放課後、毒キノコに恋をする

第1話 放課後、毒キノコを目撃する

 世の中には、見た目が綺麗だからといって、近づいてはいけないものがある。
 たとえば、毒キノコ。
 そして、うちの高校で言えば――一ノ瀬颯真(そうま)。
「一ノ瀬くん、おはよう!」
「おはよ。あ、髪切った?」
「えっ、分かるの!?」
 朝の教室の入り口で、女子の嬉しそうな声が弾む。
 私は自分の席に座ったまま、教科書からほんの少しだけ視線を上げた。
 一ノ瀬颯真。県立朝凪高校、二年三組。私と同じクラスになって、もう半年近くになる。
 顔がいい。背が高い。誰にでも優しい。そして、本人にはたぶん、その自覚がない。
 ――最悪の種類だ。
「穂乃果、また一ノ瀬見てる」
 肩で跳ねる明るめの髪を揺らしながら、親友の小宮山美月(みづき)がにやにやと顔を寄せてくる。
「見てない。観察してただけ」
「それ、何が違うの?」
「私は危険生物を遠くから確認してるだけだから」
 私がそう答えた、そのときだった。
「なにそれ。誰が危険生物?」
 すぐ後ろから、聞き覚えのある甘い声がした。
 振り返る。
 一ノ瀬颯真が、笑っていた。
 朝の光が窓から差し込んで、彼の輪郭をやわらかく縁取っている。それだけで教室の温度が少し上がったような気がするのだから、本当にたちが悪い。
 ――ほら。
 綺麗なものほど、毒がある。
「べつに。誰でもないよ」
 私はそう言って視線を教科書に戻した。深追いされたくないときの一番の対処法は、興味がないふりをすることだ。中学のときに学んだ、数少ない実用的な処世術のひとつ。
 颯真は少しの間、私の頭のてっぺんを見下ろすように立っていたけれど、やがて「ふうん」とだけ言って自分の席に戻っていった。
 美月が小声でささやく。
「今の、絶対怪しまれたよ」
「怪しまれてない」
「一ノ瀬くん、わざわざ会話に入ってきたじゃん」
「たまたま近くにいただけでしょ」
「そうかなあ」
「そうなの」
 間下穂乃果。高校二年生、十六歳。
 肩につくくらいの黒髪を、邪魔にならないようひとつにまとめている。髪型にも服装にも特別こだわりはない。目立たなければ、それでいい。
 信条は「目立たず、揉めず、恋愛トラブルには近づかない」。
 中学二年のとき、仲の良かった友人二人が同じ男子を好きになり、気がついたらグループ全体が崩壊するのを間近で見た。誰も悪くないはずなのに、誰かが泣いて、誰かが無視されて、誰かが転校していった。あの一件で、私は恋愛というものの威力を心の底から思い知った。
 だから決めたのだ。恋愛は遠くから眺めているくらいがちょうどいい、と。
 そして、一ノ瀬颯真はその「遠くから眺める対象」の中でも、最も近づいてはいけない部類に属している。
 生物や植物が好きな私は、彼のことを心の中でこう分類していた。
 ――毒キノコ。
 見た目が美しく、色鮮やかで、思わず手を伸ばしたくなる。けれど食べれば取り返しのつかないことになる。触るだけならまだしも、口にしたら最後、命に関わることさえある。
 一ノ瀬颯真はまさにそれだ。誰にでも優しく、誰にでも笑いかけ、誰の些細な変化にも気づく。そのくせ本人には悪意もなければ下心もない。ただ純粋に、人に好かれることに慣れているだけ。
 そういう手合いが一番危険なのだと、私は知っている。
 昼休み、購買でパンを買って戻る途中、廊下の角で人だかりができているのが見えた。人だかりの中心には、また彼がいる。
「一ノ瀬くん、今度の休み、空いてる?」
「んー、ごめん、その日は部活の助っ人頼まれてて」
「そっか……」
「また誘って」
 にこりと笑って去っていく颯真。残された女子は不満げというより、むしろ満足げな顔をしていた。断られたのに、なぜか喜んでいる。それがまた不思議だった。
 美月がパンをかじりながら言う。
「あれよね、一ノ瀬くんの断り方が上手すぎるんだよね。断られても嫌な気分にならないっていうか」
「才能の無駄遣い」
「才能なんだ、ってことは認めてるじゃん」
「才能と美徳は違う」
 そう言いながらも、私は内心で少し感心していた。誰かを傷つけずに断るというのは、実は簡単なことではない。中学の頃を思い出せば、断り方ひとつで人間関係が崩れることだって珍しくなかった。
 でも、だからといって近づいていい理由にはならない。
 むしろ逆だ。傷つけずに断れるということは、それだけ場数を踏んでいるということ。場数を踏んでいるということは、それだけ多くの人を振り回してきたということでもある。
 毒キノコが美しいのは、毒があるからこそ目立つように進化した結果だという説もある。綺麗なものには、綺麗であるだけの理由がある。

 放課後、私は図書室に向かった。生物部というほどの部活ではないけれど、有志で集まって標本作りをする活動があり、今週末はキノコの図鑑を借りて予習をすることになっていた。
 図書室はいつも静かで、蛍光灯の白い光が本棚の間に規則正しく落ちている。夕方に近い時間になると、窓際の席にだけ茜色の光が斜めに差し込んで、埃っぽい空気の粒子まで見えるような気がする。私はその時間の図書室が好きだった。誰にも邪魔されず、誰の視線も気にせず、ただ自分の興味のあることに没頭できる。
 キノコのコーナーは図書室の奥、生物学の棚のさらに端にある。あまり人気のない場所だから、いつも独占できる。
 目当ての図鑑を見つけて手に取ったとき、廊下側から人の声が聞こえてきた。
「一ノ瀬くん、話があるんだけど」
 聞き覚えのある声だった。声の主は同じ学年の女子で、名前までは知らないけれど、廊下ですれ違ったことは何度かある気がする。
 私は反射的に体を本棚の陰に寄せた。盗み聞きするつもりはなかったけれど、今出ていけば気まずいことになるのは目に見えていた。だから、聞こえないふりをして本棚の隙間からそっと様子を窺うことにした。
 これは覗きではなく、観察だ。危険生物の生態調査だ。自分にそう言い聞かせる。
 窓際の少し離れた場所に、二人が立っていた。女子の頬は赤く染まっていて、指先がスカートの裾をきつく握りしめているのが見える。緊張しているのが遠目にもわかった。
「私、一ノ瀬くんのこと、ずっと前から――好きです」
 震える声だった。真剣な告白だった。
 颯真はいつもの笑顔のまま、少しだけ困ったように眉を下げた。それは演技ではなく、本当に困っているように見えた。
「ありがとう」
 短い沈黙。
「君のことは好きだよ。でも、付き合うのは違うかな」
 優しい声だった。刃物のように鋭い言葉を、綿でくるんで渡すような言い方だった。
 女子の表情が崩れる。目に涙が滲んで、それを見られたくないというように、慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい、急に……ありがとうございました」
 そう言って、逃げるようにその場を去っていく。廊下を走る足音が遠ざかっていった。
 颯真はその背中を、追いかけようとはしなかった。ただその場に立ったまま、少しだけ困ったような顔で見送っていた。慰めの言葉ひとつかけるでもなく、ただ立ち尽くしている。
 その温度差に、私は胸の奥が冷えていくのを感じた。
 ――やっぱり。
 優しさというのは、時に一番残酷な形をしている。彼女に向けられた「好きだよ」という言葉は、たぶん嘘ではない。でもその「好き」は、彼女が欲しかった「好き」とはまるで種類が違う。それを分かっていて、あの笑顔で告げるのだから、なおのこと質が悪い。
(やっぱり、毒キノコだ)
 心の中でそう結論づけた、そのときだった。
 不意に、颯真の視線がこちらを向いた。
 一瞬、時間が止まったような気がした。本棚の隙間から覗いていた私と、まっすぐに目が合ってしまったのだ。
 しまった、と思ったときにはもう遅かった。
 颯真はまっすぐこちらに歩いてきた。逃げる間もなく、本棚の角を曲がって、私の目の前に立つ。
「……今の、見てた?」
 声のトーンが、さっきまでとは少し違っていた。笑顔は貼りついているけれど、その奥に何か探るような色がある。
「見てません」
 反射的に嘘をついた。あまりにも下手な嘘だったと自分でも思う。
「見てたよね?」
 颯真は笑う。今度は、さっきの困ったような笑顔ではなく、どこか面白がっているような笑い方だった。
「顔、真っ赤だし」
「べつに、赤くないです」
「今、鏡見せてあげたいくらい赤い」
 反論できなかった。実際、頬のあたりが熱を持っているのが自分でもわかる。気まずさのせいなのか、それとも別の理由なのか、自分でもよくわからなかった。
 颯真は本棚に軽く肩をもたせかけて、私の顔を覗き込むようにした。近い。距離感がおかしい。誰にでもこうなのだろうか、それとも。いや、考えるだけ無駄だ。誰にでもこうなのだろう。それがこの男の恐ろしいところだ。
「べつに、責めてるわけじゃないよ」
 颯真は言葉を続ける。
「ただ、ちょっと気になっただけ。間下さんが図書室にいたの、知らなかったから」
 間下さん、と苗字で呼ばれたことに、少しだけ安堵している自分に気づいて、余計に落ち着かない気分になった。
「たまたま、図鑑を探しに来ただけです」
「へえ、何の図鑑?」
「……キノコです」
 言ってから、しまったと思った。この状況でキノコの話をするのは、あまりにも間が抜けている。
 けれど颯真は意外そうに目を丸くして、それから声を立てて笑った。
「キノコ? 間下さんって、キノコ好きなの?」
「……好きというか、詳しいだけです」
「それ、好きってことじゃない?」
 言い返せなかった。悔しいけれど正論だった。
 颯真はしばらく私の持っている図鑑の背表紙を眺めていたけれど、やがて視線を私に戻した。笑顔の中に、さっきまでとは違う真剣さが混じっている気がした。
「さっきのこと、誰にも言わないでくれる?」
「言う理由がないので」
 即答した。本当にそう思っていたから。誰かの失恋を話のネタにするような趣味は、私にはない。
 颯真は一瞬、意外そうな顔をした。他の女子なら、この状況を利用して自分に興味を持たせようとするとでも思っていたのだろうか。あるいは、噂を広めることで自分に近づく口実にすると。
「変わってるね、間下さん」
「褒めてないですよね、それ」
「褒めてるよ、一応」
 その「一応」が引っかかったけれど、深く追及する気力はもう残っていなかった。とにかく、この状況から早く抜け出したい。それだけだった。
「じゃあ、秘密にしてくれるよね?」
 颯真はそう言って、いつもの笑顔を浮かべた。教室で女子たちを虜にする、あの完璧な笑顔。だが今、目の前でそれを向けられている私には、その笑顔がひどく作り物めいて見えた。
 逃げ道を、やんわりと、けれど確実に塞がれた気がした。
「……べつに、勝手にしてください」
 私はそれだけ言うと、図鑑を胸に抱えて足早にその場を離れた。背中に視線を感じたけれど、振り返らなかった。
 図書室を出て、廊下を歩きながら、私は自分の心臓がやけに速く動いていることに気づいていた。
 落ち着け、と自分に言い聞かせる。今のはただの不運なアクシデントだ。たまたま現場を目撃してしまっただけで、それ以上の意味はない。
 けれど、頭の中では、さっきの颯真の顔が何度も再生されていた。困ったような顔。それから、面白がるような笑い方。距離の近さ。声のトーン。
 ――関わらない。
 私はもう一度、自分自身に言い聞かせた。
 綺麗なものには、近づいてはいけない理由がある。今日、それを目の前で証明されたばかりではないか。あの優しい笑顔の裏側で、彼は簡単に誰かを泣かせることができる。悪意なんてかけらもないままに。
 だからこそ、余計に厄介なのだ。
       ☆
 その日の夜、自室のベッドに寝転がりながら、私は借りてきたキノコ図鑑のページをめくっていた。毒キノコの項目には、それぞれの種の特徴が写真つきで解説されている。
 ベニテングタケ、ドクツルタケ、カエンタケ。どれも美しく、鮮やかな色をしている。だからこそ、人はつい手を伸ばしてしまう。知識がなければ、それが安全かどうかの判断すらつかない。
 ページをめくる手を止めて、私はふと天井を見上げた。
 今日の放課後の光景が、まぶたの裏にちらついている。
 ――君のことは好きだよ。でも、付き合うのは違うかな。
 あの言葉の軽さと、その直後に見せた本人の困惑。それから、私に向けられた「見てたよね?」という、少し楽しそうな声。
 関わらない。関わりたくない。そう思っているはずなのに、なぜか頭の中から今日の出来事が離れてくれない。
 スマートフォンが小さく震えた。画面を確認すると、美月からのメッセージだった。
「今日の一ノ瀬、なんか穂乃果のこと目で追ってなかった?」
「気のせいだと思う」
 短く返信して、スマホを枕元に置いた。
 気のせい。そうに決まっている。
 明日になれば、今日のことなど彼はすっかり忘れているはずだ。誰にでも同じように優しく、誰にでも同じように笑いかける。そういう男なのだから。
 私はそう自分に言い聞かせながら、図鑑を閉じて明かりを消した。
 けれど、その夜。
 いつもよりずっと長く、私は眠りにつけなかった。
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