放課後のジントニック、美術室の魔法
口をついて出た言葉に、背中にじっとりと冷や汗が滲む。危ない、脳裏をよぎったのは架空のサークルのやつらではなく、先日、他校の遠征先で遭遇した『あの裏手で絵を描いていた生意気な少年』の姿だった。自分のリアルな現実の記憶を、危うく『大学生の航平』の口から漏らすところだったのだ。一歩歩くたびに、ついている嘘の重みが足元をすくおうとしてくる。
「あはは、どこのサークルにもそういう子はいるんだね。でも、航平先輩がんばって教育してあげて?」
茶化すように笑う結衣さんに、俺は「……善処します」と引き攣りそうな笑顔を返すのが精一杯だった。
そんな俺のハラハラを知る由もない結衣さんは、並木道を抜けて見えてきたガラス張りの大きな建物を仰ぎ見て、嬉しそうに微笑んだ。
「素敵な展示に誘ってくれて、本当にありがとう。私、この特別展めちゃくちゃ行きたかったのに、一緒に行ってくれる人いなくて諦めてたから、航平くんに誘ってもらえてすっごく嬉しかった!…あの子――生意気なあの子がね、戻ってきたとき持ってきてくれた絵がすごい素敵でさ。私、もっといろんな絵の勉強しないとなって思ってたから、本当にいいタイミングだった。」
結衣さんは少し照れくさそうにクスッと笑う。あの学校の裏手で、生意気な部員の心を動かすきっかけを作ってしまったのが、他ならぬサッカー部のジャージを着て泥まみれていた俺だなんて、彼女は夢にも思ってないだろう。
「……その、部員の生徒さん、戻ってきてくれて本当によかったですね」
俺は喉の渇きを覚えるのを隠しながら、どうにか大人のトーンで言葉を返し、ポケットから二枚のチケットを取り出した。
「うん、本当に。航平くんがこの前、高校生の本音を教えてくれたおかげだよ。さ、行こ!」
結衣さんの弾むような声に促されるようにして、自動ドアをくぐる。
美術館の中は、ひんやりとした静寂に包まれていた。
高い天井から降り注ぐ柔らかな光の中で、俺たちは並んでゆっくりと歩いた。
「ねぇ、航平くん。この絵、どう思う?」
結衣さんが、一枚の大きな抽象画の前で足を止めた。鮮やかな青と、激しい筆跡が印象的な絵だった。
「……すごく、圧倒されます。綺麗に整っているわけじゃないのに、見てると胸の奥が熱くなるというか」
「ふふ、やっぱり航平くんって時々あの子――立花くんと同じような核心突くようなこと言うよね」
結衣さんが嬉しそうに微笑む。
(立花…。あの子、そんな苗字だったのか)
あの学校の裏手で、死に物狂いで色彩を叩きつけていたトゲだらけの天才部員。その名前を初めて知ると同時に、自分の仕掛けた変化が、結衣さんのすぐ近くで確かに息づいていることに、俺の心臓はドクンと妙な鼓動を打った。
それと同時に、隣を歩く彼女から微かに漂う、あの金曜日の夜と同じ柑橘系の甘い香りが、俺の理性を狂わせそうになった。
「あ、ねぇ、航平くん!あっちの展示も見に行こうよ」
結衣さんが楽しそうに俺の腕を軽く引いた。
一瞬だけ触れた、彼女の指先の柔らかさと温かさ。
「……つ、はい。行きましょう」
ブレザーを脱ぎ捨て、偽りの身分をまとった俺。
教壇を離れ、一人の女性として無邪気に笑う彼女。
一歩歩くたび、自分のついている『嘘』の重さに胸が苦しくなる。だけど、今だけはこの眩しい魔法の中に溺れていたい。そう願ってしまうほど、結衣さんと過ごす時間は、狂おしいほど幸せだった。
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