愛の実証的研究 ~侯爵令息と伯爵令嬢の非科学的な結論~

13.「関係あります」



アンナは噴水のそばのベンチで、ラファエルの話に耳を傾けていた。

「それで、サリヴァン教授が突然『この術式を間違えると爆発する』と言い出したんです」

ラファエルは苦笑しながら語った。

「皆、慌てて術式を確認し始めて」

アンナは小さく笑った。

「サリヴァン教授はジョークがお好きですものね」

「あの人は優れた教授だと思うのですが、人を脅かすことをジョークだと思っている節があります。この前なんて──」

最近、こうしてラファエルと過ごす時間だけが彼女の心の支えになっていた。彼だけが普通の友人として接してくれる。異常な執着も冷たい視線もない。ただ穏やかな友情だけがそこにあった。それが何故なのか、アンナは考えないようにしていた。考えれば理由が見つかり、理由が見つかればそれが壊れる予感がしたからだ。

「アンナ様も、その講義を受けていらっしゃいましたよね」

「ええ、後ろの方で」

アンナは頷いた。

「最近は目立たないようにしているので」

ラファエルの表情が少し曇った。

「大変でしょうね」

「慣れました」

アンナは努めて明るく答えた。しかしその笑顔は少し寂しげだった。

そんな時、石畳を踏む足音が聞こえてきた。二人が顔を上げると、そこには金髪碧眼の青年が立っていた。王太子レイン・アルカディア。その瞳にはアンナがよく知る「あの光」が宿っていた。

「殿下」

ラファエルがすぐに立ち上がり、恭しく頭を下げた。アンナも慌てて立ち上がり、深く礼をした。

「モンターニュ子爵令息」

レインの声は冷たかった。

「アンナ嬢と何を話していたのかね」

ラファエルは顔を上げた。

「学院の講義について話しておりました」

「講義について?」

レインの眉が上がった。

「ずいぶん親しげに見えたが」

アンナは震える声で口を開いた。

「殿下、ラファエル様とは友人として」

「友人」

レインはその言葉を噛みしめるように繰り返した。

「そうは見えないが」

ラファエルは困惑した表情を浮かべた。

「殿下、私たちは本当にただの」

「黙れ」

レインの声が鋭くなった。

「私は君に聞いているのではない」

彼はアンナに視線を向けた。

「アンナ嬢、彼との関係を正直に話してもらおうか」

アンナは唇を噛んだ。レインの瞳に宿る異常な光が彼女を怖れさせていた。

「本当に、友人なんです」

彼女の声は震えていた。

「それ以上でも以下でもありません」

レインは二人を交互に見つめた。その目には明らかな疑念が浮かんでいる。

「ふむ」

しばらくの沈黙の後、レインは肩をすくめた。

「まあいい。だが、モンターニュ子爵令息」

彼はラファエルを冷ややかに見た。

「今後、アンナ嬢にあまり近づかないことだ」

「しかし、殿下」

「これは忠告だ」

レインの声には有無を言わせない響きがあった。王太子の「忠告」は臣下にとって命令と同義である。忠告という言葉を選ぶのは、命令と呼んだ時の責任を取りたくない者の癖だ。以前のレインにはなかった癖だった。

「理解したね?」

ラファエルが困惑しているとレインは満足そうに頷き、踵を返した。

「では、失礼する」

レインが去った後、重い沈黙が二人の間に流れた。アンナは力なくベンチに座り込んだ。

「申し訳ありません」

彼女の声は小さかった。

「私のせいで、ラファエル様にまで」

「アンナ様のせいではありません」

ラファエルは優しく言った。

「殿下の様子が、少し尋常ではないように思えます」

アンナは顔を上げた。

「やはり、そう思われますか」

「ええ」

ラファエルは考え込むように言った。

「以前の殿下なら、あのような態度は取られなかったでしょう」

二人はしばらく無言で座っていた。風が吹き、噴水の水音だけが静かに響いている。

「私、もう学園に来るのをやめようかと」

アンナが呟いた。

「こうして誰かに迷惑をかけ続けるくらいなら」

「それはいけません」

ラファエルが強く言った。

「アンナ様は何も悪くないのですから」

彼は立ち上がった。

「キャリエル様に相談してみます」

「キャリエル様に?」

「はい」

ラファエルは決意を込めて言った。

「殿下の婚約者として、何か力になってくださるかもしれません。何か事情をご存じかもしれませんし」

アンナは不安そうな表情を浮かべたが、頷いた。

「お願いします」



ハイエスト公爵家の別邸にある小さな応接間。

キャリエルは優雅にティーカップを置き、向かいに座るラファエルの話に耳を傾けていた。

「なるほど」

彼女の青い瞳に憂いが浮かんだ。

「レイン様がそのような態度を」

「はい」

ラファエルは頷いた。

「正直なところ、少し常軌を逸しているように思えました」

キャリエルは窓の外を見つめた。銀髪が午後の光を受けて淡く輝いている。

「ラファエル様」

彼女は静かに言った。

「わざわざ知らせてくださって、ありがとうございます」

「いえ、当然のことです」

ラファエルは恐縮したように言った。

「アンナ様も大変お困りのようでしたし」

キャリエルは深く息を吸った。婚約者の醜態を、よりによって他家の令息の口から聞かされる。それが公爵令嬢にとってどれほどの屈辱であるか、ラファエルは想像していないようだった。想像していないからこそ、彼女は彼に礼を言えた。

「私が、レイン様と話をしてみます。このままでは誰も幸せになりませんから」



翌日、貴賓サロン。

キャリエルは真っ直ぐな足取りで窓際に座るレインに近づいた。

「レイン様、お話があります」

レインは書類から顔を上げた。霜がおりたかのような冷たい視線。

「キャリエル? 何の用だ」

「アンナ様のことです」

キャリエルは単刀直入に切り出した。

レインの表情が一変した。

「アンナ嬢がどうかしたのか」

その声には明らかな関心が含まれていた。自分の名を呼ばれた時にはなかった熱が、他の女の名を聞いた途端に宿る。キャリエルはそれを見た。見なかったことにはできなかった。

「レイン様」

キャリエルは真っ直ぐにレインを見つめた。

「昨日の件について、お聞きしたいことがあります」

レインの眉が上がった。

「君には関係ないだろう」

「関係あります」

キャリエルは譲らなかった。

「私はレイン様の婚約者ですわ」

「だから何だ」

レインの声が冷たくなった。

「私が誰と話そうが、君の知ったことではない」

キャリエルは唇を噛んだ。しかし引き下がるわけにはいかなかった。

「レイン様は変わってしまわれました」

彼女の声が震えた。

「以前のレイン様なら、あのような振る舞いはなさらなかったはずです」

「変わった?」

レインは鼻で笑った。

「むしろ、今の私の方が正直なのだよ」

彼は立ち上がり、キャリエルに近づいた。

「君こそ、なぜアンナ嬢のことにそこまで首を突っ込む?」

「それは」

「まさか、嫉妬か?」

レインの声には嘲りが含まれていた。キャリエルの顔が屈辱で青ざめた。

「違います」

「では何だ」

レインは詰め寄った。

「なぜ、私がアンナ嬢に会うことを邪魔する」

「邪魔などしていませんわ」

キャリエルも声を荒げた。

「ただ、レイン様の行動が」

「私の行動がどうした」

二人の声は次第に大きくなっていった。サロンにいた他の学生たちが心配そうに視線を向けている。公爵令嬢と王太子の口論など、この学院の誰も見たことがない。見たことがないものを見る時、人は止めるより先に見入ってしまう。

「王太子として相応しくありませんわ」

キャリエルが言い放った。

「他の女性に執着するなど」

「執着?」

レインの顔が怒りで歪んだ。

「私はただ、素直な気持ちに従っているだけだ」

「素直な気持ち?」

キャリエルの声も震えていた。

「では、私との婚約はどうなるのですか」

「それは」

レインは一瞬言葉に詰まった。しかしすぐに開き直ったように言った。

「政略結婚だろう。感情など関係ない」

その言葉がキャリエルの胸に突き刺さった。

「そうですか」

彼女の声が急に静かになった。

「レイン様にとって、私との婚約はその程度のものなのですね。ただ、一つだけ」

キャリエルは顔を上げた。青い瞳に決意が宿っている。

「レイン様は、本当にアンナ様を愛していらっしゃるのですか」

「当然だ」

レインは即答した。

「彼女は素晴らしい。美しく、優しく、そして」

「そして?」

「私の心を満たしてくれる」

レインの声は熱っぽかった。

キャリエルは悲しそうに微笑んだ。

「でも、レイン様はアンナ様のことを何も知らないでしょう」

「何だと」

「彼女の好きな食べ物は? 趣味は? 将来の夢は?」

キャリエルは静かに問いかけた。レインは答えられない。三つの問いのどれにも答えられない男が、愛を口にしている。

「それでも愛だと言えるのですか」

「黙れ!」

レインは顔を真っ赤にして叫んだ。

「君に私の気持ちが分かるものか!」

キャリエルは黙って立っていた。

「もううんざりだ」

レインは怒りに震えながら言った。

「君の説教も、君の存在も」

その言葉に周囲がざわめいた。

「出て行け!」

レインが怒鳴った。

「もう二度と私の前に現れるな!」

キャリエルの喉が一度だけ動いた。しかしすぐに優雅に一礼した。

「承知いたしました」

彼女の声は静かだった。静かすぎてかえって悲しみが伝わってきた。

キャリエルは踵を返し、サロンを出て行った。残されたレインは荒い息をついていた。周囲の視線を感じ、苛立ったように席に戻る。



学院の廊下を歩きながら、キャリエルの心は虚無感に包まれていた。結局、自分はレインにとってその程度の存在でしかなかったのだ。政略結婚の相手。感情など関係ない、ただの契約。

涙が頬を伝い始めた。廊下ですれ違う学生たちが目を逸らす。公爵令嬢の涙は見てはいけないものに分類されるらしい。

ふと数日前のエルンストとセシリアとの会話が蘇る。

──「ありのままのご自分を見せることも大切かと存じます」

セシリアの優しい声が記憶の中で響く。

キャリエルは立ち止まった。これまで自分は完璧な婚約者を演じようとしてきた。レインの理想に合わせ、王太子妃に相応しい振る舞いを心がけてきた。でも本当の自分を見せたことがあっただろうか。

「どうせなら」

キャリエルは呟いた。

「最後に本当の気持ちを伝えよう」

そうして踵を返し、サロンへと戻り始めた。来た時より足が速かった。



サロンに戻ると、レインはまだ同じ席に座っていた。書類を睨みつけているが明らかに集中できていない様子だった。

「レイン様」

キャリエルの声にレインは顔を上げた。

「まだいたのか」

苛立った声。

「出て行けと言っただろう」

「その前に、一つだけ」

キャリエルは真っ直ぐにレインを見つめた。

「私の本心を、お伝えしたいのです」

レインは顔をしかめた。

「今更何を」

「私は」

キャリエルは深呼吸をした。

「レイン様のことが好きでした」

レインの表情が変わった。

「何?」

「政略結婚だということは分かっています」

キャリエルは続けた。

「でも、婚約してからの日々の中で、私は本当にレイン様を好きになりました」

彼女の声は震えていたが、はっきりとしていた。

「優しくて、真面目で、国のことを真剣に考えている」

キャリエルは微笑んだ。

「“国とは人の集まりだ。私は人を大切にする王となりたい”──そうおっしゃっていましたね。私はそんなレイン様が大好きでした」

レインは言葉を失っていた。

「レイン様を支えたいと思いました。そして可能な限り完璧に、と」

キャリエルは自嘲的に笑った。

「結果、レイン様を息苦しくさせてしまったのでしょうね」

「キャリエル、それは」

「でも」

キャリエルはレインの言葉を遮った。

「一つだけ聞かせてください」

青い瞳が真っ直ぐにレインを見つめた。

「レイン様は、私のことをどう思っていらっしゃったのですか」

「それは」

レインは明らかにうろたえていた。

「今更そんなことを言っても」

彼の脳裏にこれまでのキャリエルの姿が蘇ってきた。いつも完璧で、優雅で、隙のない公爵令嬢。でも今目の前にいるキャリエルは違った。涙を堪え、震えながらも真っ直ぐに自分を見つめている。初めて見る素のキャリエル。

息苦しいと感じていた姿が、実は自分の為に努力していた姿だったと知った時──レインは混乱した。混乱の中で何かが引っかかった。魚の小骨のように。自分は彼女の努力を本当に知らなかったのか。それとも知っていたものを、誰かに忘れさせられていたのか。

「私は」

レインは言葉を探した。しかし何を言えばいいのか分からない。

キャリエルはそんなレインを静かに見つめながら言う。

「レイン様は仰っておりました。“私を支えようなどとは考えないで欲しい。君は共に国を導く伴侶だ。だから僕は、君と対等な関係を築きたい”と」

レインの顔が青ざめた。

「それは……」

「覚えていらっしゃいますか」

キャリエルは微笑んだ。

「婚約が決まった夜、庭園で二人きりになった時のことを」

レインの記憶が呼び覚まされる。月明かりの下、緊張した面持ちで向かい合った二人。政略結婚への不安を隠せない若い二人が、それでも前を向こうとしていた夜。庭園の薔薇はまだ蕾で、彼は自分の言葉が彼女に届いたかどうか、その夜は分からなかった。

「私は嬉しかったんです」

キャリエルは続けた。

「ただの飾り物ではなく、対等な存在として見てくださると」

キャリエルの声が震えた。

「だから私はその期待に応えようと必死でした」

レインは何も言えなかった。胸の奥で何かが軋んでいる。

「でも、今のレイン様は」

キャリエルは首を振った。

「アンナ様を対等な存在として見ていらっしゃるでしょうか」

その問いかけにレインは反射的に答えようとした。しかし言葉が出ない。

「……よく考えていただきたいのです」

そう言ってキャリエルは去っていった。

サロンの窓の外で午後の光が一段傾いた。書類の上の文字はもう一行も読めなかった。
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