俺は真子ちゃんが好きだ
了解
了解
第二章 「了解」の二文字
「了解」
真子から届いた、たった二文字のLINE。龍太郎は、その画面をしばらく見つめていた。
「了解か……」
それ以上でも、それ以下でもない。けれど龍太郎にとっては、その二文字が特別だった。一年間、ほとんど返事のなかった真子から、久しぶりに届いた言葉だった。龍太郎はスマートフォンを握ったまま、椅子の背にもたれた。
「真子ちゃんと……ご飯か」
まだ約束の日も決まっていない。どこで食べるのかも決まっていない。それなのに、龍太郎の頭の中では、もうその日のことばかり考えていた。何を話せばいいんだろう。会社にいた頃の話か。最近の仕事の話か。
それとも、この一年間、何をしていたのか聞いてもいいのだろうか。そして、一番気になっていること。なぜ、今になってLINEを返してくれるようになったのか。龍太郎は、そのことを考えると少し怖くなった。
期待してはいけない。真子は二十九歳。自分は六十歳。年齢差は三十一歳。真子にとって、自分はただの年上の知り合いなのかもしれない。それでも
「俺は、真子ちゃんが好きだ」
龍太郎は、小さな声でつぶやいた。誰にも聞かれることのない部屋だった。だから、素直になれた。一方、真子もスマートフォンを見つめていた。龍太郎から返ってきた、
「いいよ」
という短い言葉。真子は画面を閉じた。そして、また開いた。
「本当に行くことになった……」
一年間、距離を置いていた相手と、食事に行く。自分から「ご飯食べに行ってもいい」と書いたのだから、当然のことだ。でも、真子自身にも、なぜそんなLINEを送ったのか、はっきりとは分からなかった。
ただ、一つだけ分かっていることがあった。龍太郎のことを完全に忘れたわけではなかった。会社を辞めてから一年。新しい職場で働き、新しい人たちと出会った。忙しい毎日を送っていた。それでも、ときどき思い出す。会社にいた頃のこと。休憩時間に話したこと。仕事帰りに交わした何気ない会話。そして、龍太郎から届くLINE。返信しないまま放置していたのに、龍太郎は何度もメッセージを送ってきた。しつこいと思ったこともあった。正直、困ったこともあった。けれど、嫌いだったわけではない。むしろ、その逆だった。だから怖かった。自分が龍太郎に何を求めているのか、分からなくなるからだ。
「話を聞いてもらいたいだけ……」
真子は自分に言い聞かせた。
食事をして、仕事の話をして、それで終わり。それだけでいい。そう思っていた。数日後。龍太郎のスマートフォンが鳴った。真子からだった。
「いつにします?」
そのメッセージを見た瞬間、龍太郎の顔がほころんだ。
「いつでもいいよ」
入力して、送信する。すぐに既読がついた。
「じゃあ、土曜日は?」
「いいよ」
「お昼でも大丈夫ですか?」
「大丈夫」
そこまでやり取りすると、二人の間に少しだけ沈黙ができた。龍太郎はスマートフォンを置いた。そして、窓の外を見た。土曜日。真子と会う。一年ぶりに、会社の外で。龍太郎は胸の奥に、久しぶりの感情が湧いてくるのを感じていた。それは、若い頃の恋と同じだった。約束の日が来るまでが、こんなにも長く感じる。
「俺は……本当に恋をしているのかもしれない」
六十歳。人生の折り返しどころか、もう終盤に差しかかっていると思っていた。恋なんて、もう自分には関係のないものだと思っていた。ところが、二十九歳の真子から届いた、たった二文字の「了解」。その二文字が、止まっていた龍太郎の時間を、もう一度動かし始めていた。土曜日の昼。待ち合わせ場所へ向かう電車の中で、龍太郎は窓の外を眺めていた。ふと、遠い昔の記憶がよみがえった。バブルの頃。街には活気があり、会社員たちは今よりもずっと景気のいい話をしていた。高級車に乗り、ブランド品を身につけ、夜遅くまで飲み歩く人も多かった。結婚相談所にも、たくさんの男女が登録していた。龍太郎も、その時代の空気に背中を押されるように、結婚相談所へ足を運んだことがある。当時の年収は百六十万円。今の感覚から見ても低い。けれど、龍太郎は真剣だった。
「自分も家庭を持ちたい」
そう思っていた。相談所の担当者にプロフィールを渡し、写真を撮り、希望条件を伝えた。そして、紹介を待った。一人目。返事はなかった。二人目。やはり、連絡は来なかった。三人目も、四人目も同じだった。誰一人として、マッチしなかった。
「年収が原因でしょうか」
龍太郎が尋ねると、担当者は言葉を濁した。
「条件だけがすべてではありませんから……」
その言葉の裏にある意味を、龍太郎は分かっていた。
年収百六十万円。当時の結婚相談所では、決して魅力的な条件ではなかった。周囲には、高収入の会社員や経営者がたくさんいた。女性たちが、より安定した相手を求めるのも無理はなかった。それでも龍太郎は、何度もプロフィールを見直した。自分のどこがいけないのか。何を変えれば、誰かに選んでもらえるのか。
答えは見つからなかった。結局、誰一人とも会えないまま、相談所を退会した。あの頃の悔しさは、今でも胸の奥に残っている。
「年収百六十万円で結婚相談所へ行って、誰一人ともマッチしなかったんだ」
龍太郎は、苦笑しながら心の中でつぶやいた。もし誰かに「どう思います?」と聞かれたら、きっとこう答える。
「それだけで、人間の価値を決められるのはつらいですよね」
年収は、生活を支える大切な条件だ。結婚を考えるなら、無視できない現実でもある。けれど、人柄や誠実さ、相手を思いやる気持ちまで、年収だけで判断されてしまうのは寂しい。龍太郎は、そう思っていた。そして今、六十歳になった自分の前に、真子がいる。
真子は、年収や肩書きだけを見ているわけではない。少なくとも、もう一度会おうとしてくれている。それだけで、龍太郎には十分すぎるほど嬉しかった。待ち合わせ場所に着くと、真子はすでに来ていた。淡い色のブラウスに、落ち着いたスカート。会社で見ていた姿とは少し違っていた。龍太郎は、胸が高鳴るのを感じた。
「真子ちゃん」
声をかけると、真子が振り向いた。
「龍太郎さん。お久しぶりです」
「うん。久しぶり」
二人は少しだけ距離を空けて立っていた。一年ぶりの再会。何を話せばいいのか、どちらも迷っているようだった。やがて真子が、静かに笑った。
「今日は、昔の話も聞かせてください」
「昔の話?」
「はい。バブルの頃の話とか。龍太郎さんが結婚相談所に行った話も」
龍太郎は驚いた。
「そんな話、したことあったっけ?」
「前に少しだけ聞きました。でも、詳しくは聞いていません」
龍太郎は照れくさそうに笑った。
「たいした話じゃないよ。年収百六十万円で登録して、誰一人ともマッチしなかった話だから」
真子は笑わなかった。ただ、龍太郎の顔をまっすぐ見つめた。
「それでも、結婚したいと思ったんですよね?」
「うん。誰かと一緒に暮らしたいと思っていた」
「今も、そう思いますか?」
その質問に、龍太郎はすぐには答えられなかった。そして、真子を見た。
「今は……真子ちゃんと一緒にいられたらと思っている」
真子の表情が、わずかに揺れた。龍太郎は、言ってしまったことを後悔した。けれど、もう取り消せなかった。バブルの頃、誰一人ともマッチしなかった男。年収百六十万円だった男。六十歳になった今も、恋をしている男。龍太郎は、真子の返事を待った。真子はしばらく黙っていた。やがて、視線を落とし、小さな声で言った。
「……今日は、ゆっくり話しましょう」
その言葉だけで、龍太郎の胸は少し軽くなった。まだ答えは出ていない。けれど、二人は同じテーブルに向かって歩き始めた。そして龍太郎は思った。人生は、何歳になっても分からない。若い頃に誰にも選ばれなかったとしても、恋が終わったとは限らない。たった二文字の「了解」が、止まっていた時間を動かすこともある。龍太郎は、真子の隣を歩きながら、静かに笑った。
「俺は、真子ちゃんが好きだ」
その気持ちだけは、もう隠さなくてもいいと思った。
第二章 「了解」の二文字
「了解」
真子から届いた、たった二文字のLINE。龍太郎は、その画面をしばらく見つめていた。
「了解か……」
それ以上でも、それ以下でもない。けれど龍太郎にとっては、その二文字が特別だった。一年間、ほとんど返事のなかった真子から、久しぶりに届いた言葉だった。龍太郎はスマートフォンを握ったまま、椅子の背にもたれた。
「真子ちゃんと……ご飯か」
まだ約束の日も決まっていない。どこで食べるのかも決まっていない。それなのに、龍太郎の頭の中では、もうその日のことばかり考えていた。何を話せばいいんだろう。会社にいた頃の話か。最近の仕事の話か。
それとも、この一年間、何をしていたのか聞いてもいいのだろうか。そして、一番気になっていること。なぜ、今になってLINEを返してくれるようになったのか。龍太郎は、そのことを考えると少し怖くなった。
期待してはいけない。真子は二十九歳。自分は六十歳。年齢差は三十一歳。真子にとって、自分はただの年上の知り合いなのかもしれない。それでも
「俺は、真子ちゃんが好きだ」
龍太郎は、小さな声でつぶやいた。誰にも聞かれることのない部屋だった。だから、素直になれた。一方、真子もスマートフォンを見つめていた。龍太郎から返ってきた、
「いいよ」
という短い言葉。真子は画面を閉じた。そして、また開いた。
「本当に行くことになった……」
一年間、距離を置いていた相手と、食事に行く。自分から「ご飯食べに行ってもいい」と書いたのだから、当然のことだ。でも、真子自身にも、なぜそんなLINEを送ったのか、はっきりとは分からなかった。
ただ、一つだけ分かっていることがあった。龍太郎のことを完全に忘れたわけではなかった。会社を辞めてから一年。新しい職場で働き、新しい人たちと出会った。忙しい毎日を送っていた。それでも、ときどき思い出す。会社にいた頃のこと。休憩時間に話したこと。仕事帰りに交わした何気ない会話。そして、龍太郎から届くLINE。返信しないまま放置していたのに、龍太郎は何度もメッセージを送ってきた。しつこいと思ったこともあった。正直、困ったこともあった。けれど、嫌いだったわけではない。むしろ、その逆だった。だから怖かった。自分が龍太郎に何を求めているのか、分からなくなるからだ。
「話を聞いてもらいたいだけ……」
真子は自分に言い聞かせた。
食事をして、仕事の話をして、それで終わり。それだけでいい。そう思っていた。数日後。龍太郎のスマートフォンが鳴った。真子からだった。
「いつにします?」
そのメッセージを見た瞬間、龍太郎の顔がほころんだ。
「いつでもいいよ」
入力して、送信する。すぐに既読がついた。
「じゃあ、土曜日は?」
「いいよ」
「お昼でも大丈夫ですか?」
「大丈夫」
そこまでやり取りすると、二人の間に少しだけ沈黙ができた。龍太郎はスマートフォンを置いた。そして、窓の外を見た。土曜日。真子と会う。一年ぶりに、会社の外で。龍太郎は胸の奥に、久しぶりの感情が湧いてくるのを感じていた。それは、若い頃の恋と同じだった。約束の日が来るまでが、こんなにも長く感じる。
「俺は……本当に恋をしているのかもしれない」
六十歳。人生の折り返しどころか、もう終盤に差しかかっていると思っていた。恋なんて、もう自分には関係のないものだと思っていた。ところが、二十九歳の真子から届いた、たった二文字の「了解」。その二文字が、止まっていた龍太郎の時間を、もう一度動かし始めていた。土曜日の昼。待ち合わせ場所へ向かう電車の中で、龍太郎は窓の外を眺めていた。ふと、遠い昔の記憶がよみがえった。バブルの頃。街には活気があり、会社員たちは今よりもずっと景気のいい話をしていた。高級車に乗り、ブランド品を身につけ、夜遅くまで飲み歩く人も多かった。結婚相談所にも、たくさんの男女が登録していた。龍太郎も、その時代の空気に背中を押されるように、結婚相談所へ足を運んだことがある。当時の年収は百六十万円。今の感覚から見ても低い。けれど、龍太郎は真剣だった。
「自分も家庭を持ちたい」
そう思っていた。相談所の担当者にプロフィールを渡し、写真を撮り、希望条件を伝えた。そして、紹介を待った。一人目。返事はなかった。二人目。やはり、連絡は来なかった。三人目も、四人目も同じだった。誰一人として、マッチしなかった。
「年収が原因でしょうか」
龍太郎が尋ねると、担当者は言葉を濁した。
「条件だけがすべてではありませんから……」
その言葉の裏にある意味を、龍太郎は分かっていた。
年収百六十万円。当時の結婚相談所では、決して魅力的な条件ではなかった。周囲には、高収入の会社員や経営者がたくさんいた。女性たちが、より安定した相手を求めるのも無理はなかった。それでも龍太郎は、何度もプロフィールを見直した。自分のどこがいけないのか。何を変えれば、誰かに選んでもらえるのか。
答えは見つからなかった。結局、誰一人とも会えないまま、相談所を退会した。あの頃の悔しさは、今でも胸の奥に残っている。
「年収百六十万円で結婚相談所へ行って、誰一人ともマッチしなかったんだ」
龍太郎は、苦笑しながら心の中でつぶやいた。もし誰かに「どう思います?」と聞かれたら、きっとこう答える。
「それだけで、人間の価値を決められるのはつらいですよね」
年収は、生活を支える大切な条件だ。結婚を考えるなら、無視できない現実でもある。けれど、人柄や誠実さ、相手を思いやる気持ちまで、年収だけで判断されてしまうのは寂しい。龍太郎は、そう思っていた。そして今、六十歳になった自分の前に、真子がいる。
真子は、年収や肩書きだけを見ているわけではない。少なくとも、もう一度会おうとしてくれている。それだけで、龍太郎には十分すぎるほど嬉しかった。待ち合わせ場所に着くと、真子はすでに来ていた。淡い色のブラウスに、落ち着いたスカート。会社で見ていた姿とは少し違っていた。龍太郎は、胸が高鳴るのを感じた。
「真子ちゃん」
声をかけると、真子が振り向いた。
「龍太郎さん。お久しぶりです」
「うん。久しぶり」
二人は少しだけ距離を空けて立っていた。一年ぶりの再会。何を話せばいいのか、どちらも迷っているようだった。やがて真子が、静かに笑った。
「今日は、昔の話も聞かせてください」
「昔の話?」
「はい。バブルの頃の話とか。龍太郎さんが結婚相談所に行った話も」
龍太郎は驚いた。
「そんな話、したことあったっけ?」
「前に少しだけ聞きました。でも、詳しくは聞いていません」
龍太郎は照れくさそうに笑った。
「たいした話じゃないよ。年収百六十万円で登録して、誰一人ともマッチしなかった話だから」
真子は笑わなかった。ただ、龍太郎の顔をまっすぐ見つめた。
「それでも、結婚したいと思ったんですよね?」
「うん。誰かと一緒に暮らしたいと思っていた」
「今も、そう思いますか?」
その質問に、龍太郎はすぐには答えられなかった。そして、真子を見た。
「今は……真子ちゃんと一緒にいられたらと思っている」
真子の表情が、わずかに揺れた。龍太郎は、言ってしまったことを後悔した。けれど、もう取り消せなかった。バブルの頃、誰一人ともマッチしなかった男。年収百六十万円だった男。六十歳になった今も、恋をしている男。龍太郎は、真子の返事を待った。真子はしばらく黙っていた。やがて、視線を落とし、小さな声で言った。
「……今日は、ゆっくり話しましょう」
その言葉だけで、龍太郎の胸は少し軽くなった。まだ答えは出ていない。けれど、二人は同じテーブルに向かって歩き始めた。そして龍太郎は思った。人生は、何歳になっても分からない。若い頃に誰にも選ばれなかったとしても、恋が終わったとは限らない。たった二文字の「了解」が、止まっていた時間を動かすこともある。龍太郎は、真子の隣を歩きながら、静かに笑った。
「俺は、真子ちゃんが好きだ」
その気持ちだけは、もう隠さなくてもいいと思った。


