八月の蛍
第十章 河川敷の夜
午前一時の河川敷は、昼間の熱をまだ土の中に残していた。
投光器が二基、白い光の輪を作っていた。光の外は墨を流したような闇で、川の音だけが近かった。城見署から来た制服警官が四人、土手の上と下流側に立って、人が近づかないよう見張っている。とはいえ、こんな時刻の河川敷に人の姿はなかった。
「打ち上げ台の基礎は、二十年前と同じ位置です」
城見署の年配の巡査部長が、図面を広げて言った。祭りの花火の打ち上げ台。夏の間だけ組まれる鉄骨の櫓で、その基礎のコンクリートだけが、一年中、河川敷の隅に残っている。
「地図の丸印は、基礎の北東の角。川と反対側です」
拓海は、証拠品袋越しにあの古い道路地図をもう一度確かめた。昭和五十年代の地図。持ち主の浩太よりも古い地図だ。おそらく父親か、誰かの持ち物だったのだろう。その隅に、鉛筆で書かれた小さな丸。二十年間、防水の袋の中で守られてきた印。
「掘ろう」
柚木が、腕まくりをした。
「機械は使わない。手で掘る。何が埋まっているかわからないのに機械で掘ったら、二十年が台無しになる」
鑑識員が二人、基礎の角から慎重に表土を剥がし始めた。柚木も拓海もスコップを持った。夜中だというのに、掘り始めてすぐ、全身から汗が噴き出した。
掘り始めて間もなく、土手の上に車のライトが一つ増えた。降りてきた人影を見て、城見署の署員たちが一斉に背を伸ばした。城丸署長だった。
「非番だぞ、私は。ただの見物だ」
城丸はそう言いながら、上着を脱ぎ、まくり上げたシャツの腕でスコップを取った。柚木が、黙って場所を空けた。
「柚木さん。あなたは言いましたね。二十年前に書かれなかった続きを、今から書く、と」
城丸は、最初の一掘りを入れた。
「その続き、私にも書かせてもらいます。二十年遅れの、書き出しの一行だ」
三十センチ。何もない。
五十センチ。石と、木の根。
拓海のスコップの先が、七十センチほどのところで、こつん、と硬いものに当たったのは、二時を回った頃だった。
「待て」
柚木が手を挙げ、そこからは鑑識員が刷毛と移植ごてに持ち替えた。土が少しずつ払われていく。投光器の白い光の中に現れたのは、一斗缶だった。
古い、菓子か煎餅の一斗缶。蓋の合わせ目には幾重にもビニールテープが巻かれ、その上から蝋のようなものが塗り込められていた。缶自体は錆びていたが、封は生きていた。
「……開封は、署でやります」
鑑識員が言いかけたが、柚木は首を振った。
「いや。ここで開ける。立会人はこれだけいる。写真も撮っている。……ここで開けなければならない理由が、俺にはある」
「理由、とは」
「これを埋めた人間は、いつか誰かがここで開けることを願って埋めたんだ。二十年待たせた。署まで待たせるのは、もう酷だ」
鑑識員は柚木の顔を見て、それ以上は言わなかった。
テープが切られ、蝋が剥がされ、蓋が開いた。
中には、油紙の包みが三つ、几帳面に並んでいた。
一つ目の包みから出てきたのは、使い捨てカメラだった。九十年代によく売られていた紙箱の簡易カメラ。フィルムは巻き上げ済み。ラベルの日付表示の窓に、細い油性ペンで書き込みがあった。
――八月六日夜、倉庫裏。
「火事の晩だ」
誰かが、低く言った。誰の声だったか、拓海にはわからなかった。自分の声だったかもしれない。
二つ目の包みは重かった。開くと、焼け焦げた金属の部品が出てきた。ねじ切られたような継手と、変形した管の一部。管の破断面には、素人目にもわかるいびつな亀裂が走っていた。
「配管だ」
鑑識員が、手袋の上から慎重に持ち上げた。
「ガス管の継手部分です。それも……この施工はひどい。シール材の巻き方がでたらめだ。これは漏れます」
拓海の頭の中で、証言の断片が音を立てて繋がった。谷村幸治は火事の前、倉庫の改修工事のあと、ガスの臭いがすると何度もこぼしていた――美砂子が、そう言っていた。工事を請け負ったのがどこの会社だったのか。それを明日から調べることになるのだろう。いや、調べるまでもない気がした。この町の工事は、だいたい一つの会社を通っていく。
三つ目の包みは、一番小さく、一番丁寧に包まれていた。
油紙を三重に剥がすと、ビニール袋。その中に、大学ノートを破った紙が数枚、小さく畳まれて入っていた。
鉛筆の字だった。若い、癖のある、しかし一生懸命に整えようとした字。
柚木は、手袋をはめ直してからその紙を開いた。投光器の光の下で、声には出さずに、まず一人で最後まで読んだ。それから、黙って拓海に渡した。
拓海は、読んだ。
――母ちゃんへ。
俺は火をつけていない。それだけは本当だ。神様に誓ってもいい。
あの晩、俺は花火を見にいった帰りに、倉庫の裏で焦げ臭いに気づいた。中に入ったら、もう火が回っていた。子どもの声がしたから、入って、連れて出た。それだけだ。
本当のことを言っても、誰も聞いてくれない。高瀬の人たちが、俺がやったことにするつもりだと、谷村のおばさんが教えてくれた。おっちゃんの名前を守るためだ、と。
母ちゃん。俺が逃げたら、母ちゃんは一人になる。ごめん。だけど、俺が捕まっても母ちゃんは一人だ。そのうえ、俺は火付けの子になってしまう。それだけは駄目だ。俺が火付けになったら、母ちゃんが火付けの母ちゃんになってしまうからだ。
証拠を、ここに埋めておく。カメラは倉庫の裏で拾った。誰かが落としていったんだ。焦げた管は、燃えたあとの裏の溝に落ちていた。俺にはこれが何かわからないけれど、大事なものな気がする。頭のいい人が見たら、わかるかもしれない。
いつか、ちゃんとした人がこれを見つけてくれたら、俺は火付けではなかったことになる。そうしたら母ちゃん、堂々と道の真ん中を歩いてくれ。
俺は、どこにいても、夏には帰ってくる。姿は見せられないけれど、必ず帰ってくる。提灯を出しておいてくれたら、それを目印にする。
母ちゃんの飯が、いちばんうまい。本当だよ。
浩太
読み終えても、拓海はしばらく紙から目を上げられなかった。
十六歳。逃げる晩に、少年はこれを書いた。自分の無実を叫ぶためではない。母親を「火付けの母」にしないために逃げる。その理屈の健気さが痛かった。そして最後の一行が、二十年の重さで胸にのしかかった。
「……柚木さん。この手記、初枝さんには」
「まだだ。まだ見せられない。正式な鑑定と裏付けが先だ。これは本物だと胸を張って言える状態にしてから届ける。半端なものを届けたら、二十年待った人に失礼だ」
柚木は、缶の中をもう一度覗き込んだ。それから、缶の底から最後の一つをそっとつまみ上げた。
白い、丸い、川原の石だった。
年号は書かれていなかった。
「……行李の菓子箱の、一番古い石と同じ石だ」
柚木は、手のひらの石を光にかざした。
「逃げた晩、この子は川原で石を二つ拾ったんだ。一つは自分のポケットに。もう一つは、この缶の中に。……缶とポケットと、二十年離れていても、対の石だ」
誰も、何も言わなかった。
川の音の向こうで、夜がゆっくりと薄くなり始めていた。鑑識員が缶を梱包する手つきは、骨壺を扱うように丁寧だった。
土手を上がりながら、柚木が言った。
「三雲。夜が明けたら忙しくなるぞ。フィルムの現像。配管の鑑定。工事記録の照会。……それとな、この手記は美砂子さんの話と寸分違わず合っている。二十年前の晩、高瀬が仕組んでいることを、あの人が浩太に伝えた。手記は、あの人の二十年の証言の裏書きだ」
「美砂子さんに、見せてあげたいです」
「見せる。鑑定が済んだら真っ先にな。あの人は二十年、自分が子どもを死なせたと思って生きてきた。……この手記のどこにも、あの人を恨む言葉は一つもない。それを届けるのも、我々の仕事だ」
城丸は、手記の写しを持つ手を最後まで下ろさなかった。
「柚木さん。これ……二十年前に我々が調べを続けていたら、この缶はあの年のうちに開いていたんですね」
「ええ」
柚木は、否定しなかった。慰めもしなかった。
「ですが、署長さん。あなたは今晩ここにいて、自分の手で掘った。二十年前の詫びをする方法はそれしかないし、それで足ります。……あとは、続きを最後まで書くだけです」
東の空が白み始めていた。
拓海は、土のついた自分の手を見た。二十年前の夏からずっとここに埋まっていたものを、今、この手で掘り出した。眠気は、どこにもなかった。
投光器の白い光は、夜通し土手の上から見えていたはずだった。事実、朝には町中が、警察が河川敷を掘ったことを知っていた。何が出たのかだけを、誰も知らなかった。
投光器が二基、白い光の輪を作っていた。光の外は墨を流したような闇で、川の音だけが近かった。城見署から来た制服警官が四人、土手の上と下流側に立って、人が近づかないよう見張っている。とはいえ、こんな時刻の河川敷に人の姿はなかった。
「打ち上げ台の基礎は、二十年前と同じ位置です」
城見署の年配の巡査部長が、図面を広げて言った。祭りの花火の打ち上げ台。夏の間だけ組まれる鉄骨の櫓で、その基礎のコンクリートだけが、一年中、河川敷の隅に残っている。
「地図の丸印は、基礎の北東の角。川と反対側です」
拓海は、証拠品袋越しにあの古い道路地図をもう一度確かめた。昭和五十年代の地図。持ち主の浩太よりも古い地図だ。おそらく父親か、誰かの持ち物だったのだろう。その隅に、鉛筆で書かれた小さな丸。二十年間、防水の袋の中で守られてきた印。
「掘ろう」
柚木が、腕まくりをした。
「機械は使わない。手で掘る。何が埋まっているかわからないのに機械で掘ったら、二十年が台無しになる」
鑑識員が二人、基礎の角から慎重に表土を剥がし始めた。柚木も拓海もスコップを持った。夜中だというのに、掘り始めてすぐ、全身から汗が噴き出した。
掘り始めて間もなく、土手の上に車のライトが一つ増えた。降りてきた人影を見て、城見署の署員たちが一斉に背を伸ばした。城丸署長だった。
「非番だぞ、私は。ただの見物だ」
城丸はそう言いながら、上着を脱ぎ、まくり上げたシャツの腕でスコップを取った。柚木が、黙って場所を空けた。
「柚木さん。あなたは言いましたね。二十年前に書かれなかった続きを、今から書く、と」
城丸は、最初の一掘りを入れた。
「その続き、私にも書かせてもらいます。二十年遅れの、書き出しの一行だ」
三十センチ。何もない。
五十センチ。石と、木の根。
拓海のスコップの先が、七十センチほどのところで、こつん、と硬いものに当たったのは、二時を回った頃だった。
「待て」
柚木が手を挙げ、そこからは鑑識員が刷毛と移植ごてに持ち替えた。土が少しずつ払われていく。投光器の白い光の中に現れたのは、一斗缶だった。
古い、菓子か煎餅の一斗缶。蓋の合わせ目には幾重にもビニールテープが巻かれ、その上から蝋のようなものが塗り込められていた。缶自体は錆びていたが、封は生きていた。
「……開封は、署でやります」
鑑識員が言いかけたが、柚木は首を振った。
「いや。ここで開ける。立会人はこれだけいる。写真も撮っている。……ここで開けなければならない理由が、俺にはある」
「理由、とは」
「これを埋めた人間は、いつか誰かがここで開けることを願って埋めたんだ。二十年待たせた。署まで待たせるのは、もう酷だ」
鑑識員は柚木の顔を見て、それ以上は言わなかった。
テープが切られ、蝋が剥がされ、蓋が開いた。
中には、油紙の包みが三つ、几帳面に並んでいた。
一つ目の包みから出てきたのは、使い捨てカメラだった。九十年代によく売られていた紙箱の簡易カメラ。フィルムは巻き上げ済み。ラベルの日付表示の窓に、細い油性ペンで書き込みがあった。
――八月六日夜、倉庫裏。
「火事の晩だ」
誰かが、低く言った。誰の声だったか、拓海にはわからなかった。自分の声だったかもしれない。
二つ目の包みは重かった。開くと、焼け焦げた金属の部品が出てきた。ねじ切られたような継手と、変形した管の一部。管の破断面には、素人目にもわかるいびつな亀裂が走っていた。
「配管だ」
鑑識員が、手袋の上から慎重に持ち上げた。
「ガス管の継手部分です。それも……この施工はひどい。シール材の巻き方がでたらめだ。これは漏れます」
拓海の頭の中で、証言の断片が音を立てて繋がった。谷村幸治は火事の前、倉庫の改修工事のあと、ガスの臭いがすると何度もこぼしていた――美砂子が、そう言っていた。工事を請け負ったのがどこの会社だったのか。それを明日から調べることになるのだろう。いや、調べるまでもない気がした。この町の工事は、だいたい一つの会社を通っていく。
三つ目の包みは、一番小さく、一番丁寧に包まれていた。
油紙を三重に剥がすと、ビニール袋。その中に、大学ノートを破った紙が数枚、小さく畳まれて入っていた。
鉛筆の字だった。若い、癖のある、しかし一生懸命に整えようとした字。
柚木は、手袋をはめ直してからその紙を開いた。投光器の光の下で、声には出さずに、まず一人で最後まで読んだ。それから、黙って拓海に渡した。
拓海は、読んだ。
――母ちゃんへ。
俺は火をつけていない。それだけは本当だ。神様に誓ってもいい。
あの晩、俺は花火を見にいった帰りに、倉庫の裏で焦げ臭いに気づいた。中に入ったら、もう火が回っていた。子どもの声がしたから、入って、連れて出た。それだけだ。
本当のことを言っても、誰も聞いてくれない。高瀬の人たちが、俺がやったことにするつもりだと、谷村のおばさんが教えてくれた。おっちゃんの名前を守るためだ、と。
母ちゃん。俺が逃げたら、母ちゃんは一人になる。ごめん。だけど、俺が捕まっても母ちゃんは一人だ。そのうえ、俺は火付けの子になってしまう。それだけは駄目だ。俺が火付けになったら、母ちゃんが火付けの母ちゃんになってしまうからだ。
証拠を、ここに埋めておく。カメラは倉庫の裏で拾った。誰かが落としていったんだ。焦げた管は、燃えたあとの裏の溝に落ちていた。俺にはこれが何かわからないけれど、大事なものな気がする。頭のいい人が見たら、わかるかもしれない。
いつか、ちゃんとした人がこれを見つけてくれたら、俺は火付けではなかったことになる。そうしたら母ちゃん、堂々と道の真ん中を歩いてくれ。
俺は、どこにいても、夏には帰ってくる。姿は見せられないけれど、必ず帰ってくる。提灯を出しておいてくれたら、それを目印にする。
母ちゃんの飯が、いちばんうまい。本当だよ。
浩太
読み終えても、拓海はしばらく紙から目を上げられなかった。
十六歳。逃げる晩に、少年はこれを書いた。自分の無実を叫ぶためではない。母親を「火付けの母」にしないために逃げる。その理屈の健気さが痛かった。そして最後の一行が、二十年の重さで胸にのしかかった。
「……柚木さん。この手記、初枝さんには」
「まだだ。まだ見せられない。正式な鑑定と裏付けが先だ。これは本物だと胸を張って言える状態にしてから届ける。半端なものを届けたら、二十年待った人に失礼だ」
柚木は、缶の中をもう一度覗き込んだ。それから、缶の底から最後の一つをそっとつまみ上げた。
白い、丸い、川原の石だった。
年号は書かれていなかった。
「……行李の菓子箱の、一番古い石と同じ石だ」
柚木は、手のひらの石を光にかざした。
「逃げた晩、この子は川原で石を二つ拾ったんだ。一つは自分のポケットに。もう一つは、この缶の中に。……缶とポケットと、二十年離れていても、対の石だ」
誰も、何も言わなかった。
川の音の向こうで、夜がゆっくりと薄くなり始めていた。鑑識員が缶を梱包する手つきは、骨壺を扱うように丁寧だった。
土手を上がりながら、柚木が言った。
「三雲。夜が明けたら忙しくなるぞ。フィルムの現像。配管の鑑定。工事記録の照会。……それとな、この手記は美砂子さんの話と寸分違わず合っている。二十年前の晩、高瀬が仕組んでいることを、あの人が浩太に伝えた。手記は、あの人の二十年の証言の裏書きだ」
「美砂子さんに、見せてあげたいです」
「見せる。鑑定が済んだら真っ先にな。あの人は二十年、自分が子どもを死なせたと思って生きてきた。……この手記のどこにも、あの人を恨む言葉は一つもない。それを届けるのも、我々の仕事だ」
城丸は、手記の写しを持つ手を最後まで下ろさなかった。
「柚木さん。これ……二十年前に我々が調べを続けていたら、この缶はあの年のうちに開いていたんですね」
「ええ」
柚木は、否定しなかった。慰めもしなかった。
「ですが、署長さん。あなたは今晩ここにいて、自分の手で掘った。二十年前の詫びをする方法はそれしかないし、それで足ります。……あとは、続きを最後まで書くだけです」
東の空が白み始めていた。
拓海は、土のついた自分の手を見た。二十年前の夏からずっとここに埋まっていたものを、今、この手で掘り出した。眠気は、どこにもなかった。
投光器の白い光は、夜通し土手の上から見えていたはずだった。事実、朝には町中が、警察が河川敷を掘ったことを知っていた。何が出たのかだけを、誰も知らなかった。