独占愛は夜より深く。

第十章

要の腕に抱き寄せられたまま、私はかろうじて息を整えた。

東條玲央の視線は、もうこちらから外れている。
でも、あの一瞬で十分だった。
たぶん気づかれた。
少なくとも、ただの客じゃないと疑われた可能性は高い。

「表情変えるな」

耳元で落ちた要の声は低くて静かだった。

「今、俺と話してる顔をしろ」

そう言われても難しい。
胸はうるさいし、手のひらも少し汗ばんでいる。
なのに要は、そんな私を見てほんの少しだけ口元をやわらげた。

「大丈夫」

短いそのひと言が、妙に効く。

「……要」

「ん」

「近い」

そう言うと、要がほんの少しだけ目を細めた。

「恋人なんだろ」

さらっと返されて、また顔が熱くなる。
今それを意識させないでほしいのに、こういうときほど要は容赦がない。

「座ったまま聞け」

要が私の肩を抱いたまま、視線だけで個室エリアを示す。

ガラスと装飾壁で半分ほど仕切られた空間。
完全な密室ではないから、位置によっては声が拾える。
要はそれを見抜いたうえで、いちばん自然に近づける角度を選んでいた。

「伊織」
要が通信を小さく押さえる。
「音、拾えるか」

すぐに返事が来る。

「近づけば断片は取れます。ただし不自然な移動は避けてください」

「了解」

要はごく自然な動作で、テーブル上のメニューに手を伸ばした。
そのまま私のほうへ少しかがむ。
外から見れば、ただ顔を寄せて話しているだけ。
でも実際は、個室から漏れる声を聞くための位置取りだった。

「紗菜、少しだけ合わせろ」

「……どうやって」

「恋人っぽく」

心臓が跳ねる。
でも、ここでためらってる場合じゃない。

私はそっと要の袖をつかんで、体を少しだけ寄せた。
すると要の目がわずかに揺れる。

「それは反則」

「そっちが言ったんでしょ」

「そうだけど」

低くこぼれる声が、少しだけ甘い。
緊張の中なのに、そんなやり取りができてしまう自分たちが不思議だった。

そのとき、個室のほうから声が漏れた。

「……例の件は、もう長く引っ張れない」

月城蓮司の声。
落ち着いていて、冷たい。

続いて、東條の低い声が重なる。

「なら、先にあの娘を押さえるべきだ」

息が止まりそうになる。

あの娘。
それが誰を指しているのか、考えるまでもなかった。

私の指先が震えた瞬間、要の手がテーブルの下でそっと私の手に重なった。
逃がさないように。
落ち着かせるように。

蓮司の声が続く。

「白石の兄が残したものは想定外だった。だが妹まで深入りするとはな」

「月影がついている以上、放置は危険だ」
東條の声は淡々としている。
「特に月城要は厄介だ」

その名前が出た途端、隣の要の空気がほんの少しだけ変わる。
静かだけれど、温度が下がったのがわかった。

「身内に牙を向ける子は、昔から厄介だ」
蓮司が薄く笑った気配がする。
「だが、まだ使い道はある」

私は思わず息をのんだ。

使い道。
それは要をまだ何かに利用するつもりだということだ。

通信の向こうで、伊織が小さく言う。

「録れています」

要は反応しない。
ただ、私の手を握る力だけが少し強くなる。

個室の中で、グラスが触れる小さな音がした。

「東條」
蓮司が低く言う。
「次の取引までに、娘の動きを止めろ」

「必要ならこちらで処理する」

その言葉に、背筋が一気に冷える。

怖い。
本当に、怖い。
でもその瞬間、要が私の肩をぐっと引き寄せた。

ほとんど抱きしめるみたいな距離。
外から見れば甘く寄り添う恋人同士。
でも私には、それが守るための壁だとわかる。

「もう十分だ」

要の声は低く、決まっていた。

「下がるぞ」

私はうなずこうとした。
そのときだった。

個室の扉が、音もなく開いた。

東條玲央が立ち上がっている。

私は反射で顔を伏せそうになった。
でも要の指がそっと顎に触れる。

「下向くな」

囁く声。
甘いほど静かなのに、命令としてはっきりしている。

「見られても、恋人のふりを崩すな」

東條の足音が近づいてくる。
ゆっくり。
試すみたいに。
息が苦しい。

要は私の髪をひと房すくって、耳元へかけた。
そしてそのまま、頬に指をすべらせる。

「要……」

かすれた声が出る。
本気でどきどきしていて、演技なんかじゃなかった。

「その顔、ちょうどいい」

「今言う……?」

「自然でかわいい」

そんなことを囁かれている間にも、東條の気配はすぐそばまで来ていた。

「失礼」

低い声が落ちる。

私はびくっと肩を揺らしそうになったけれど、要の腕がそれを許さなかった。

「何か」
要が冷たく返す。

東條は一瞬黙ったあと、薄く笑うような声音で言った。

「お連れの方が少し顔色悪そうでしたので」

「気のせいだ」

要の声は落ち着いている。
何も知らない客を装うには完璧すぎるほどだった。

「そうですか」

東條の視線が、私に落ちるのがわかる。
ぞくっとした。
見透かすような、嫌な目。

でもその瞬間、要が私の頬をそっと包んだ。

「すぐ休ませる」

言葉は東條に向けたものなのに、触れ方はやさしすぎて胸が痛い。

東條はそれ以上何も言わず、やがて足音を遠ざけた。
けれど完全には安心できない。
あれは確認だ。
私たちを疑って、試した。

要は東條の気配が消えるまで動かなかった。
やがて小さく息を吐く。

「紗菜」

「……うん」

「よく耐えた」

そのひと言で、張りつめていたものが一気に揺らぐ。

「こわかった」

本音がぽろっと落ちた。
取りつくろう余裕なんて、もうない。

すると要が、ほんの一瞬だけ額を寄せる。

「知ってる」

「でも、要がいたから……」

そこまで言って、言葉が詰まる。

要の目が静かに細まる。

「続きは出てから聞く」

低い声。
でも少しだけ甘い。

「今ここで言われたら、本気で連れて帰る」

そんなことを言うから、怖かったはずなのに胸が熱くなる。

「行くぞ」

要が立ち上がる。
自然な動作で私の手を取る。
恋人のふりのまま。
でも今はもう、その手の温度だけが現実だった。
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