追放聖女の帰還
 結界の間に響いた一音は、まん丸な光の粒のようだった。

 サーシャの膝の上にある竪琴は、代々伝わる聖女の力を解放するためのもの。

 弦を弾くたびに、サーシャの身の内に秘められている万物の穢れを払う力が解放されていく。

 ──ポロッ、ポロンッ、ポロロンッ。

 適当に奏でる短音は、次第に優しい旋律に変わっていく。

 サーシャの雨上がりの空のような瞳の色が金を帯び、弦の隙間から光の粒子がふわふわとシャボンのように宙に漂い始める。

 これこそが、瘴気を打ち消す浄化の光。浄化の儀の始まり。

「これは終焉ではなく物語の始まり」

 竪琴の旋律に乗せて、この奈落の底のような仄暗い空間に、場違いだとすら思わせる可憐な歌声が響く。

 心地良い竪琴の音色と、澄んだサーシャの歌声は、瘴気がうごめく音も、魔法陣から聞こえる軋む音もかき消していく。

 光の粒子も数を増し、魔法陣すら飛び越え部屋の至る所に散らばり始めた。

「祈りは風となり、願いは雨雲を退ける。雲間から差し込む光を受け、希望の欠片はあなたの元へと届くでしょう」

 サーシャは穏やかな表情で、竪琴の弦を弾いて歌い続ける。

 聖女は追放されてから一度も人前で浄化の儀を行うことがなかった。文献にもどんな手順で儀式を行うのか記されてはいなかった。

 万物の穢れを払う姫巫女は、歌うことで悪しきものを清めることができるのだ。この国でただ一人だけが使える術。

 ついさっきまで不機嫌そうにしていた少女は、もうどこにもいない。

 今、目の前にいるのは気高く神聖なオーラを纏う無垢で汚れを知らない女性だ。

 サーシャの歌声が作り出す光の粒子は、次々に瘴気を覆い消し去っていく。それはそれはいとも簡単に。

「大丈夫、目を開けて。ほら、聞こえるでしょ?木々のざわめきが。それは始まりの福音。あなたに奏でる喜びの歌」

 最後の旋律を歌い終えたサーシャは、竪琴の弦をシャランと指で流すように鳴らした。そして──

「はい、終わりました」

 サーシャは魔王を封じている岩に腰かけたまま、そう言った。まるで頼まれた家事を終えた時のように。

 けれど返ってくる言葉はなかった。結界の間は、耳鳴りがしそうなほど静まり返っている。

 瘴気がうごめく音も聞こえない。魔法陣が軋む音も……いや、床に描かれていた魔法陣は綺麗さっぱり消えている。

 過労死寸前だった魔道士たちの顔にも、生気がみなぎっていた。

 まるで、なにもかも元通り。これを奇跡と言わずになんといおう。

 そんな神秘な力を見せつけられ、平常心を保てる者などいるはずもなかった。ただ一人を除いては。

「ちょ、お待ち下さいっ。サーシャさま、どちらに?!」

 素っ頓狂なアズレイトの叫び声で、魔導士たちは、はっと我に返った。そして驚愕した。

 なぜなら浄化の儀を終えた聖女は竪琴を抱えて、脱兎のごとく逃げ出そうとしていたから。  

◆◇◆◇

 ピカピカに磨かれた王宮の廊下にコツ、コツ、コツ、と足音が響く。

 その音に混ざって、話し声も聞こえてくる。

 足音は一人のはずなのに、話し声は青年と少女の二人だ。

「もしかしてですか、サーシャさま。あの時、この服が欲しいとおっしゃったのは、着替える間を惜しむほど一刻も早くここを去りたかったからなのですか?」
「さ、さぁ……どうでしょう」

 サーシャが言葉を濁すとアズレイトは、はぁーと呆れと苛立ちが混ざったため息を吐く。

「どうでしょうではわかりません。わたくしにわかるよう理由をお聞かせください」

 今度は突き刺さる視線を感じて、サーシャは首が痛くなるほど横を向く。

「黙秘権を行使させて……あ、いえ……家に残してきたニワトリが心配で居ても立っても居られなくて……まぁ、そんなところです」
「なるほど、とは言えません。サーシャさまの愛鳥は大変元気だと毎日連絡をいただいてますし、それはきちんとお伝えしているはずです。それに魔法球での会話は、リアルタイムでできるので文でのやり取りのように時差はございません」
「それは……そうなんですが……」

 言い訳すら見つからないサーシャに、アズレイトは追求の手を緩めない。

「それともサーシャさまは、わたしの部下が信用できないとでも?あれらはわたくしの忠実な部下です。万が一、ニワトリ殿の餌が事欠くようになれば、自身の手足を差し出す覚悟のもと、世話をさせていただいております。サーシャさま、今の説明を聞いても部下を疑うのでしょうか?」
「……い、いいえ」

 感情を押し込めたアズレイトの低い声に、サーシャは身を縮めながら答えた。

 その姿が見えない壁を作っているように感じたアズレイトは、恨みがましくサーシャを見下ろす。

「昨日は、もう逃げないと言ってくれたのに......あなたは酷いです」
「なっ」

 まさか非難されるとは思わなかったサーシャは、額に青筋を立てる。

「私は浄化の儀を放棄したりなんかしないって言う意味で言ったんです!」

 サーシャは嘘つき呼ばわりするなと、アズレイトを強く睨んだ。

 けれど返ってきたのは、溜め息だけ。それを受け止めたくないサーシャは、プイッと顔を背けた。

(絶対に逃げられると思ったのに)

 サーシャは苦々しい思いで、心の中で舌打ちする。

 アズレイトがサーシャに求めたのは、王都で浄化の儀をすることだけ。それをきちんと成し遂げたのだから、責められるいわれはない。

 まして、こ(・)ん(・)な(・)ふ(・)う(・)に捕獲するのは間違っている。
 
 ちなみにサーシャが憤慨する「こんなふう」というのは、アズレイドの腕に腰かけていること。

 いわゆる片腕抱っこ状態で、謁見の間に連行されているのだ。
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