カデンツァ

3節


「あーあ。ピアニストが。どうしたの?それ」
昼休み、7つも下の同級生、南博久がファーストフードで買ってきたポテトフライをかじりながら泉に訊ねた。泉は手首に大学の購買で買ったシップを巻いてサポーターをしていた。昨日はたいしたことないと思っていた左手の手首が痛んできたのだ。よりによって手首を突くなんて、不注意にもほどがある。

吉野泉は27歳。大学を卒業して3年ほど広告会社で働いたが、ピアノへの夢をあきらめきれず音大に入る勉強をしていた。家具の輸入業を営んでいた父はもう他界してしまっており、母は実家の静岡で親戚の家に身を寄せ、農業の手伝いで何とか食べている状態である。父という後ろ盾がなくなってしまった今となっては、もう一度勉強するなら泉は自分の手で稼いだお金で全てをまかなわねばならなかった。自分のピアノの腕に疑いを持ちながらも、G大に受かってしまった泉は、学費だけはなんとか働いていたときの貯金でまかない、生活費をアルバイトで稼ぐ生活となった。アルバイトも音楽教室の講師と銀座のピアノバーの2つをかけもちである。

昨日はピアノバーの日だった。店の外でならいざ知らず、店の中であんな喧嘩が起こるとは誰も予想していなかった。おまけにあのガイジンとその連れの変な男……

「壁にぶつかって、変な風に手をついちゃって。昨日はなんともないと思ってたのに」
泉が答えると、博久はサポーターをはめた泉の手を取った。博久はそれをめくって見た。
「腫れてはいないようだけど……あんまり痛いようなら、きちんと湿布してもうちょっと強めに固定した方がいいよ。俺んちに来る?」
博久の家は大学のすぐ近くで個人病院をやっている。博久はそこの院長の息子だった。
「ヒューヒュー、博久くん。泉にはやさしいねぇ」
一緒にいた石井真紀が冷やかした。真紀は同じピアノ科だったが、大学に入ってからはじめたバンド活動に入れ込みすぎて、既に3年留年していた。泉より年下だったが、今年一緒になった同級生たちには3年も留年した強者だと思われている。
「なんだよ。みんなだって来たいならいつだって歓迎するぜ。親父に一番でかい注射器でビタミン剤打ってもらえるように言っとくからな。針の真ん中に開いてる穴がしっかり見えるやつ」
「なにそれ」
真紀は博久を一笑に付した。
「ねぇ、泉。それより昨日さ、アリオンですっごい噂聞いちゃった」
いつになく真剣な様子で真紀が言った。真紀は泉のもう1つのアルバイト先、アリオン・ミュージックで泉と同じようにピアノ講師のアルバイトをしている。アリオンは老舗の楽器店で、決して上向き加減の会社ではなかったが、学生の間でも就職先として根強い人気があった。今時の音楽などやっている学生にとっては、就職先を探すのは至難の業である。大学を卒業しても演奏家を目指すものはごく少数だし、かといって卒業しても音楽関係のところへ就職するのは結構難しい。だから、学生たちは学生のうちにここでアルバイトをし、そのまま就職できればこんなに良いことはないと考えている。泉も真紀もいずれはアリオンで働くことができればと思っていた。6月の初めに、アリオンでは3年次の学生アルバイトに就職希望票が配られ、泉も真紀もこれに応募した。それまでの仕事ぶりなどが評価されれば、今年中には内定が出るはずだった。
「すごい噂って?」
「アリオンって今、経営状態がすごく悪いみたいじゃない?それで親会社のレグノからテコ入れがあるらしいのよね」
「テコ入れってどんな?」
真紀が言ったとおり、講師たちの間でももう大分話題になっていたが、アリオンは最近、都心にいくつかできている蔵野楽器に押されて業績が落ち込んでいるらしい。アリオンは老舗ではあるが、それにあぐらをかいてこれまで何の努力もしてきていない。泉は真紀と一緒に新しく出来た蔵野楽器へ偵察に行ったこともあるが、店内のコーディネートや、受け付けの感じの良さ、レッスンの自由度など、どれを取ってみてもアリオンは見劣りしてしまう。
「4月ごろから外資のコンサルが入って、アリオン全体の経営を見直してるって話があったじゃない?これまではレグノ本部の方でいろいろやってたみたいだけど、いよいよ楽器店のほうも多分大きなリストラがあるって」
「リストラ……それって、阿部先生の情報?」
「うん」
阿部はアリオンのピアノ科の上級講師だった。40を過ぎたばかりだが、最近はプレーヤーとしても売れっ子で、他の楽器のミュージシャンたちに呼ばれることが多くなった。アリオンとしては手放したくない人材だ。その阿部と真紀は最近とても仲が良い。
去年、泉がアリオンで働きはじめた時、阿部は明らかに泉に興味を持っていた。既婚者である阿部に、泉は何度か食事に誘われた。しかしその度に泉は断ってきた。真紀にはその事は知られていないはずだが、自分がなびかなかったからといって、今度は真紀に手を出してくるなんて……泉は阿部に呆れると同時に、真紀が変なことに巻き込まれなければ良いがと思った。
「でも、講師の方はリストラって言っても、生徒がいるんだからそんなに簡単にはいかないでしょ」
「さぁ、どうだかね。だってコンサルだよ。それも外資の。そんなこと考えられる人間をアリオンに呼べたってことにはまだ救いがあるけどね」
「ほんと!」
泉と真紀は2人で大笑いした。学生とはいえ、泉も真紀も外で働いている経験がいろいろあるので、アリオンのやる気のない体質が一体どこまで続くのか心配していたのだ。大手だからといって会社がつぶれない時代ではないし、やる気がないとは言っても学生にとってはアリオンは腐っても鯛だった。有望な就職先が減るのも困る。

その日の夕方、2人がそろってアリオンへ行くと、副店長の高梨温子が2人を呼び止めた。
「ああ、ちょうど良かった。今日、本部から社内改革推進部の人たちが来て、講師の皆さんと懇談することになってるの。9時から10番教室で。講師は全員参加なので、あなたたちも出席して頂戴ね」
「9時からって……追加時間分、出るんですか?」
真紀がすかさず訊ねた。音楽教室の講師たちは、契約社員としての扱われているが、泉と真紀は時間で働いているので、講師と言ってもアルバイト契約である。拘束時間についてはきちんと払ってもらわなければならない。
「専務と相談します」
温子はそう言ってきびすを返し、受付の奥へ入ってしまった。
「ほんとに払う気あるのかしらね?」
真紀は温子の後姿にイーとやった。
「それより、本部からの人たちって、昼間、真紀が言ってたあの話の……」
真紀と泉はお互いに顔を見合わせた。
「そうね。たぶん……」
一体何の話だろうか?本当にリストラ?泉は真紀と別れて、7時から始まるグループレッスンの部屋へ急いだ。

初めのレッスンを終えて泉がロビーに行くと、阿部と真紀が隅のテーブルで話をしているのを見つけた。
「こんばんは。先生は今日は、わざわざ?」
泉が挨拶すると、阿部はにっこり笑った。
「そう。呼ばれたんだ。何だろうね?って今話してたとこ」
「そろそろ時間でしょ?」
真紀が阿部を促して立たせた。そして泉の腕に自分の腕を巻きつけ、10番教室までの廊下を歩いた。

教室の中は、椅子とテーブルが会議が出来るように対面で並べられていた。全部で30名ほどもいる他の講師たちは、ほとんど席に着いており、入って正面の席だけがなぜか空いている。3人はどうしてもそこに座るしかなかったので、他の講師たちの後ろを回って席についた。自分のかばんを足元に置いて椅子を引いたその時、泉は正面真中に座っている人間の視線に気がつき、あっと声をあげそうになった。それはほんの数秒だった。泉の方を見つめていたのは、昨日、Jでピアノの前の席に座り、泉を緊張させたあの男だった。

「それでは、先生方もおそろいのようなのではじめたいと思います」
温子が声を発した。教室内のざわめきがぱたっと止んだ。隣に座っていた専務の鳴海が立ち上がった。
「ええと。皆さん、お忙しいところ、また夜遅くにお集まりいただきまして、どうもありがとうございます。社員の説明会を先にやりましたので、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、アリオンでは業績改善のため、今年度はじめに社内改革推進部という部署が本部に設置されました。今度そこからこちらのお2人がいらっしゃいました。これからA店の方をみていただくことになっています。今日は、講師の方々にもいろいろ意見をいただきたいということで、お集まりいただきました。では、自己紹介をお願いします」
鳴海に言われて立ち上がった二人は、昨日のあの男と、まだ30は過ぎていないと思われるもう一人の男だった。若い方の男が昨日の男に先を譲った。
「森嶋廉です。社内改革推進部から来ました。よろしくお願いします」

森嶋……泉はその名前に戸惑った。この人、森嶋楽器の関係者?でも、本当は違う会社からきてるのだからきっと偶然だわ……そういえば、あの外国人は彼のことを『レン』と呼んでたっけ。昨日デイビッド・ブレナーがくれた名刺にもハーヴェイ&スウェッソン・コンサルティングと入っていた。泉は自分の手にあった名刺を思い出した。あの名刺、どうしたかしら?

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