カフェ・ツァイトロスの日々
◆ 別の世界

 トレイに乗せられた二つのアイスコーヒーが、涼やかな音を立ててテーブルに運ばれていく。
 彩を添えるマドレーヌからは、爽やかな香りが漂う。

「ごゆっくり、お過ごしください」

 うっかり、いつもより多めに笑顔を残してカウンターへ戻ろうとする美広に女性が声を掛けた。

「あの、さっきはすみません! ちょっと、見過ぎました……」

 女性が恥ずかしそうに送った目線を、美広は受け止めて。

「いえいえ。お好きなだけ、ご覧になって下さい」

 ツァイトロスに刻まれた数々の物語が、美広の胸に去来する。

 剥き出しの太い梁は『花鳥風月(前の店)』で使われていた。
 壁のランプシェードは先生の家からの《《借り物》》。
 アイスコーヒーが注がれているグラスは凰火(下の姉)が勝手に持ってきたもの。

 美広は女性に自分の思い出を語りたい気持ちになったが、心の奥に留める。
 その代わり、一つの質問を口にした。

「気に入って頂けたなら幸いです。ところで、別の世界と言うのは……?」

 女性が最初に口にした、『別の世界』という言葉が、美広には妙に引っかかった。
 取り立てて変という訳ではない。
 だが、他の客がよく言う、『都会に居るのを忘れさせる』という意味合いとは、どうも違って思えた。

「えっと……ちょっと似た感じのお店を知ってるんです。そこも、入るとまるで別の世界みたいで……」

 女性はそう答えると、男性に目を向けて、「ね?」と付け加える。
 すると、男性はゆっくりと頷いた。

「お二人の、思い出の場所なのでしょうね」
「はいっ! 大事な思い出です!」

 女性の元気な返事に、美広は笑顔で応え、カウンターへと戻っていった。

◆ 思い出の香り

 二人の客の楽しげな声が響く、静かな店内。
 いつものスタンディングチェアに腰掛けたサラが、ぼそりと呟いた。

「店長。お客さんと何を話してたの」
「ええ。ここを『別の世界』って言ってたでしょう? そのことです」

 サラは天井扇を目で追いながら、頭を巡らせている。
 暫くと言うのには、長すぎる間があって。

「死んだ後の世界ってこと?」
「ということは……あの二人は、幽霊!?」

 おどけて見せる美広に、サラは冷たい視線を返す。

「わたしにも、わからないのですよ。ただ、ここが――かけがえのない思い出を振り返れる場所になれた。それが嬉しいのです」
「ふぅん……」

 サラは興味のなさそうな返事をしてから、付け加える。

「サラもここの庭を、他の場所で思い出せたら嬉しいかもしれない」

 真っすぐな瞳を向け、ありのままを語るサラ。
 彼女にとってツァイトロスの庭が、どれだけ大きなものであるか――美広にはよくわかっていた。

「画談をした彼、また来ませんかね」
「……なんで急にその話になるの」

 美広は、表情を変えずに答える。

「いえね。あの日のクチナシの香りを、思い出しまして」

 なぜ美広はそんなことを思い出したのか。
 不思議に思っているサラのもとに、どこからともなく金木犀の香りが、ふわりと運ばれてくる。

「……そうだね」

 窓から優しく吹き込む秋色の風が、二人の顔を撫で、過ぎ去ってゆく。

 あの日の花も、こんな風に香っていた。
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