王子様になりたい ~王子様の恋愛指南~
第3話
終電まで残り一時間。
お酒を追加注文するのも、これで何度目だろうか。
卓上には空になったグラスがいくつも並んでいる。酔いが本格的に回ってきた頃。
「ねぇ、王子様。——どうしたら恋愛ってできますか」
話題は、恋愛へと移った。
思わぬ発言に、齋藤さんの動きが一瞬だけ止まった。ぴくりと、指先が震えている。
「……藤島さん、随分と酔っているね。珍しい」
「酔ってないですよ。本心です」
嘘。本当は少しだけ酔っている。
だから、普段は使わない「王子様」呼びを、舌足らずに言ってしまった。
しかし悩んでいたことも事実なので、むっとした表情で返してしまう。
「そうか。本心なんだね」
酔っぱらいの戯言だと捉えたのか、齋藤さんが口元を手で覆い肩を震わせた。
それでも、私の言葉を否定しないところに、彼の人柄が表れている。
「でも、なぜ私に恋愛相談をしてくれたのかな」
「齋藤さんは聞き上手だから、つい頼りたくなってしまうんです」
社内でも太鼓判を押されている傾聴力。その力は凄まじい。
まず、彼は私の拙い説明を聞いている間、一切急かすことをしない。
言葉に詰まった時は、さりげなく相槌でフォローを入れてくれる。
そうやって一通り話しているうちに、だんだんと頭の中が整理されていき、いつの間にか解決の糸口を発見しているのだ。
「たくさん話しすぎて、私の全部を知られているかもしれませんね」
職場だけではない。こうして飲みに行った時にも、齋藤さんに色々な悩みを聞いてもらった。
もう、私について知らないことの方が少ないかもしれない。
「そんなまさか。しかし、ここまで褒めていただけるとは光栄だな」
「全部、普段から思っていることですよ」
私が本音だと伝えても、彼は余裕そうに目を細めるだけ。
きっと言われ慣れているのだろう。
「私を頼ってくれて、ありがとう」
ほら。返し方もスマートだ。
手元のファジーネーブルを一口飲めば、蜜のような甘さが舌に広がった。
齋藤さんも、私に合わせて同じだけハイボールをあおる。
ゴクリと動く彼の喉仏を……無意識に見てしまった。
「ふふっ。緊張しなくていいよ。だから……」
齋藤さんが身体を前に傾ける。そして、組んだ両手の上に顎を乗せれば、少しだけお互いの距離が近くなった。
「なぜ恋愛をしてみたいと思ったのか。……よければ教えてくれないかな」
包みを丁寧に開いていくように、ゆっくりと紡がれた言葉。彼の優しさに身を委ねれば、ぽつりぽつりと言葉が漏れ始めた。
「私、ほとんど恋愛経験がありません」
心の奥にしまっていたコンプレックスを打ち明けると、急にいたたまれなくなってきた。つい、視線を逸らしてしまう。
「大丈夫。そのまま話してみて」
彼の穏やかな声が耳にすっと入ってくる。その声に従って目を合わせれば、彼は小さく頷いてくれた。
学生時代に一度だけ、お付き合いをした男性がいる。
きっかけは、友人関係の延長だった。
しかし……友人と恋人の違いとはなにか。
気持ちの整理がつかなかった私には、恋愛への発展方法がわからなかった。
元カレから問われてしまった一言。
「本当に、俺のことが好きなのか」
その答えが——当時の私には出せなかった。
そして、社会人になってそれぞれの生活が変わると、いつしか私たちの恋人関係は緩やかに終わりを迎えていた。
「大人になれば気づくものだと期待したのですが、毎日仕事だけを繰り返す生活。……このまま何も知らず、誰かを好きになることもないまま過ごすのは嫌だ。そう思ったら、いてもたってもいられなくて」
「そこで、恋愛をしたいと考えたんだね」
なんて的確なタイミングでの相槌なんだ。こくりと頷けば、彼は目元を緩めた。
「実は、友人からの結婚報告もきっかけです。メッセージで送られてくる写真が、どれも幸せそうだったから」
ウェディングフォトに映っていた彼女。
その姿は、まるで王子様に手を取られるお姫様のようだった。愛する人を見つめる友人の笑顔が忘れられない。
「だから、王子様」
テーブルに手を置き、上体をぐっと前に傾けた。お互いの距離が、また縮まる。
恋愛に憧れた。しかし、憧れているままで終わってはいけない。
一度は失敗してしまったからこそ、いつか訪れる次に繋げたい。
きっと完璧な王子様なら、この感情との向き合い方を知っているはず。
「私に恋愛を教えてください」
騒々しい空間の中では、私の気持ちが届いているのかがわからない。
本心か。酔っぱらいの戯言か。
はたして、どちらに捉えられるのか。
「ふふっ、可愛い人だな」
ふと、齋藤さんが何かを呟いた。しかし、周囲の音にかき消されてしまい、こちらまで届かない。
「もちろん、無理にとは言わないから……」
彼の言葉を聞き逃してしまったことに、焦ってしまう。身体を少し引き、もう一度、齋藤さんの返事を待つ。
静かな時間が場を支配する中、
「藤島さん——どうか、私の手を取ってほしい」
齋藤さんのしなやかな指先が私に差し伸べられた。
いつもと変わらないはずの柔らかい態度。
しかし——真剣な眼差しがこちらを射抜いている。
彼の意図が理解できない今、私には言われた通り手を伸ばすしかできなかった。
「ありがとう」
「……えっ、齋藤さん?!」
いつものように優しく微笑んだ彼は——私の手の甲をなぞり、そのまま指を絡めた。
私よりも一回り大きい手。しなやかだと思っていた指先も、実際に触れてみれば男性特有の硬さがあった。
触れた瞬間、思い知らされる。
目の前にいるのは完璧な王子様ではなく——男性なのだ。
「あなたの王子様になって、恋愛を教えてあげる」
そう言って、齋藤さんは私の手を胸元へと引き寄せると、
「だから——一日だけ私と付き合ってほしい」
少しだけ掠れた声。甘い表情。色気を感じさせる仕草。
王子様の魅力を全て使った、あまりにも鮮やかな誘いだった。
瞬く間に全身が熱くなる。
「……齋藤さん、随分と酔っていますね」
「酔ってないよ。本心だ」
堪らず軽口を叩いてみたが、はっきりとした口調で返されてしまった。
「具体的には、三日後の日曜日にデートをしてほしい。その時は……あなたの王子様として、精一杯エスコートさせてもらうつもりだよ」
熱に浮かされた状態でもはっきりと聞こえてくる芯のある声に、脳がぐらりと揺れる。
今まで、齋藤さんには様々な悩みを打ち明けてきた。しかし、こんな強引な解決方法を提案されたのは初めてだ。
「恋愛を教えてほしいとは言ったけれど、何もここまでしなくてもいいですよ!」
「恋愛を知るためには、実践するのが一番確実だろう」
「もし私たちのデートを見られてしまえば、周りの人に誤解されてしまいますよ」
「それも素敵だね」
「そもそも、一日とはいえ私が恋人でいいのでしょうか」
「あなただから、提案したんだよ」
あの手この手で逃げ道を作ってみたが、全て封じられてしまった。これ以上、言い訳が思いつかない。
「私と、付き合ってくれるかな」
決して柔らかい笑みは崩さない。それでも、熱のこもった視線から本気だと伝わってくる。
あの完璧な王子様が、私に恋愛を教えてくれると言ったんだ。
こんなチャンス、逃すなんて選択肢はあるのか。
「よ、よろしくお願いします」
感謝を込めて頭を下げる。
すると齋藤さんは私の耳元へと顔を近づけ、
「あぁ、楽しみにしていてね」
囁かれた言葉は、毒のように全身を痺れさせた。
お酒を追加注文するのも、これで何度目だろうか。
卓上には空になったグラスがいくつも並んでいる。酔いが本格的に回ってきた頃。
「ねぇ、王子様。——どうしたら恋愛ってできますか」
話題は、恋愛へと移った。
思わぬ発言に、齋藤さんの動きが一瞬だけ止まった。ぴくりと、指先が震えている。
「……藤島さん、随分と酔っているね。珍しい」
「酔ってないですよ。本心です」
嘘。本当は少しだけ酔っている。
だから、普段は使わない「王子様」呼びを、舌足らずに言ってしまった。
しかし悩んでいたことも事実なので、むっとした表情で返してしまう。
「そうか。本心なんだね」
酔っぱらいの戯言だと捉えたのか、齋藤さんが口元を手で覆い肩を震わせた。
それでも、私の言葉を否定しないところに、彼の人柄が表れている。
「でも、なぜ私に恋愛相談をしてくれたのかな」
「齋藤さんは聞き上手だから、つい頼りたくなってしまうんです」
社内でも太鼓判を押されている傾聴力。その力は凄まじい。
まず、彼は私の拙い説明を聞いている間、一切急かすことをしない。
言葉に詰まった時は、さりげなく相槌でフォローを入れてくれる。
そうやって一通り話しているうちに、だんだんと頭の中が整理されていき、いつの間にか解決の糸口を発見しているのだ。
「たくさん話しすぎて、私の全部を知られているかもしれませんね」
職場だけではない。こうして飲みに行った時にも、齋藤さんに色々な悩みを聞いてもらった。
もう、私について知らないことの方が少ないかもしれない。
「そんなまさか。しかし、ここまで褒めていただけるとは光栄だな」
「全部、普段から思っていることですよ」
私が本音だと伝えても、彼は余裕そうに目を細めるだけ。
きっと言われ慣れているのだろう。
「私を頼ってくれて、ありがとう」
ほら。返し方もスマートだ。
手元のファジーネーブルを一口飲めば、蜜のような甘さが舌に広がった。
齋藤さんも、私に合わせて同じだけハイボールをあおる。
ゴクリと動く彼の喉仏を……無意識に見てしまった。
「ふふっ。緊張しなくていいよ。だから……」
齋藤さんが身体を前に傾ける。そして、組んだ両手の上に顎を乗せれば、少しだけお互いの距離が近くなった。
「なぜ恋愛をしてみたいと思ったのか。……よければ教えてくれないかな」
包みを丁寧に開いていくように、ゆっくりと紡がれた言葉。彼の優しさに身を委ねれば、ぽつりぽつりと言葉が漏れ始めた。
「私、ほとんど恋愛経験がありません」
心の奥にしまっていたコンプレックスを打ち明けると、急にいたたまれなくなってきた。つい、視線を逸らしてしまう。
「大丈夫。そのまま話してみて」
彼の穏やかな声が耳にすっと入ってくる。その声に従って目を合わせれば、彼は小さく頷いてくれた。
学生時代に一度だけ、お付き合いをした男性がいる。
きっかけは、友人関係の延長だった。
しかし……友人と恋人の違いとはなにか。
気持ちの整理がつかなかった私には、恋愛への発展方法がわからなかった。
元カレから問われてしまった一言。
「本当に、俺のことが好きなのか」
その答えが——当時の私には出せなかった。
そして、社会人になってそれぞれの生活が変わると、いつしか私たちの恋人関係は緩やかに終わりを迎えていた。
「大人になれば気づくものだと期待したのですが、毎日仕事だけを繰り返す生活。……このまま何も知らず、誰かを好きになることもないまま過ごすのは嫌だ。そう思ったら、いてもたってもいられなくて」
「そこで、恋愛をしたいと考えたんだね」
なんて的確なタイミングでの相槌なんだ。こくりと頷けば、彼は目元を緩めた。
「実は、友人からの結婚報告もきっかけです。メッセージで送られてくる写真が、どれも幸せそうだったから」
ウェディングフォトに映っていた彼女。
その姿は、まるで王子様に手を取られるお姫様のようだった。愛する人を見つめる友人の笑顔が忘れられない。
「だから、王子様」
テーブルに手を置き、上体をぐっと前に傾けた。お互いの距離が、また縮まる。
恋愛に憧れた。しかし、憧れているままで終わってはいけない。
一度は失敗してしまったからこそ、いつか訪れる次に繋げたい。
きっと完璧な王子様なら、この感情との向き合い方を知っているはず。
「私に恋愛を教えてください」
騒々しい空間の中では、私の気持ちが届いているのかがわからない。
本心か。酔っぱらいの戯言か。
はたして、どちらに捉えられるのか。
「ふふっ、可愛い人だな」
ふと、齋藤さんが何かを呟いた。しかし、周囲の音にかき消されてしまい、こちらまで届かない。
「もちろん、無理にとは言わないから……」
彼の言葉を聞き逃してしまったことに、焦ってしまう。身体を少し引き、もう一度、齋藤さんの返事を待つ。
静かな時間が場を支配する中、
「藤島さん——どうか、私の手を取ってほしい」
齋藤さんのしなやかな指先が私に差し伸べられた。
いつもと変わらないはずの柔らかい態度。
しかし——真剣な眼差しがこちらを射抜いている。
彼の意図が理解できない今、私には言われた通り手を伸ばすしかできなかった。
「ありがとう」
「……えっ、齋藤さん?!」
いつものように優しく微笑んだ彼は——私の手の甲をなぞり、そのまま指を絡めた。
私よりも一回り大きい手。しなやかだと思っていた指先も、実際に触れてみれば男性特有の硬さがあった。
触れた瞬間、思い知らされる。
目の前にいるのは完璧な王子様ではなく——男性なのだ。
「あなたの王子様になって、恋愛を教えてあげる」
そう言って、齋藤さんは私の手を胸元へと引き寄せると、
「だから——一日だけ私と付き合ってほしい」
少しだけ掠れた声。甘い表情。色気を感じさせる仕草。
王子様の魅力を全て使った、あまりにも鮮やかな誘いだった。
瞬く間に全身が熱くなる。
「……齋藤さん、随分と酔っていますね」
「酔ってないよ。本心だ」
堪らず軽口を叩いてみたが、はっきりとした口調で返されてしまった。
「具体的には、三日後の日曜日にデートをしてほしい。その時は……あなたの王子様として、精一杯エスコートさせてもらうつもりだよ」
熱に浮かされた状態でもはっきりと聞こえてくる芯のある声に、脳がぐらりと揺れる。
今まで、齋藤さんには様々な悩みを打ち明けてきた。しかし、こんな強引な解決方法を提案されたのは初めてだ。
「恋愛を教えてほしいとは言ったけれど、何もここまでしなくてもいいですよ!」
「恋愛を知るためには、実践するのが一番確実だろう」
「もし私たちのデートを見られてしまえば、周りの人に誤解されてしまいますよ」
「それも素敵だね」
「そもそも、一日とはいえ私が恋人でいいのでしょうか」
「あなただから、提案したんだよ」
あの手この手で逃げ道を作ってみたが、全て封じられてしまった。これ以上、言い訳が思いつかない。
「私と、付き合ってくれるかな」
決して柔らかい笑みは崩さない。それでも、熱のこもった視線から本気だと伝わってくる。
あの完璧な王子様が、私に恋愛を教えてくれると言ったんだ。
こんなチャンス、逃すなんて選択肢はあるのか。
「よ、よろしくお願いします」
感謝を込めて頭を下げる。
すると齋藤さんは私の耳元へと顔を近づけ、
「あぁ、楽しみにしていてね」
囁かれた言葉は、毒のように全身を痺れさせた。