敵国公爵家に潜入中のスパイ妻は、軍人夫に囲い込まれて逃げられません。
 ノラがチラリと数の多くない参列者に目を向ける。その顔ぶれは、エレンから叩き込まれた情報にもあった、ヴァルキリアス帝国で重要な地位を占める貴族達ばかりだった。もちろん、皇族の顔もある。

 青褪めるノラは、思わず固まり、その場で立ち尽くしてしまった。

 だって、まるで、これって……

「ユリアナ。緊張しているのか?」

 いつまで経っても入場しない花嫁に、しびれを切らしたのかイヴァンが迎えに来てしまった。

「い、イヴァン様……私、この状況に、まったく理解が追い付かなくて……」

 ノラが思わず涙目でイヴァンを見上げると、そんな彼女の表情が新鮮だったのかイヴァンは愛おしそうにノラの目元に口付けた。

「今日は俺たちの結婚式だ」

 イヴァンの甘い囁きが、しっかりとノラの耳に届いた。

「け、けけ、結婚式⁉︎」

 驚きのあまり、ノラは叫んでしまった。

「準備期間がひと月しかなかったから、挙式が質素なものとなってしまったが……結婚式は改めて盛大に挙げよう。今は俺達が正式な夫婦として、一刻も早く結ばれることの方が重要だ」

 イヴァンは当たり前のようにそう言うので、ノラは信じられない気持ちで彼を見上げた。

「わ、私……結婚だなんて、そんな……」

 どうすればこの状況を回避できるのか、ノラの頭はそれでいっぱいだ。

「君が言ってくれたんじゃないか」
「え?」

 イヴァンを見れば、彼はとても穏やかな表情でノラを見つめていた。その金色に輝く瞳には、まるで彼女しか見えていないかのように、ノラの姿だけが映っている。

 これまで嫌と言うほど見てきた、恋に溺れる愚かな男の姿なのに……ノラはなぜかこの瞬間、どこにも逃げ場のないような得体の知れない恐怖心を抱いてしまった。

「『公爵家に入りたい』と。それって、俺と夫婦になって、公爵家の一員として名を連ねたいということだろう?」

 ノラは目の前の男の思考が理解出来なかった。恋に溺れるアルノルフォ公爵、恋人ユリアナを深く愛し、彼女の願いはなんでも聞き入れる盲目な愚かな男……の、はずなのに‼︎

「ユリアナ。これで君の望み通り、君は公爵家の一員だ。俺の妻……つまり、この帝国で皇后の次に高貴な貴婦人となった」

 イヴァンの笑顔は幸せそうなのに、その瞳は濁って見える。

(違う! 私はそういう意味じゃなくて、ただ公爵家に潜入したくて言った言葉なのにっ……‼︎)

 ノラはイヴァンの事が理解不能な異星人に見えて、体の奥底から震えあがった。

(この人、思い込みが激しすぎる上に行動力がありすぎて、厄介すぎる男だ‼︎)

 気付いた時にはもう遅い。ノラに逃げ道など残されているはずがないのだ。

 イヴァンは優しく微笑んでノラを横抱きに抱き上げると、颯爽と奥へ進み司教の前に立つ。

「どうやら、花嫁は感動のあまり立てないようだ。このまま式を始めてくれ」

 イヴァンの一言で式は何の滞りもなく進んで行った。

(今すぐにでも、ここから逃げてしまおうか)

 刻一刻と自身の状況が追い詰められていくのを感じながら、ノラはイヴァンの腕の中で緊張から唾を飲み込んだ。

(いや、落ち着けノラ……今は、まだ騒ぐ時じゃない)

 ここで騒げば、自分達の潜入工作全体が露見する可能性がある。そうすれば、エレンの潜伏先まで調査が及ぶかもしれない……
 まだ何も知らされていないエレンの身に危険が迫る結果となるかもしれないと思うと、ノラは怖くて身動きできなかった。

「——新郎新婦は誓いのキスを」

 司教の言葉にノラはハッとする。慌てて顔を上げると、イヴァンとすぐに目が合った。

「愛している、俺の可愛い奥さん」

 そう甘い言葉で微笑みを彩って、顔を近付けてくるイヴァン。ノラはもう笑うしかなかった。この、逃げられない状況に、イヴァン・アルノルフォの妻になるしかない未来に。

(どうしてこんなことに⁉︎)

 自分はどこで誤ってしまったのか……そもそも、イヴァン・アルノルフォを甘く見てはいけなかったのだ。それがノラの、敗因。

 やがて、イヴァンの薄い唇がノラのふっくらとした唇に重ねられる。

 これまで数多くのハニートラップを仕掛けてきたノラだったが、彼女は自身の美貌と演技、そして心理操作だけで男達を落とし、純潔はしっかりと守ってきた。
 そう、キスさえも、これが初めてで……思わず顔が真っ赤になってしまうノラに気付いたイヴァンは、心底嬉しそうに目を細めて、更に深くキスをする。

(敵国の総司令官とキスだなんて……)

 ファースト・キスの味は恥ずかしさと敗北感でいっぱいだった。

(……分かった。誓ってやる。絶対にこの男から情報を抜き取って祖国に帰ってやるってね‼︎)

 どうせイヴァンはノラの本当の名前も出身国も知らないのだ。いくら帝国で婚姻しようと、逃げてしまえば彼はもう彼女を捕まえられない。
 つまりこれは、スパイとしてのプライドを賭けた偽装結婚なのだ。

 ノラとイヴァンの唇が離れる。参列席からは二人を祝福する歓声が途切れることなく上がった。

 イヴァンは、自分の腕の中で真っ赤な顔をして、慎ましやかな令嬢の《《設定》》も忘れたかのようにこちらに敵意を向けてくる妻を愛おしく思っていた。

(——思えば、ここまでくるのに長いようで短かった)

 イヴァンの脳裏にはふと、寂れた路地でなんの珍しくもない花を持ってこちらに愛らしく笑いかけてくる、スミレ色の瞳をした少女の姿が思い浮かぶ。

(十五年前の『あの子』を、ようやく……)

「……捕まえた」
「え?」

 ノラがイヴァンの呟きに反応して聞き返してきた。イヴァンはノラの大きなスミレ色の瞳を見つめ、溢れ出す愛情のまま彼女の額にそっと口付ける。

「なんでもないよ、『ユリアナ』。俺は、君が誰であろうと、どんな君だろうと、君だからこそ心から愛しているんだ」

 イヴァンもひとつ誓ったのだ。絶対にこの腕の中の愛おしい人を、逃がしはしないと。

(『結婚』という『鎖』に繋いでしまえば、君はもう俺からは逃げられない……)

 イヴァンは、そんな計算高さと、ドロドロとした黒い感情と執着心を、《《これまで通り》》『恋に溺れる愚かな男』の顔で幸せそうに笑いながら、隠してしまうのだった。
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