独占愛は夜より深く。

第十一章

廊下の奥で、床がきしむ音がした。

ひとつじゃない。
複数。
ゆっくり近づいてくる足音に、部屋の空気が一気に冷える。

要は私を背にかばったまま、兄の部屋のドアを静かに閉めた。

「窓は」

低い声で問われて、私ははっとしてベランダ側を見る。
カーテンの向こうにある掃き出し窓。
二階。
飛び降りるには高い。
でも、下には物置の屋根があったはずだ。

「外へ出られる」
私が小さく言うと、要はうなずいた。

通信から恒一の声が入る。

「裏に二人。玄関に一人」

「伊織、外の死角は」
要が即座に返す。

「東側です。隣家との塀沿いなら一時的に隠れられます」

「わかった」

要はベランダのカーテンを少しだけ開けて外を確認する。
その横顔は冷静そのものだった。
でも、つないだままの手にだけ少し力がこもる。

「紗菜」

「うん」

「怖くても走れ」

そのひと言に、私はしっかりうなずいた。

次の瞬間、廊下の向こうでドアノブが回された。
兄の部屋じゃない。
隣の物音。
家の中を探っている。

要は迷わず窓を開けた。
朝前の冷たい空気が、一気に流れ込む。

「先に出る。すぐ来い」

要がベランダへ出て、手すり越しに下を確認する。
それから振り返り、私に手を伸ばした。

「来い」

私は兄の部屋を一度だけ振り返る。
涙の余韻がまだ残っている。
でも今は立ち止まれない。

その手を取って、ベランダへ出た。

外は思ったより冷たかった。
遠くで鳥の声がして、こんな夜の終わりでも朝は来るのだと妙に思う。

要が手すりに片手をかける。

「屋根に降りる」

「うん」

「俺が先」

要はひらりと身を下ろし、物置の屋根へ飛び移った。
鈍い音。
すぐに顔を上げて私を見る。

「紗菜」

手を伸ばされる。
私は深く息を吸って、手すりを越えた。

怖い。
でも飛ぶしかない。

次の瞬間、足がふわっと浮く。
落ちる感覚。
けれどすぐに要の腕が私を受け止めた。

「……っ」

体勢が崩れかけても、要が腰を引き寄せて支える。
近い。
胸にぶつかるみたいに抱きとめられて、心臓が大きく跳ねた。

「ナイスキャッチ」

思わずそう言うと、要が少しだけ笑う。

「今、ふざける余裕あるのか」

「要がいるから」

そう返した瞬間、要の目がわずかに揺れる。
でもすぐに気配を引き締めた。

「行くぞ」

物置の屋根から塀沿いへ飛び降り、私たちは細い通路を走った。
足音が背後で荒くなる。
気づかれた。
追ってきている。

「いたぞ!」

男の声が朝前の空気を裂く。

私は息を切らしながらも、要の手を離さなかった。
離したくなかった。
この先がどれだけ怖くても、この手だけが今の私の道だった。

塀の角を曲がった先で、恒一が待っていた。

「こっちだ」

短い声。
その向こうには碧の車。
エンジンはすでにかかっている。

「早く!」

碧がドアを開ける。
私は先に押し込まれるように後部座席へ乗り、そのすぐあとに要が滑り込んだ。

ドアが閉まる。
同時に車が急発進した。

背中がシートに押しつけられる。
窓の外で、家が遠ざかっていく。
兄の部屋も、あの手紙も、さっきまでの涙も、全部乗せたまま。

「無事?」
碧がミラー越しに聞く。

「なんとか」
恒一が息を吐く。

伊織は助手席から振り返り、真っ先に言った。

「USBと鍵は」

要がジャケットの内側を軽く叩く。

「ある」

そのひと言で、車内の空気が少しだけ緩む。

私はシートにもたれたまま、やっと大きく息を吐いた。
逃げ切れた。
少なくとも今は。

そのとき、隣の要がそっと私の手を取る。
汗で少し冷えた指先を、包み込むみたいに握る。

「よく飛んだな」

低い声が、やさしい。

「落ちるかと思った」

「落とさない」

即答だった。

その言葉があまりにも真っ直ぐで、胸が熱くなる。

「ほんとに?」

「何回でも言う」

要が少しだけ私に近づく。

「おまえだけは、絶対落とさない」

その言い方に、思わず目が熱くなる。
兄を失ったあとで、失う怖さがずっと消えなかった。
でも今この人は、それを真正面から受け止めようとしてくれている。

私は小さく、でもはっきりうなずいた。

「……うん」

要の親指が、手の甲をそっとなでる。
ほんの短い仕草なのに、泣きそうなくらいやさしい。
< 50 / 59 >

この作品をシェア

pagetop