八月の蛍
第十二章 七月の終わり
高瀬昭悟が任意の事情聴取に応じたのは、七月の最後の週だった。
弁護士を二人連れて、高瀬は城見署に現れた。五十代半ば。半白の髪を綺麗に撫でつけ、上等の麻の上着を着て、署の玄関で職員に鷹揚に会釈までしてみせた。最初の晩、役場で二人を迎えたときと寸分違わぬ物腰だった。姿だけ見れば、名士の表敬訪問だった。
取調室に入ったのは、柚木一人だった。拓海は記録係として、隅の机に着いた。
柚木は、まず茶を淹れた。
急須から二つの湯呑みに等分に注いだ。一つを高瀬の前に置き、一つを自分の前に置いた。弁護士たちが怪訝な顔をした。
「どうぞ。署の茶で大したものではありませんが、暑い日はやはり熱いのが効きます」
「……ご丁寧に」
高瀬は、湯呑みに手を付けなかった。
「柚木さん、といったかな。最初に言っておくが、私は何も知らん。松本が勝手にやったことだ。二十年前の配管も、こないだの穴掘りも、全部あの男の一存だ。会社の者が世話になっているのに知らん顔もできないから、こうして足を運んだだけでね」
「ええ、ええ。よくわかります」
柚木は、逆らわなかった。
「まあ、順番に確認だけさせてもらいます。私は確認だけが仕事の男でしてね」
それから二時間、柚木は二十年前の話を一切しなかった。
訊いたのは、町の話だった。高瀬の父親が興した会社の話。それを三十半ばで継いでから広げた事業の話。町議になってから通した道路の話。祭りの寄付の話。高瀬は次第に機嫌よく話した。自分の功績の話は、いくらでも出てきた。この町は私が食わせてきた、という言葉が二時間で三度出た。
三度目のとき、柚木は初めて湯呑みを置いた。
「高瀬さん。あなたの言う通りだ。あなたはこの町を食わせてきた。道も、橋も、祭りの櫓の寄付も、あなただ。……そしてあなたはたぶん、こう考えた。私一人の名前が傷ついたら、会社が傾く。会社が傾いたら、町の者が路頭に迷う。だから、私の名前は何に代えても守らなければならない。……違いますか」
「その通りだ」
高瀬は、深く頷いた。乗せられたのではない。本心からそう信じている顔だった。
「私一人の話じゃないんだ。町の話なんだ」
「ええ。それでね、高瀬さん。二十年前の八月、あなたはその理屈で天秤に載せた。片方に、町とやら、会社とやら、あなたの名前とやら。もう片方に――十六の子どもが一人」
部屋の温度が下がった気がした。
「弁護士さんたちの前ですから、はっきり言っておきます。二十年前の噂の配達も、工事のしくじりの隠蔽も、法律の上では時効というものがある。業務上過失も、名誉毀損も、二十年前のことはもう法廷には持っていけない。あなたはそれをよくご存知だ。だから今日、そんな余裕の顔で座っておられる。……松本さんは別です。あの人は今年、こちらの捜査の証拠を消そうとした。それは二十年前ではなく、今年の罪だ。ですがあなたは、今度はご自分の手を汚さなかった」
「……何が言いたいのかな」
「時効はある。だが、真実に時効はない」
柚木の声は大きくならなかった。大きくならないまま、部屋の隅々まで届いた。
「証拠は揃っています。写真。配管。工事名簿。松本の供述。会社の者の供述。当時の事務員の証言。そして、死んだ子どもが二十年前に土に埋めた手記。……あなたを法廷に立たせることはできない。できないが、我々は捜査の結果を正式に公表します。二十年前の火事は放火ではなく、施工不良のガス漏れによる失火であり、木戸浩太さんは無実で、火中から子どもを救助した人である、と。新聞もテレビも書くでしょう。町の者は、読むでしょう」
高瀬の顔から血の気が引いていくのが、拓海の位置からも見えた。
「あなたの天秤は、高瀬さん、二十年前に狂っていたんです。十六の子ども一人のほうが、あなたの名前よりよほど重かった。そのことが、これから町中に知れる。……あなたを裁くのは裁判所じゃない。あなたが食わせてきたという、その町です」
高瀬は、長いこと黙っていた。
やがて、掠れた声で言った。
「……私は、火をつけろとは言っていない」
「ええ。それも確認済みです。あなたは火をつけろとは言っていない。あなたが言ったのは、『九月に直せ、それまで黙っていろ』。そして火事のあとは、『あの子がやったことにしておけ』。……どちらも火より熱い言葉だと、私は思いますがね」
聴取が終わって、高瀬が弁護士に挟まれて廊下を去っていくとき、その背中は来たときより一回り小さく見えた。
週が明けて、高瀬昭悟は町議の辞職願を出し、高瀬興産の会長職を含む一族の会社の役職のすべてから退くと発表した。理由は「健康上の問題」とされた。誰も信じなかった。
高瀬の退場より先に、町は静かに変わり始めていた。
最初に動いたのは、宮本知也の父だった。組の寄り合いの席で、隅に座らされていたあの男が、閉会の間際に突然立ち上がったのである。
「一つ、言わせてもらう」
寄り合いの部屋が静まった。
「二十年前、俺の倅は七つで、本当のことを言った。木戸の子は僕を助けてくれた人だ、と。俺はその口を塞いだ。この中の何人かは、俺が塞ぐところを見ていた。……倅はこのたび、警察に二十年前と同じことを言った。七つのときと一言も違わないことをだ。俺は今日まで、倅に恥をかかされたと思っていた。逆さまだ。恥は俺のほうだ」
男は、畳に手をついた。
「木戸の子に、詫びのしようがもうない。せめてこの席で言っておく。あの子は人助けをした子だ。俺の倅の命の恩人だ。……今後この組で、あの親子を悪く言う者がいたら、俺が相手になる」
誰も、何も言わなかった。ただ、その晩の帰り道、何人かの男たちが遠回りをして木戸の家の前を通った。誰も戸は叩かなかった。叩かなかったが、通った。二十年間、誰もが避けて通った道を、である。
二番目に動いたのは、あの酒屋の主人だった。
夕方、店を早じまいにして、主人は木戸の家の前に立った。長いこと、玄関の戸を叩けずにいた。やっと叩いて、出てきた初枝に、主人は持ってきた包みを突き出した。ラムネが六本入っていた。
「……昔な、谷村さんがよく、おたくの坊にうちの店でこれを買ってやっていた。現場の帰りに二人で寄ってな。坊は、いつも旨そうに飲んでいた」
主人は、そこで言葉に詰まった。詰まったまま、続けた。
「俺はあの子に、この二十年、ひどいことを思ってきた。今さら詫びて済む話じゃないことはわかっている。……だから、詫びは言わん。その代わり、これを仏さんに。あの子が旨そうに飲んでいた顔を、俺は覚えているんだ。火付けだと思って憎んでいた間も、本当はな、あの顔だけは忘れられなかったんだ」
初枝は、包みを受け取って深く頭を下げた。
「よく、覚えていてくださって」
「……覚えていて、悪かった」
「いいえ」
初枝は、首を振った。
「憎まれるのは、しんどうございました。でもね、忘れられるのは、もっとしんどいんです。あなたは二十年、あの子の顔を忘れないでいてくださった。私には、それで十分です」
主人は何も言えずに帰っていった。その晩、木戸の家の仏壇には、ラムネが一本、開けて供えられた。硝子の中のビー玉が蝋燭の火を映して、小さく光っていた。
矢部も動いた。
かつての教え子が校長を務める小学校へ出向いて、頼んだのだという。二学期の初めに一時間だけ、子どもたちに話をさせてくれ、と。火事の話ではない、と矢部は言った。この町にいた、腕のいい、飯を三杯食う、一人の先輩の話だ、と。噂だけが川の湿気のように残っている町で、それを入れ替えるのは大人の仕事だった。
県警の捜査結果公表は、七月三十一日だった。
新聞の県版の一面に記事が出た。見出しは、こうだった。
――二十年前の城見町倉庫火災、放火ではなく失火。死亡の男性は無実、児童を救助。
公表の日の朝、城丸署長は署の記録室に一人で入った。
持っていったのは、今度の捜査の報告書の写しだった。二十年前の火災調査書の綴りを棚から下ろし、綴じ紐を解いて、『引き続き調査を要する』の一枚の後ろに、新しい書類を丁寧に綴じ込んだ。
途切れていた書類に、二十年遅れの続きが付いた。
城丸は綴じ紐を固く結び直し、綴りの背を掌でひとつ撫でてから棚に戻した。それから、誰もいない記録室で、古い棚に向かって短く頭を下げた。何に対しての礼だったのか、本人にもうまくは言えなかっただろう。ただ、そうすべきだと思ったのだった。
その日の夕方、柚木と拓海は木戸初枝の家にいた。
新聞を届けに行ったのではない。初枝は朝から何度も記事を読み返したという。卓袱台の上の新聞は、畳み皺でもう柔らかくなっていた。
「刑事さん。読んでも読んでも、なんだか夢のようでね」
初枝は、笑おうとして口元だけで失敗した。
「二十年待った知らせなのに、いざ来たら、体のほうが追いつかないんです」
「初枝さん。今日は、もう一つお渡しするものがあります」
柚木は、鞄から一通の封筒を出した。中身は、正式な手続きを経て複製されたあの手記だった。原本は証拠品として保全されているが、鑑定は済んだ。筆跡は浩太の中学の作文と一致した。
「二十年前の八月、浩太さんが河川敷の土の中に埋めていったものです。……宛名は、あなたです」
初枝は、震える手で受け取った。
老眼鏡をかけるのに時間がかかった。読み始めてからは、時間は止まったようだった。
――俺は火をつけていない。それだけは本当だ。
――俺が火付けになったら、母ちゃんが火付けの母ちゃんになってしまうからだ。
――提灯を出しておいてくれたら、それを目印にする。
――母ちゃんの飯が、いちばんうまい。本当だよ。
初枝は、泣かなかった。
読み終えて、手紙を胸に当てて、目を閉じて、長いことそうしていた。それから目を開けて、言った。
「……この子は、本当に、ばかな子です」
声は綻んでいた。
「飯がうまいだなんて、生きているうちに一度も言ったことがないのに。……手紙に書いたら、言ったことになると思って。ばかな子でしょう、刑事さん」
「いい息子さんです」
柚木は、静かに言った。
「二十年前の十六の子どもが、逃げる晩に考えたのは、自分の助かる算段じゃない。あなたを『火付けの母』にしない算段と、いつか帰ってくる目印の算段だ。……そして初枝さん、あなたはその手紙を読まないまま、二十年、提灯を出し続けた。手紙は今日届いたのに、返事のほうが二十年前から先に出ていたんです」
初枝は、その言葉で初めて泣いた。
仏壇の前に手紙を供え、鈴を一つ鳴らして、それから二人に向き直った。
「刑事さん。お願いがあります」
「なんなりと」
「今年の祭り、八月の二日にありますでしょう。……私は二十年、祭りの晩は家で提灯だけ出して閉じこもっていました。火付けの母親が祭りに出てはいけない、と思って。……今年は出てみようか、と思うんです。ついて来てくれ、とは言いません。ただ、出てもいいのだと、誰かに言ってほしいんです」
拓海は、気がついたら口を開いていた。
「出てください。……僕も行きます。非番を取って行きます。祭りは、警察官でなくても行けますから」
初枝は目を丸くして、それから今日一番の顔で笑った。
「では、たこ焼きをご馳走しなければなりませんね」
帰り道、川沿いを歩きながら、柚木が言った。
「三雲。非番、と言ったな」
「言いました。……まずかったですか」
「いや」
柚木は、前を向いたまま少しだけ笑った。
「俺も取る、非番。……祭りは、警察官でなくても行けるからな」
弁護士を二人連れて、高瀬は城見署に現れた。五十代半ば。半白の髪を綺麗に撫でつけ、上等の麻の上着を着て、署の玄関で職員に鷹揚に会釈までしてみせた。最初の晩、役場で二人を迎えたときと寸分違わぬ物腰だった。姿だけ見れば、名士の表敬訪問だった。
取調室に入ったのは、柚木一人だった。拓海は記録係として、隅の机に着いた。
柚木は、まず茶を淹れた。
急須から二つの湯呑みに等分に注いだ。一つを高瀬の前に置き、一つを自分の前に置いた。弁護士たちが怪訝な顔をした。
「どうぞ。署の茶で大したものではありませんが、暑い日はやはり熱いのが効きます」
「……ご丁寧に」
高瀬は、湯呑みに手を付けなかった。
「柚木さん、といったかな。最初に言っておくが、私は何も知らん。松本が勝手にやったことだ。二十年前の配管も、こないだの穴掘りも、全部あの男の一存だ。会社の者が世話になっているのに知らん顔もできないから、こうして足を運んだだけでね」
「ええ、ええ。よくわかります」
柚木は、逆らわなかった。
「まあ、順番に確認だけさせてもらいます。私は確認だけが仕事の男でしてね」
それから二時間、柚木は二十年前の話を一切しなかった。
訊いたのは、町の話だった。高瀬の父親が興した会社の話。それを三十半ばで継いでから広げた事業の話。町議になってから通した道路の話。祭りの寄付の話。高瀬は次第に機嫌よく話した。自分の功績の話は、いくらでも出てきた。この町は私が食わせてきた、という言葉が二時間で三度出た。
三度目のとき、柚木は初めて湯呑みを置いた。
「高瀬さん。あなたの言う通りだ。あなたはこの町を食わせてきた。道も、橋も、祭りの櫓の寄付も、あなただ。……そしてあなたはたぶん、こう考えた。私一人の名前が傷ついたら、会社が傾く。会社が傾いたら、町の者が路頭に迷う。だから、私の名前は何に代えても守らなければならない。……違いますか」
「その通りだ」
高瀬は、深く頷いた。乗せられたのではない。本心からそう信じている顔だった。
「私一人の話じゃないんだ。町の話なんだ」
「ええ。それでね、高瀬さん。二十年前の八月、あなたはその理屈で天秤に載せた。片方に、町とやら、会社とやら、あなたの名前とやら。もう片方に――十六の子どもが一人」
部屋の温度が下がった気がした。
「弁護士さんたちの前ですから、はっきり言っておきます。二十年前の噂の配達も、工事のしくじりの隠蔽も、法律の上では時効というものがある。業務上過失も、名誉毀損も、二十年前のことはもう法廷には持っていけない。あなたはそれをよくご存知だ。だから今日、そんな余裕の顔で座っておられる。……松本さんは別です。あの人は今年、こちらの捜査の証拠を消そうとした。それは二十年前ではなく、今年の罪だ。ですがあなたは、今度はご自分の手を汚さなかった」
「……何が言いたいのかな」
「時効はある。だが、真実に時効はない」
柚木の声は大きくならなかった。大きくならないまま、部屋の隅々まで届いた。
「証拠は揃っています。写真。配管。工事名簿。松本の供述。会社の者の供述。当時の事務員の証言。そして、死んだ子どもが二十年前に土に埋めた手記。……あなたを法廷に立たせることはできない。できないが、我々は捜査の結果を正式に公表します。二十年前の火事は放火ではなく、施工不良のガス漏れによる失火であり、木戸浩太さんは無実で、火中から子どもを救助した人である、と。新聞もテレビも書くでしょう。町の者は、読むでしょう」
高瀬の顔から血の気が引いていくのが、拓海の位置からも見えた。
「あなたの天秤は、高瀬さん、二十年前に狂っていたんです。十六の子ども一人のほうが、あなたの名前よりよほど重かった。そのことが、これから町中に知れる。……あなたを裁くのは裁判所じゃない。あなたが食わせてきたという、その町です」
高瀬は、長いこと黙っていた。
やがて、掠れた声で言った。
「……私は、火をつけろとは言っていない」
「ええ。それも確認済みです。あなたは火をつけろとは言っていない。あなたが言ったのは、『九月に直せ、それまで黙っていろ』。そして火事のあとは、『あの子がやったことにしておけ』。……どちらも火より熱い言葉だと、私は思いますがね」
聴取が終わって、高瀬が弁護士に挟まれて廊下を去っていくとき、その背中は来たときより一回り小さく見えた。
週が明けて、高瀬昭悟は町議の辞職願を出し、高瀬興産の会長職を含む一族の会社の役職のすべてから退くと発表した。理由は「健康上の問題」とされた。誰も信じなかった。
高瀬の退場より先に、町は静かに変わり始めていた。
最初に動いたのは、宮本知也の父だった。組の寄り合いの席で、隅に座らされていたあの男が、閉会の間際に突然立ち上がったのである。
「一つ、言わせてもらう」
寄り合いの部屋が静まった。
「二十年前、俺の倅は七つで、本当のことを言った。木戸の子は僕を助けてくれた人だ、と。俺はその口を塞いだ。この中の何人かは、俺が塞ぐところを見ていた。……倅はこのたび、警察に二十年前と同じことを言った。七つのときと一言も違わないことをだ。俺は今日まで、倅に恥をかかされたと思っていた。逆さまだ。恥は俺のほうだ」
男は、畳に手をついた。
「木戸の子に、詫びのしようがもうない。せめてこの席で言っておく。あの子は人助けをした子だ。俺の倅の命の恩人だ。……今後この組で、あの親子を悪く言う者がいたら、俺が相手になる」
誰も、何も言わなかった。ただ、その晩の帰り道、何人かの男たちが遠回りをして木戸の家の前を通った。誰も戸は叩かなかった。叩かなかったが、通った。二十年間、誰もが避けて通った道を、である。
二番目に動いたのは、あの酒屋の主人だった。
夕方、店を早じまいにして、主人は木戸の家の前に立った。長いこと、玄関の戸を叩けずにいた。やっと叩いて、出てきた初枝に、主人は持ってきた包みを突き出した。ラムネが六本入っていた。
「……昔な、谷村さんがよく、おたくの坊にうちの店でこれを買ってやっていた。現場の帰りに二人で寄ってな。坊は、いつも旨そうに飲んでいた」
主人は、そこで言葉に詰まった。詰まったまま、続けた。
「俺はあの子に、この二十年、ひどいことを思ってきた。今さら詫びて済む話じゃないことはわかっている。……だから、詫びは言わん。その代わり、これを仏さんに。あの子が旨そうに飲んでいた顔を、俺は覚えているんだ。火付けだと思って憎んでいた間も、本当はな、あの顔だけは忘れられなかったんだ」
初枝は、包みを受け取って深く頭を下げた。
「よく、覚えていてくださって」
「……覚えていて、悪かった」
「いいえ」
初枝は、首を振った。
「憎まれるのは、しんどうございました。でもね、忘れられるのは、もっとしんどいんです。あなたは二十年、あの子の顔を忘れないでいてくださった。私には、それで十分です」
主人は何も言えずに帰っていった。その晩、木戸の家の仏壇には、ラムネが一本、開けて供えられた。硝子の中のビー玉が蝋燭の火を映して、小さく光っていた。
矢部も動いた。
かつての教え子が校長を務める小学校へ出向いて、頼んだのだという。二学期の初めに一時間だけ、子どもたちに話をさせてくれ、と。火事の話ではない、と矢部は言った。この町にいた、腕のいい、飯を三杯食う、一人の先輩の話だ、と。噂だけが川の湿気のように残っている町で、それを入れ替えるのは大人の仕事だった。
県警の捜査結果公表は、七月三十一日だった。
新聞の県版の一面に記事が出た。見出しは、こうだった。
――二十年前の城見町倉庫火災、放火ではなく失火。死亡の男性は無実、児童を救助。
公表の日の朝、城丸署長は署の記録室に一人で入った。
持っていったのは、今度の捜査の報告書の写しだった。二十年前の火災調査書の綴りを棚から下ろし、綴じ紐を解いて、『引き続き調査を要する』の一枚の後ろに、新しい書類を丁寧に綴じ込んだ。
途切れていた書類に、二十年遅れの続きが付いた。
城丸は綴じ紐を固く結び直し、綴りの背を掌でひとつ撫でてから棚に戻した。それから、誰もいない記録室で、古い棚に向かって短く頭を下げた。何に対しての礼だったのか、本人にもうまくは言えなかっただろう。ただ、そうすべきだと思ったのだった。
その日の夕方、柚木と拓海は木戸初枝の家にいた。
新聞を届けに行ったのではない。初枝は朝から何度も記事を読み返したという。卓袱台の上の新聞は、畳み皺でもう柔らかくなっていた。
「刑事さん。読んでも読んでも、なんだか夢のようでね」
初枝は、笑おうとして口元だけで失敗した。
「二十年待った知らせなのに、いざ来たら、体のほうが追いつかないんです」
「初枝さん。今日は、もう一つお渡しするものがあります」
柚木は、鞄から一通の封筒を出した。中身は、正式な手続きを経て複製されたあの手記だった。原本は証拠品として保全されているが、鑑定は済んだ。筆跡は浩太の中学の作文と一致した。
「二十年前の八月、浩太さんが河川敷の土の中に埋めていったものです。……宛名は、あなたです」
初枝は、震える手で受け取った。
老眼鏡をかけるのに時間がかかった。読み始めてからは、時間は止まったようだった。
――俺は火をつけていない。それだけは本当だ。
――俺が火付けになったら、母ちゃんが火付けの母ちゃんになってしまうからだ。
――提灯を出しておいてくれたら、それを目印にする。
――母ちゃんの飯が、いちばんうまい。本当だよ。
初枝は、泣かなかった。
読み終えて、手紙を胸に当てて、目を閉じて、長いことそうしていた。それから目を開けて、言った。
「……この子は、本当に、ばかな子です」
声は綻んでいた。
「飯がうまいだなんて、生きているうちに一度も言ったことがないのに。……手紙に書いたら、言ったことになると思って。ばかな子でしょう、刑事さん」
「いい息子さんです」
柚木は、静かに言った。
「二十年前の十六の子どもが、逃げる晩に考えたのは、自分の助かる算段じゃない。あなたを『火付けの母』にしない算段と、いつか帰ってくる目印の算段だ。……そして初枝さん、あなたはその手紙を読まないまま、二十年、提灯を出し続けた。手紙は今日届いたのに、返事のほうが二十年前から先に出ていたんです」
初枝は、その言葉で初めて泣いた。
仏壇の前に手紙を供え、鈴を一つ鳴らして、それから二人に向き直った。
「刑事さん。お願いがあります」
「なんなりと」
「今年の祭り、八月の二日にありますでしょう。……私は二十年、祭りの晩は家で提灯だけ出して閉じこもっていました。火付けの母親が祭りに出てはいけない、と思って。……今年は出てみようか、と思うんです。ついて来てくれ、とは言いません。ただ、出てもいいのだと、誰かに言ってほしいんです」
拓海は、気がついたら口を開いていた。
「出てください。……僕も行きます。非番を取って行きます。祭りは、警察官でなくても行けますから」
初枝は目を丸くして、それから今日一番の顔で笑った。
「では、たこ焼きをご馳走しなければなりませんね」
帰り道、川沿いを歩きながら、柚木が言った。
「三雲。非番、と言ったな」
「言いました。……まずかったですか」
「いや」
柚木は、前を向いたまま少しだけ笑った。
「俺も取る、非番。……祭りは、警察官でなくても行けるからな」