした、彼の名前だった。