覆水盆に返り、鐘鳴り響く
◆
そりゃあ僕は機転もきかないし、容姿も凡庸で彼女の目を惹けるわけでもないが、自分なりにやれることはやってるつもりなんだけどなあ。た、足りないモノを教えてほしい!
「──それでは次のお茶会は七日後にいたしましょう。同じ時、同じ場所で。それでよろしいでしょうか」
「あ、ああ……」
淡々と言ってくる婚約者──ミリアが僕との時間をこれっぽっちも楽しく思っていないことくらいはその顔つき、声色、まあ総合的な雰囲気で大体察していた。まあそんなのは見れば分かるよね。ずーんとなってるもの。雰囲気が。音さえも聴こえそうだ。
でも仕方ない部分もある。僕は彼女の話にろくについていけないのだから。
ミリアは一礼して中庭から出ていった。侍女が日傘を差しかけ、二人の背が薔薇の生垣の向こうに隠れるまで僕は冷めた茶を前に座っていた。
こういったお茶会は政略結婚と言えども情が全くないのとあるのとでは雲泥の差であるため、なるべく多く一緒の時間を取り、相互理解を深める──という名目で行われるのだが今回のお茶会も言うまでもなく失敗である。
そう、僕とミリアは相性が悪い。
性格がどうこうというより、なんというか土台が違う気がするのだ。分かりやすく言えば、ミリアは高貴で僕は俗である。彼女は詩歌を佳く好み、観劇も頻繁に観に行ったりしているようだ。そしてそういった芸術から多くの──う~ん、言葉にできないなにか? を受け取ることが出来るようなのだが……これがさっぱり僕にはわからない。
僕は自分で言うのもなんだが無趣味だし、無個性である。ああでも政治は好きかも。どこどこの派閥の誰と誰が実は水面下では反目しあっていて~みたいな話が好きなのだ。ただまあそういう話を女性が好まないことくらいは知ってるから、彼女に話したことはないけれど。政治、クァーリケット、宗教の話はトラブルの種になるからね。
しかし僕ら話合わないね、はいおしまい──とはいかないのだ。だって僕らはこれから数十年に渡って共に生きていくのだし、だったら少しでも仲良くなれたほうが良いに決まってる。少なくとも今みたいにギスギスとまではいかないにせよ、白けた空気のまま共になんて過ごしたくはない。
え?
そもそも婚約しなければいいって?
それは無理な相談だ。
僕はこれでも王太子でミリアは御覧の通り公爵令嬢で──つまりは王家と公爵家の政略結婚なんだから個人の意思でどうこうなる問題ではない。もし破談となれば両家に相応の損失が発生してしまうし、その理由が個人的な感情なんて許されるはずがない。
だから僕はミリアとは仲良くなりたいんだ、できればね。
そして仲良くなるために必要なのはまずは会話だ。それが第一歩であることは言うまでもない。
となれば、必然的に僕が彼女に話を合わせる必要があるのだが──うーむ、これがなかなか難しい! 彼女と同レベルとまではいかないまでも少しでも興味を引けるくらいまでは話せるようになりたいのだけど、詩歌だのなんだのってあれは知識云々で語るものじゃなくて、どちらかといえば感性が問われるジャンルじゃないだろうか?
僕はその辺の能力に著しく欠けているみたいで見たものをみたようにしか捉えられないんだよね。
ただ、だからといって何もしないわけではなかった。
前の晩、詩集を一冊読んだんだ。彼女が以前好きだと言っていたレーヴェンという詩人のものだ。夜中までかかって最後の頁までめくり、今日のお茶会では茶が注がれるのを待ってから満を持して話を振った。
「レーヴェンの『冬の庭』、読んだよ。あれは……その、寒そうだね」
ミリアはほんの少しだけ首を傾けた。
反応はといえばそれきりである。
いや、分かっている。寒そうだね、はない。口に出した瞬間に僕自身がそう思った。ただ、読み終えて胸に残ったのが本当にそれだけだったのだから仕方がないじゃないか。雪の庭に枯れた噴水がある。誰もいない。寒そうだろ? ミリアはあの中にもっと別のものを見ているらしいのだが僕の目には最後の一行まで映らなかった。馬鹿正直に言わずに適当にそれっぽいことを言う手もあったんだが付け焼刃のそれっぽい感想なんてミリアが見抜けないわけがないと思って考え直した。まあ結果は御覧の有様だけど!
詩が駄目なら劇だ、と次の手を考えた。とはいえ劇というものはどうやら流行物のようで、今ミリアが何を観ているかくらいはおさえておかねばならないだろう。
だから僕は侍従のオットーに相談をすることにした。
・
・
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「芝居、ですか」
城へ戻って切り出すと、侍従のオットーは僕の顔をしげしげと眺めた。主人をそういう目で見る侍従もどうかと思うが僕の考えていることはだいたい当ててくる男だ。
「ミリア様が近ごろ通っておられるのは王立劇場の『白鳥の娘』でしょう。……殿下、あれは三幕ありますよ」
「らしいな」
「去年の祝典劇では一幕目のうちに船を漕いでおられましたが」
「あれは祝典劇だから退屈だったんだよ。今度はちゃんと観ようじゃないか」
結論から言えば、今度は寝なかった。
寝なかったどころか、身を乗り出した場面さえある。二幕目の決闘だ。悪役のアルノルトが主人公に斬りかかるところで、僕はどういうわけか盤面を見るような気分になってしまった。右に回りこむ。相手が受ける。そこでほんのわずかに待てば──待たずに踏み込んだから負けたのだ。少なくとも技量ではアルノルトが主人公を上回っていたのだから。主人公が上回っていたのは単純な膂力だが、剣と剣の勝負というものは膂力だけで決まるものではない。
惜しい。実に惜しい。
三幕目の湖の場面で周りの席からすすり泣きが聞こえていたが、僕はまだアルノルトの足さばきのことを考えていた。
観劇で得たもの?
ないよそんなの。しいて言えば正義と悪の衝突とは結局のところ当人同士の正義の衝突にすぎないのだ──みたいなことを学んだ。アルノルト、あんまり悪い奴には見えなかったなあ。大体、主人公が鈍感すぎて、アルノルトの妹の気持ちにこれっぽっちも気づかなかったのが原因では? まあそれで別の令嬢とくっついて、ショックで自裁してしまう令嬢も令嬢なのだが。
思う所があるなら、口に出して言わないとだめだろ。
◆
そうして七日後。同じ時、同じ場所。
「『白鳥の娘』を観たんだ」
カップを持ち上げかけたミリアの手が止まった。たったそれだけのことで僕は少し嬉しくなってしまった。
「二幕目の決闘が良かった。アルノルトの、悪役のほうの。あれは最初の踏み込みをもう半歩遅らせていれば勝ってたと思うんだよ。脚本の都合で負けたんだろうけど」
ミリアは僕を見ていた。何か言うのかと待ったけれど、彼女はカップを受け皿に戻しただけだった。
「……殿下はあの場面をそうご覧になったのですね」
「うん。あ、いや、他のところもちゃんと観たよ。最後の、湖の」
「はい」
「泣いてる人が多かった」
言ってから、それが劇の感想ではなく客席の感想だと気がついた。
ミリアは目を伏せた。口元が少し動いたようにも見えたがすぐに扇を広げられてしまったので確かめようがない。
「それでは次のお茶会は七日後にいたしましょう」
だよね……。
◆
努力はしているつもりなのだが報われない。しかし感性を鍛えるというのはどうすればいいのだろうなあ──そんな風に悩みつつも僕は王立学園での日々を送っていた。
勿論毎週お茶会はやってるわけだが少しもこれっぽっちも全然距離が縮まった感じがしない。天気の話とか暑いとか寒いとか、意味があるのかないのか良く分からない話しかした覚えがない。
ああ、でも一度だけミリアに「殿下のご趣味は何でしょうか」と尋ねられたことがある。あれには少し困ってしまったな。だって僕は本当に趣味がないのだ。王太子教育の一環で色んなことに手を出してはいるけど、「出来ること」と「興味があること」は違う気がするし。
そんなこんなで口ごもっていると、軽くため息をつかれてしまって──あとはまあお察しである。
でもそんな億劫な日々はある日、シィラという赤毛の男爵令嬢によって終わりを迎えた。
◆
シィラ・イラ・フォルケス男爵令嬢は何と言うか、ミリアとは真逆の子だった。やたらと活発でやたらと気やすくて、やたらと距離が近い。
最初に声をかけられたのは学園の図書室だった。私語厳禁のはずの場所で彼女は僕の背中越しにひょいと首を突き出してきたのだ。
「でーんか。何読んでるんですかぁ」
近い。肩口のあたりに何か柔らかいものが当たっている気がするけれど、気のせいということにした。王太子教育でこういう場合の対処を習った覚えはないが習っていないことを自分で判断できてこその教育だろう。
僕が開いていたのはレーヴェンの二冊目だった。懲りずにね。
「詩集だよ」
「へえー、殿下ってそういうの読むんだ。意外かも」
「読んでるだけだけどね。分かってはいない」
「え、分かんないのに読んでるんですか? なんで?」
ミリアと話を合わせたいから、とはさすがに言えないので「教養」と答えておく。シィラは「きょーよー」と気の抜けた声で繰り返し、僕の手から詩集を抜き取ってめくりはじめた。
数枚で閉じた。
「むり!」
「早いな」
「だってこれ、ずーっと雪降ってるだけじゃないですか。寒そう」
吹き出してしまった。図書室で。司書の爺さんにものすごい目で睨まれて、僕らは揃って首をすくめた。
寒そう。
そうだよな、寒そうだよな!
◆
もちろん僕だって馬鹿じゃない。……いや、機転がきかないのは認めるけど、それとこれとは話が別だ。
婚約者のいる王太子に男爵家の娘がこうも露骨に寄ってくる理由なんて、そう多くはない。本人が王妃の座を夢見ているか、誰かに言い含められているか。
フォルケス男爵家の寄親はたしかグラウベン伯爵でグラウベン伯は去年、河川の通行税をめぐってミリアの実家と派手にやりあっている。王家と公爵家の縁談にひびが入って一番喜ぶのは誰か、という話になれば、まあ候補の一人には入るだろう。こういうことを考えるのは嫌いじゃない。盤面さえ見えれば、次の一手はだいたい読める。
読めたうえで僕は昼休みに中庭のベンチでシィラと並んで座っている。
「殿下、それ一口ちょうだい」
「王太子の昼食をたかる令嬢がいるか?」
「ここにいまーす」
言いながら、もう僕の皿から揚げ菓子をつまんでいる。男爵家の教育方針について一度きちんと問いただしてみたい。
話の中身はといえば、これが本当にどうでもいい。学園長の鬘が今朝ずれていたとか、食堂の豆のスープは火曜だけなぜか美味いとか。剣術の教官が厨房の娘に気があるという話は僕も前から睨んでいたのでそこだけ妙に盛り上がった。
感性は要らない。知識も要らない。僕が何か言えばシィラは笑うか、でなければ全然関係ない話を始める。それがやけに気楽だった。
あと、胸が大きい。これは政治とは何の関係もない話だが関係ないなりに無視できない事実だと思う。
◆
「そういえば殿下って、趣味なんですか?」
ある日の帰り際、シィラがそう訊いてきた。
どこかで聞いた質問である。僕は例によって口ごもった。
「……特にないかなあ」
「えー、ないんだ。じゃあ好きな食べ物は?」
「羊の煮込み」
「しぶっ! おじいちゃんじゃん!」
それで終わりだった。ため息もなければ、気まずい間もない。シィラは僕に趣味がないという話を羊の煮込みより面白くないと判断したらしく、さっさと次へ行ってしまった。
「あっ、でもチェスは好きかもしれない」
口から出てから、自分で少し驚いた。そうか、僕はチェスが好きなのか。
「ちぇす?」
「駒を動かして王様を取るやつ」
「知ってますぅ。ルール知らないけど」
「それは知ってるって言わないんだよ」
「じゃあ教えてくださいよ。殿下が」
シィラはそう言って、にぃっと笑った。これが盤面なら、どう見ても相手の誘いの一手だ。
「いいよ」
即答だった。我ながら。
・
・
・
その晩、オットーが寝室の燭台を替えながら言った。
「殿下。フォルケス嬢の件ですが」
「分かってるよ」
「左様でございますか」
オットーはそれ以上何も言わず、芯を切りそろえてから戸口で一度だけ振り返った。
「次のお茶会は明後日でございます。同じ時、同じ場所で」
◆
無難という言葉が山もなく谷もなく落ちもなく中身もない──というものを指すのであったなら、その日のお茶会も無難に終わったといえる。
予習しておいた二冊目のレーヴェンの詩集の知識は何の役にも立たなかった。一応僕から話は振ってみたんだ。そして僕なりの見解を伝えてはみた。ただ、まあ、無難に終わったよね。
彼女のことが全く、何一つ分からないのが酷くくたびれる。……いや、違うな。違う。本当にくたびれる理由はそれじゃない。多分、彼女が僕に全然興味を持っていないことが分かってしまうのがくたびれる原因なのだろう。
いや、別に興味を持ってほしいと希求しているわけではない。ただ、興味がないとしてもある様に上っ面だけでも見せかけることもしてくれないのか、という想いがあるのだ。
……と、そこまで考えて、我ながら勝手な言い草だなと思った。
上っ面だけでもというなら僕にだってできたのだ。『冬の庭』を読んだあと、それっぽい感想をこしらえることはできた。しなかったのはミリアに見抜かれると思ったからで──つまりあのとき僕は見せかけを差し出すほうがよほど失礼だと、自分で決めていたわけだ。
だったらミリアが見せかけをしないのも同じ理屈かもしれない。少なくとも違うと言い切れる材料は僕の手元にない。
面倒くさいなあ、と思う。
思うけれど、それはミリアが面倒くさいんじゃなくて、この状況が面倒くさいのだ。たぶん。
疲れるものは疲れるし、次のお茶会を思うと肩がちょっと重い。とはいえ、白けた空気のまま数十年なんて御免だと言ったのは僕自身である。言った手前、ここで投げ出すのも格好がつかない。
で、何をするかというと、詩集をもう一冊借りる。
芸がないのは分かってる。ただ、二冊読んで分からなかったものが三冊目で分かる可能性だって、ないわけじゃない。……ないわけじゃない、はずだ。
翌日の放課後に図書室へ行くと、司書の爺さんは僕の顔を見るなり眉をひそめた。今日は一人だよ、と言いたかったが言うとかえって怪しいのでやめておいた。
レーヴェンの棚の前でしばらく迷ってから、思い切って爺さんに訊いてみた。近ごろ令嬢たちが読んでいるものはないか、と。
爺さんはじろりと僕を見上げ、奥の棚から薄い本を一冊抜いてきた。
イルゼ・ノルデンの『明けの鐘』。
「若いお嬢さん方は、たいていこれで一度泣きます」
泣けるかどうかは、読んでみないと分からない。
◆
シィラにチェスを教えるのは思っていたよりずっと骨が折れた。
「なんでこのお馬さん、まっすぐ行かないんですか」
「そういう決まりなんだよ。前に二つ、横に一つ」
「なんだか難しいなあ」
「慣れれば迷わず動かせるさ」
場所は学園の談話室の隅の卓で盤は僕が城の物置から引っぱり出してきた古いやつだ。シィラは駒の動きを教えたそばから忘れる。僧正が斜めにしか進めないことにいちいち腹を立て、城が一直線に盤の端まで走っていくのを見ては「ずるくない?」と口を尖らせる。
「で王様はいちばん偉いのに一歩ずつしか動けないんですか」
「そう」
「取られたら負け?」
「そう」
「えー、じゃあ王様ってお荷物じゃん」
「言い方」
いずれ本物の王になる身としてはなんとも返しにくい。シィラはけらけら笑って、僕の騎士を歩兵で取ろうとした。歩兵は斜め前にしか取れないんだよと言うと、また口を尖らせた。
最初のうち、シィラは卓の向かいに座っていた。それが何度目かから斜向かいになり、近ごろは「盤が逆さだと覚えられないんですぅ」と言って僕の隣に椅子を寄せてくる。頬杖をついて盤を覗きこむと、赤毛の先が僕の袖に触れる。
これが不思議と、嫌じゃない。
しばらく一緒にいて分かってきたのだがシィラは線を踏み越えない。談話室に上級生が入ってくると、何も言わずに椅子を半分ほど引く。大声で笑うくせに教官が廊下を通るときだけはなぜか静かだ。肩が触れるのも袖を引くのも周りに誰もいないときに限られていて、しかも僕がどう反応するか決める前にもう離れている。
そしてミリアの話を一度もしない。
学園中が知っている僕の婚約者のことをあれだけ喋るシィラが一言も口にしない。これはもう、相当気を遣っているのだと思う。
盤の上ではあれほど好き放題に駒を動かすのに盤の外では取り返しのつかない手を一つも指していないのだ。上手いなあ、と素直に感心してしまう。感心している場合じゃないのかもしれないけれど。
「殿下、もしかして私勝てそうですか?」
「僕の女王を勝手に動かさないでくれ。あと全然勝てそうじゃないね。むしろ負けそう……はい、シィラの負け」
僕はそう言いながらチェックメイトをかけ、シィラがぶーぶーいうのを笑って聞いていた。
◆
ミリアとのお茶会は相変わらずである。
今回の話の種は『明けの鐘』だった。レーヴェンと違って筋があるぶん、今度は最後まで寝ずに読めた。
「最後、夢だったっていうのは良かったよ。やり直せるんだから」
ミリアはカップに目を落としたまま、はい、と言った。
「ただ、読んでてずっと思ってたんだけど。あの子、最初から言えばよかったのにね。好きなら好きって」
ミリアが何か言いかけたように見えたが、気のせいか。まあそれから薔薇の話と、晴れが続いていますねという話をした。
ただ、少しだけ妙なことがあった。
茶を飲んでカップを置いたとき、ミリアと目が合ったのだ。彼女はすぐに生垣のほうへ視線を移した。それだけなら別にどうということもないのだが帰り際にもう一度あった。彼女は普段、僕をまともに見ようとしない。昔はそうでもなかったのだけれど……。
「……何か付いてる?」
「いいえ」
ミリアはそう答えて、扇を開いた。
まあ、気のせいかもしれない。
◆
中庭の薔薇が散って、生垣がただの緑になった。
そのあいだにシィラは駒の動きを一通り覚えた。覚えただけで強くはならなかった。騎士のことはいまだに「曲がり馬」と呼ぶ。何度直しても直らないので最近は僕までつられて口にしてしまうことがある。
昼食はいつの間にか揚げ菓子を多めに頼むようになっていた。頼むのは僕だ。どうせシィラが横から取るのだから最初から多めにしておいたほうが早い。それだけの話で深い意味はない。
王太子という立場上、気の置けない相手というのはなかなかできない。向こうが構えるか、こちらが構えるか、たいていはその両方だ。そういう意味でシィラはいつの間にか仲の良い友人みたいな位置に収まっていた。
ミリアとは相変わらずである。
いや、正直に言えば、相変わらずにしているのは僕のほうかもしれない。
先日のお茶会でもまた目が合った。以前の僕なら、何か話しかけていたと思う。何か付いてる? でも寒そうだね、でもいい。そういう間の抜けた一言くらいは出せたはずだ。
先に目を逸らしたのは僕だった。
理由は分かっている。後ろめたいのだ。
婚約者のいる身でほかの令嬢と毎日のように昼を食べ、盤を挟んで笑っている。もちろん越えてはならない線は見極めているつもりだ。二人きりで扉の閉まる部屋には入らないし、手紙もやりとりしない。揚げ菓子を別にすれば、物を贈ったこともない。シィラのほうも相変わらず線の手前でぴたりと止まってくれるから、万が一ということにはならないはずだ。
はずだ、と思う。
それでも──と、頭のどこかで理性が言う。
線を越えていないから問題ない、というのは盤面で言えば「まだ王を取られていないから負けていない」と言っているのと変わらない。形勢の話を何もしていないのだ。
ミリアと仲良くなりたいと言いながら、別の令嬢との距離ばかり縮めている。筋が通らない。誰に言われるまでもなく、僕自身がいちばんよく分かっている。
分かっているなら改めればいいのだがこれがなかなか。
「殿下、今日もやります?」
放課後、談話室の入口でシィラが盤を抱えて待っていた。僕の盤である。いつからか、彼女が持ち歩くようになっていた。
「いいよ」
また即答だった。
◆
歴史の講義で教官が合邦の年を読み上げたときのことだ。
半分眠りながら聞き流していたのだがふと、そういえば僕とミリアはなぜ婚約しているんだっけ、と思った。
いや、政略結婚なのは知っている。王家と公爵家。それはそうだ。ただ、なぜリーヴェンダール家でなければならないのかを僕は順を追って考えたことがなかった。何しろ実に入り組んでいるわけで。
一つ一つ整理してみるか……。
まず川だ。
王都を抜けて海へ出るラウエ川はこの国の荷のおおかたを運んでいる。南の麦も北の材木もあの川に乗らなければ王都には届かない。そしてその中流、川幅が狭まって船が必ず岸に寄らねばならないあたりをまるごと押さえているのがリーヴェンダール家だ。
リーヴェンダールはもともとこの国の貴族ではない。曾祖父の頃まではれっきとした独立の公国で合邦のときの約定で川の通行税を取る権利をそのまま持ち込んだ。王家が口を挟めない税である。グラウベン伯が去年噛みついたのもこれで下流で荷を扱う伯爵家からすれば、自分たちの荷が通るたびに公爵家の懐が温まるのは面白くないに決まっている。税が重いせいで、わざわざ陸路へ荷を回している商人もいると聞く。
もっとも通行税というのは豊作の年と凶作の年とで額がまるで違う。船が減れば税も減る。公爵家の財政状況を鑑みると、やや苦しいと言えるだろう。
厄介なのはここからで、合邦の約定には婚姻のことが一行も書かれていない事だ。
書かれていないのに合邦以来、王家とリーヴェンダールはおおよそ一代おきに縁を結んできた。慣例であって法ではない。だから破っても誰も罰せられない。ただ、破れば全員が意味を深読みするだろう。王家はリーヴェンダールを遠ざけにかかった、と。法なら「法に照らして」と言い逃れもできるが慣例にはそれすらない。
記録を遡ると、王太子が公爵家の娘を娶った代もあれば、王女が公爵家へ降嫁した代もある。縁を結ぶことが肝心なのであって、誰と誰がというところまでは決まっていないらしい。今の代ではそれがたまたま僕とミリアだったというだけの話だ。
次に祖父の即位のこと。
祖父はもともと次男で、王になるはずの人ではなかった。兄にあたる王太子が若くして亡くなり、跡継ぎもなかったので王位が回ってきた。ところが当時、もう一人、王冠に手の届く人物がいたのだ。先代のリーヴェンダール公である。母君が王女で血の近さだけでいえば祖父とそう変わらなかった。
公は何も言わなかった。
名乗りを上げず、祖父の戴冠式では真っ先に膝をついた。それで話は終わったことになっている。ただ、あれで貸し借りなしだと言った者もまた誰もいない。王家はリーヴェンダールに口に出せない借りがあるのだ。
借りがあるのは確かとして、何で返すかは誰も決めていない。王冠に手をかけなかった家の娘を王妃に迎えるのがいちばん角が立たない、と誰かが考えた。僕とミリアの婚約は案外それだけのことなのかもしれない。
それから大聖堂。
この国の王は北のエルムハイム大聖堂で大司教から聖油を受けて、はじめて王になる。その大聖堂が建つ町はリーヴェンダール領で、大司教位の維持費も多くは公爵家が出している。大司教を任じるのは教会であって公爵家ではない。とはいえ、毎年の寄進を誰が出しているか、猊下がお忘れになるとも思えない。戴冠を拒むなんて真似はまずしないだろう。
ついでに言えば、あの大聖堂は北の塔が傾きかけていて、直すには途方もない金がかかるらしい。寄進を続けている公爵家も内心では頭を抱えているんじゃないか、というのは僕の勝手な想像である。
最後に南の諸侯。
グラウベン伯をはじめ南の家々はリーヴェンダールがこれ以上王家に近づくのを嫌っている。王妃の実家になれば、川と大聖堂を押さえた家が今度は宮廷の奥にまで手を伸ばすことになるからだ。実はこれ、王家にとっても怖い。怖いのだが王家はリーヴェンダールを外に置いておくほうがもっと怖いと判断した。身内にしてしまえば、少なくとも刃を向けられる心配は減る。そのかわり南は不満を溜める。溜めた南が勝手に動かないよう、王家は南にもそれなりの餌を撒いている。去年の通行税の揉め事で父上が裁定をわざと長引かせたのもたぶんその一環だ。
要するに僕とミリアの婚約には川と、借りと、聖油と、南の不満とがそれぞれ別々にぶら下がっている。理由が一つならまだ話は簡単なのだが、これが互いにあまり関係のないまま、全部同じところに寄りかかっているのだ。
これは張り詰めた糸で編まれた布のようなもので、一本が破断すれば全体が滅茶苦茶になる種の厄介な問題だ。
だが滅茶苦茶になったとして、どう滅茶苦茶になるのか。
僕は一つ一つ、頭の中の盤上に問題を乗せて考えてみた。
まず公爵家の面子が潰れる。慣例を破られ、先代の借りも返されないまま放り出されるのだからリーヴェンダールが黙って呑むとは思えない。呑まないとして、あの家が真っ先に何をするかは目に見えている。通行税を上げるのだ。約定で認められた権利だから誰にも文句は言えないし、上げた分はそのまま王都の麦の値に乗る。困るのは民だろう。
婚約の証として、王家から公爵家へは北の森の伐採権が渡っている。王家の側から破るなら、あれを返せとはまず言えない。それとは別に詫びの品も積まねばならないだろう。王家の金庫にそんな余裕があるという話はとんと聞かない。
南は南でこれを自分たちの勝ちだと受け取る。グラウベン伯あたりが勢いづいて、次は別の権利に手を伸ばしてくる。父上が撒いてきた餌もそれで意味がなくなる。
国が割れるとまでは言わないが、僕の感覚では次の、いや──その次の代くらいで手が付けられないほどに罅と不和が広がってしまっているように思える。
戴冠はさっき考えたとおりだ。
それから、ミリアである。
王太子との婚約が破れた公爵令嬢に次の縁談がすんなり来るとは限らない。理由が何であれ、世間は「王家に返された娘」という言い方をする。家同士の損はいずれどこかで埋め合わせがつくかもしれない。こればかりはそうもいかない。
……でその全部の真ん中にいるのが僕なわけである。凡庸な僕。
たぶん父上はそれも込みで考えたのだと思う。王が凡庸なら、なおのこと王妃の実家は強いほうがいい。僕がもう少し出来のいい息子だったら、父上は別の家を選んだかもしれない。そう考えると、ちょっとだけ情けない。
え? これだけ考えられるなら凡庸というのは違うんじゃないかって? いや、凡庸なんだよね。僕はなんというか、見えてる事は分かるけど見えてない事はわからないから。貴族が詩歌などを嗜む事が美徳とされているのは、こういった見えないものを見る、感じ取る能力を養うためだと僕は考えている。
何事にも理由はあるのだ。僕はそう、貴族として必要な何かが欠損しているように思える。ただ、他の者より優れている部分もあると思っていて、そういった長所短所をひっくるめて考えれば僕が凡庸であると評されるのは筋が通っている様に思える。
それから、シィラのことを考えた。
彼女の後ろに誰がいるにせよ、その誰かが崩したがっているのはこのうちのどれか一つか二つだ。
講義はとっくに次の章へ進んでいた。教官の声を聞き流しながら、僕はもう一つ、今さらなことに気がついた。
リーヴェンダールの娘がこれを知らないわけがない。
知っていて、あの顔で毎週僕と茶を飲んでいるのだ。つまりミリアはよほど僕とは結婚したくないに違いない。だが状況がその決断を許さない。このどうしようもなさの結実が彼女の僕に対しての無関心さなのだろう。
◆
その晩、寝台に寝転がったまま、頭の中に盤を置いてみた。
白が王家で黒が……いや、この盤は二色では足りない。リーヴェンダール、グラウベン伯と南の家々、大司教。それぞれが自分の駒を持っていて、誰も僕の味方ではないが誰も僕の敵というわけでもない。
僕の手持ちはほとんど一枚きりだ。
次の王、という札。
今の僕には何の権限もない。ただ、いずれ王になる。まだ来ていない時代の約束ができるのはこの国で僕一人なのだ。約束だって、相手が信じてくれれば立派な通貨になる。
まず川から。
公爵家は通行税の上がり下がりに困っている。グラウベン伯は通行税そのものに困っている。だったら王家が税の権利を買い取ればいい。代金は頭金と年払いに分けて、年払いのほうは凶作の年でも額を変えない。上がり下がりの激しい税が毎年決まって入る金に化けるのだから、公爵家にとって悪い話ではない。
頭金を出す余裕は王家の金庫にはないから、いちばん出したがっている者に出させる。グラウベン伯と下流の商人たちだ。ついでに凶作の年に年払いが滞らないよう、積み立ての分も持ってもらう。関所が王家の手に移って税が軽くなるなら、あの連中は喜んで財布を開く。そうなれば伯爵は縁談を崩す理由を半分ほどなくす。シィラの後ろにいるのが本当に伯爵なら、の話だけど。
税を軽くしたからといって上がりが痩せるとは限らない。今は陸路へ逃げている荷が、値が下がれば川へ戻ってくる。戻ってきた分の上がりから公爵家への年払いを引けば、余りが出る。その余りを大聖堂の塔に回す。修繕を王家が引き受ければ公爵家は重荷を一つ下ろせるし、猊下は──まあ、塔を直してくれた相手のことはお忘れにならないだろう。
祖父の代の借りは僕が王になってから返せばいい。ミリアの兄、リーヴェンダールの嫡男に僕の代で宰相府の椅子を約束する。王妃の実家という据わりの悪い立場より、表で国を動かす席のほうがあの家にとってはよほど実がある。ここで例の札を切るわけだ。
慣例は王家とリーヴェンダールが縁を結びさえすれば済むのだった。誰と誰がとは決まっていないし、この代でなければならないとも書いていない。いざとなれば僕には妹がいる。……妹にはあとで額を床にこすりつけておこう。
こうして解くなら、公爵家は損をするどころか実を取ったことになる。実を取った家の娘を返された娘と呼ぶ者はいない。
動かすべき人の顔も浮かぶ。大司教、下流の商人の元締め、グラウベン伯、ミリアの兄。最後に父上。父上は情では動かないが盤面が良くなるなら首を縦に振る人だ。そういうところはたぶん僕と似ている。
並べ終えて、しばらく天井を見ていた。
駒は──足りている。
◆
その日のお茶会も天気の話で終わった。
ミリアの背が生垣の向こうに消えるのを見送りながら、僕は前の晩に並べた駒のことを考えていた。
この婚約を続ける理由は全部盤の上にある。盤の上で片がつくなら、続ける理由もなくなる。
ミリアは僕に興味がない。それはもう何度も確かめた。興味のない相手と数十年、あの白けた茶を飲み続けるのは彼女にとっても気の毒な話だ。公爵家が実を取る形で婚約を解いておけば、ミリアはもっと話の合う誰かと一緒になれる。
詩で泣ける誰かと。
◆
その晩、寝室でオットーに一通り話した。
川のこと、大聖堂の塔のこと、祖父の代の借りのこと。オットーは燭台のそばに立ったまま、口を挟まずに最後まで聞いていた。
「一つ伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「これほど筋の通った話をなぜ今まで誰もなさらなかったのでしょう」
それは僕も考えた。
「父上が言い出せば、それは王家の方針になる。どんな条件をつけたところで王家の側から婚約を解こうと持ちかけた時点で公爵家は遠ざけられたと読むよ。公爵が言い出せば、王家の縁談を公爵家が蹴ったことになるし、グラウベン伯が言えばただの縁談潰しだ。大臣の誰かなら越権で首が飛ぶ。どの口から出ても角が立つんだ」
「殿下の口からなら」
「僕はまだ何者でもないからね」
王太子の言うことには重みがある。ただ、公の力はない。しくじったところで世間知らずの若造が勝手をした、で済む。済ませてもらえる。父上も公爵も知らなかった顔ができるのだ。言い出した者が責めを負わずに引っ込められる話でなければ、誰も最初の一手を指せない。
「それに僕の代の約束は僕にしかできない。父上が宰相府の椅子を約束してもそれは父上の代の話で終わる。公爵家が欲しいのはその先の保証だろ」
「時期もございますね」
「うん。去年の揉め事でグラウベン伯の辛抱も切れかけてるし、塔が傾きだしたのも最近の話だ。少し前なら、誰がやっても乗ってこなかったと思う」
「公爵家はそれで呑みましょうか」
「呑むと思う。川と塔の話はさっきしたとおりだし、それに王妃の実家にならずに済む」
「それは得なのですか」
「川と大聖堂を握った家が王妃まで出したら、南が一斉に睨むよ。父上だって本音では怖がってる。王妃の実家っていうのは宮廷でいちばん高くて、いちばん風当たりの強い席なんだ。関所を手放して、大聖堂の面倒を王家に渡して、そのうえ王妃の実家でもなくなれば、リーヴェンダールを目の敵にする理由がなくなる」
僕は寝台の上で指を折った。
「最後にミリアの縁談を公爵家が自分で選べるようになる。今は王家に先約を取られてるようなものだからね。あれだけの人なら、どこへだって行ける」
オットーは何も言わなかった。
「最後にもう一つ。公爵家の台所が苦しいという噂ですが」
「うん。ああいうのを拾って歩く物好きは僕くらいのものだよ」
「拾ってまいったのは主に私ですが」
……そうだった。
侍従には侍従のつきあいがある。公爵家の厨房にどれだけ肉が入らなくなったかなんて話は僕の耳に入る前にたいていオットーの耳を通っている。
「承知いたしました」
オットーは燭台の芯を切りそろえた。
「河港の元締めとの席は私が設けます。殿下が河港へ足をお運びになれば、それだけで噂になりますので」
◆
元締めとはオットーの伝手で城下の宿の奥座敷で会った。
「関所の税が下がる? 殿下、そりゃ本気の話で」
「本気だよ。ただ、頭金と積み立てはそっちで持ってもらう」
元締めは太い指で卓を叩きながら、しばらく天井を睨んでいた。オットーが先に税の上がり下がりを年ごとに書き出したものを渡してあったらしく、話は思ったより早く進んだ。
「……陸へ回してる荷を川へ戻したら、何年で元が取れるか。勘定させてもらいます」
返事はすぐに来た。
グラウベン伯には僕が会った。こればかりは王太子の顔がいる。下流の商人がもう乗り気だと知ると、伯爵は露骨に顔色を変えた。商人に先を越されて自分だけ乗り遅れるのはあの人がいちばん嫌うことだ。
「して、殿下。リーヴェンダールとの縁談のほうは」
「それも含めての話です」
伯爵はしばらく僕の顔を眺めてから、大きく頷いた。南の金は縁談がなくなる前提でなければ一枚も出てこない。それは最初から分かっていたことだ。婚約を解くことがこの話全体の留め金になっている。
「フォルケス家あたりも少しは息がつけるでしょうね」
帰り際にそう言うと、伯爵の口髭がわずかに動いた。何も返ってはこなかったがそれで十分だった。
大聖堂への手紙はオットーが届けた。塔の修繕について王家は相談に乗る用意がある、とだけ書いたものだ。
「猊下は塔のお話になるとお声が高くなられました」
戻ってきたオットーはそれだけ報告した。返書は僕がこれまで受け取ったどの手紙より丁寧だった。
ミリアの兄君とは学園の剣術場の裏で会った。兄君の従者とオットーが古い知り合いで人目のない刻限を合わせてくれたのだ。
「宰相府、ですか」
「僕の代になったら、ですけど。約束できるのはそれだけです」
「当家としては悪い話ではありません」
兄君はミリアとよく似た目で僕を長いこと見ていた。
「妹のことはどうお考えで」
「彼女にとってもそのほうがいいと思ってます」
兄君は何か言いかけて、やめた。
「……父には私から話しましょう」
◆
妙なことが起きはじめたのはその頃からだ。
「殿下。先日、王宮から父のもとへ使いが参りました」
お茶会の席でミリアのほうから話を切り出したのだ。初めてのことだった。
「ああ、うん。それがどうかしたのかい?」
「わたくしに何かお話しいただけることはございますか」
「いや、まあ政治的な話というか……多分君を退屈させるだけだと思う」
ミリアは少し黙って、それから言った。
「『白鳥の娘』をもう一度観てまいりました」
「え」
「二幕目の、アルノルトの踏み込みを。……殿下の仰るとおり、半歩早うございました」
僕はたぶん、ずいぶん間の抜けた顔をしていたと思う。
「そうか。うん、そうだよね」
嬉しかった。嬉しかったけれど、同時にああ、とも思った。婚約の先行きが怪しくなってきたこの時期に彼女は婚約者としての務めを律儀に果たそうとしているのだ。僕の拙い感想にまで話を合わせて。
真面目な人なんだな、と改めて思った。
次のお茶会では卓の上に盤が置いてあった。
「兄に教わりました。お相手いただけますか」
ミリアは騎士を正しく騎士と呼び、正しく動かした。筋は悪くない。むしろ覚えが早い。ただ、ひたすら守る。駒をほとんど前に出さず、こちらが攻めてくるのをじっと待っている。
「守ってばかりだね」
「攻めるのははしたない気がいたしまして」
笑ってしまった。ミリアも扇の陰で少しだけ笑ったように見えた。
その笑い方に、覚えがある気がした。
ずっと昔、僕もミリアもまだ背丈が生垣に届かなかった頃のことだ。公爵が父上のもとへ参内するたびに、ミリアも一緒についてきた。大人たちが奥で話しているあいだ、僕らはこの中庭に放り出されていた。
遊びといえば、敷石の上に小石を並べる陣取りだった。相手の石を全部取ったら勝ち、というだけの、決まりもあってないようなものだ。僕はいつも攻めた。ミリアはいつも守った。自分の石で壁ばかりこしらえて、いつまでたってもこちらへ出てこない。
「なんで攻めてこないの」
一度そう訊いたことがある。ミリアは膝を抱えたまま、僕の石の列をじっと見ていた。
「だって、攻めたらあなたの石がなくなっちゃうでしょう」
それじゃ勝負にならないよ、と僕は言った。ミリアは、ならなくていい、と言った。
あの頃のミリアはよく笑った。僕が何か言うたびに笑った。噴水の縁にいた蛙を見て、あいつ寒くないのかな、と言ったときなど、笑いすぎてしゃっくりが止まらなくなり、乳母にひどく叱られていた。
いつからだったかは、よく覚えていない。ある時からミリアは中庭に来なくなり、次に顔を合わせたのは宮廷の催しで、彼女は僕を名前ではなく「殿下」と呼んだ。婚約が正式に決まった頃だったと思う。敷石に膝を抱えて座っていた子は、裾を少しも乱さずに礼をするようになっていた。
女の子というのはそういうものらしい、とそのときは思った。今もたぶん、そう思っている。
盤の上では、ミリアの駒がまだ一つも前に出ていなかった。
その晩、オットーにその話をすると、燭台を替える手が止まった。
「ミリア様にはお話しにならないので」
「何を?」
「此度のことを」
「話したら、そのまま公爵家に筒抜けだよ」
「……左様でございますか」
オットーはそれきり何も言わなかった。
その週、シィラは一度も談話室に顔を出さなかった。
◆
父上に話を持っていったのはすべての返事が揃ってからだった。
父上は書類に目を通し、最後の頁で手を止めた。
「宰相府の件はお前の代の話だな」
「はい」
「私が言えば、王家がリーヴェンダールを切ったことになる。お前が言えば、若い者の思いつきで済む」
父上は書類を閉じた。
「済まなかった場合も含めてな。……お前が自分の札を切った。それだけのことだ」
それが了承の意味だと分かるまでに少しかかった。
◆
顔合わせは午後、王宮の西の小広間で行われた。
卓を挟んで父上とリーヴェンダール公が向かい合い、僕とミリアはそれぞれの父の隣についた。窓の外では中庭の生垣が赤茶けはじめている。卓の上には関所の権利の譲り渡し、年ごとの支払い、大聖堂の修繕、宰相府の件が並んでいた。この季節いっぱいかけて集めた返事が全部そこにある。
話はほとんど済んでいた。今日はそれを両家の当主の口から確かめるだけの場だ。
公は書類を一枚ずつめくり、最後の一枚を置いてから僕を見た。
「殿下がここまで手を回されるとは正直、思っておりませんでした」
「皆が乗ってくれたからです。僕は話を聞いて回っただけで」
「話を聞いて回るのがいちばん難しいのです」
公はそう言って、口の端をわずかに上げた。褒められたのだと思う。
「当家にとってもありがたいお話です。王妃の実家という席は外から見るほど座り心地の良いものではございませんので」
「北の森の件はそのまま公爵家に置いておく」
父上が言い、公は黙って頭を下げた。婚約の証として渡した伐採権だ。返せと言わない代わりに詫びの品も積まない。そういう手打ちである。
「慣例の件はどうなる?」
「縁を結ぶ折はいずれまたございましょう。王女殿下もいらっしゃいますし、急ぐ話でもございません。倅が宰相府に上がれば、王家とは嫌でも顔を合わせます。当面はそれで十分かと」
「公には両家の合意によるものとする。嫡男を重く用いるにあたって、縁の形を改めた、とな」
父上がそう言うと、公はもう一度頭を下げた。こういう言い方をしておけば、王家に返された娘、と口にする者は出てこない。
「それと、申し上げておくべきことが一つ」
公はミリアのほうへ目をやった。
「娘からは少々異論も出ました。王家への義理を欠くのではないかと。……よく言い聞かせましたのでご懸念には及びません」
義理か。律儀な人だ。
父上は頷き、ミリアのほうへ顔を向けた。
「ミリア嬢。何か申し述べておきたいことはあるか」
ミリアはすぐには答えなかった。
膝の上で閉じた扇を両手で持っている。
「……わたくしは」
声はいつもと同じだった。淡々として、よく通る。
「わたくしはこの婚約に不足を感じたことは一度もございません」
公が小さく頷いた。
「このとおりでございます」
父上も頷いた。僕もそうだろうな、と思った。不足を感じたことがない。それはそうだ。最初から何も期待していなければ、不足も何もない。最後の最後まで王家の顔を立ててくれている。
「殿下は」
ミリアがこちらを向いた。
僕本人を見ていた。
「殿下はそれでよろしいのですか」
どう答えるか、少し考えた。考えて、正直に言うことにした。『冬の庭』のときと同じだ。それっぽい言葉なら並べられる。ただ、ミリアに見抜けないわけがない。
「うん。君にとってもそのほうがいいと思うんだ」
ミリアは何も言わなかった。
扇を持つ手の、指の節が白くなっていた。握り直したのかと思ったが扇は閉じたままだった。
「……左様でございますか」
父上が「ではそのように」と言い、公が羽根ペンを取った。紙の上をペン先が走る音がして、それで終わりだった。
ミリアは立ち上がり、父上と僕に向かって礼をした。非の打ちどころのない礼だった。
「それでは次の──」
言いかけて、ミリアは口を閉じ、そして。
「……いえ、失礼いたします」
そう言って部屋を出ていった。
公がそのあとに続き、扉が閉まる。
広間には父上と僕が残った。父上は署名の済んだ書類を揃えながら、こちらを見ずに言った。
「見事だった」
父上に褒められたのは生まれて初めてだったと思う。
◆
シィラが談話室に戻ってきたのは、顔合わせから何日か経った放課後だった。
盤を小脇に抱えて、戸口のところに立っていた。
「……しばらく借りっぱなしでした」
「持っててくれてよかったのに」
「えー、でも殿下の盤ですし」
シィラは卓に盤を置いて、向かいの椅子に座った。隣ではなく、向かいに。
「実家に呼ばれてたんです。なんか港に船が戻ってきたとかで、父がもう、泣いちゃって泣いちゃって」
「それは良かった」
「良かったです。……殿下ですよね、あれ」
僕は答えなかった。答えなかったのが答えになったらしく、シィラは「ですよねー」と言って笑った。
「あ、ついでだから言っちゃいますけど。わたし、伯爵様に言われて殿下に近づいたんですよ」
「知ってた」
「ですよねー」
シィラはまた笑った。それから、少しだけ首を傾げた。
「……知ってて、揚げ菓子、毎日多めに頼んでたんですか」
「うん」
「変なの」
シィラは盤の上の駒を指先で転がしはじめた。騎士の駒だった。
「伯爵様からは、もういいって言われました。婚約、なくなったんでしょう?」
「両家の合意でね」
「はいはい、両家の合意」
指先で騎士がくるりと回る。
「じゃあ殿下、空きましたよね。お嫁さんの席」
「空いたね」
「わたしをお嫁さんにしてくださいよう」
いつもの調子だった。頬杖をついて、半分笑っている。冗談の顔だ。冗談にしておけば、断られても何も失わずに済む。そういう顔だった。
少し考えて、やっぱり正直に言うことにした。
「王妃は無理だよ。王家と男爵家じゃ、どうひっくり返っても通らない。せっかく公爵家の顔を立てて解いたのに、そのあとすぐ君を正妃にしたら全部台無しになる」
「……ですよねー」
「でも、側妃ならいける」
シィラの指が止まった。騎士の駒が盤の上でころりと倒れた。
「側妃なら国の格は揺らがないし、南の勝ちにもならない。公爵家も、まあ、文句は言わないと思う。正妃もいないのに側妃の話をするのは、順番がおかしいって分かってるけど」
シィラは口を半分開けたまま、僕を見ていた。
笑っていない顔を、初めて見た気がした。
「……殿下」
「うん」
「いま、わたし、冗談で言ったんですけど」
「知ってる。僕は冗談じゃないけど」
嫌なら断っていいよ、と付け足すと、シィラは長いこと黙っていた。それから両手で顔を覆って、指のあいだから「なんなんですか、もう」と言った。
「王妃とか、最初から思ってないですもん。知ってますよ、そんなの」
手を下ろしたときには、もういつものシィラだった。
「いいですよ。側妃で」
「いいの?」
「いいです。そのかわり揚げ菓子は毎日ですからね。多めで」
「それはもうそうなってる」
シィラは椅子を引きずって、向かいから僕の隣へ移ってきた。倒れた騎士を拾い、盤の上に立て直す。
「殿下、曲がり馬ってどっち行くんでしたっけ」
「前に二つ、横に一つ」
「そうだった! 覚えづらいなあ……」
「まあ一番覚えにくい駒だよね」
「ほんとそれです! 曲がらなくていいのに!」
「うんうん、そうだよね」
我ながらしょーもない会話だとは思う。ただ、緊張もしなければ疲れもしない。なんだったら少し楽しいくらいだ。彼女が側妃になったら楽しそうだなあ。
◇
なぜこんなことになったのか、と考えるふりをするのはもうやめにする。
わたくしが何も言わなかったから──それ以外に理由などない。
公爵邸の自室に籠もって、もう幾晩になるだろう。窓掛けを引いても灯りを落としても、あの小広間の卓がまぶたの裏から退いてくれない。紙の上を走るペン先の音。父の頷き。そしてあの方の声。
──『君にとってもそのほうがいいと思うんだ』
あの方は嘘をつかない。昔からそうだった。それらしい言葉で済ませられる場面でも思ったことをそのまま口にしてしまう。だからあれは本心なのだ。あの方はわたくしのために婚約を解消したのだ。
わたくしのために。
決して悪意からではないというのがわたくしには良く分かる。
だからこそ辛い。
最初に王宮の中庭へ連れていかれたのはまだ背丈が生垣に届かない頃だった。父が陛下とお話ししているあいだ、わたくしはあの方と敷石の上で小石を並べて遊んだ。あの方はいつも攻めてきた。わたくしは一つも取り返さなかった。あの方の石が減っていくのがなんだか嫌だったのだ。
噴水の縁にいた蛙を見て、あいつ寒くないのかな、とあの方が言った日のことを覚えている。わたくしは笑いすぎてしゃっくりが止まらなくなり、乳母にひどく叱られた。その晩、母に呼ばれて言われた。いずれ王妃となる者は人前で声をあげて笑うものではありません、と。
婚約が正式に決まったのはその次の春だった。
王妃教育はわたくしから一つずつ物を取り上げていくようなものだった。声をあげて笑わない。人前で泣かない。欲しいものを欲しいと言わない。殿下を名でお呼びしない。王妃は王の影であって、影に顔は要らないのだと教師は繰り返した。
わたくしは従った。嫌ではなかったから。あの方の隣に立つのにふさわしい者になれるのなら、少しも嫌ではなかった。表情を消して、声を整えて、非の打ちどころのない礼を覚えた。
影に顔は要らない。そう教わって、そのとおりにした。そうしているうちに、あの方の目にもわたくしの顔など映らなくなっていたのだろう。
『冬の庭』の話をしてくださった日のことを何度も思い返す。
寒そうだね、とあの方は言った。
あのとき、わたくしは笑いそうになったのだ。噴水の蛙が目の前に浮かんで喉の奥がくすぐったくなった。首を傾けたのはそれを堪えるためだった。昔も同じことを仰いましたね、と。たったそれだけでよかったのに。
口から出たのは、左様でございますか、ばかりだった。
そして──あの娘。
あの方があの赤毛の娘と盤を挟んでいるのを見たのは一度や二度ではない。あの方は声をあげて笑っていた。中庭の敷石の上で笑っていた頃と、同じ顔で。
あの娘の髪を掴んで床に引き倒してやりたいと思った。いいえ、今でも思っている。引き倒す? それだけで済ませたくはない。
けれど、あの娘が何をしたというのだろう。
笑っただけだ。わたくしが自分に禁じたことを、あの娘は禁じなかっただけだ。分かっている。分かっていても憎い。憎い。憎い。そして、憎いと思うたびに、そう思う自分がまた嫌になる。
あの方の心を取り戻す方法を考えなかったわけではない。けれど、わたくしがそうと気づいたときには、あの方はもう方々へ手を回したあとだった。
関所の権利は王家の手に移る。大聖堂の塔には王家の金が入る。兄は宰相府に上がる。南の家々は矛を収めた。あの卓に並んでいた書類の一枚一枚が互いに支え合って立っている。どれか一枚を抜けば、残りも崩れるだろう。
何より、あれはあの方が初めてご自分で指した一手なのだ。
泣いて縋ればよかっただろうか。好きでした、と今さら言えばよかったのだろうか。あの方は優しいから、きっと困った顔をなさる。そしてご自分を責める。わたくしの一言があの方の初めての一手に泥を塗る。
あの方が良かれと思って、わたくしのためにつくりあげた盤を、わたくしが崩すわけにはいかない。
守ってばかりで一手も指さなかった者の盤はこういうふうに終わるのだ。
◇
父に書斎へ呼ばれたのはそれから幾日か経った昼だった。
「東の辺境侯のところの嫡男だ。年は少し上だが誠実な方だと聞いている」
父の声は穏やかだった。気遣ってくださっているのが分かる。
「お前ならどこへ出しても恥ずかしくない。先方も乗り気だ」
「はい、お父様」
考えるより先にそう答えていた。
でも──。
その夜、寝台に横になって、その方との人生を考えて、わたくしは。
嗚呼、何十年も。
あの方ではない人と一緒に。
途端、息が吸えなくなった。
喉の奥が狭まって、空気が入ってこない。胸を押さえて起き上がる。吸おうとすればするほど、何かが蓋をする。寝台の縁に手をついた。
これがずっと続くのだ。
何年も。何年も。何年も。何年も。
鏡台の前までどうやって歩いたのか覚えていない。
気付けばわたくしの手には、毎朝侍女が髪を結うのに使う櫛があった。柄の先が細く尖っていて、ちょうどいい。
そして、突いた。
喉を。
声が出ない。出そうとした声が途中で潰れる。膝が崩れて、床に手をついた。絨毯の毛が頬に当たる。櫛がどこへ行ったのか分からない。手が濡れている。
息ができずに苦しい。
爪が絨毯を掻いた。足が勝手に床を蹴る。止めようと思っても止まらない。
死のうとしているのに、死ぬほどの苦しみを厭うだなんてなんだかおかしくて、わたくしは藻掻き苦しみながら笑った。
それでもと、思う。
これは終わるのだ。
何十年も終わらない苦しみと違って、これは終わる。終わる苦しさのほうがずっといい。
ほら、段々と力が入らなくなってきた。
頭もぼんやりして──。
お慕いしています、殿下──いえ、アリウス。
ご迷惑をお掛けして、申し訳──。
◇◆
ミリアは大きく息を吸った。
それがあまりに当たり前に胸いっぱいまで入ってきたので、ミリアは驚きのあまりせき込んでしまったほどだ。目を開けると天蓋の襞が見える。見慣れた自室の見慣れた寝台の上で、彼女は仰向けに横たわっていた。
慌てて跳ね起き、喉に触れる。
指の腹に当たるのは乾いてなめらかな肌ばかりで、あるはずの傷がどこにもない。手を返してみても掌は白いまま、血で汚れてもいない。
あの夜のことを思い出したとたん胃が裏返りそうになって、ミリアは口もとを押さえて身体を折った。窓の外で鐘が鳴っていた。明けを告げる、王都のいつもの鐘だ。吐き気をやり過ごすあいだ、その音はずっと耳の外側を回っていて、いつ鳴り止んだのかも彼女は気づかなかった。
ようやく顔を上げると、鏡台の上の櫛が目に入った。いつもの場所に、何ごともなかったような顔で載っている。ミリアは慌てて視線を外し、外した先に、窓際の文台と、その上に開いたままの手帳を見つけた。
お茶会のたびに書きつけてきた手帳だった。婚約が決まった年から一度も欠かさずに書き溜めてきたもので、大したことは書いていない。どんな話をしたか、どんな様子だったか──お茶会から戻るたび、思い出せるかぎりを書きつけてきただけのものだ。
頁のいちばん下に今日の日付があって、その横に自分の字で、お茶会、中庭にて、とある。すぐ上には前回の覚え書きが残っていた。
──レーヴェン『冬の庭』。殿下、寒そうだね、と。
横に小さく「蛙」と書きかけて、線で消してあった。
そうだ、今日はあの日だ、とミリアははっとした。
しかしその「あの日」は、ひと季節も前のことになっているはずだった。
何が起きているのか、ミリアには判じようがなかった。ひとまず呼び鈴を鳴らすと、侍女がやってきて、ミリアの顔を見るなり、あらまあ、と声を上げた。
「お嬢様、お顔が真っ白でございますよ。お加減でも?」
「平気よ」
声が掠れていないことに、自分で少し驚いた。
「……今日は、お茶会だったかしら」
「はい、中庭でいつもの刻限に。お召し物は薄い青のを出しておきましたけれど、そのお顔の色ですと、もう少し明るいほうがよろしいかしら。前のお茶会からちょうど七日ですのねえ、早いこと。……あら?」
侍女が書架の前で屈んだ。拾い上げたのは薄い本で、落ちた拍子に開いたのか、表紙が少し反っている。侍女はそれを袖でひと拭きして、元の段に差し戻した。綴じ糸がゆるんで背が斜めに傾いた、母にもらった『明けの鐘』だった。
ひゅっと喉が鳴った。
鐘が鳴る、明けの鐘が。窓の蕾は、まだ蕾のまま。何度も読んで綴じ糸をゆるませた詩句が、読もうともしないのに勝手に浮かんできて、ミリアは思わず窓のほうを見た。窓辺に薔薇はない。けれど王宮の中庭では、今ごろ生垣の薔薇がまだ咲ききらずにいるはずだった。
「お嬢様?」
「……なんでもないの。少し、寝覚めが悪かっただけ」
◇
中庭の薔薇は、やはりまだ盛りの手前だった。開きかけの蕾があちこちに残っていて、生垣が赤茶けるのはずっと先のことだと、この場ではミリアにだけ分かっていた。
出がけに、扇は鏡台に置いてきた。侍女は取りに戻りましょうかと言いかけたが、ミリアがもう先に立って歩きだしていたので、結局日傘だけを差しかけて小走りにあとを追った。
アリウスは先に来て座っていた。ミリアを見て何か言おうとする。
しかし、ミリアがそれを遮った。
「殿下──いえ、アリウス」
アリウスは一瞬きょとんとした表情を浮かべ、それから目を見開いて、何度も瞬きをした。
ミリアはそんなアリウスに、まるで睨みつけるかのような力の籠った視線を向け、唇をわずかに一度震わせた。
まさに今なのだ。
守ってばかりでは最後は、いや、最期は知れている。
王妃教育で学んだ事など、この瞬間にはそのすべてが不要であり、邪魔なものでしかなかった。
さあ、一手打ちなさい。前に進む一手を──と心の中のミリアが叫んだ。
そして──。
◇◆
「ん……? まだ寝ていなかったのかい?」
アリウスが寝室の扉を押したのは、夜もずいぶん更けてからだった。
政務が長引いたのだ。北の堤の修繕をどこの金でやるかで財務卿と宮内卿が一歩も譲らず、結局アリウスが間に入って、双方に半分ずつ泣いてもらった。王冠を戴いて五年になるが、こういう話し合いの落としどころを探しているときだけは、いまだに少し楽しい。楽しいが、疲れる。
もっとも、堤の金をどこから出すかで揉められるだけ、まだましなのだ。王太子だった頃に河港の元締めに頭金を出させて王家で買い取った関所は、税を軽くしてから陸へ逃げていた荷がすっかり川へ戻り、いまでは王家の金庫でいちばん当てになる財布になっている。南の伯爵の機嫌が近ごろ悪くないのも同じ理由だ。
あの話を最初に持ち出したのはアリウスだった。ただ、公爵家に川を手放させるだけで南は目くじらを立てなくなる、王妃を出しても構わない、と見切ったのはミリアのほうだ。まだ婚約していた頃、中庭のお茶会の卓で、盤でも読むような顔でそう言った。どこでそこまで見てきたのかと訊くと、ミリアは少し黙って、夢で、と答えた。
てっきり灯りは落ちているものと思っていたら、寝台の脇の燭台が一本だけ点いていた。ミリアが枕を背に半分身を起こして、膝の上で本を開いている。
薄い本だった。背の綴じ糸は何度か切れていて、そのたびにミリアが自分で縫い直しているのをアリウスは知っている。
『明けの鐘』。
「おかえりなさい。先に休んでいてもよかったのだけれど、なんだか目が冴えてしまって」
ミリアは本を閉じず、指を頁のあいだに挟んだまま顔を上げた。結っていない髪が肩に落ちている。
アリウスは上着を椅子の背に放り、寝台の端に腰を下ろした。靴を脱ぎながら膝の本を覗きこむ。
「それ、何回目?」
「数えておりません」
「僕は一回しか読んでないけど、筋はまだ覚えてるよ。確か恋愛ものだったっけ? 最後、夢だったってやつだろう」
「ええ」
「ああ、段々思い出してきた。途中は酷い話もあるものだなとおもってたけど、最後でひっくり返るんだ。陳腐だが、一番丸い結末だろうね」
ミリアはなぜか少し笑った。
「ええ。あの子は最初から言えばよかったのに、とアリウスは言っていましたね……」
「身も蓋もないな。でも言いそうだな、僕なら」
「言いました」
アリウスは苦笑しながら続ける。
「でも、本当にそう思うよ。言えばいいのに。好きなら好きって」
「ええ」
ミリアは頁から指を抜いて、本を閉じた。
「本当に、そう」
その声があまりに静かだったので、アリウスは靴を片方脱ぎかけたまま妻の顔を見た。ミリアは表紙を掌で撫でていた。泣いているのかと思ったが、そうではなかった。
「どうかした?」
「いいえ。……アリウス」
「うん」
「お慕いしております」
アリウスは靴を床に落とした。
五年も一緒にいれば、たいていのことには驚かなくなる。ミリアが朝食の席で急に王立劇場の新作の悪役の足さばきを論じはじめても、晩餐会で南の伯爵の口髭の動きから腹の内を読んで耳打ちしてきても、アリウスはもう驚かない。
河港の元締めの倅に嫁いだシィラが王宮へ顔を出すたび、ミリアが自分から盤を引っ張り出してきてチェスを誘っても驚かない。
アリウスに限らず、慣れてしまえば大体の事は受け流せるものなのだ、人間とは。
しかしアリウスには何度言われても慣れない言葉があった。すなわち、直截的な愛の言葉である。駆け引きもなければ捻りもない、他意もこめないまっすぐな言葉にアリウスは戸惑うばかりだった。
しかしそうして口に出してきた以上は本心なのだろうと考えると、どうにもこそばゆく、そして温かい思いを抱く。
「……僕もだよ。慕っている……? うーん、僕も慕っているよ……? お慕いしているよ……? いや、なんだか違うな」
自身が抱く感情をきちんと伝えようと言葉を探すアリウスを、ミリアは苦笑しつつも、辛抱強く待っていた。
(了)


