学校一の王子様は、私にだけ甘すぎる。
第1話 やっと見つけた
二学期の始業式が終わったばかりの朝、日向 茜(ひなた あかね)は盛大に寝坊した。時計の数字に青ざめ、トーストを一枚くわえたまま、身支度もそこそこに家を飛び出す。
癖のない黒髪を肩の上あたりで切りそろえ、垂れ気味の目にはどこか気弱そうな色がある。これといって目立つところのない、ごく普通の女子高生――それが茜だった。ただし今日に限っては、その平凡さが盛大に裏目に出ていた。
校門の角を曲がった瞬間、視界いっぱいに誰かの制服が飛び込んできた。
「わ……っ」
体が傾いだ瞬間、視界が一度大きく回って、次の瞬間には誰かの腕の中に収まっていた。
「危ない」
低い声が耳元で響いた瞬間――知らない人のはずなのに、心臓だけが、知っている誰かのように跳ねた。
慌てて顔を上げると――今、自分を抱き止めてくれたのは、この人だ。見たことのない男子生徒が、すぐ近くで茜を見下ろしていた。
整いすぎた顔立ち、少し癖のある髪。制服はきちんと着ているのに、なぜかその辺の生徒とは違う空気をまとっている。
(あ……パン、まだ咥えたままだ)
気づいた瞬間、かあっと顔が熱くなった。慌てて口からトーストを引き抜く。
「あ……ありがとう、ございます」
しどろもどろに礼を言う茜を、彼はしばらく黙って見つめていた。時間にして、ほんの数秒。なのに、やけに長く感じた。
「……やっと見つけた」
「え?」
聞き返した声は、周りに集まってきた生徒たちの歓声にかき消された。
「うそ、あの子じゃない!? 転校生と何かあった!?」
「見て見て、めちゃくちゃかっこよくない?」
気づけば周囲には人だかりができていた。茜を抱き止めていた彼は、何事もなかったように体を離すと、軽く会釈をして「大丈夫?」とだけ聞いた。
「あ、はい。大丈夫です、その、ありがとうございました」
「うん」
それだけ言うと、彼は校門をくぐって歩いていった。周りの女子たちの視線が、名残惜しそうにその背中を追いかけていく。茜は食べかけのトーストを握りしめたまま、その場にぽつんと立ち尽くしていた。
(今の、なんだったんだろう)
やっと見つけた、と彼は確かに言った。誰かと勘違いしているのだろうか。それとも、聞き間違いだろうか。
「茜、大丈夫!? すごい音したけど」
駆け寄ってきたのは、明るいショートボブを揺らした少女だった。幼稚園からの付き合いになる親友、桐生 果穂(きりゅう かほ)は、物怖じしない気性そのままに、いつも真っ先に茜のもとへ駆けつけてくれる。
「う、うん。転んだだけ……なんだけど」
「なんだけど?」
「今の人に、助けられて」
果穂の目が丸くなった。
「今の人って……もしかして今日転校してきたっていう例の……!」
「知ってるの?」
「知ってるも何も、朝からその話でもちきりだよ。名前は一条くんだったかな。すっごい家柄らしいって噂で、もう学年中の女子がざわついてる」
一条。さっきの彼の名前らしい。茜は校門の向こうに消えていった背中をもう一度思い浮かべたが、すぐに頭を振った。
(きっと、誰かと間違えられただけ)
◇
ホームルームで、担任の宮田がその転校生を教壇に立たせたとき、教室の空気が一段階跳ね上がったのが分かった。
「一条 蓮(いちじょう れん)です。よろしく」
短い自己紹介だったのに、教室のあちこちから小さなどよめきが起きた。教壇に立つ横顔を見た瞬間、茜は息を止めた。――さっき、自分を抱き止めてくれた、あの人だ。
その視線に、ふいに気づかれた。
蓮の目が、まっすぐ茜のほうを向く。教室中の視線が集まる中で、彼だけが、まるで教室に茜しかいないような顔をしていた。
(な、なんで私を見るの……)
気のせいだと思おうとしたのに、心臓は勝手に速くなっていく。宮田が「じゃあ席は……」と言いかけたところで、蓮が先に口を開いた。
「あそこでいいですか」
彼が指したのは、茜のちょうど隣、空いていた席だった。宮田が「あ、うん、いいけど」と戸惑うのもそこそこに、蓮はまっすぐそこへ向かって歩いてくる。
クラス中の女子の視線が、痛いくらいに茜へ突き刺さった。
(なんで、よりによって)
隣の席に座った蓮は、荷物を置きながら、小さく言った。
「よろしく」
「よ、よろしくお願いします……」
声が裏返った。蓮はそれを見て、少しだけ口の端を上げた。笑ったところを初めて見た、と茜は場違いなことを思った。
◇
昼休み、消しゴムを落として転がしてしまった茜が拾おうとしゃがみこんだとき、横から伸びてきた手が先にそれを拾い上げた。
「はい」
「あ、ありがとう……」
受け取ろうとした手のひらに乗せられたのは、自分の消しゴムではなかった。真新しい、封も切っていない別の消しゴムだった。
「え、これ、私のじゃ」
「新しいの、あげる」
「い、いや、新品じゃん、これ!」
「君が使うならいい」
「な、なんで」
「使ってほしいから」
理由になっていないようで、なぜか妙に説得力のある言い方だった。茜が返す言葉を探している間に、蓮は自分の落とした消しゴムを拾い上げ、あっさりと引き出しにしまってしまった。
近くの席で見ていた女子たちが、小さく「うそ……」とつぶやくのが聞こえた。茜は消しゴムを握りしめたまま、耳まで熱くなるのを感じていた。
(誰にでも、こうなんだよね、きっと)
そう思おうとしたのに、なぜか胸の奥がざわついて、うまく落ち着いてくれなかった。
◇
放課後、教室を出ようとした茜の前に、見覚えのない男子生徒が立ちはだかった。人懐っこい笑みを浮かべたその生徒は、蓮と同じタイミングで転入してきたらしい、もう一人の転校生だった。
「碧 悠真(あお ゆうま)。蓮の幼馴染で、よろしくね」
「あ、日向茜です……よろしくお願いします」
悠真は茜の顔をしげしげと眺めたあと、なぜか楽しそうに笑った。
「へえ、君が」
「え?」
「ううん、なんでも」
誤魔化すように笑う悠真の視線の先、廊下の少し先で、蓮がこちらを見ていた。何も言わず、ただじっと。
その目には、初対面のクラスメイトへ向けるにしては、あまりに強い何かが宿っていた。
茜はその視線から逃げるように会釈だけして、足早に昇降口へ向かった。心臓の音が、うるさいくらいに響いていた。
(やっと見つけた、って言ってた)
誰かと間違えているだけのはずなのに。
それなのに、なぜあの目は、こんなにも自分だけを見ていたのだろう。
茜にはまだ、その答えが分からなかった。


