八月の蛍
第三章 恩人の手
谷村幸治の妻は、今も城見町に住んでいた。谷村美砂子。夫を亡くして、二十年になる。その後は夫の兄弟が営む建設会社の事務を長く手伝い、今は隠居していた。
柚木がその家を訪ねたのは、午後二時過ぎだった。造りは新しいが、家の中の空気は、古い悲しみを含んで静まっていた。仏間に通されると、遺影の谷村幸治が、日焼けした顔で笑っていた。
「浩太?」
美砂子は、柚木の問いに眉を寄せ、それから、何かを察した顔になった。
「……川で見つかった人。あれ、あの子ですか」
「その確認をしているところです」
美砂子は静かに立ち上がり、奥へ入った。戻ってきたとき、その手には茶盆があった。古い湯呑みから、ほうじ茶の香りが立った。
「主人が、あの子を連れてきたんです。十二の歳でした」
美砂子は、柚木の前に湯呑みを置いた。柚木は両手で受け取った。
「連れてきた、といいますと」
「冬の晩にね、川の橋の下で、段ボールを敷いて座っていたんです、あの子。母親の初枝さんが夜勤の仕事で、家にいても一人だから、帰らないと。主人が現場帰りに見つけて、放っておけないと言って、うちに連れて帰ってきました。飯を食わせたら、三杯食べました。それから、ちょくちょく来るようになって」
「働かせていた、と聞きました」
「働かせた、というのとは違います」
美砂子は、少しだけ笑った。
「主人が仕事を教えたんです。釘の打ち方、鉋のかけ方、現場の掃除の仕方。あの子は覚えが早くてね。十五になる頃には、若い衆より役に立った。主人は言っていました。浩太は俺の一番弟子だ、いつか手に職をつけさせて、一人前の大工にすると」
美砂子は、そこで立ち上がると、押し入れの天袋から、布に包んだ細長いものを下ろしてきた。
開くと、鉋が一丁出てきた。小ぶりの、使い込まれた鉋だった。刃には薄く油が引かれ、二十年前の道具とは思えないほど手入れされていた。
「主人が、あの子にやった鉋です。十五の誕生日に。一人前の大工は自分の鉋を持つものだ、と言って。……あの子、両手で受け取って、その晩は抱いて寝たそうです。初枝さんが笑って教えてくれました」
「これが、なぜお宅に」
「火事の次の日の朝です。うちの勝手口に置いてあったんです。この布に包んで、雨のかからないところに」
美砂子は、鉋の台をそっと撫でた。
「逃げる子が荷物を減らしたかったのだろう、と人は言うかもしれません。でも、私は違うと思います。あの子はね、刑事さん、これを持って逃げたら盗んだことになると思ったんです。おっちゃんにもらった鉋なのに、です。火付けの疑いをかけられた子が、疑いの上に、盗みの疑いまで重ねたくなかった。……そういう子なんです。そして、たぶん、いつか」
美砂子は、言葉を切って、しばらく黙った。
「いつか帰ってきて、取りに来るつもりだったのだと思って。……二十年、油だけ引き続けてきました。刃が錆びていたら、取りに来たときに、あの子が悲しむでしょうから」
拓海は、鉋から目が離せなかった。取りに来るはずだった手は、もう来ない。それでも刃は、今夜も油の下で光っている。
拓海は、メモを取る手を止めていた。
「火事の晩のことを、聞かせてもらえますか」
美砂子の顔から、笑みが消えた。
「主人はあの晩、倉庫の番でした。祭りの備品と、屋台のプロパンのボンベが入っていましたから。浩太も手伝いで一緒でした。……火が出て、主人は逃げませんでした。ボンベに火が回ったら、河川敷にいる人がみんな危ない。だから、ボンベを外へ転がして出そうとして、逃げ遅れたんです」
「そのとき、浩太さんは」
「屋台の陰の子どもに気づいて、飛び込んだんです。主人が、行け、と言ったそうです。子どもを連れて先に出ろ、と。……それが最後の言葉です」
美砂子は、袂で目元を押さえた。柚木は茶を一口飲み、湯呑みを置いて、待った。
「そのあとのことを、聞かなければなりません」
やがて、柚木は静かに言った。
「浩太さんは、なぜ逃げたんです。誰が逃がしたんです」
美砂子は、長いこと黙っていた。
「……火事の晩のうちに、うちへ来た人がいます」
「誰です」
「高瀬さんです」
その名前が、仏間に落ちた。
「高瀬さんは、言いました。『まずいことになった。倉庫の工事のことを調べられたら、谷村さんの管理責任も問われる。死んだ人間の責任問題になったら、奥さん、補償も見舞金も一円も出なくなる』……主人が死んだ晩ですよ。まだ、体も戻ってきていない晩に」
「それで」
「『浩太が疑われている。あの子がいたら話がややこしくなる。しばらく町の外へやったほうがいい。それが谷村さんのためだ』と。……私は頭が真っ白で、何も考えられなかった。気がついたら、頷いていました」
「浩太さんには、誰が伝えたんです」
「私です」
美砂子の声が、初めて崩れた。
「私が、あの子に言ったんです。火傷した手に包帯を巻いてやりながら。『浩太、あんたがいたら、おっちゃんの責任にされてしまう。おっちゃんの名前を守るために、しばらく、いなくなって』と。……あの子は、泣きもせずに、はい、と言いました。はい、わかりました、おばさん、と。それだけ言って、頭を下げて」
美砂子は、両手で顔を覆った。
「次の朝には、いなくなっていました。それきりです。それきり、二十年」
柚木は、何も言わなかった。湯呑みの茶が冷めていくのを、そのままにしていた。
「刑事さん」
やがて美砂子は、顔を上げた。
「私はあの子に、死ねと言ったのと同じことをしたんです。十六の子に、罪を着て消えてくれと。……主人が生きていたら、私を殴っただろうと思います。あの人はあの子を、息子だと思っていましたから」
「あなたを騙した人間がいる」
柚木は、静かに言った。
「あなたは、ご主人の名前を守りたかっただけだ。その気持ちに付け込んで、絵を描いた人間が別にいる。私はそれを確認しに来たんです」
「高瀬さんは、そのあとも来ました」
美砂子は言った。
「『あの晩のことは誰にも言うな』『言えば、谷村の管理責任の話を蒸し返すことになる』と、何年かおきに釘を刺しに。……娘にも言われました。お母さん、うちは高瀬さんの会社の下請けで食べているんだから、と。だから二十年、黙っていました」
「工事のことは、何か知っていますか。倉庫の改修の」
「主人が怒っていたのは覚えています。火事の何日か前です。『あの工事は駄目だ。配管がなっていない。ガスの臭いがすると何度言っても、業者が取り合わない』と。役場に文句を言う、と言っていました」
「言ったんですか」
「わかりません。その前に、火事が来ましたから」
柚木と拓海は、顔を見合わせた。漏電、という当時の結論の下に、もう一段深い謎が見えた気がした。
辞去するとき、美砂子は玄関まで送りに出て、思い出したように言った。
「刑事さん。一つだけ、言っておきたいことがあります」
「なんです」
「五年ほど前から、毎年八月に、主人の墓に花が上がるんです。誰が供えるのかわからない花が。仏花ではなくて、川原に咲く花を束ねたものです。……私、去年、墓の掃除のときに思ったんです。ああ、これ、あの子ではないだろうか、と」
柚木は、ゆっくりと頷いた。
「たぶん、当たっています」
美砂子は、口元を押さえて、その場に立ち尽くした。
門を出たところで、拓海は一度だけ振り返った。
美砂子は、まだ玄関先に立っていた。両手を前で重ね、深く腰を折ったまま、頭を上げなかった。車が角を曲がるまで、その姿勢のままだった。
誰に対しての礼なのか、拓海は考えた。刑事にか。二十年目にようやく話を聞きに来た世間にか。それとも、話を聞かれることでやっと詫びる場所を与えられた、自分自身の二十年にか。
たぶん、全部だ、と思った。
帰りの車の中で、拓海は長いこと黙っていた。
「整理します」
やがて、口を開いた。
「浩太さんは、恩人の谷村さんの名誉を守るために、罪を着て逃げた。逃がしたのは美砂子さん。でも、その筋書きを描いたのは高瀬。目的は、工事の手抜きの隠蔽と、保険金」
「筋は、そう見えるな」
「見える、というのは」
「まだ確認していない、ということだ」
柚木は前を向いたまま言った。
「高瀬が悪党だという筋は、綺麗すぎるくらい綺麗に通っている。綺麗に通っている筋ほど、疑って確認しなければならない。人間の二十年は、一本の筋で語れるほど単純じゃないからな」
「はい」
「それとな、三雲。俺が今日、一番ひっかかっているのは高瀬のことじゃない」
「なんですか」
「浩太だ」
柚木は、川沿いの道でスピードを落とした。
「十六の子どもが、恩人のためだと言われて、はい、と頭を下げて消える。そこまでは、まだわかる。子どもは大人の言うことを信じるものだ。だがな、その子が三十六になるまで、二十年間、一度も戻らず、名前まで捨てて隠れ続けた。……恩義だけで、人間はそこまで続けられるものかな」
「続けられない、と思いますか」
「わからん。わからんから確認するんだ」
柚木は、少しだけ窓を開けた。川の音が入ってきた。
「二十年の沈黙には、恩義のほかにまだ何かある。それが何かわかったときに、この事件は本当の顔を見せる。俺はそう思っている」
柚木がその家を訪ねたのは、午後二時過ぎだった。造りは新しいが、家の中の空気は、古い悲しみを含んで静まっていた。仏間に通されると、遺影の谷村幸治が、日焼けした顔で笑っていた。
「浩太?」
美砂子は、柚木の問いに眉を寄せ、それから、何かを察した顔になった。
「……川で見つかった人。あれ、あの子ですか」
「その確認をしているところです」
美砂子は静かに立ち上がり、奥へ入った。戻ってきたとき、その手には茶盆があった。古い湯呑みから、ほうじ茶の香りが立った。
「主人が、あの子を連れてきたんです。十二の歳でした」
美砂子は、柚木の前に湯呑みを置いた。柚木は両手で受け取った。
「連れてきた、といいますと」
「冬の晩にね、川の橋の下で、段ボールを敷いて座っていたんです、あの子。母親の初枝さんが夜勤の仕事で、家にいても一人だから、帰らないと。主人が現場帰りに見つけて、放っておけないと言って、うちに連れて帰ってきました。飯を食わせたら、三杯食べました。それから、ちょくちょく来るようになって」
「働かせていた、と聞きました」
「働かせた、というのとは違います」
美砂子は、少しだけ笑った。
「主人が仕事を教えたんです。釘の打ち方、鉋のかけ方、現場の掃除の仕方。あの子は覚えが早くてね。十五になる頃には、若い衆より役に立った。主人は言っていました。浩太は俺の一番弟子だ、いつか手に職をつけさせて、一人前の大工にすると」
美砂子は、そこで立ち上がると、押し入れの天袋から、布に包んだ細長いものを下ろしてきた。
開くと、鉋が一丁出てきた。小ぶりの、使い込まれた鉋だった。刃には薄く油が引かれ、二十年前の道具とは思えないほど手入れされていた。
「主人が、あの子にやった鉋です。十五の誕生日に。一人前の大工は自分の鉋を持つものだ、と言って。……あの子、両手で受け取って、その晩は抱いて寝たそうです。初枝さんが笑って教えてくれました」
「これが、なぜお宅に」
「火事の次の日の朝です。うちの勝手口に置いてあったんです。この布に包んで、雨のかからないところに」
美砂子は、鉋の台をそっと撫でた。
「逃げる子が荷物を減らしたかったのだろう、と人は言うかもしれません。でも、私は違うと思います。あの子はね、刑事さん、これを持って逃げたら盗んだことになると思ったんです。おっちゃんにもらった鉋なのに、です。火付けの疑いをかけられた子が、疑いの上に、盗みの疑いまで重ねたくなかった。……そういう子なんです。そして、たぶん、いつか」
美砂子は、言葉を切って、しばらく黙った。
「いつか帰ってきて、取りに来るつもりだったのだと思って。……二十年、油だけ引き続けてきました。刃が錆びていたら、取りに来たときに、あの子が悲しむでしょうから」
拓海は、鉋から目が離せなかった。取りに来るはずだった手は、もう来ない。それでも刃は、今夜も油の下で光っている。
拓海は、メモを取る手を止めていた。
「火事の晩のことを、聞かせてもらえますか」
美砂子の顔から、笑みが消えた。
「主人はあの晩、倉庫の番でした。祭りの備品と、屋台のプロパンのボンベが入っていましたから。浩太も手伝いで一緒でした。……火が出て、主人は逃げませんでした。ボンベに火が回ったら、河川敷にいる人がみんな危ない。だから、ボンベを外へ転がして出そうとして、逃げ遅れたんです」
「そのとき、浩太さんは」
「屋台の陰の子どもに気づいて、飛び込んだんです。主人が、行け、と言ったそうです。子どもを連れて先に出ろ、と。……それが最後の言葉です」
美砂子は、袂で目元を押さえた。柚木は茶を一口飲み、湯呑みを置いて、待った。
「そのあとのことを、聞かなければなりません」
やがて、柚木は静かに言った。
「浩太さんは、なぜ逃げたんです。誰が逃がしたんです」
美砂子は、長いこと黙っていた。
「……火事の晩のうちに、うちへ来た人がいます」
「誰です」
「高瀬さんです」
その名前が、仏間に落ちた。
「高瀬さんは、言いました。『まずいことになった。倉庫の工事のことを調べられたら、谷村さんの管理責任も問われる。死んだ人間の責任問題になったら、奥さん、補償も見舞金も一円も出なくなる』……主人が死んだ晩ですよ。まだ、体も戻ってきていない晩に」
「それで」
「『浩太が疑われている。あの子がいたら話がややこしくなる。しばらく町の外へやったほうがいい。それが谷村さんのためだ』と。……私は頭が真っ白で、何も考えられなかった。気がついたら、頷いていました」
「浩太さんには、誰が伝えたんです」
「私です」
美砂子の声が、初めて崩れた。
「私が、あの子に言ったんです。火傷した手に包帯を巻いてやりながら。『浩太、あんたがいたら、おっちゃんの責任にされてしまう。おっちゃんの名前を守るために、しばらく、いなくなって』と。……あの子は、泣きもせずに、はい、と言いました。はい、わかりました、おばさん、と。それだけ言って、頭を下げて」
美砂子は、両手で顔を覆った。
「次の朝には、いなくなっていました。それきりです。それきり、二十年」
柚木は、何も言わなかった。湯呑みの茶が冷めていくのを、そのままにしていた。
「刑事さん」
やがて美砂子は、顔を上げた。
「私はあの子に、死ねと言ったのと同じことをしたんです。十六の子に、罪を着て消えてくれと。……主人が生きていたら、私を殴っただろうと思います。あの人はあの子を、息子だと思っていましたから」
「あなたを騙した人間がいる」
柚木は、静かに言った。
「あなたは、ご主人の名前を守りたかっただけだ。その気持ちに付け込んで、絵を描いた人間が別にいる。私はそれを確認しに来たんです」
「高瀬さんは、そのあとも来ました」
美砂子は言った。
「『あの晩のことは誰にも言うな』『言えば、谷村の管理責任の話を蒸し返すことになる』と、何年かおきに釘を刺しに。……娘にも言われました。お母さん、うちは高瀬さんの会社の下請けで食べているんだから、と。だから二十年、黙っていました」
「工事のことは、何か知っていますか。倉庫の改修の」
「主人が怒っていたのは覚えています。火事の何日か前です。『あの工事は駄目だ。配管がなっていない。ガスの臭いがすると何度言っても、業者が取り合わない』と。役場に文句を言う、と言っていました」
「言ったんですか」
「わかりません。その前に、火事が来ましたから」
柚木と拓海は、顔を見合わせた。漏電、という当時の結論の下に、もう一段深い謎が見えた気がした。
辞去するとき、美砂子は玄関まで送りに出て、思い出したように言った。
「刑事さん。一つだけ、言っておきたいことがあります」
「なんです」
「五年ほど前から、毎年八月に、主人の墓に花が上がるんです。誰が供えるのかわからない花が。仏花ではなくて、川原に咲く花を束ねたものです。……私、去年、墓の掃除のときに思ったんです。ああ、これ、あの子ではないだろうか、と」
柚木は、ゆっくりと頷いた。
「たぶん、当たっています」
美砂子は、口元を押さえて、その場に立ち尽くした。
門を出たところで、拓海は一度だけ振り返った。
美砂子は、まだ玄関先に立っていた。両手を前で重ね、深く腰を折ったまま、頭を上げなかった。車が角を曲がるまで、その姿勢のままだった。
誰に対しての礼なのか、拓海は考えた。刑事にか。二十年目にようやく話を聞きに来た世間にか。それとも、話を聞かれることでやっと詫びる場所を与えられた、自分自身の二十年にか。
たぶん、全部だ、と思った。
帰りの車の中で、拓海は長いこと黙っていた。
「整理します」
やがて、口を開いた。
「浩太さんは、恩人の谷村さんの名誉を守るために、罪を着て逃げた。逃がしたのは美砂子さん。でも、その筋書きを描いたのは高瀬。目的は、工事の手抜きの隠蔽と、保険金」
「筋は、そう見えるな」
「見える、というのは」
「まだ確認していない、ということだ」
柚木は前を向いたまま言った。
「高瀬が悪党だという筋は、綺麗すぎるくらい綺麗に通っている。綺麗に通っている筋ほど、疑って確認しなければならない。人間の二十年は、一本の筋で語れるほど単純じゃないからな」
「はい」
「それとな、三雲。俺が今日、一番ひっかかっているのは高瀬のことじゃない」
「なんですか」
「浩太だ」
柚木は、川沿いの道でスピードを落とした。
「十六の子どもが、恩人のためだと言われて、はい、と頭を下げて消える。そこまでは、まだわかる。子どもは大人の言うことを信じるものだ。だがな、その子が三十六になるまで、二十年間、一度も戻らず、名前まで捨てて隠れ続けた。……恩義だけで、人間はそこまで続けられるものかな」
「続けられない、と思いますか」
「わからん。わからんから確認するんだ」
柚木は、少しだけ窓を開けた。川の音が入ってきた。
「二十年の沈黙には、恩義のほかにまだ何かある。それが何かわかったときに、この事件は本当の顔を見せる。俺はそう思っている」