王宮奇恋怪異譚

15.クレメント

 ◆

 最初に目に入ったのは床だった。

 赤い。石の床が赤い。灰色の石目の上に血が広がり、燭台の光を受けて黒に近い赤を湛えている。血溜まりだ。その中心に一人のメイドが仰向けに倒れている。動かない。

 その傍らに──男が立っていた。

 クレメントだった。

 軍務卿の息子。ルキウスの側近。良い言い方をすれば豪胆かつ率直、悪い言い方をすれば頭がからっぽの犬なあの男である。

 だが今そこに立っているのは犬ではなかった。

 野獣……いや、魔獣であった。

 両手は血に塗れている。衣服は乱れ、襟が千切れかけていた。体格は元々大きい男だが、今のクレメントはその大きさ自体が凶器に見えた。肩が上下している。

 衛兵が三人、クレメントを取り囲んでいた。だが間合いを詰められずにいる。じりじりと距離を測り、隙を窺っている様子だ。

「クレメント殿、落ち着かれよ──!」

 一人が前に出た。腕を掴もうとした瞬間、クレメントの右腕が振り払われた。衛兵の体が壁に向かって弾き飛ばされ、背中から石壁にぶつかる。鎧が嫌な音を立てた。

 二人目が横から飛びかかった。組みつこうとしたのだろう。だがクレメントは振り向きざまに肘を振り──衛兵の胸を打った。胸甲の上からだ。にもかかわらず、衛兵の足が床から浮いた。二歩分ほど吹き飛ばされて尻餅をつく。

「くっ……どういう膂力をしているのだ!」

 衛兵の一人が吐き出す様に言う。そして──

「やめろ、クレメント!」

 ルキウスの声だった。

 回廊の奥──クレメントと衛兵の向こう側に、ルキウスが立っていた。顔は蒼白で、普段の沈着は影も形もない。

「やめてくれ、頼む、クレメント! そんな事をしても──」

 しかしクレメントは聞いていなかった。

 いや──聞こえていないのだ。目が虚ろだった。虚ろだが据わっている。矛盾した目だった。何かを見ているのだが、それは目の前のものではない。ここにないものを見ている。ここにいない何かと戦っている。

 三人目の衛兵が槍の柄でクレメントの足を払おうとした。クレメントは跳んで躱し──着地と同時に衛兵の胸を蹴った。衛兵が床を滑る。

「アレシア」

 ダグラスの腕がアレシアの肩を掴んだ。掴んだというより、引いた。アレシアの体がダグラスの背中の裏に回される。太い腕が壁のように前を塞いだ。

「すぐに戻れ! マルタ、連れて──」

 ダグラスの声が途切れた。

 クレメントがこちらを()()

 ダグラスの声に反応したのだ。あるいは声ではなく、動きに──新しい人影が視界に入ったのかもしれない。理由はどうあれ、クレメントの首がこちらに向いた。

 両眼が血走っていた。白目が赤い。毛細血管が何本も切れたように赤い線が走り、その中央で瞳孔が異様に開いている。虹彩がほとんど見えない。黒い穴が二つ、こちらを向いている。

 ──()()

 空洞ではない。あのメイドの幽霊とは違う。だが()()()()()目がこちらを見ているという意味では、同じだった。

 歯が噛み締められていた。唇が捲れ上がり、歯茎が剥き出しになっている。余りの力で噛み締めているのだろう──歯の隙間から血が滲み、唇を伝い、顎を伝って首筋に落ちていた。

 ぎり

 ぎりりり

 そんな奥歯が軋む音がアレシアたちの所まで聞こえた。

()()──」

 誰かが呟く。

 クレメントがこちらに一歩を踏み出す。

 ぎりり、ぎりと歯を軋らせるクレメントの異様、異常に誰もが手を出せないでいる中、回廊に響くのは血だまりを踏むべちゃりという不快な足音と──

「小童が……」

 低く唸るような、ダグラスの憤怒の声であった。
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