愛の実証的研究 ~侯爵令息と伯爵令嬢の非科学的な結論~

2.「そう。感情も結局は、因果関係の連鎖から成り立っているもの」



モンフォール伯爵家の書斎は天井まで届く書架に囲まれた知の聖域だった。古代から現代まであらゆる時代の魔術文献が整然と並び、羊皮紙特有の甘い香りが漂っている。伯爵家が代々集めてきた蔵書であるが、近年増えた分の大半はセシリアが買わせたものだ。

セシリアは愛用の机でエルンストとの「実験」に使う測定術式の設計図を広げていた。

「心拍数の変動係数と魔力の共振周波数を同時に測定するには」

彼女が複雑な術式を書き込んでいると、扉を叩く音がした。

「セシリア様、マリアンヌ様がお見えです」

使用人の声にセシリアは顔を上げた。マリアンヌ・ド・ラフォーレは王立魔術学院時代からの親友だった。

「通してちょうだい」

数分後、薄紫のドレスを着た栗色の髪の令嬢が入ってきた。いつもは快活な彼女の顔が今日は曇っている。

「マリアンヌ、どうしたの? 顔色が優れないわ」

セシリアは立ち上がり、友人を迎えた。

「セシリア……相談があって」

マリアンヌは力なく椅子に腰を下ろした。

「アルベルトのことなの」

アルベルト・フォン・ヴィルヌーヴ子爵はマリアンヌの二年来の婚約者だった。誠実で優しい青年として知られ、二人の仲は社交界でも評判が良かった。評判が良いというのは、つまり誰も裏を疑わなかったということである。

「彼がどうかしたの?」

セシリアは向かいに座り、紅茶を勧めた。

「最近、様子がおかしいのよ」

マリアンヌはカップを両手で包むように持った。

「アンナ様のことばかり話すの」

「アンナ様?」

セシリアの眉がぴくりと動いた。昨日のレストランでもその名前を聞いたばかりだった。

「リーベンシュタイン男爵家の令嬢よ。半年ほど前に社交界にデビューしたの」

「ああ、聞いたことがあるわ」

セシリアは慎重に言葉を選んだ。

「とても魅力的な方だとか」

「そうなの。蜂蜜色の髪に、翡翠のような瞳」

マリアンヌの声が震えた。

「先週の舞踏会で、アルベルトが彼女と一曲踊っただけなのに」

涙が頬を伝い始めた。

「それ以来、私といる時も上の空で、アンナ様の話ばかり」

セシリアは友人の手をそっと握った。しかし同時に学者としての興味も湧き上がっていた。友人が泣いている時に手帳のことを考える人間は薄情である。セシリアはそれを自覚していたし、自覚した上で手帳のことを考えるのをやめられなかった。

「マリアンヌ、辛いでしょうけど、詳しく聞かせてもらえる?」

「え?」

「アルベルト様がアンナ様について話す時、具体的にどんなことを言うの?」

セシリアは手帳を取り出した。

「例えば、容姿について? 性格について?」

マリアンヌは戸惑いながらも答えた。

「『アンナ様の笑顔は太陽のようだ』とか、『声は銀の鈴のよう』とか」

「ふむ」

セシリアはペンを走らせた。

「他には?」

「『彼女といると心が安らぐ』『話していると時間を忘れる』」

マリアンヌは思い出すのも辛そうだった。

「でも、セシリア、なぜそんなことを?」

「マリアンヌ、一つ聞いてもいい?」

セシリアは顔を上げた。

「アルベルト様は、以前あなたに対して似たような言葉を使ったことはない?」

「え?」

「例えば、『君の笑顔は太陽のようだ』とか」

マリアンヌは考え込んだ。

「そういえば去年の誕生日に、『君の笑顔は僕の太陽だ』って」

「『声は銀の鈴のよう』は?」

「それも初めて会った時に言われたわ」

マリアンヌの表情が変わり始めた。

「まさか」

「興味深いわね」

セシリアは冷静に分析を始めた。

「同じ表現を、別の対象に使っている」

「でも、それって」

「普通、人は特別な相手にしか使わない言葉があるはずよ」

セシリアは立ち上がり、書架から一冊の本を取り出した。目当ての本がどの棚の何段目にあるかを彼女は見ずに知っている。

「『感情表現の言語学的分析』ここに書いてあるわ」

ページをめくりながら説明する。

「恋愛感情を表現する際、人は独自の比喩や言い回しを開発する傾向がある」

「つまり?」

「同じ表現を使い回すということは、感情そのものが」

セシリアは言葉を切った。

「テンプレート化している可能性があるということ」

恋の言葉は本来、相手に合わせて仕立てられる。仕立てた服を別の人間に着せれば寸法が合わない。合っているように見えるなら、それは最初から誰の寸法にも合わせていない既製品だったということだ。セシリアはそこまで言わなかった。言えばマリアンヌが去年の誕生日まで既製品だったことになる。

マリアンヌは青ざめた。

「じゃあ、アルベルトの気持ちは本物じゃないの?」

「断言はできないわ。でも」

セシリアは友人の肩に手を置いた。

「不自然な点があるのは確かね」

「不自然」

「マリアンヌ、もう少し教えて」

セシリアは再び椅子に座った。

「アルベルト様がアンナ様に心を奪われたと感じたのは、正確にいつ?」

「舞踏会の翌日よ」

マリアンヌは涙を拭いた。

「朝、いつものように手紙が届いたんだけど」

「内容は?」

「『昨夜は素晴らしい体験をした』『世界が違って見える』」

彼女は震え声で続けた。

「『君には申し訳ないが、心が別の方向を向いてしまった』って」

セシリアはペンを置いた。

「一晩で?」

「そうなの。前日まで、私たちは結婚式の相談をしていたのに」

「結婚式の相談を」

セシリアは眉をひそめた。

「それほど具体的な段階まで進んでいたのね」

「ドレスの生地も選んで、式場の下見も」

マリアンヌの声が途切れた。

セシリアは立ち上がり、窓の外を見つめた。王都の午後は穏やかで、庭園では薔薇が咲き誇っている。その平和な光景の裏で何か不穏なことが起きている予感がした。予感というものを彼女は普段信用しない。信用しないものが今日に限って喉元まで来ている。

「マリアンヌ」

振り返ると、セシリアの青い瞳には決意が宿っていた。

「アルベルト様と話をしてみない?」

「でも、もう彼は」

「いいえ、諦めるのは早いわ」

セシリアは微笑んだ。

「もし彼の感情が何らかの影響を受けているなら、論理的に解きほぐせるはずよ」

「論理的に?」

「そう。感情も結局は、因果関係の連鎖から成り立っているもの」

セシリアは自信を持って言った。

「その連鎖に矛盾があれば、本人も気づくはずよ」

マリアンヌは半信半疑だったが、友人の確信に満ちた様子に希望を見出した。

「やってみる価値はあるかもしれないわね」

「その意気よ」

セシリアは手を叩いた。

「ところで、アンナ様について他に知っていることは?」

「そうね」

マリアンヌは思い出すように言った。

「不思議な噂があるの」

「噂?」

「彼女と関わった殿方は、皆心を奪われてしまうって」

マリアンヌは声を潜めた。

「でも、それって単に彼女が魅力的だからでしょう?」

「どうかしら」

セシリアは昨日のレストランでの出来事を思い出していた。三年の婚約を一夜で破棄した子爵のことを。

「他にも似たような話があるの?」

「ええ、いくつも」

マリアンヌは指を折りながら数えた。

「ベルトラン侯爵の御曹司、フィリップ男爵、それにジャック准男爵も」

「全員、既に婚約者や恋人がいた?」

「そうよ。でもアンナ様と出会ってから」

セシリアはメモを取りながらパターンを分析し始めた。

「共通点があるわね」

「共通点?」

「全員、一度の接触で心変わりしている」

セシリアは顔を上げた。

「通常の恋愛なら、もっと段階的なプロセスを経るはずよ」

「確かに」

マリアンヌも気づき始めた。

「私とアルベルトも、友人から始まって、徐々に」

「そう、それが自然な流れ」

セシリアは立ち上がった。

「だからこそ、この急激な変化には何か理由があるはず」

二人が話し込んでいると、再び扉を叩く音がした。

「セシリア様、ヴァイスベルク侯爵家からお手紙が」

「エルンスト様から?」

セシリアは封を切った。中には几帳面な文字で実験計画が記されていた。測定項目が番号付きでずらりと並び、末尾には「なお第七項については君の術式を借りたい」と付記がある。婚約したばかりの男が、もう彼女の術式を当てにしている。

「明日の午後、第一回観測を行いたい」という一文に、彼女は微笑んだ。

「良い知らせ?」

マリアンヌが尋ねる。

「ええ、婚約者からよ」

「そういえば、ヴァイスベルク侯爵令息と婚約したのよね」

マリアンヌは少し元気を取り戻した。

「どんな方なの?」

「変わった人よ」

セシリアは苦笑した。

「愛を実証的に研究しようなんて言い出すんだから」

「愛を研究?」

「そう。データを取って、分析して、法則を見つけようって」

マリアンヌは呆れたような顔をした。

「それってロマンチックなの?」

「分からないわ」

セシリアは正直に答えた。

「でも、真剣に向き合おうとしてくれているのは確かよ」

手紙を机に置くと、セシリアは友人に向き直った。

「マリアンヌ、明日アルベルト様に会いに行きましょう」

「でも」

「私も同行するわ。客観的な第三者として」

セシリアの申し出にマリアンヌは勇気づけられた。

「ありがとう、セシリア」

「友人として当然のことよ」

セシリアは微笑んだが、内心では別のことも考えていた。もしアンナという女性が本当に人の心を操る力を持っているなら。それは王国にとって、いや、人々の幸せにとって大きな脅威となる。そして脅威というものは、研究対象としてはこの上なく魅力的である。友人の涙と研究対象が同じ机の上に載っていることを、彼女は今日一日で二度考えた。

「マリアンヌ、一つ約束して」

「何?」

「明日の会話で、何か不自然なことに気づいたら、すぐに教えて」

セシリアの真剣な表情にマリアンヌは頷いた。

「分かったわ」

夕暮れが近づき、書斎に橙色の光が差し込んできた。光は机の上の手帳と手紙を等しく染めた。片方には友人の婚約者の言葉が、もう片方には自分の婚約者の言葉が書かれている。セシリアはそのどちらもまだ閉じなかった。
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