恋と焦燥のロードマップ
「杏奈さんもそのアプリ……消してくれませんか。これからは、俺だけを見てほしいんです」
真っ直ぐに見つめてくる彼の瞳は、私の返答を待つ不安と、隠しきれない独占欲で微かに揺れていた。会社での「氷の王子」が、私の前でだけ、こんなにも不器用で、健気な熱を晒している。
私は小さく息を吐き出し、自分のバッグからスマートフォンを取り出した。
画面に浮かび上がっているのは、私自身の『Link』のマイページだ。見知らぬ男性たちの顔写真と記号化されたスペックの羅列。ほんの数日前まで、私はこの液晶画面の戦場で、周囲の結婚ラッシュに背中を蹴飛ばされながら、自分の人生の空欄を埋めるために必死になっていた。
でも、もう、そんな無機質な市場で減点法を繰り返す必要なんて、どこにもない。
誠也くんの目の前で、私は親指を動かし、退会のボタンをタップした。『アカウントを削除しますか?』という確認のポップアップに、迷わず『はい』を選ぶ。画面がパッと暗転し、私のスマホからも、あの恋活のロードマップは完全に消滅した。
「……うん。私も、もう誠也くんしか見えてないよ」
スマホをバッグに仕舞い、私は上目遣いに彼を見上げて、少し照れくさそうに微笑んだ。会社の有能な先輩としてのプライドも、三十二歳の強がりも、彼の真っ直ぐな熱量に溶かされて、すべてどこかへ消え去っていた。ただ一人の、恋をする頼りない女の子の体温だけが、私のなかに残っている。
「……先輩」
誠也くんは、掠れた声で私の名前を呼ぶと、今度は私の方へ一歩、距離を詰めてきた。
「……その言葉、絶対忘れませんから」
彼の手が、私の右手をそっと包み込む。品川のダイナーで触れられたときよりもずっと優しく、けれど指先からは、彼がずっと胸の奥に秘めていた確かな熱量が、じかに伝わってきた。
窓の外に広がる東京の夜景は、相変わらず何万人もの男女の焦燥と、声にならないため息を乗せて、きらきらと明滅している。
今朝、給湯室のゴミ箱で見かけたあの眩しいブランドの紙袋。他人の幸せのシグナルに勝手に怯え、三十二歳のタイムリミットに絶望していた私は、もうどこにもいない。
もし、私がもっと若くて、傷つくことを恐れない無敵な年齢だったら。会社の後輩である彼の、この不器用で、重すぎるほどの真っ直ぐな執念に、気づくことすらできなかったかもしれない。この年齢までひとりで戦って、焦って、迷ったからこそ、私は「氷の王子」の仮面の奥にある本物の体温を見つけることができたのだ。
「……うん。よろしくね、誠也くん」
繋いだ手に、今度はお互いに、ぎゅっと力を込めて応えた。
月曜日になれば、また私たちはあの真四角なオフィスの中で、ただの先輩と無口な後輩の仮面を被るのだろう。すれ違っても、彼はまたあの冷徹なポーカーフェイスで私を通り過ぎるのかもしれない。
でも、誰も知らないデスクの下で、ふたりだけの秘密のシグナルを交わし合うような。
完璧に舗装されたどんなシステムよりも確かな、私たちの本物のロードマップが、今、秋の夜風の中に真っ直ぐに伸びていた。
真っ直ぐに見つめてくる彼の瞳は、私の返答を待つ不安と、隠しきれない独占欲で微かに揺れていた。会社での「氷の王子」が、私の前でだけ、こんなにも不器用で、健気な熱を晒している。
私は小さく息を吐き出し、自分のバッグからスマートフォンを取り出した。
画面に浮かび上がっているのは、私自身の『Link』のマイページだ。見知らぬ男性たちの顔写真と記号化されたスペックの羅列。ほんの数日前まで、私はこの液晶画面の戦場で、周囲の結婚ラッシュに背中を蹴飛ばされながら、自分の人生の空欄を埋めるために必死になっていた。
でも、もう、そんな無機質な市場で減点法を繰り返す必要なんて、どこにもない。
誠也くんの目の前で、私は親指を動かし、退会のボタンをタップした。『アカウントを削除しますか?』という確認のポップアップに、迷わず『はい』を選ぶ。画面がパッと暗転し、私のスマホからも、あの恋活のロードマップは完全に消滅した。
「……うん。私も、もう誠也くんしか見えてないよ」
スマホをバッグに仕舞い、私は上目遣いに彼を見上げて、少し照れくさそうに微笑んだ。会社の有能な先輩としてのプライドも、三十二歳の強がりも、彼の真っ直ぐな熱量に溶かされて、すべてどこかへ消え去っていた。ただ一人の、恋をする頼りない女の子の体温だけが、私のなかに残っている。
「……先輩」
誠也くんは、掠れた声で私の名前を呼ぶと、今度は私の方へ一歩、距離を詰めてきた。
「……その言葉、絶対忘れませんから」
彼の手が、私の右手をそっと包み込む。品川のダイナーで触れられたときよりもずっと優しく、けれど指先からは、彼がずっと胸の奥に秘めていた確かな熱量が、じかに伝わってきた。
窓の外に広がる東京の夜景は、相変わらず何万人もの男女の焦燥と、声にならないため息を乗せて、きらきらと明滅している。
今朝、給湯室のゴミ箱で見かけたあの眩しいブランドの紙袋。他人の幸せのシグナルに勝手に怯え、三十二歳のタイムリミットに絶望していた私は、もうどこにもいない。
もし、私がもっと若くて、傷つくことを恐れない無敵な年齢だったら。会社の後輩である彼の、この不器用で、重すぎるほどの真っ直ぐな執念に、気づくことすらできなかったかもしれない。この年齢までひとりで戦って、焦って、迷ったからこそ、私は「氷の王子」の仮面の奥にある本物の体温を見つけることができたのだ。
「……うん。よろしくね、誠也くん」
繋いだ手に、今度はお互いに、ぎゅっと力を込めて応えた。
月曜日になれば、また私たちはあの真四角なオフィスの中で、ただの先輩と無口な後輩の仮面を被るのだろう。すれ違っても、彼はまたあの冷徹なポーカーフェイスで私を通り過ぎるのかもしれない。
でも、誰も知らないデスクの下で、ふたりだけの秘密のシグナルを交わし合うような。
完璧に舗装されたどんなシステムよりも確かな、私たちの本物のロードマップが、今、秋の夜風の中に真っ直ぐに伸びていた。