放課後のジントニック、美術室の魔法

【金曜日の約束】

あのバーへ通い始めて、何度目の金曜日だっただろう。
最初の頃は、店のドアを開けるだけで心臓が飛び出しそうだった。
高校生だとバレないか。
マスターに怪しまれないか。
結衣さんに変な奴だと思われないか。
そんなことばかり考えていた。
けれど、何度か通ううちに、少しずつ緊張する理由が変わっていった。
今夜も、結衣さんは来るだろうか。
そればかりが気になるようになった。
いつもの席に座り、辛口のジンジャーエールを注文する。
マスターがグラスを置いてくれる。
「どうぞ、航平様」
「ありがとうございます」
グラスを受け取り、一口飲む。それはいつもと同じ味だった。なのに、今日は少し落ち着かなかった。
時計を見る。午後八時十三分。
まだ、十三分しか経っていない。
自分でもおかしくなって、小さく息を吐いた。
何をしているんだ、俺は。
別に、約束をしているわけじゃない。
結衣さんが毎週この時間に来ると決まっているわけでもない。
ただ、何度か同じ金曜日に会っているだけだ。それなのに。
カラン、と。扉の向こうで、あのガラスの鈴が鳴った。
反射的に顔を上げる。
「こんばんは、マスター」
聞き慣れ始めた声が店内に響いた。
胸の奥が、ふっと軽くなる。
結衣さんだった。
「こんばんは、結衣さん」
「あ、航平くん。今日もいたんだ」
「はい、今日もいます」
当たり前のように答えたけれど、本当はその一言だけで嬉しかった。
結衣さんはいつものように俺の隣へ座り、ジントニックをライム多めで注文した。
「今日もね、聞いてほしいことがあるの」
「何ですか?」
「またあの子がね――」
そこから始まったのは、いつもの美術部の話だった。
生意気な部員の話。
授業で起きた小さな失敗。
職員室での愚痴。
俺は相槌を打ちながら、それを聞いていた。
特別な話なんて何もない。それでも、気がつけば時間が過ぎていた。
結衣さんが時計を見る。
「もうこんな時間なんだ」
「本当ですね」
「航平くんと話してると、時間経つの早いなぁ」
その何気ない一言に、俺は返事をするのを忘れた。
「……航平くん?」
「あ、すみません」
慌ててグラスへ視線を落とす。胸の奥が、じんわりと熱かった。
帰り際。結衣さんがコートを羽織りながら、ふと振り返った。
「じゃあ、また来週ね」
「はい。また来週」
扉が閉まる。
カラン、と鈴が鳴った。
その音が消えてから、俺はしばらく動けなかった。
『また来週』
たったそれだけの言葉なのに、次の金曜日が、もう待ち遠しくなっていた。
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