七つ下のクズな居候は、わたしにだけ手を出さない
# 第3話 慈善事業のはじまり

約束の一週間目の夜。

亜美は、マンションのエレベーターの中で言葉を練習していた。

部屋、見つかった?

それだけ。

責める口調にならないように。

でも、はっきりと。

この一週間、海音は昼過ぎまで寝ていた。

夕方にのそりと起きて、大学に行ったり行かなかったりして。

夜はバーのシフトに出て、明け方に帰ってきて、またソファで眠る。

不動産屋に行った気配は、一度もなかった。

今日こそ、ちゃんと言う。

亜美は鍵を回して、扉を開けた。

「……ただいま」

言ってから、少しだけ変な気持ちになった。

この部屋で、ただいまを言うのは久しぶりだった。

「おかえりなさい」

奥から、眠そうな声が返ってきた。

亜美は、靴を脱ぎかけて止まった。

何かが、違う。

玄関の空気が、澄んでいる。

洗面所の前を通ると、扉が少し開いていた。

覗き込む。

浴室が、光っていた。

鏡の水垢も、排水口のぬめりも、タイルの目地の黒ずみも。

全部、消えていた。

「……海音くん、これ」

キッチンのほうから、じゅうじゅうと何かを炒める音がした。

亜美が顔を出すと、海音がフライパンを振っていた。

昨日貸したスウェットの袖を、肘まで捲り上げて。

「風呂、カビ生えてたんで」

振り返らずに、海音が言った。

「暇だったんで、磨いときました」

「暇って……大学は?」

「休講でした」

たぶん嘘だった。

フライパンの中身が、皿に移される。

チャーハンだった。

焦げは、前よりずっと少なかった。

端のほうが、少しだけ茶色いくらい。

「練習しました」

海音は、どこか得意げに言った。

「冷蔵庫の卵、三個使いました。すみません」

亜美は、テーブルに並んだ二つの皿を見つめた。

湯気が、ゆっくりと立ち上っている。

部屋、見つかった?

喉まで出かかっていた言葉が、どこかへ消えていった。

「……いただきます」

「どうぞ」

チャーハンは、少しだけしょっぱかった。

でも、美味しかった。

 

一週間と一日。

一週間と二日。

亜美は、数えるのをやめた。

気づけば、十二月になっていた。

海音は相変わらず、寝るのが仕事だった。

昼過ぎまで寝て。

夕方に起きて。

夜中に、ふらりと出かけて。

それでも、洗い物はしてくれた。

亜美が朝、慌ただしく出ていったあとのシンクは、夜にはいつも空になっていた。

洗濯物も畳んでくれた。

畳み方は雑だった。

タオルは三つ折りのはずが、四つ折りだったり二つ折りだったり。

亜美のブラウスは、なぜか丸められていた。

「これ、畳んだって言わない」

「畳みました。丸く」

「丸くは畳むって言わない」

海音は少しだけむっとして、それから次の日には、ブラウスをハンガーにかけるようになった。

洗面所の電球が切れた夜は、言う前に替えてくれていた。

どこから脚立を持ってきたのかは、訊かなかった。

亜美が残業で遅くなる日は、ソファで寝落ちしながら待っていた。

テーブルの上に、ラップをかけた皿。

中身はだいたいチャーハンだった。

たまに、焼きそば。

一度だけ、カレー。

カレーは、なぜか甘かった。

「カルーア入れました」

「なんで」

「亜美さん、甘いの好きなんで」

亜美は、吹き出した。

吹き出しながら、全部食べた。

一人で食べていた夕飯が、いつの間にか二人分になっていた。

一人で帰っていた部屋に、いつの間にかおかえりなさいがあった。

それが、思っていたよりずっと、心地よかった。

 

十二月の半ば。

年末の繁忙期だった。

連日の残業で、亜美はほとんど眠れていなかった。

その朝、起き上がろうとして、世界がぐらりと傾いた。

体が、鉛みたいに重い。

喉が焼けるように痛い。

額に手を当てると、熱かった。

「……っ」

ベッドから起き上がれない。

会社に連絡しなきゃ。

スマートフォンに手を伸ばそうとして、指先が震えた。

寝室の扉が、そっと開いた。

「亜美さん?」

海音だった。

珍しく、こんな時間に起きている。

いや、帰ってきたところなのかもしれない。

亜美の顔を見た瞬間、眠そうな目が見開かれた。

「……熱あります?」

答える前に、額に手のひらが当てられた。

冷たい手だった。

大きくて、少し骨ばっていて。

「……熱っ」

海音の声が、少しだけ上擦った。

それから、すぐに寝室を出ていった。

キッチンで、何かを探す音。

冷蔵庫を開ける音。

戻ってきた海音の手には、水のペットボトルと、冷えピタの箱。

「これ、どこにあったの」

「さっきコンビニで買ってきました」

「さっきって」

「五分前です」

海音は、冷えピタを一枚剥がして、亜美の額にそっと貼った。

ひやりとした感触が、熱を少しだけ吸い取っていく。

「会社、休んでください」

「でも、繁忙期で」

「休んでください」

有無を言わせない声だった。

いつもの眠そうな声じゃなかった。

亜美は、何も言い返せなかった。

 

その日、海音はどこにも行かなかった。

大学にも。

バーのシフトにも。

亜美がうとうとと目を覚ますたびに、海音はベッドの脇にいた。

冷えピタを替えてくれた。

ぬるくなった水を、冷たいものに換えてくれた。

おかゆを作ろうとして、鍋を焦がした。

「……すみません」

「いいよ」

焦げたおかゆは、少しだけ苦かった。

でも、温かかった。

夜。

熱は、まだ下がらなかった。

亜美は浅い眠りと覚醒のあいだを、何度も行き来していた。

目を開けるたびに、暗い部屋の中に海音の影があった。

ベッドの脇の床に、座ったまま。

壁にもたれて、膝を抱えて。

眠っているのか、起きているのか。

「……海音くん」

掠れた声で呼ぶと、影がすぐに動いた。

「はい」

「……ソファで、寝ていいよ」

「寝るのが仕事なんで。どこでも寝れます」

海音は、亜美の額に手を当てた。

冷えピタの上から。

そっと。

熱を確かめるように、しばらくそのままにしていた。

大きな手のひら。

少しだけ、震えている気がした。

それ以上、海音は亜美に触れなかった。

髪を撫でることも。

手を握ることも。

ただ、額に手を当てて。

熱が下がったか、確かめるだけ。

それなのに。

その手のひらが、ひどく優しかった。

亜美は目を閉じた。

熱のせいか、目の奥が少しだけ熱かった。

 

三日後に、熱は下がった。

その週の土曜日。

クリスマスまで、あと一週間という夜だった。

亜美は、ソファで海音と並んでテレビを見ていた。

どうでもいいバラエティ番組。

海音は半分寝ながら、ときどき画面の中の芸人に小さく笑っていた。

十時を過ぎた頃。

海音のスマートフォンが、テーブルの上で震えた。

画面に浮かんだ名前が、ちらりと見えた。

知らない名前。

ゆいなでも、まりかでもない。

海音は画面を見て、少しだけ面倒くさそうな顔をした。

それから、立ち上がった。

「ちょっと、出かけてきます」

「……こんな時間に?」

「友達と、ちょっと」

海音は、パーカーを羽織った。

玄関で、踵を踏みつぶしたスニーカーを履く。

「先、寝ててください」

扉が閉まる。

亜美は、ソファに一人残された。

テレビの中で、誰かが大声で笑っている。

亜美はリモコンを取って、テレビを消した。

部屋が、急に静かになった。

友達。

そう言った。

友達だろう。

きっと。

 

鍵の回る音で、目が覚めた。

枕元の時計を見る。

四時十二分。

亜美は、ベッドの中で息を潜めた。

玄関の扉が、そっと開く。

閉まる。

靴を脱ぐ気配。

廊下を、足音を殺して歩く音。

寝室の前を通り過ぎていく。

そのとき。

少しだけ開いた扉の隙間から、何かが流れ込んできた。

甘い匂い。

香水だった。

亜美のものではない。

花のような、果物のような、若い女の子がつけるような甘さ。

足音が、リビングへ消えていく。

ソファが軋む音。

それから、静寂。

亜美は、目を開けたまま天井を見ていた。

暗い天井。

時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえた。

友達。

そう言った。

そうだろう。

女の子の、友達。

胸の奥で、何かが小さく軋んだ。

熱の夜に、額に当てられた手のひら。

あの手が、さっきまで誰かに触れていたのかもしれない。

髪を撫でて。

手を握って。

亜美には一度もしないことを。

亜美は、布団を頭まで引き上げた。

甘い匂いが、まだ部屋の空気に残っている気がした。

眠れなかった。

朝まで、一度も。

 

朝八時。

リビングに出ると、海音はソファで眠っていた。

毛布にくるまって。

子どもみたいに丸くなって。

寝癖だらけの黒髪。

長い睫毛。

穏やかな、何も知らない寝顔。

パーカーの襟元に、きらりと光るものがあった。

細かいラメ。

誰かの頬から移ったのかもしれない。

亜美は、それをしばらく見つめていた。

それから、キッチンに立った。

卵を二つ割る。

パンを二枚、トースターに入れる。

コーヒーを、二人分。

フライパンの上で、目玉焼きが静かに焼けていく。

亜美は、その音を聞きながら思った。

付き合っているわけじゃない。

好きだと言われたこともない。

一度も、触れられたこともない。

額に手を当てられたのは、熱を測っただけ。

だから。

怒る資格なんて、ない。

海音が誰と会っても。

誰に触れても。

誰の香水の匂いをさせて帰ってきても。

わたしには、関係ない。

目玉焼きを、皿に移す。

二つ。

わたしはただ、住む場所を失くした大学生を置いてあげているだけ。

生活力のない年下の子に、ご飯を食べさせてあげているだけ。

これは。

慈善事業。

心の中で、そう名前をつけた。

その瞬間、胸の奥がすっと軽くなった。

名前があれば、痛まなくて済む。

期待しなくて済む。

慈善事業なら、見返りなんていらない。

誰かに触れるあの子を、責める必要もない。

そう思ったら、少しだけ楽になった。

そして。

ほんの少しだけ、胸が痛んだ。

名前をつけたところに、小さな棘が残ったみたいに。

「……いい匂い」

ソファから、くぐもった声がした。

毛布の中から、寝癖だらけの頭が覗く。

「おはようございます」

「おはよう」

亜美は、笑った。

いつもの顔で。

「顔洗ってきて。冷めるよ」

「あと五分」

「冷めたら温め直さないからね」

海音が、毛布の中で小さく笑った。

「亜美さんは、温め直してくれます」

亜美は答えなかった。

テーブルに二つの皿を並べて。

二つのマグにコーヒーを注いで。

窓の外で、十二月の朝の光が白く揺れていた。

結局、亜美は目玉焼きを温め直した。
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