七つ下のクズな居候は、わたしにだけ手を出さない
# 第1話 ラストオーダー

金曜の夜九時。

駅の改札を出たところで、亜美(あみ)は立ち止まった。

スマートフォンの画面に、見慣れた名前が浮かんでいる。

三年付き合った人。

一年前に別れた人。

共通の友人が上げた写真の中で、その人は白いタキシードを着て笑っていた。

隣に、知らない女の子。

幼い顔立ち。ふわりとした白いドレス。

キャプションには、おめでとう、の文字と、花嫁の名前。

二十二歳、と誰かがコメントしていた。

五つ年下。

亜美は画面を消した。

消したのに、指先が冷たいままだった。

結婚とか、まだ考えられない。

別れ際、あの人はそう言った。

ごめん。亜美のこと嫌いになったわけじゃない。

ただ、まだ考えられない。

一年経って、あの人はもう考えられるようになったらしい。

亜美ではない誰かと。

家の方向へ歩き出して、三歩で止まった。

このまま一人の部屋に帰ったら、きっと駄目になる。

亜美はスマートフォンを取り出して、メッセージを打った。

莉子、今日お店いる?

すぐに返事が来た。

いますよー!先輩来てくれるんですか!

 

駅裏の細い路地に、その店はあった。

木の扉に、真鍮のプレート。

カウンター八席と、小さなテーブルが二つだけのバー。

扉を開けると、低いジャズと琥珀色の灯りが迎えてくれた。

「先輩!」

カウンターの中から、莉子(りこ)が手を振った。

大学のサークルの後輩。

今は大学院に通いながら、週に三日ここでバイトをしている。

「久しぶりじゃないですか。どうしたんですか、急に」

「ちょっと、飲みたくなって」

亜美はカウンターの端の席に座った。

莉子は亜美の顔をちらりと見て、何も訊かなかった。

そういうところが、昔から好きだった。

「何にします?」

「強いの」

「……了解です」

莉子が苦笑して、ボトルに手を伸ばした。

そのとき、カウンターの奥で誰かがあくびをした。

大きな、隠す気もないあくび。

亜美は顔を上げた。

背の高い青年が、グラスを拭いていた。

黒いシャツ。袖を肘まで捲り上げて。

寝癖なのか、わざとなのか、柔らかそうな黒髪があちこちに跳ねている。

長い睫毛。

眠たげに半分閉じた目。

ひどく整った顔だった。

そして、ひどく眠そうだった。

「あ、この子、バイト仲間の海音(かいと)くんです」

莉子が顎で示した。

「大学二年生。二十歳。仕事中にずっと眠そうなんですよ」

「眠いんで」

青年が、グラスを拭く手を止めずに言った。

低い声。

愛想のかけらもなかった。

「……どうも」

亜美は小さく会釈した。

海音はちらりとこちらを見て、軽く頭を下げた。

それだけだった。

 

一杯目は、すぐに空いた。

二杯目も。

莉子は他の客の相手をしながら、ときどき心配そうにこちらを見た。

亜美はそれに気づかないふりをした。

店には、少しずつ客が増えていった。

カウンターの反対側に、若い女の子の二人組。

大学生くらいだろうか。

「海音くーん」

甘い声が、カウンター越しに飛んでくる。

「今日シフト何時まで?」

「ラストまで」

「終わったらご飯行こうよ」

「眠いから無理」

海音は、あっさりと言った。

女の子たちが、きゃあと笑う。

また別の客。

今度は、少し年上の女性。

会計のときに、小さく折った紙を海音の手に滑り込ませていった。

海音はそれを見もせずに、エプロンのポケットにしまった。

誰にでも、同じ温度で笑う。

誰にでも、同じ温度で断る。

そして誰も、それで諦めないらしかった。

モテるんだ、と亜美はぼんやり思った。

あの顔なら、当然か。

三杯目のグラスを、亜美は両手で包んだ。

琥珀色の液体が、灯りを受けて揺れている。

白いタキシード。

幼い花嫁。

まだ考えられない。

亜美は二十七歳だった。

あと三年で、三十になる。

友達は次々に結婚していく。

実家の母は、電話のたびに言う。

いい人いないの。

いたよ、と言いたかった。

いたけど、その人は私と結婚することを考えられなかった。

私じゃない誰かとなら、考えられたのに。

グラスの縁が、滲んで見えた。

あ、と思ったときにはもう遅かった。

頬を、温かいものが伝っていた。

亜美は慌ててうつむいた。

こんなところで。

二十七にもなって。

莉子は、奥で他の客と話している。

誰も見ていない。

見ていないはずだった。

 

とん、と小さな音がした。

目の前に、グラスが一つ置かれていた。

頼んでいない。

背の低いグラスに、薄い茶色の液体。

白いミルクが、ゆっくりと渦を巻いている。

顔を上げると、海音が立っていた。

カウンター越しに。

相変わらず、眠そうな目で。

「……頼んでないです」

亜美の声は、少しだけ掠れていた。

「サービスなんで」

海音は、グラスを亜美のほうへ少しだけ押した。

「カルーアミルク。甘いやつ」

「甘いの、別に」

「泣くなら、甘いほうがいいんで」

海音はそれだけ言って、背を向けた。

またグラスを拭き始める。

何も訊かなかった。

大丈夫ですか、とも。

何かあったんですか、とも。

ただ、甘いものを置いていった。

亜美は、そのグラスを見つめた。

それから、そっと口をつけた。

甘かった。

子どもの頃に飲んだ、コーヒー牛乳みたいな味。

喉の奥が、じんわりと温かくなる。

亜美は、少しだけ笑った。

泣きながら。

カウンターの奥で、海音が大きなあくびをした。

 

気づいたときには、店の灯りが半分消えていた。

ジャズも止まっている。

亜美はカウンターに突っ伏していた。

頭が重い。

世界がゆっくりと回っている。

「先輩、大丈夫ですか……」

莉子の困った声が、遠くで聞こえる。

「だいじょうぶ……」

「全然大丈夫じゃないですって」

莉子のため息。

それから、誰かに話しかける声。

「海音くん、先輩の家、方向一緒だよね。駅の向こうのマンション」

「……え」

「送ってあげて。私、今日締めあるから」

「えー」

「えー、じゃない」

短い沈黙。

それから、ひどく面倒くさそうなため息が聞こえた。

「……了解です」

 

夜風が、火照った頬に冷たかった。

亜美は、誰かの背中にもたれていた。

いや、背負われていた。

広い背中。

黒いシャツ越しに、体温が伝わってくる。

「……重い?」

「重いです」

海音は即答した。

亜美は、ふふ、と笑った。

失礼な子。

でも、足取りは少しも揺れなかった。

マンションのエントランスで、海音は亜美の鞄から鍵を探した。

エレベーターに乗る。

部屋の前で、鍵を回す。

「……お邪魔します」

律儀に、そう言った。

暗い部屋に、廊下の灯りが細く差し込む。

海音は亜美を背負ったまま、寝室を探した。

ベッドに、そっと下ろす。

靴を脱がせてくれた。

上着も。

それから、布団をかけた。

亜美は、ぼんやりと天井を見ていた。

世界が、まだ少し回っている。

ベッドの脇に、海音が立っていた。

暗がりの中で、表情はよく見えなかった。

「……帰らなくていいの」

亜美は、ほとんど眠りかけの声で訊いた。

「もう終電ないんで」

海音は、部屋の中を見回した。

リビングのソファを見つけて、そちらへ歩いていく。

「ソファ、借ります」

「……寝られる?」

ソファに倒れ込む音がした。

それから、くぐもった声。

「寝るのが仕事なんで」

真顔で言っているのが、声だけでわかった。

亜美は、暗闇の中で小さく笑った。

変な子。

それが、眠りに落ちる前に最後に思ったことだった。

 

朝。

焦げた匂いで目が覚めた。

亜美はベッドの上で、ゆっくりと体を起こした。

頭が割れるように痛い。

喉がからからに乾いている。

昨日の服のまま。

化粧も落としていない。

それから、少しずつ思い出した。

白いタキシード。

カルーアミルク。

広い背中。

亜美は、はっとして自分の体を見下ろした。

服は、昨日のまま。

乱れていない。

上着だけが、椅子の背にきちんとかけてある。

台所のほうから、じゅうじゅうと何かを炒める音がした。

亜美はふらつきながら、寝室を出た。

キッチンに、海音が立っていた。

昨日の黒いシャツのまま。

寝癖が、昨日よりひどくなっている。

フライパンの中で、何かが黒く焦げていた。

「あ、起きた」

海音が振り返った。

相変わらず、眠そうな目で。

「冷蔵庫、勝手に開けました」

「……それ、なに」

「チャーハン」

海音は、フライパンの中身を皿に移した。

焦げた米と、焦げた卵と、焦げた何か。

「失敗しました」

「見ればわかる」

亜美は、思わず吹き出した。

頭が痛かった。

でも、笑いが止まらなかった。

海音は少しだけむっとした顔をして、それから皿をテーブルに置いた。

「二日酔いには、炭水化物がいいって聞いたんで」

亜美は、テーブルについた。

スプーンで、焦げたチャーハンをすくう。

口に運ぶ。

苦かった。

しょっぱかった。

それから、少しだけ甘かった。

「……ありがとう」

「いえ」

海音は向かいに座って、自分の分を黙々と食べ始めた。

テーブルの端で、海音のスマートフォンが震えた。

画面に、名前が浮かぶ。

ゆいな。

また震える。

まりか。

もう一度。

さっきとは違う、また別の女の子の名前。

海音は、画面を見もせずにスマートフォンを裏返した。

亜美はそれを見て、何も言わなかった。

やっぱり、そういう子なんだ。

そう思った。

昨日の夜、何もなかったことに、少しだけほっとして。

ほんの少しだけ、何かがちくりとした。

それが何なのか、亜美にはわからなかった。

 

九時過ぎ。

海音は玄関で靴を履いた。

踵を踏みつぶしたスニーカー。

紐も結ばずに。

「昨日は、ありがとう。いろいろ」

亜美が言うと、海音は少しだけ首を傾げた。

「仕事なんで」

「送るのは、仕事じゃないでしょ」

「莉子さんの命令なんで」

海音は、扉のノブに手をかけた。

それから、振り返った。

「また店、来てください」

眠そうな目で。

愛想のない声で。

でも、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。

「甘いの、作るんで」

扉が閉まる。

足音が、廊下を遠ざかっていく。

亜美は、玄関に立ったまま閉じた扉を見ていた。

また店、来てください。

店員が、客に言う言葉。

それだけだ。

あの子には、ゆいなも、まりかも、名前も知らない誰かもいる。

七つも年下の、女の子に困らない大学生。

もう、会うことはないだろう。

亜美はそう思って、リビングに戻った。

ソファの上に、畳みかけて諦めたような毛布が、くしゃくしゃのまま残っていた。

テーブルの上には、焦げたフライパン。

亜美は、それを見てまた少しだけ笑った。

窓の外で、秋の朝の光がやわらかく揺れていた。
< 1 / 7 >

この作品をシェア

pagetop