八月の蛍

第一章 母の提灯

 翌朝、二人は木戸初枝の家を訪ねた。町の南の外れ、川沿いの小道を入った、古い平屋の民家だった。竹垣は編み目がほどけ、庭の隅に手入れの行き届いた小さな菜園があった。

 車を停めたとき、柚木はすぐに気づいた。軒先に白い提灯が吊るされている。火は入っていない。だが、提灯の紙は新しかった。古びた家の中で、そこだけが白かった。

「毎年、八月に灯すんだそうです」

 拓海が、助手席から言った。昨夜、河川敷で高瀬から聞いた話だった。

「火事のあった年から、ずっとです。二十年間、一年も欠かさずに」

「何のために」

「あの子が帰る目印だと。……本人がそう言っているのを一度だけ聞いたことがあると、高瀬さんは言っていました」

 柚木はエンジンを切った。拓海は、すでにドアを開けていた。

 玄関の前に立つと、家の中から女の声がした。

「どなたですか」

 引き戸がわずかに開いた。七十を少し過ぎたくらいだろうか。痩せた顔。目が、どこか遠いところを見ているような表情をしていた。

「県警捜査一課の柚木と申します。木戸初枝さんですね」

「……何か」

「昨日、警察から連絡があったと思います。川で見つかった方の、身元の確認のことで」

「ああ……はい」

 初枝は、戸をもう少し開けた。

「浩太のことですか。息子のことですか」

「まだ決まったわけではありません。その確認に伺いました」

 初枝は二人を居間に通した。畳の間に古い座卓。仏壇はなかった。代わりに箪笥の上に、少年の写真が一枚立ててあった。学生服の、痩せた少年だった。写真の前には、水を張った小さな硝子の器が置いてあった。

「お忙しいところすみません。二、三、確認させていただきたいことがあります」

 初枝は座卓の向こうに座り、両膝の上に手を置いた。

「浩太は、二十年前に……」

「ええ。伺いました」

 柚木は静かに言った。

「二十年前の八月にいなくなった。当時十六歳だった、と」

「はい。八月六日の夜です。お祭りの夜。倉庫の火事があった夜です」

「その火事で、人が亡くなった」

「……はい。浩太のせいだと思われています」

 初枝の声は、ほとんど揺れなかった。二十年間、同じ言葉を胸の中で繰り返してきた者の声だった。

「でも、浩太はやっていません。絶対に」

「なぜ、そう言い切れますか」

「だって、あの子は……」

 初枝はそこで動きを止めた。膝の上の手が、ゆっくりと握られた。

「この町の、どこにも居場所のない子でした。父親はいません。私は勤めで朝から晩まで家にいない。あの子はいつも一人で、川のそばにいました。誰からも相手にされない子でした。そういう子が、どうして、みんなが集まるお祭りに火をつけたりするでしょうか」

「それなのに、疑われた」

「はい。火が出たとき、倉庫の中にいたからです」

「なぜ中にいたんです」

「屋台の手伝いです。倉庫の管理をしていた谷村さんという方が、あの子を使ってくださっていたんです。仕事を教えて、飯を食わせて。あの子が生まれて初めて、人に必要だと言ってもらえた場所でした」

 初枝は、そこで先を言わなかった。言えなかったのかもしれない。

「だから火が出たときも中にいた。それで、火をつけたのはあの子だと言われたわけですね」

「はい。そして、明くる朝には、浩太は……逃げました」

 柚木は、初枝の顔をじっと見た。

「誰が逃げろと言ったんです」

「……誰も」

「それはおかしい」

 柚木の声は優しかった。だが、はっきりしていた。

「十六の子どもが、火傷した手で、一人で夜のうちに町を出る。汽車もない山の町をです。誰かが金を持たせ、道を教え、逃げろと言ったはずだ。親か、親の代わりの人間がね」

 初枝は答えなかった。その代わりに、目から涙がこぼれた。拭おうともしなかった。

「奥さん」

 拓海が身を乗り出した。

「浩太さんは、火事のとき一人ではなかったと聞いています。火の中から、誰かを連れて出たと」

 初枝は、膝の上の手を少し持ち上げた。

「……屋台の、子どもです」

「子ども」

「祭りで、屋台を何台か倉庫に入れてあったんです。花火が始まる前で。その屋台の陰に、小さい子が一人入り込んでいた。火が回って、大人は誰も気づかなかった。浩太が飛び込んで、抱えて出ました。そのときに両手を焼いたんです」

 柚木は、拓海と目を合わせた。

「その子の名前は」

「知りません。よその子ですから。ただ……助かった、とだけ聞きました」

「浩太さんは、人の子を助けて、両手を焼いて、そのうえで放火犯にされた。そういうことになりますね」

「はい」

 初枝は、初めて顔を上げた。

「そういう子なんです。刑事さん。そういう子なんです」

 拓海は、さっきから気になっていたことを思い切って訊いた。

「あの、写真の前の器は……水、ですか」

「ああ、これですか」

 初枝は、箪笥の上の小さな硝子の器を見て、少しだけ表情を緩めた。

「あの子はね、水をよく飲む子だったんです。谷村さんの現場から帰ってくると、玄関で靴も脱がないうちに台所へ真っ直ぐ行って、喉をこう、鳴らして。まるで蝉が水を浴びているようだと、笑ったものです。……ですから、切らさないんです。帰ってきたときに水がないと、あの子が困りますから」

 二十年、と拓海は思った。二十年、毎朝この器の水を替え続けた人が、目の前に座っている。仏壇を置かないのも同じ理屈なのだろう。仏壇は、死んだ者のための家具だ。この家には、まだ置く理由がないのだ。

 柚木はしばらく黙っていた。それから、箪笥の上の写真に目をやった。

「いい写真だ」

「中学の入学のときの。……写真は、それ一枚きりです」

「そうですか」

 柚木は立ち上がらなかった。座ったまま、静かに訊いた。

「もう一度だけ確認させてください。逃げろと言った人がいる。あなたはその人の名前を言わない。なぜです」

「……その人に、迷惑がかかるから」

「その人は、悪い人ですか」

 初枝は、強く首を振った。

「いいえ。いいえ。恩のある人です」

「その人は、今もこの町に」

「……もう、おりません」

 それきり、初枝は口を閉ざした。柚木は、それ以上訊かなかった。

 玄関を出るとき、柚木は上がり框で振り返った。

「奥さん。息子さんの歯の治療の記録か、お産をした病院がわかったら教えてください。川で見つかった方が浩太さんかどうか、間違いのないように確認します。それが済むまでは、悲しむのは待っていてください」

「……もう、わかっているんです」

 初枝は、静かに言った。

「母親には、わかるんです。あの晩から、川の音が違うんです」

 上がり框で靴を履く二人の背中に、初枝は遠慮がちに声をかけた。

「刑事さん。あの……確認というのは、いつ頃」

「二、三日で出ます。出たら、夜中でも私が自分で知らせに来ます」

「夜中でも、ですか」

「ええ。こういう知らせは、電話で済ませていいものじゃない。それに、待っている側にとっては、一時間でも早いほうがいい知らせだ。夜中でも来ます」

 初枝は、その言葉に何度も小さく頭を下げた。

 外に出ると、昼になっていた。夏の陽が、白い提灯を透かしていた。

 柚木は、軒先の提灯をもう一度見上げた。

「二十年。毎年八月に、これに火を入れる。子どもが帰る目印だと言って」

「ええ」

「だがな、三雲。俺には、これが目印だけには見えない」

「どういうことですか」

「灯りというのは、待つ側の都合だけで灯すものじゃない。見る側がいて、初めて灯りになる。……あの提灯、紙が新しかっただろう。毎年張り替えているんだ。二十年もな。帰らない子のために、人間はそこまでできるものかな」

 拓海は、提灯を見上げた。

「できる、と思います。母親なら」

「そうかもしれん」

 柚木は車に乗り込んだ。

「だが俺は、もう一つの可能性を確かめたい。――あの提灯が、返事をもらっていた可能性だ」

「返事?」

「二十年間、一方通行の手紙を書き続けられる人間はそういない。どこかで一度でも、届いたという手応えがあったんじゃないか。そう思っただけだ」

 車が走り出す。バックミラーの中で、白い提灯が小さくなっていった。

 帰路の車内で、拓海が口を開いた。

「浩太さんが子どもを救ったのが本当なら、その子が証人になります。今は二十代後半のはずです」

「ああ。探そう。当時の消防と病院の記録に、火傷で運ばれた子どもが残っているはずだ」

「それと、初枝さんの言う『恩のある人』ですが」

「おそらく、谷村幸治だ」

 柚木は前を見たまま言った。

「浩太を使ってくれた倉庫の管理人。火事で死んだ大工。恩があって、もうこの町にいない人間。全部当てはまる」

「でも、死んだ人が、どうやって逃がすんですか」

「そこだ」

 柚木は、ハンドルを握り直した。

「火事で死んだ男が、その晩のうちに少年を逃がすことはできない。とすれば、逃がしたのは別の人間だ。初枝さんは、その別の人間の名前を隠すために、死んだ恩人の影に隠れている。……人が何かを隠すときはな、三雲、たいてい嘘はつかない。本当のことを、順番だけ変えて言うんだ」

 拓海はメモ帳を開いたが、何も書かずに閉じた。書く代わりに、覚えておこうと思った。
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