ブルームーン
 海に面した窓は大きかった。
 室内の照明を落としているせいか窓の作りの問題なのか、夜なのに月に照らされた海が見下ろせる。そのため窓際にしつらえられたカウンターのスツールに腰を掛けると、海の上に浮いているような錯覚に陥った。

「すごいわね、この窓」

 目の前に広がる光景に望海(のぞみ)嘆息すると、後ろから微かに笑う気配が伝わってくる。

「誕生日が終わるまであと三十分くらいだけど、何飲む?」
「私の誕生日カクテルで」
「甘いの苦手なくせに?」

 少し嫌な顔をする和寿(かずひさ)に望海はフフッと笑った。
 九月三十日生まれである望海の誕生日カクテルは「ブルームーン」だ。九月の誕生石からイメージされたこのカクテルは、ジンをベースに菫のリキュールを使った強めのカクテル。しかし甘口なので、望海は一舐めくらいしかしないことを和寿は覚えていたらしい。

「ダメかしら?」
「……別にいいけど」

 首を傾げ上目遣いをする望海に、和寿は軽くお手上げポーズをとる。渋々と言ったていでミニバーでカクテルの準備をする彼の姿を見送り、
「あ、和用にシルバー・フィズもお願い」
と頼んだ。
 シルバーフィズは十月の誕生日カクテル。十月一日生まれの和寿用だ。デザート系のカクテルだが、特別ということで許してもらおう。

「乾杯しようよ」
 コトリと置かれた2つのグラスを見つめ、自分用のそれを手に取る。
 夜空に向けて掲げると、グラスの上に満月が乗った。

「何に?」
「無粋ね。もちろん私たちの誕生日によ」

 一瞬の沈黙のあと、渋々上げた和寿のグラスに「三十歳の誕生日おめでとう。すっかりおじさんだ」と茶化して乾杯をする。

 ブルームーンを少しだけ飲むと、望海の口の中が花のような香りでいっぱいになる。やっぱり甘いなと思ったが、今日に似つかわしいカクテルは他に思いつかなかった。

「ねえ、和。こんな海を見てると、人魚姫を思い出さない?」
「人魚姫?」
「うん。報われなくてもただ一人の男性を愛したお姫様の、純愛の物語だよ」
「そうだっけ?」
「そうなの」
「ロマンチストだね。あれって人魚姫が最後に死んじゃう話だろ?」
「そうねぇ、ちょっと違うかな。海の泡になった人魚姫は、風の精になるのよ」

 ふっと歪んだ和寿の笑顔が窓ガラスに映る。まるで泣きそうなその顔の横にいるはずの望海の姿は映らない。

「望海さんは年上好みだったから、今の俺ならいけるんじゃない?」
 気を取り直したように茶化す口調でウインクした和寿を
「そうねぇ」
 と言いながら上から下まで眺める。

 若き社長である彼は運動をかかさないので体は引き締まっているし、こんなプライベートバーのついた別荘まで持っている。結婚適齢期としてみたら、相当の優良物件だろ? と笑っているが、事実そのとおりだろう。

「私にはシンデレラ願望はないから」
 ツンとそっぽを向いて、満月をつまみにブルームーンを舐める。

「――誰よりも幸せなお姫様にしたかったよ」
「うん、今からでもできるよ。素敵な女性からは引く手あまたでしょ」
「でも俺は望海さんがよかった。年上どころか同い年になれる日が来なくても、一緒に歳を重ねたいって」

 彼のグラスが震えているのは見ないふりをする。一つ年下だったはずの彼は、もう望海よりも年上だ。望海はもう歳を重ねる日は来ない。

「意地をはらないで会いに行けばよかったんだ。あなたが苦しんでるなんて全然知らなかった。がむしゃらに働いて、大きなダイヤの指輪を持って迎えに行こう。それしか考えてなかった。どうして連絡してくれなかったんだ!」

 勢いよく置かれたシルバー・フィズのグラスが倒れ、カウンターから落ちる。

「しないよ。私達他人じゃない」
「っ!」

 恋人だった日もあった。ほんの短い、夢のようなひと時。でも和寿のために身を引いてくれと彼の母親に言われて、実際に身を引いたのは望海の意志だ。
 やっぱり頼れる年上の男性がいいからと笑った望海に、絶対に頼れる男になって迎えに行くと言った和寿の言葉を望海は信じなかった。否、信じてはいけないときつく自分を戒めた。彼には幸せが似合う。そうならなきゃいけない。

「喧嘩はやめよう? せっかく最後の誕生日だもの」

 本当なら来なかったはずの今日。
 何が望海をここへ呼んだのだろう。気づくと約束の場所に立っていた。別れた日、絶対に会おうと和寿が指定していた時間と場所に。
 行くつもりもそんな権利もなかった。叶うはずなどなかったそこは、彼と出会った思い出の街角。

 望海を見て驚いた彼の表情は、抱きしめようと手を伸ばした瞬間に泣きそうな顔に変わった。
 どこかから聞こえた声なき声が、今日だけ二人が会える時間を誰かがくれたことを望海に教えてくれた。

(そうね。これもある意味シンデレラじゃない?)

 そう考え、望海はグラスのふちを指でそっと撫でる。

(だって、時計の針が重なれば魔法はとけるんだもの)

 心の声が聞こえたみたいに、和寿が唸るような声を出した。
「明日なんて来なければいい」

 でも時計の針を見れば、明日まであと十分もない。

「もう一つ叶うなら、私のことをすべて忘れてほしいな」

「いやだ!」

「じゃあ私も風の精になるってことで納得してよ。そばにいて、涙を拭ってあげる。でも泣かれたら、私は永遠にさまようけどね」

 グラスを置いて、彼の唇にそっと自分のそれを押し当てる。

「最後にブルームーンを選ぶなんてひどい女だ」

 泣き笑いで返されるキスを受けながら、望海の体はふっと風に変わる。ガラスの靴の代わりに、割れたグラスの欠片が光った。

 ブルームーンのカクテル言葉は叶わぬ恋。

 でももう一つの意味は、――完全なる……愛。
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